II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(8)




「ハヅキ、下がりなさい。時間ですよ」



岡内十和子だった。



落ち着き払った物腰で、有無を云わさぬ威厳のある口調で、決然と命じた。車内禁煙にも拘らず、煙草に火を点けて蒸かしている。


それに対して、ハヅキは一瞬反論しようと口を開きかけたが、渋々従う体で、


「ちっ――仕方ないわね」


と、前方車両の方へと引き返して行った。


後に取り残された私とバロウに、十和子は連結部越しに云った。


「バロウさん。間もなく、当列車はネブワースのトンネルに入ります。これが、あなたがたに残されたラストチャンスです。私が扉を閉めたら、すぐに起爆装置にスイッチを入れて、客車を切り離してください」


まるで身体の支配権を奪われたかのように、ただただ頷くばかりのバロウ。その手に握られた拳銃も、今はだらしなく下を向いている。


「そして江津さん」


「はいっ」


突然呼ばれた名前に、私は思わず身を固くして向き直った。


十和子の深海を思わせる紺碧の瞳は、穏やかな光を湛えて静かに煌めいている。


「私達はベイベルへと戻ります。そしてそこは、先程申し上げた通り、どこよりも近くどこよりも遠い土地。私やハヅキにとっては、どこよりも慣れ親しんだ古巣ですが、あなたにはまだ、縁遠い土地のままで有り続けたほうが良いのかもしれません――」


そう云って、十和子はハヅキが握っていたメーヘレンを、いとも容易く取り上げると、私の足許にそっと置いた。


突然のことに、何も返す言葉のない私に向かって、十和子は軽く敬礼すると、静かな足取りで元来た道を戻って行った。


辺りが徐々に薄暗くなる。


ネブワースのトンネルは、森の中を潜るようにして掘ってあるのか、辺りの木々が鬱蒼とした葉を茂らせて、陽光を次第に遮断する。


窓の外を一面の新緑に覆われた空間の中、ビスクドール染みた画商は、丁度扉の向こうで立ち止まり、銀のヴェールが如き髪に縁どられた横顔を覗かせて、口を開いた。


「さようなら、江津さん。楽しかったです」


別れの言葉は一瞬で、けれどそれはまるで時が止まったかのような瞬間だった。


私は、咄嗟に石像を放り棄て、前に戻ろうとしたが、後ろ手に引かれたドアは、無情にも十和子、そして気怠げな表情のハヅキの前に徐々に立ちはだかって――



ガシャン。



と云う、静かな音と共に私達を断絶した。


その瞬間、ピッという耳慣れぬ電子音が鳴り――


鈍い爆発音共に白い閃光が迸り、客車は痙攣したかのような大きな振動を以って、少しずつ、けれど確実に減速し始めた。




それからの行動は、もう無我夢中だった。



私は、ずっと私の枷となっていた重い石像を落とすと、まるで身体が空気のように軽く感じられ、軽く助走を付けて、火薬の臭いが立ち込める連結部分へと跳び乗った。


「お、おい、小僧! 何をする! 危険だ、戻れ!」


バロウの絶叫が意識のどこか遠くの方で聞こえた。


けれど私は怯むことなく、右手で手摺りを掴み、左手で引き戸を開け、逆風をもろに受け、吹き飛ばされそうになりながら、開け放された扉の向こう――眼を見開き、口から紙巻を落っことしている十和子、何か珍妙な生物を見るような眼で凝視しているハヅキ、二人の隙間から見える地べたに転がされたままの老年の車掌に向かって叫んだ。



「俺も――ベイベルへ連れて行ってください!」



十和子が何かを云おうと口を開いたが、それよりも早く前に進み出たのはハヅキだった。


ストロベリーブロンドのポニーテールが、ツイードのジャケットの裾が、風に大きく靡いている。


彼女は凶暴に吼えた。


「今直ぐその手を放せ、この大バカ! 落っこちたら、アンタ、死ぬわよ! そもそも、アンタの世界はそっちで――」


「そんなこと関係ありますか!」


私は怒鳴り返した。


「あなたはぼくのことバカバカ云ってバカにしますけれどね、元はと云えば全部あなたが話をややこしくした所為なんですよ! それに、俺はこの世界に――これから待ち受けている篭の中のような生活に戻りたくない! ベイベルを――十和子さんや、アンタがいる、滅茶苦茶で破天荒でハチャメチャで、けれど愉快で温かい人たちのいる――ベイベルを見てから帰る!」


