III. Rondo d’Août ――八月のロンド(ロンド・ドゥト)(1)




〈ホテル・ニムロド〉。




オンシーズンだけれど、少しくらいヒマで、従業員水入らずの時があったっていいじゃない。


特にジュリオ叔父の発案で、空き部屋を出すぐらいなら、単価は安くとも全部屋埋めるべきとの思想に基づいて、団体割引の告知を少し前にして以来、その傾向は顕著になっていた。こうした団体客は朝陽が昇ってから落ちるまで、表に出ずっぱりと云うのがお決まりだったから、当旅館を終の住処と端から決め込んでいる少佐やお婆さんたちに午後の紅茶を振舞う以外は、午後の早い時間は概してヒマなのである。


それも偏に、神業的なスピードでシーツ替えからはたき掛けまでこなすスーパー家政人キャリーの水面下の努力の産物であって、過去に一度経費削減の観点でハヅキが先頭に立ってルームメイキング部隊に参入したことがあったらしいが、一日で無かったことにされたという。まあ大体想像は付くが、プロの清掃業と云うのはそれこそ職人技であって、ズブの素人が見よう見まねでしたところで、何の助けにもならないどころか、足手纏いになるだけなのだ。特にそれが、適当・雑・いい加減の三拍子揃ったハヅキともなれば、火を見るよりも明らかで、僅か半日でキャリーが頭痛と胃痛に悩まされかけたことは、想像に難くない。


以降、昼日中の二階より上の〈ホテル・ニムロド〉は、キャリーの神聖にして侵すべからず聖域として認知され、どうしても人手が足りないときは、オーナーが渋々と堅い財布の紐を緩めて、キャリー隊長のお眼鏡に適う助っ人を雇い入れる事で対応している。


そんな時、我々役立たず軍団は、各々が出来る適当な雑務を見繕って、最低限の仕事中の体裁を保っている。


ジュリオ叔父は、裏の事務室で帳簿の再確認、いや、再々々確認あたりを行っている。


トロイは、チンパンジーにも出来る仕事ということで、キャリーに引っ付いてリネンを担ぐ仕事をしている。


本業はコックのミースは、夕飯の仕込みまで、可愛がってくれている老人客たちへのファンサービスを行っている。


そして、私とハヅキはホテルの顔たるロビーに駐在し、私は宿泊客たちが残したバリエーションに富むフォーマットの宿帳の画一化を図り、そして肝心のハヅキは――オーディオからシュトラウス辺りの軽妙なワルツを流しながら、ベイベル製のファッション雑誌を繰り、流行の髪型に対する知識を深めていた(なぜ、時が止まった街にそんなものがあるのかという問いに対して、こう答えよう――そこに女がいるからだ)。


当初はズンチャッチャ、ズンチャッチャと耳障りだったBGMも、こと韓国からの団体さんの名簿を書き写す作業に於いては、意外と有効的且つ楽しいという事実を発見してからは気にならなくなっていた。キム・ソンミン、キム・ジョンヨン、イム・ヒョンジュン、と。そりゃフルネームがみんな三音節だもの、リズミカルだわな。




ようやく手が自然と動くようになった頃、頃合いを見計らって、私はいかにも暇を持て余している主に話しかけた。


「今日から、八月ですねえ――」


「ん? あ、ああ――」


何やら不穏な声音を聴き、私が作業の手を止めて振り返ると、そこには変わらず何気ない様子で雑誌を捲りつつも、どこか憂いのあるハヅキの姿があった。


「もうそんな時期か――」


私は不審に思い、


「何かあるんですか?」


「――ん。まあね」


問い掛けられたハヅキの横顔は浮かない。寂しげな眼をして、口籠るばかりだった。


ほんの暫く、居心地の悪い無言の沈黙が続いた後、ようやく出てきた言葉は、普段の快活な調子の彼女からは程遠い、実に歯切れの悪く重たいものだった。


「お父様の、ね――」


俺のバカ! 無神経!


世の中の男性陣に告げる。


男と云うのは、概して顔の造形の悪さや運動神経で女性に嫌われるのではなく、こうした細やかな気遣いの欠落を理由に疎まれるのだ。それが、如何に普段、ハヅキのように傍若無人でデリカシーのデの字も無い、女性性とはおよそ無縁と思われる相手だろうと関係は無い。むしろ、そうした鉄面皮こそ、その分厚い面の皮の向こうで傷付きやすいガラスのハートを持っている可能性が高いのだ。そんな事を考える自分は言わずもがな、まさに無神経の権化と世の女性に蔑まれ続けてきた。


私は慌てて、しどろもどろに云った。


「ご、ごめんなさい。別に悪気があって訊いたわけじゃあ――」


「ばーか。おまえがそんなこと気にするなんて、十年早いよ」


表情こそ笑っているが、やはりどこか憂いの色は消えない。


やべぇよやべぇよ、マジ居心地悪ぃよ、誰か助けて、神様仏様キリスト様、ジュリオ様キャリー様ミース様、トロイ飛ばしてお客のお爺様お婆様――などと藁にも縋る気持ちでいると、天の思し召しか、ハヅキの前の黒電話がけたたましい音を上げて鳴り始めた。


