II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(10)




カーマイクル提督の悪夢のような洗礼の後、私はひとまず十和子が女主人を務める、第七区の〈葡萄燈〉の厄介になることとなった。十和子がこの事件に於いてのベイベル関係者だったことにプラスして、捜査の責任者が第七区提督アン・ミナーヴァ・カーマイクルだったことに起因する。


その仕事ぶりは粗雑・乱暴・迅速と三拍子揃っている提督の働きの甲斐あって、私達を仰天させた麻薬密輸事件の象徴たるヘカテー像も、その晩には十和子の手許に渡っていた。勿論、中身はごっそり処分されていたが、それでも十和子は至極満悦そうに、安楽椅子に身を沈めながら、骸の手でその造形を愛でつつ云った。


「ところで、江津さん――いや、エドゥさんか。今は」


私は苦笑いして訴えた。


「止めてくださいよ、まさか自分でも、ローマ字をミスってZとDを書き間違えて、EzuではなしにEduになるとは思っても見なかったんですから。それも全部、あの提督がギロギロと血走った眼で、ギリギリと硝煙の匂いがぷんぷんする吐息を撒き散らしながら、やれ早く名前を書け、早くしろ、もたもたするな、ぶっ飛ばすぞ、と散々脅してくれた所為なんですから」


「アンはね、ああ見えても中々気風の良い善き友なのだ。まあトンデモない人種なのは否定しませんけれどね――それよりも、エドゥ君。あなたはこれからどうするんです――いや、どうしたいんです」


「俺には、いよいよ居場所がなくなりました」


私は少し沈んで云った。


「十和子さんの迅速且つ的確な鑑定のお陰で――まさかX線解析装置までお持ちとは思いませんでしたよ――あのメーヘレンは、正真正銘のメーヘレンの手に依るフェルメールの贋作として証明され、第二の『音楽を演奏する女』としてのお墨付きを頂きました。国際電話――って云っていいんですかね、電話を通じて父とも連絡が取れ、絵の詳細を伝えたところ大変に喜んでくれました。親父のあんなに嬉しそうな声、俺はいつ振りに聴いただろうって――複雑な心境でした」


十和子はゆっくりと煙草を燻らせながら訊いた。


「で、お父様はなんと?」


「父に云ったんです、俺はベイベルに着いたぞ、と。そしたら親父なんて云ったと思います? 『そこは、ぼくが永年辿り着きたい、もう一度行き着きたいと願い続けていながら、ついぞ叶ったことのない幻の楽園だ。ぼくからはもうベイベルは遠ざかってしまって、どこよりも遠い土地になってしまった。だから、親として訊きたい――おまえはベイベルが好きか?』俺ははいと答えました。まだ断定するには早いが、素晴らしい人たちに巡り合えて、何やら素晴らしいことが待っている予感がする、と正直に伝えました。そしたら、親父は云ったんです――『だったらもう戻って来るな。一度掴んだチャンスを、その指の隙間から流れ落してしまうような間抜けは、江津家には一人で充分だ。里帰りは構わんし、時々顔を見せてくれたら、そりゃ親として嬉しい。でも、おまえの帰るべき場所はベイベルで、もうここではない』ってね」


それは事実上勘当にも等しく、私は育ての親に見放された云い難い喪失感と孤独感に苛まされていた。


それは知らず知らずのうちに熱い涙となって、私の脆弱なまだ親離れできていない高校生の器から溢れ出て、頬を伝った。


そして思い知るのである。自分は、粋がって外の世界に羨望の眼差しを向けつつも、それは単に内の世界が保障されているから出来る芸当であって、その本質はまだふわふわの羽毛に包まれた雛のようにか弱く、無力な存在であるということを。胎児は外の世界を夢見つつも、温かい羊水の中に浸かっており、胎盤や臍の緒を介しての母体からの栄養なしには、決して産まれることが出来ない存在であるということを。


自分はまだまだ未熟で、父の理想主義的な愛情、母の時に独善的と思われるまでの母心、そして兄の肉親を厳しく律するという親切心――その想いが、三重の殻となって柔らかな卵黄である私を包んでいたということを。


