II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(9)




「終わった?」


ふと掛けられた声で我に返ると、そこにはハヅキが飲み干したコーラの空き瓶を転がし遊んでいる姿があった。


「随分長い回想だったわねえ――チビチビと舐めながらぼーっと聴いていたのだけれど、すっかり空になっちゃったじゃない」


「自分でも意外ですよ。こんなに長く、オーナーの殺人本能を呼び起こすこと無しに思い出話を出来るとは、願ってもいませんでした。大抵二言目には人の話を遮るような邪魔ばかりする人なのにねえ。夏バテですか?」


「まあね」


そう素直に返すハヅキは、まさに真夏限定の風物詩と呼ぶに相応しいかもしれない。


けれど、開け放たれた扉の外を見る限り、少しばかり太陽に雲が掛かったのか、暑さが和らいだようである。体温計――じゃなかった、温度計も、人間の体温だったら低体温症の診断が出される温度を指し示している。


「そう云えばいたわねえ。バーカーとバッキャローだっけ? (「それじゃ両方バカですよ。バカばっかですよ」と私)――ああ、バロウとパーカーか。あんな間抜けなデコボココンビは、漫画の世界でもついぞお目に掛かれないような代物だったわね。でも、確か結構大それたことの片棒を担がされてたんだっけ。麻薬の密輸とか」



そうなのだ。



バロウとパーカーの二人の犯行の杜撰さに反比例して、先方の筋書が用意周到だったのは訳がある。


それこそが、美術品を使った麻薬密売事件だった。


そもそも、あのヘカテー像は、十和子が現代にもヘカテーを信仰する新興の魔術崇拝系宗教があると云った通り、とある教団の幹部から譲り受けたものだった。


その幹部は、一時は熱心に布教活動や教会運営に勤しんでいたものの、徐々にその教義や首脳陣の思惑に気付き、秘密裏に脱退を試み、その一環としてあの像を売り払いたかったのである。


と云うのも、その宗教と云うのが幻視体験を理由に、数々の違法薬物を氾濫させており、その幹部もそれを知りながら依存症故に見て見ぬ振りをしてきたらしい。しかし、初孫が生まれた辺りから徐々に後悔の念を募らせ始め、家族の安全の為に告発こそしないものの、完璧に手を引こうとしたのだった。


不幸中の幸いというところか、そんな極悪な組織でありながらも、首脳はそんな裏稼業を続けるに当たり、殺人や粛清と云った血腥い手段に出ることは快く思わず、故に麻薬の隠し場所となっていたヘカテー像(あの不自然に付け足されていた台座はその刳り貫かれて麻薬がびっしり詰まった壺の蓋だった)の回収を、何も知らない人間に頼んでやらせる心算だったらしい。


ところが、何の因果か、偶々娘夫婦の売り出しの広告欄を見て、まったく別件でやってきた十和子を、その人物は回収業者と勘違いし、引き渡してしまったという訳である。それもこれも、十和子が並々ならぬ蒐集狂で、そんな古惚けた像に興味を抱かなければ起こり得ない偶然だったのだ。


誤った人物の手に像が渡ってしまったことを知った『先方』は、強硬策に出た。


重たい石像と云う物品の性質上、ひったくりや置き引きは難しく、で尚且つ、『先方』はベイベルの事情に精通しており、ベイベルではどうやら名の知れた存在である十和子の事も知っていた。だから、十和子がベイベルへ戻るその日を狙って、且つ周囲に人の少ないベイベル行きの列車の中で強奪計画を敢行しようとしたのである。



十和子は、後日こう語った。


「『先方』が〈収束点〉前の地点を狙ったのは、一つは場所をある程度特定して、回収を容易にするため。もう一つは、車掌は予めベイベル行きの車両内に、他の乗客がいた際は誘導する事を知っていたから。特に、〈収束点〉近くになればその傾向が顕著になりますからね。ドンカスター駅手前で列車をジャックし、通過させたのは、特急列車最後の停車駅ドンカスターには〈SQuAD〉――〈現状回帰小隊〉、つまりベイベルの警察機構の監査が入ることが常套化していたから。ベイベルにとって〈収束点〉手前の駅は、国境と同義ですからね、不法物資の持ち込みを制限したり、税関としての役割もあるんです。ああ、あとなんでそんな麻薬のジャンキー集団がヘカテー信仰のペイガニズム宗教をでっち上げたかについてですが、一つ推論があります。ヘカテーが魔術の女神としての側面もあることは申し上げましたわね? 黒魔術にとって薬物と云うのは切っても切れぬ仲で、ほら魔女もベラドンナの軟膏を身体に塗って殿方を籠絡させたり、大窯でグツグツと怪しげな生薬を作ったりするでしょう? あれと同じことなんですよ。特にヘカテーは、助産術の象徴であるナイフや、不死の象徴である蛇をシンボルに掲げられることが多く、根底には不老不死や生命そのものを司る要素が多々見られるんです。特にトリカブト――あの毒草の親玉として名高いあれは、ヘカテーの最も有名なシンボルの一つで、そこから転じてヘカテーを信仰対象に掲げ、幻覚剤を摂取するというのは、儀式の形として強ち見当外れでもないんですよ。伝承の中にも、例えばテッサリアには――(以下略)」




