III. Rondo d’Août ――八月のロンド(ロンド・ドゥト)(2)




「もしもし、〈ホテル・ニムロド〉――はい、お部屋の予約? シングル、お一人様、え、今晩? ――ええ、私はここの従業員でございますが、何か? ええ、三ヶ月ばかり前に入ったばかり――え? オーナー? ちょっとお待ちください、お名前を伺っても宜しいですか? ええ、はいはい――申し訳ありませんが、上の名前と下の名前、フルネームでお願いできますか? え、そう云えば通じる、と――はあ、ちょっとお待ちください」


受話器の通話口を手で塞ぎながら、名前が一個しかないのかい、と云うかいきなりオーナー出せって筋金入りのクレーマーかよ、と小声で毒づいた私は、隣でいよいよ耳障りな甲高い笑い声を上げ始めているハヅキの方を向いて、


「もしもし、オーナー? ミス・ハヅキ・イェーガー? もおしもおし」


「なあに、エドゥ。見て判らない? わたし、電話中なんだけれど」


うわ、憎たらしい。


「アンタとアリシアの電話が重要な物だったら、こっちのは大統領との秘密回線ですよ――妙なお客でしてね。シングルの部屋をお一つ、今晩飛び入りで御所望のようなんですが、フルネームを訊いても一個しか答えないし、今度はオーナーを出せの一点張りなんですよ」


「えええ、メンドくさいなあ――そりゃ、あなたの応対受けてたら、上の者を出せぇって怒鳴りたくなる気持ちも判らなくはないけどさ。その相手も大概ね、一つの名前で通じるだなんて、どこの王侯貴族か坊さんよ。そんなのとは関わらずに、丁重にお引取り願ったほうが後々いいわ。留守って伝えて。ついでに部屋も満杯って」


おいおい、この人本当に経営者か? もし宿泊施設の電話の向こうでこんな遣り取りが毎度どこでも繰り広げられているとしたら、いよいよ旅行なんて金輪際行きたくなくなる。まあ韓国のケンケンパな団体さんで、充分今週のノルマは上げられそうだから、まいっか。


「あーもしもし? 大変申し訳ございません、生憎オーナーは手と云うか耳を放せない、じゃなかった、留守でして、尚且つお部屋も一杯ですので、今回に関しましてはどこか余所を当たって頂ければと――え、なんですって? なんでそんなこと知ってるんですか。え? なんてことをさせようとしてるんですか、アンタ正気ですか? やですよそんなの、常識的に考えて。えええ――もう知りませんよ、どうなったって」


私はそっと受話器をデスクの上に置いて、深呼吸をし、肺にたっぷりの空気を溜め込んだところで、横隔膜に力を入れ、ありったけの力を籠めて大声を上げた。


「オーガスト!」


しーん。


ああ、やっちゃった。


何この羞恥プレイ。穴があったら入って、その上にマンホールの蓋でも乗っけて、しっかりとセメントとアスファルトで目張りをして、二度と出てきたくない。



突然の部下の発狂に、流石のハヅキもお喋りを止め、なにか見てはならないものを偶発的に見てしまったかのような――そう、例えるならば、客室の清掃をしていたら身形の良い紳士の部屋のベッドの真上に、空気を入れて膨らませる式のお人形を発見しまった時のような、凍り付いた無表情でじっとこちらを見ていた。


「なにさ今のは――持病の発作かい? それに今なんて云った――口から出任せか?」


「違いますよ! この電話の向こうのお客人が、暴君ネロも真っ青の難題を吹っ掛けてきただけですよ。いますぐ、ホール中に響く声で『オーガスト』って叫べってね。ああついでに云うと、それがこの皇帝陛下のご尊名ですよ、責めて聞き覚えくらいあることを、切に願いますね」


ところが、その事実はハヅキのちっちゃな脳裏に、単なる警笛を鳴らす以上の効果を生み出した。


再度、呆然自失としていたハヅキは、やっとこさ正気に戻ると、電話口のアリシアに向かって、


「どっかいけ」


と云い放つと、ガチャンと乱暴に受話器を降ろすと、興奮しきって喚いた。


「部屋は全部塞がってると云ったか?」


「云いましたよ! そしたらこのお客、どこをどう通じて情報を仕入れたかは知りませんが、四号室は空いてるはずだ、そこでも構わんって云うんですよ。ほら、あの死体事件の折に、最終的に解剖部屋に使った、あの普段絶対お客を通さない陰気くさい部屋。もうぼくの手には負えませんね、お手上げです。あとは御自身でなんとかして、いい夢でも見るんですね!」


そう云い捨てて受話器を突き出すと、あろうことかハヅキは脱兎の如く逃げ出した!


「サヨナラ!」


「逃がしませんよ! っておいこら、どこへ行く! 戻って来い、こらぁっ!」



なんて逃げ足の速い。



途方に暮れるわたしだったが、考え直してみれば、これはハヅキが主導権を明確に放り投げた決定的な瞬間であり、決定権は私にあれど、それによって生じる大小様々な不始末は総て上司たるハヅキの責任に転嫁できるまたとない好機と云えた。


日頃、シンデレラのように虐待され、鬱憤という鬱憤が溜まりに溜まって体中の穴という穴から噴き出しそうだった私は、にんまりと悪魔的な笑みを浮かべ、再度受話器を取った。


「長らくお待たせしました――ええ、オーナーと話が通じましたよ。ええ、仰られた通り効果は覿面、すべてお話通りに事が進みました――はい、四号室は空いておりますがね、いや、ちょっと待ってくださいよ、最上階のスイートが今丁度キャンセルになりましたよ、そちらは如何です? いえ、お代はシングルのままで結構です――ええ、中々面白いものを見させていただいたお礼に、オーナー直々にそちらの部屋へお通ししろと。ええ、夜九時頃のチェックイン? はい、大丈夫です、いえいえこちらこそ――では、夜九時に。当ホテルの従業員一同、首を長くしてお待ちしております、では!」


通話を終え、いろいろ恥ずかしい思いはしたものの、この上なく晴れ晴れとした気分で、いたずらに他に誰も居なくなったロビーでチャイムを鳴らして遊んだりしていたら、そこに丁度客室へ向かう途中のキャリーが通りかかった。


「どうしたの、エドゥ。ごきげんじゃない」


「そう見えるかい? 実はその通りなんだ――なんなら、ここでいますぐ裸踊りしたいくらいには!」


「それは見たくないわね」


私はふと思い出して、イェーガー家の面々を戦慄させた質問を繰り返したくなった。


「そうだ、時にキャリー」


「なあに?」


「ここの先代のオーナー、つまりハヅキの親父で、ジュリオさんの兄貴に当たる人のことは何か知らないかい?」


「知らないわ。わたしが来た時には、もう今の代だったから。亡くなったんでしょ?」


「どうしてそう云える?」



その問い掛けに、キャリーは鼻を鳴らして、判り切ったことを、とでも云いたげな口調でこう返した。


「そりゃそうよ。そうでなければ、誰の自由意思であのハヅキに経営権が回ってくるって思うのよ。もしそんなことがあるとしたら、よっぽど自分が建てたホテルを潰したいとしか思えないわ!」




そりゃごもっとも。



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ホテル・ニムロド 岩橋のり輔 @nor_iwahashi

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