片割れの指輪

屋根裏

片割れの指輪

 変わり映えのない日々を繰り返すだけの人生。革命のような変化もなく、目に映る風景がすべてグレーに見えるような、彩りも味気もないスローモーションな毎日。

 近頃はそれも一つの幸せなのではないかと思い始めた自分に辟易しながら、今日も慌ただしい雑踏の中、電車を待っている。僕の一日において、変化があるとしたらこのタイミングくらいだろうな。朝起きてから駅までの道のりは大した距離もないし、出発前の準備など、もはや作業と化している。髪の毛のセットの仕方など、とうに忘れてしまった。そんな自分の一日は、電車の遅延が何よりの番狂わせだったりする。

 仕事に対する熱意がない訳では無い。生きる意味を失ったとかそんな大袈裟なことでもない。ただ、いつからだろうか。何かをどこかに置いてきたような、そんな虚無が、僕の心のどこかに巣食っている。それ以来、自分の発する言葉の一つ一つが薄っぺらく、行動の一つ一つが機械的になってしまったことは、他の誰よりも自分自身が痛いほど感じていた。けれど、原因も打開策も見当たらないまま、ここまで来てしまった。今となっては、探そうと努力していたのかさえ分からない。

 “何も無いが、ある”そんなフレーズが気になって手に取った小説は、大した盛り上がりも無く読み終わってしまった。それでも何かを僕の心に残していったのだろうか。朝から物思いに耽っているのは、きっと昨日読み終わったその小説のせいだ。

 電車の発車を知らせるベルが、現実を見ろと叫ぶように僕の頭を刺激する。

 

 まずい。

 

 閉まるドアに向かって一歩を踏み出したその瞬間、何かが背中に触れた。そしてそれはそのまま下へとスライドし、消えた。

 盗まれた、と気づいた時には遅かった。僕の財布を持った手は、人混みへと紛れ、流されていった。やはり、変化があるのはこのタイミングか。予想していたにも関わらず変化に対応できなかった自分を嘲笑しながら、宛もなく人混みをかき分けていく。財布には現金以外にも、大切なものは沢山入っていた。無くしたら困るものも、無くしても困らないけれど、大切にしているものも。だから僕にしては珍しく、必死になって階段を駆け上がった。逃げていくような影は見当たらなかったけれど、階段を上ったすぐの所に、僕の財布はあった。予想外に予想外が重なったことと、階段を駆け上がった疲労が相まって、軽い眩暈がした。顔を上げると見覚えのある顔の犯人と目が合った。眩暈がひどくなった気がした。

 

 遅刻が確定した僕は、出勤することを諦めた。というより、諦めざるを得なかった。財布を盗んだ犯人は、世間的には“元カノ”と称されてしまうような人物で、私はもうすぐいなくなる、という、訳の分からないことを言っているのだ。しかし、彼女の醸し出すただならぬ雰囲気を全身で感じた僕は、出勤することを諦めて、彼女とこうして小さなカフェのテーブルを挟んで座っているのだ。

 変わり映えのない毎日を嘆いてはいたけれど、流石に変わり映えしすぎて、頭が追いつかない。それでも彼女は、訳の分からない話を矢継ぎ早に続ける。私はもうすぐいなくなる。だからこうして会いに来た。それは分かった。でもだからってどうして財布を盗んだりしたのか。普通に声をかければいいじゃないか。そう思ってしまうのは僕だけだろうか。彼女なりのユーモアなのか?と首を傾げる僕に、だってそうでもしないと気づかないかと思って。彼女はそう告げる。そうはいわれても、付き合っていた当初と大きな変化もなく、声をかけられれば普通に気がついただろう。相変わらず不思議な人だな、と思う。

 それにしても、いなくなるとはどういうことなのだろう。病気という訳でもないらしい。それなら一体どうして。そんな疑問を抱く僕に対し、彼女には何の迷いもないようだった。

 

 会えてよかった。

 

 そう呟く彼女の顔は、先ほどの雰囲気とは打って変わってとても晴れやかだった。そこから始まった彼女との思い出話には、現在の僕からは想像もできないような、鮮やかな生活を送る僕がいた。そうか、この頃は僕の人生にも花があったんだなと、二十代にしては老けたことを考える。それならどうして、僕の現在はこんなにも色褪せているのだろうか。ふと疑問に思うと同時に、彼女は核心に迫る話を始めた。

 

 覚えてる?

 

 

 覚えていない。彼女の話す話は、僕の記憶にはまるで無いものだった。彼女と僕は、実は別れてはいなかったこと。別れる前に、彼女は亡くなっていたこと。つまり目の前にいる彼女は、生きている人間ではないこと。全てが彼女の作り話のように思えた。けれどそれは、僕が目を背け続けてきた事実だと、分かっていた。僕の中にある、認めたくない、忘れたいという思いが記憶に蓋をして、あの日に置いてきた、事実たちだった。

 財布の中にある大切なもの。片割れの指輪が、彼女との思い出を形に残した唯一の事実が、全てを物語る。

 

 無くしても困らないなんてとんだ嘘だ。

 

 彼女が全てを話終える頃になって、やっと僕は事実を受け入れることが出来た。少し時間がかかりすぎた。いつまでもうだうだしている僕を見かねた彼女が、わざわざこうして目の前に現れて、思い出させてくれたのだ。僕は、変わらなければならない。ぐずぐずしてたら、彼女に愛想をつかされてしまう。

 

 ありがとう。

 

 ふと気付くと、彼女はどこかへ消えていた。冷めたコーヒーを残して。

 

 もう、悲しくはなかった。あの日彼女は、僕の中の沢山の大切なものを持ってどこかへ消えた。けれどこうして時間が経った今、全部返しに来てくれた。


 本当に不思議な人だ。

 

 二人分のカップが置かれたテーブルから立ち上がり、レジへと向かう。家に帰ったら、ちゃんと部屋を整理しよう。きっとまだ、幸せはどこかに転がっている。

 

 開いた財布には、半分に割れていたはずの指輪が、一つの輪を結んで輝いていた。

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