ハヅキは、思い出し笑いをするように、口に手を当てながら愉快そうに云った。


「今考えると、あれは面白かったわね。ほら、列車が停止してからよ。強盗事件の報せを受けて、〈SQuAD〉の中でも飛び切りの武闘派、十和さんのとこのカーマイクル提督が、全身バリバリに銃火器でカスタマイズした義体から、文字通り火を吹きながら列車に乗り込んできて。あなた、マジでビビって涙目でさ」


「仕方ないでしょ。今でこそ人体欠損の修復技術だけがやたらと進んだベイベルに、ああいうサイボーグがゴロゴロいるのは知っていますけれど、あの時は知らなかったんだから。いきなり、金髪の獅子頭みたいな女が、ギロっと眼を向いて手やら腹やら口やらから銃弾ばら蒔きながら乱入してきたら、そりゃそれこそあのヘッポコ強盗団の数千倍はおっかないでしょ」


「まあ、それはあのパーカーとバロウもご同様でしょうね。結局、あの後部車両、バロウ達がいた三号車だけがベイベル側にワープしてしまって、お陰で現実世界の良識あるスコットランド・ヤードの管轄じゃなく、『人道、なにそれ、食べる物?』なカーマイクル提督直々の案件になってしまったのだから。それこそ中世の魔女狩りにあった気分でしょうよ」


「でも、そこはベイベルの無秩序さに感謝してもらわないと。カーマイクル提督の独断で、イギリス政府に引き渡す手筈整えるのがメンドいからとか云うふざけた理由で、執行猶予付きとはいえ、ベイベル市民になることで無罪になったのだから。そうじゃなきゃ、なんぼあの二人が憎めない小悪党って云ったって、十年二十年のムショ暮らしは確実だったんですよ」


「でも、カーマイクル隊で一年の無償奉仕でしょ。あの『口でクソ垂れる前と後にサーと付けろ』とか云いかねない人の下で奴隷労働なんて、それこそ秩序のある世界での懲役のほうが余程マシだったと思うわよ」


うん、それは否定できないね。


本当にあの提督怖いんだもん。


ベイベルは提督によって行政方法も区の特性も変わる。私は、武骨者の権化カーマイクル提督が統治する七区ではなく、インテリで洗練された紳士のクイックシルヴァー氏治める二区の住民であることを心から感謝した。


私はふと思い出して云った。


「そうそう。あの思い出話、まだ続きがあるんですよ。なんでぼくがここにやって来たかの説明がまだじゃないですか」


「誰に対する説明よ。わたしは知っているわよ、メンドくさい――そうだ」


ハヅキはチャイムを思いっきり鳴らして、


「トロイ!」


と叫んだ。


呼ばれて飛び出たのは、まるで屋根裏からチーズを拝借しに忍び込んできた害獣のような挙動の欠陥給仕トロイで、相変わらず言語らしい言語をまったく理解しない彼は、ただつぶらな瞳で、


「エッ?」


と云い、それに対してハヅキは、ジェスチャーたっぷりに、一語一語しっかり区切って云った(これがごく一般的なトロイの調教手段である)。


「いい、トロイ? おまえ、ここにいる。わたし、どっか行く。おまえ、ここで聴く。エドゥ、喋る。おまえ、適当に聴く。オーケー?」


「オケッ、オケッ! ハイっ、ハイっ!」


「と云う訳で、さいならっ!」


と云い残して、元気溌剌に去って行くハヅキ。先程までバテバテだったのに、この元気はどこから沸いてくるのやら――はて、私の話し相手にトロイという最も不適切な人物をあてがって、嫌がらせが出来たから元気をチャージできたのかな?




そうは問屋が卸してやるものか、と心に決め、私は眼を爛々と輝かせている子供のようなトロイ相手に、思い出話の続きを始めた。


まるで壁に向かって話している気分だが、九官鳥の教育はこのようにして成されるに違いない!




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