それが今、変わろうとしている。殻は裂け、羊水は抜かれ、雛は餌のミミズを親鳥から口移しに与えられなくなりかけていることを、私はひしひしと実感していた。そして、それは暖かな室内から突如開け放たれた窓から流れ込む北風が如く、弛緩し切った私の肌を収縮させ、鳥肌を立てさせるのである。


私は、湧き続ける思いの丈を、成り行きがままに十和子にぶつけていった。


見た目こそ年齢を感じさせない十和子だったが、その慈愛に満ちた瞳には、母性や父性と云ったものを超越した何かがあり、まるで教会にある聖母像のように穏やか且つ静謐な空気を以って、私の総てを黙って受け止めていた。


一頻り喋り終えたところで、私は喉の渇きを覚え、それを察したかのように十和子はグラスに水を注ぎ、私に手渡した。


「エドゥ」


十和子は云った。


「まず、あなたのお父様のご意向に沿うには、この街を我が家だと思わなければなりません。そして、自分の家では、どこになにがどう云う風に置いてあるか、おおよそ見当が付いているものです。ですから、少しお話しましょう。このベイベルのことを」


そう云って、十和子が語り始めたのは、旧約聖書のバベルの塔の話、鐘楼都市ベイベルの姿形、そのあり方。時の河川にあり、けれどその大本流からは取り残されてしまった、世にも不思議な土地の話。


それはまるで一大叙事詩で、その厳かな語り口と相俟って、私の意識を包み込む。


そして、結びにはアーメンが如き、生きる術の啓示。


語り終えた後も、尚言葉の出てこない私に向かって、十和子は別の話題を振った。


「次に、ヘカテーの話をしましょう。あなたはここに、人生の岐路に、三叉路の女神ヘカテーの誘いを経て現れた。彼女は謂わば、あなたの守護神です。その性質は、実に多岐に渡り、一概には云えないものですが――そうですね、あなたに最も関係しているのは、差し当たって『三面』の要素でしょう」


十和子本人もグラスから水を一口啜ると、〈葡萄燈〉の奥行きのあるブドウ棚のような店内の四方八方から木霊するような、静かで厳かな声音を以って話し始めた。


「『3』と云うのはとても神聖で深淵な意味合いを多く含む数字です。例えば、キリスト教の『三位一体』は、『父』と『子』と『聖霊』が『一体』――唯一の神であるとする教えで、その紋章は『三位一体の盾』と呼ばれます。『父』、『子』、『聖霊』の三つが正三角形を描くように配され、その中央に『神』を置き、総ての点を線で結んでごらんなさい。線は六つ出来ますね。そして、『神』に繋がる三つの線――そこに『EST』――『である』と云う意味のラテン語を記し、残りの三線には『NON EST』――『ではない』と置きます。こうして判ることは、『父』も『子』も『聖霊』も『神』であり、また『神』を介してはそれぞれが一繋ぎに成り得ますが、こと三角形の外周だけを辿る限り、これら三つの区分は決して同居し得ず、『父』は『子』でなく、『子』は『聖霊』でなく、『聖霊』は『父』ではないのです。この図式は、この像を丁度真上から眺めた時にも当てはまって――」


そう云うと、十和子は余分な積み荷を降ろし軽くなった像を傾け、丁度その頭の天辺が、私の視界の真ん中に納まるようにした。ヘカテーは、歪に膨らんだ三角形のシルエットとなった。


「こうすると、ヘカテーの鼻先三つが丁度三角形を描くことになるでしょう? さて、今ヘカテーは三対の眼で、前後左右三百六十度ありとあらゆる角度を眺めていることになりますが、ここに様々な三相を入れてみましょうか。まず、先程の『三位一体』――この顔は『子』、こちらの顔は『父』、そして余った一つが『聖霊』を見つめているとします。ヘカテー自身は『神』ですね。これら三つは総てヘカテーが見ている景色と一括りにすることが出来ますが、けれど個々の視界は決して交わることがないのがお判りでしょう? それと同様に、『上弦』、『下弦』、『満月』――ヘカテーは『月』。上弦も下弦も満月も月のフェーズですが、これら三つは決して同時には現れない。『世界』の『天上』、『地上』、『地下』――『女性』の『処女』、『婦人』、『老女』――等々」


十和子の声は次第に低く、密やかなものになって行き、けれど同時にそれは声がただの鼓膜を振動させての音波でなく、精神に直に語りかけてくるような不思議な魔力を帯びてくるのを私は感じた。彼女の言霊は、今、私と彼女を除く全世界を吸収せんと働きかけ、まるでシェイクスピアの時代の野外劇場のように、一切の無駄を排したステージの上に取り残されたかのような錯覚を覚えた。


「そして『時間』です。それぞれの顔が見据える先には、『過去』が、『現在』が、そして『未来』があります。そしてヘカテーは『時間』――いえ、違いますね、『江津英吉の時間』、あなた自身が中心にあるのです」


私が――中心?