その言葉を受けて、ハヅキは口を半開きにして、言葉を失ったかのようにただただ立ち尽くしていた。


冷静さを逸早く取り戻したのは十和子だった。


彼女は、スリーブの下からまるで骸のような、剥き出しの骨のような義手を突き出すと、それでガッシリと私の手首を掴んで怒鳴った。


「事態は一刻を争います! ハヅキ、何ぼやぼやしてるんです、手伝いなさい!」


ハッと我に返るハヅキ。


私は宙ぶらりんの左手を、真直ぐ前に突き出して、それに応じるかのようにハヅキも左手を出す。


気付けば、辺りは一面の漆黒の闇で、列車がネブワースのトンネルに差し掛かったことを示していた。


風に流され、私達の手は互いにすれ違い、何度も宙を掻き――そしてようやく触れ、掴んだ。



ハヅキの、温かく小さな左手を。



右手には、冷たく無機質な十和子の右手。




「いっせーのせ!」


ハヅキの掛け声と共に、前へ浮かび上がる私の身体。


轟々と響いている筈の列車の走行音は、もはや私の耳に届くはずもなく。


両手に、生と死を、有機と無機を感じながら、私は闇から引き摺り出され、温かな黄色の照明に彩られた見慣れた客室へと帰って行く――




ドスン。



鈍い音を立てて、顎にもろに衝撃を受けてへたり込む私に、最初に容赦ない罵声を浴びせたのはハヅキだった。



「なんてマネをするの、このバカ! 大バカ! 超弩級のバカ! アンタ、本当に死ぬところだったのよ、判ってる? 運が良くても線路に頭から転倒で全身打撲、運が悪ければ――本当に取り返しの付かない事になっていたのよ!」


私は息も絶え絶えに、興奮の余り涙ぐんでさえいるヒステリックな宿屋の主に語りかけた。


「ですね――本当にごめんなさい。けれど、どうしても、このままあの生活には戻りたくなかったんですよ――自分勝手でごめんなさい。でも、ありがとう――お陰で、生き延びることが出来ました」


それを聞いて、ハヅキは遂に感情の高ぶりを抑えきれず、眼に大粒の涙を浮かべながら、嗚咽を漏らしながら云った。




「バカ――バカ――バカっ……! でも――本当に、よかった――」



いきなりボロボロと、恥も外聞もかなぐり捨てて泣きじゃくるハヅキに、私は狼狽を隠せず、どうしたらよいものかと途方に暮れたまま這い蹲っていると、いつの間にか隠し持っていた万能ナイフで車掌の縄を切り終えていた十和子が、キビキビとした口調で云った。


「まだ気が抜けるには早いですよ、ハヅキ。どうやら、さっきの爆破の衝撃で、この車両の車輪が一部脱線したようです。このまま暴走していては横転事故に繋がりかねない」



云われてみれば、先程より列車の揺れが激しく、また、何かにぶつかるような不穏な音が辺りに鳴り響いている。


「リッチ――このナイフを貸しますから、あなたはパウエルの縄を切りに運転室へ向かってください。そして、〈収束点〉を越え次第、列車を停止させること――いや、やはり私も向かいましょう。無線をお借りしますよ、〈SQuAD〉に連絡したいし、私が報告するのが、一番手間も省けるでしょう」


そう云って、車掌を連れ添い足早に去って行く十和子の背中に、ハヅキが声を掛けた。


「わたしは?」


「あなたは、江津さんがまた無茶をしないようにでも見張っていてください。江津さんも、ハヅキの監視、お願いします。トランクに、予備のカップがありますから――お茶でも飲んで、気分を落ち着けていてください」


そう云い付けられ、取り残された私達は、のっそりと立ち上がって、云われるがままにカップに紅茶を注いだ。振動により、カップの中の水面が激しく揺らいでいる。


お互いに黙りこくり、視線を合わせようとしなかった私達だったが、遂に私がおずおずと尋ねた。


「ミルクは入れますか?」


「いえ、自分でやるわ。ありがとう」


そう云って、ぎこちない空気のまま、私達は無言で紅茶を啜り続けた。


やがて口を開いたのは、ハヅキの方だった。


「あなた、どうしてそんなにベイベルに来たいの?」


私はカップの淵をじっと見据えながら答えた。


「判りません。ただなんとなく、今行かなければ、このまま元の世界に戻ったとしたら、ずっと後悔しそうな気がした――それだけです」


「それだけ? そんなふざけた理由で、あんな危険な目にあったっていうの?」


「それだけです。怒りますか?」


「別に怒らないし、打ちもしないわ。ただ不思議なだけ。わたしはベイベルに産まれ、ベイベルで育ったから、外の世界というものを知らないのよ。こうして十和子に連れられ、小旅行に出かけることはあるけれど、住むと見るでは大違いでしょう? ベイベルにも、ここは楽園だ、元の世界とは大違いだ、と云う人が大勢いるけれど、わたしには実感を伴わないおとぎ話でしかなかった。だから、外の世界の話を色々と聴かされても、ただふうん、そうなんだ、と相槌を打つことしかできなかったの。それは今も同じ――ねえ、あなた。教えて。外の世界は、そんなに嫌なところなの?」