再び雑誌の記事に釘づけになっていたハヅキは、チョコレート菓子を抓んでいた手でそのまま器用に受話器を取ると、肩に乗っけて話し始めた。


「もしもし、〈ホテル・ニムロド〉――あら、アリシア? わたしよ、ハヅキ――ええ、いいわよ、丁度ヒマしていたとこ――え? エリーが? また? あの娘も、ホントに男が途切れない人ね、結婚を前提としたお付き合いと云っときながら、この一年で何人鞍替えしたんだっけ――六人? あ、七人か。で、今度の犠牲者――男はどんな人なの? え? 船医? まあいいんじゃない、あのワカメ頭の暴力役人よりは? アレに比べりゃ、うちのトロイや庭師のノーベリー爺さんだってマシに思えてくるわよ――で? ほう、なかなか奥手。え、あの役人の件で相談事に乗ってた人なの? それ、今年二番目の人とまったく同じパターンじゃない。そうやって、誰彼かまわずすぐそう云ったプライベートな相談事持ちかけるから、男は勘違いするのよ。もし機会があったら云ってあげて頂戴よ、その船医の人に。あの娘は、ちょっと悩んでる時に優しく救いの手を差し伸べてあげれば、すぐに股を開くって。本当、ワンタッチ式の自動ドアのような人なんだから――」


なんて下世話な話をしているんだ!


普段だったら、ハヅキの余りにもの変わり身の早さに、肩を竦めたくなる私だったが、流石にこの時ばかりは渡りに舟と感じ、アリシアと尻軽女エリーに感謝の意を表さざるを得なかった。


お陰で、私は大急ぎで遣り掛けの宿帳写しの仕事を終え、ハヅキが電話中なのでジュリオ氏に完成品の考査を頼むという名目で、その場から自然に退散することに成功した。


事務所の扉をノックして入ると、そこでもまたイェーガー家の御仁がクラシック音楽を流しながら作業しているところで(こちらは音量こそ控えめなものの、曲想の激しいブルックナー)、私が横から名簿を差し込むと、ジュリオはようやく顔を上げた。


「ジュリオさん、四分の三が韓国の似たり寄ったりの名前で埋まっている宿帳、写し終えましたぜ」


「ああご苦労様。でもなんで私に? ハヅキは出掛けたのかい?」


「いえ、オーナーはお電話中ですので、お邪魔しては悪いと思いまして。アリシアさんと」


それを聞いたジュリオは、大の大人の男がここまでだらしない腑抜けた顔になれるのかと思えるほどににやけて、


「ああ、アリシアね。ハヅキの友達の一人だ。あの年頃の女の子と云うものは、得てして取り留めのない、人畜無害な無駄話が好きなものだからね。お花とか、お菓子の話をして!」


いやいや、ジュリオさん?


あなたの姪っ子は、股を開けばいいだの、怖ろしく俗世の醜悪な思想に染まった、悪意あるゴシップの応酬をしていたんですが?


人間ここまで幻想に浸れるものなのか、それとも都合が悪いことには突発性難聴及び極度の近視眼になるのがイェーガー家の遺伝病なのか、と思いを巡らせていると、私はふとさっきハヅキにした同じ質問を、ジュリオ叔父にもしてみたくなった。


いや、何も興味本位というわけではなく、同じ轍を二度と踏まないための予防策としてである。


「ジュリオさん、一つ伺いたいんですが」


「ん、なにかね?」


「今日から八月ですよね」


ジュリオの身体がぴくりと痙攣したかのように見えた。


「さっき、オーナーにもお訊きしようとしたんですが、タイミングを逃しちゃって。なんでも、ハヅキさんのお父様の――」


「エドゥ君」


「はっ、はいっ!」


俯いたまま急に立ち上がるマネージャーに、私は吃驚して飛び退いた。


顔を上げたジュリオ叔父は、微笑んでこそいたが、その眼はぞっとするほど笑いとか喜びとかとはおよそ縁遠い感情を露にしている。


無言でじりじりと詰め寄るジュリオ叔父。


先程まで上機嫌だった思わぬ伏兵の豹変ぶりに、不用意な発言に依る地雷原というのは、女性のみならず男性にも該当するという平等な結論に達し、私の膝はガクガクと震え、同時に「八月」「父」という単語は、イェーガー家の人々に狼男に対する満月のような作用を齎すという事実を、身を以って痛感していた。


馬頭観音のような怒相が迫り来るのを見て、内心チビりそうになり、身構えていたが、叔父は私の横を素通りして、


「トイレ。いや、用を思い出した。少し出てくる」


と言い残し、どこかへ去ってしまった。


うわあああ。


私は頭を抱えた。


めっちゃ気まずい空気を作ってしまった。ジュリオさん、嘘が下手なのに、カッコつけなのに、よりにもよって最初に「トイレ」だなんて間抜けな言い訳を云わせてしまった、どうしよう。




絶望に打ちひしがれてトボトボとロビーに戻ると、ハヅキは相変わらずフロントデスクに凭れ掛かってお喋りの真っ最中。今日ばかりは噂の温床アリシアに微かな感謝の念を覚えながら私も並ぶと、二台ある黒電話の内、ハヅキが使っていない方が鳴り始めた。


本来ならば、私用の電話の場合、一旦お喋りを中断し、受話器を置いて新しい通話に応対するものなのだが、ハヅキは至極当然そうな口振りで、


「エドゥ、電話よ」


前言撤回。アリシア、口が裂けてしまえ。


「判ってますよ、あなたが無駄話を止めて業務に勤しむ、微かな希望を抱いていただけですから。案の定、打ち砕かれましたがね」




飛び切り不機嫌な面をハヅキに見せつけてやってから、私は受話器を取った。



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