「これら三つは、あなた自身の中――あなたが五感をフルに活用して、周囲の状況を受け止めて、それを脳が認識する事で、初めて成り立つ『世界』――その中で産まれ、その中でしか生きられない概念なのです。過去や現在や未来は、あなたを介して初めて一つながりの時の流れとして誕生します。そりゃ、あなたの今や未来は、あなたの過去の経験を如実に反映しているでしょう――けれど、決してイクォールで結ばれるべきものではないのです。判りますか? 過去の失敗を反省し、自らを戒め、今や未来の糧にすることは大切です――でも、無理に同じ尺度で見つめることはないのですよ。あなたは今を、過去を、未来を、それぞれ別の観点で見据えるべきなのです――そう、このヘカテーのように」


そう云って、十和子はいつのまにか元通り地面から垂直に立っている石像の頭をポンと叩いた。ヘカテーの三面は、どれも同じような顔をして、無表情だ。けれど、一つは私の右手を、一つは私の左手を、そしてもう一つは十和子の向こうのテラスを見ているのである。



そうなのだ。



私は江津家の次男として産まれ、父の子供染みた理想主義に感化され、美術品を求めて世界のあちこちを飛び回って来た。その一方、母や兄の云う現実に時折引き戻され、そのギャップに翻弄され続けてきた。けれど、それすらも私が二つの異なる景色を、無理矢理同じ視界に収めようとして起きた混乱だと、今は理解する事が出来る。そして、それは私の――江津英吉の過去だった。


今は、こうしてひょんなことから知り合った稀代の美術商岡内十和子と、こうしてヘカテーを真ん中に語らっている。ハヅキと知り合い、そして無我夢中に同じ街へとやってきた。これが江津英吉の現在。




では、未来はどうか。



私の苦悩や戸惑いは、謂わば殻の中にいた時分目線からのもので、それは現在の自分ではない。今の自分、そして未来の自分だったらどう判断するだろうか。父は、途轍もなく不器用な方法で、私の過去の楔を外そうとしてくれた。父の想い――そして私自身の想いに応えるには、未だ見ぬ第三のヘカテーの目線で考えなくてはならない。




未来の自分――未来の江津英吉の下す決断。



それは――



「俺は――未来の、江津英吉は――」



必死に覚束ない思考回路をフル回転させ、なんとか決断を捻り出そうと躍起になっている私に、十和子は優しく骸の手を突き出して押し留めた。



「焦りなさんな。無理に今この場で云わなくてもいい。ゆっくりと時間を掛けて、最終的に納得の行く結論に辿り着けさえすればいいのです。ヘカテーは――私は、ただの分岐点の守り人なのですから」


私は頷いた。


まだ、ベイベルに着いて幾数時間しか経っていない。


私はこの街のことを何も知らないし、何も見ていない。


結論を出すには、時期尚早過ぎる。


私は、尚、心細さでどこか声を震わせながら、尋ねた。



「俺は、まだここにいていいでしょうか」



その質問に、十和子は一瞬驚いたかのように眼を見開いたが、すぐに表情を軟化させて、


「勿論。うちには若いのが二人いますけど、それでもまだ来客用の部屋が空いていますからね。気が済むまでゆっくりここに滞在して、考えを募らせなさいな。そして、ハヅキの方にも話は付けてありますからね、行ったり来たりしてじっくり悩みなさい。〈葡萄燈〉に棲みこむも、ハヅキの〈ホテル・ニムロド〉へ行くも、元の世界へ帰るも自由――なにせ、ここは時が止まった街、ベイベルなのですから」


三面のヘカテー像は、当たり前に微動だにせずその場に立ち尽くしている。


十和子の言葉に倣い、今の自分を再びこのヘカテーに当て嵌めるとしたら、それは差し詰め、『自分が居るべき場所』の主題で、〈葡萄燈〉、〈ニムロド〉、日本を見ているということになるのだろう。


十和子はよいしょと軽い掛け声を上げて立ち上がり、緩やかな挙動で伸びをしながら云った。


「まあ兎も角、明日は郵便局へ行って、あの絵をお父様当てに郵送しがてら、ハヅキの所へいってらっしゃいな――それと、さっきの話だけれど、あの絵にも流用できるんですよ。まあ尤も、この場合は二面ですけれどね――『真作』と『贋作』としての顔。けれどその本質は総て『美』に帰結していて、真の美には作品の真贋など、およそ取るに足らないものなのです。ごらんなさい、いい絵じゃないですか」


私は促されるがままに、カウンター脇に立てかけてある絵画を見つめた。


リュートを弾く女が、静謐な室内で優雅な調べを奏でている様が明瞭に描かれており、私は無用な先入観をかなぐり捨てて、成程、綺麗ないい絵じゃないか、と思った。


そしてその晩、私は〈葡萄燈〉二階の数多のコレクションが雑多に犇き合う中で、嘗てない安らぎと希望を全身に感じながら、深い眠りに落ちたのである。





* * *





翌朝、私は十和子直筆の緻密な幾何学模様のような地図を片手に、ベイベルの街へ繰り出し、最寄りの郵便局でメーヘレンの郵送の手続きを終え、クラシカルな黒塗りのボックス車のタクシーで二区の〈ホテル・ニムロド〉へと向かった。


〈ホテル・ニムロド〉は傍目にも程良い美意識と快適さがよく伝わる外観で、大変に印象が良かった。


私は小さな旅行鞄を片手に、その手入れの行き届いた前庭を通り、庭バサミを持った穏やかそうな老庭師に軽く会釈をして、ロビーへと入って行った。


すると突然、足許を何やらネズミらしい小さな動物が横切るのを見て、アッと声を上げそうになり、続け様に身を屈めて走ってきた金髪の小柄な少女と、あわや接触事故を起こしそうになった。


「ハムちゃん、まってー」


……ハムちゃん?


今のはどう考えても、ハムスターにしては尻尾が長すぎたような――と思いつつも、フロントの方へ向かうと、その奥で長身の、まるでクモの巣を顔に貼り付けたような皺だらけの男が、電話越しにペコペコと、


「え? まだルームサービスの朝食が届いていない? いや、届いてはいるのだが、燻製のサーモンを頼んだはずなのに、なぜかパンに塩ジャケが付いてきた? た、大変申し訳ありません! すぐに代わりの物をお持ちします、本ッ当に申し訳ない」


と、平謝りしている真っ只中で、私は手の空いている、見るからにキビキビとして有能そうなメイドの前に立った。


「ようこそ、〈ホテル・ニムロド〉へ。ご予約のお客様ですか?」


「ああ、はい――江津、いや、エイキチ・エドゥで――」


すると突然、食堂の方からドタバタと音を立てて見るからにギリシャ系の給仕が、頭と尻を抑えながら飛び出してきて、その騒ぎを聴き付けたのか赤ら顔の軍服の爺さんがフロントの脇の入口から猟銃を片手に「ソ連兵か?」と顔を覗かせて、先程のネズミを追いかけていた少女が婆さん二人に絡まれ「おーよしよし」ともみくちゃにされ、ブラウスの前に大きなイチゴジャムの染みを付けたハヅキが、


「誰がジャムとトーストを上に持ってくでなしに、その場でアッパーぶちかませって云ったよ――」


と、顔を真っ赤にして割れた皿とトーストを片手に給仕の方へ詰め寄るという、朝っぱらから繰り広げられる、余りにも慌ただしくコミカルなドタバタ活劇に、私はただただ呆然と立ち尽くすばかりで――



酷い。



人手が足りないにしても、いくらなんでも酷過ぎる!


私の姿をようやく認識したハヅキが、この上なくポカンとした表情で云った。


「あれ? アンタ、なんでここにいるの?」




私は我慢できず、咄嗟にホール中に響く大声で叫んだ。




「どうか――俺を――ここで働かせてください!」




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