まるで子供染みた質問だが、ハヅキのこちらを真直ぐ見つめる顔は、真剣そのものだった。


私は、自分よりは年上であろう女の、けれどそんな無垢な表情を見て、フッと安堵の息を漏らして云った。


「世界に外も内も、善し悪しもありませんよ。ただ受け取り方が違うだけです。俺はバカだから、自分が生きてきた世界を悪だと考え、隣の芝生が青く見えているだけのことなんです。俺の世界も、あなたも世界も、十和子さんや車掌さんやあのバロウやパーカーの世界さえも、世界は一繋ぎで、みんな一緒でみんな違うんですよ」


それを聞き、ハヅキはうっすらと温かい笑みを浮かべ、


「そう、バカだからね。ようやく認めたわね、バカだって」


「それはお互い様ですよ」


私達は互いに見つめ合い、バカ、バカ、と小声で呟き合った。




すると、列車は徐々に速度を落とし、紅茶の水面にも凪が訪れかけ始め、また窓の外に突然青い燦々とした景色が広がり始めた。


ハヅキは立ち上がり、窓をガコンと引き下げながら云った。


「ご覧なさい。〈収束点〉を越えたわ。これが、あなたの待ち望んでいたベイベル――鐘楼都市ベイベル。どこよりも近く、どこよりも遠い――けれど、今日この時を以って、ここはあなたにとって一番近しい場所になった街よ」


促されて私が窓から身を乗り出すと、そこには見渡すばかりの青く美しい海、雲一つない鮮やかな空が広がっていた。そして列車の遥か前方の水平線近くにそびえ立つ、石造りの螺旋の塔――


それは、昔父のカタログで見た、十六世紀フランドルの――たしかブリューゲルとか云う画家の、聖書の中の街を描いた『バベルの塔』と云う絵画を思い出させた。


その時、私は偶然、ある幼き日の想い出が蘇った。


たしかあの頃、兄は大学受験を控えていて、一番物入りで家庭の環境もピリピリとしていた時で、そんな折、父がなんの前触れもなく忽然と姿を消して、母が半狂乱になった事件があった。


おとうさん子だった私は、しきりに母に父の所在を尋ねたものの、母は貝のように口を閉ざすばかりで、なにも語ろうとはしなかった。今思えば、あれは語ろうとしなかったのではなく、本人も何が起きたのか全く分からず、答えるに答えられなかったのだろう。


それから三日ばかりが経ち、ある晩、父は再びふらーっと帰ってきたのである。


ヨレヨレになりながら、手に持ちきれないほどの絵を抱えながら疲れ切った様子で、けれど生きる喜びに満ち溢れた輝かしい眼をしていた父の姿を、私は漠然と、けれどしっかりと覚えていた。


その時ばかりは、普段は母の威勢に気圧されてばかりで消え行かんばかりの父の背中に、生気がみなぎっていて、母の詰問にもまるで暖簾に腕押しと云う風に受け流していた。


後にも先にもそんなことは一度きりだったから、それから暫く時が経ち、母の癇癪もようやく収まり始めた頃、私は父にその事を尋ねた。


おとうさん、どこへいってきたの、と。


すると、父は昔を懐かしむような顔をして、本棚から一冊の分厚いカタログを出し、何度も眺められ開き癖の付いたページを、造作もなく探し当て、私に見せた。


それは古今東西の名画と呼ばれる作品が、年代別に並べられたもので、そのページにでかでかと載せられていたのがブリューゲルの『バベルの塔』だったのだ。


そして父は、その塔――大きな螺旋を描き、人々の営みの姿がふんだんに盛り込まれたその絵を指し、こう云ったのである――


「父さんは、ここに行ってきた」





そのエピソードを思い出し、私は総てに合点が行った。


ベイベルはどこよりも近く、どこよりも遠い。


けれど、私にとってそれは、もう既に一度邂逅を果たした場所で、その意味ではどこよりも近しい場所になっていたのだ、と――




完全に止まった列車。



静かな水面、伸び行く空。




遥か向こうで待ち受ける鐘楼都市から、小さな船団と思わしき影が寄って来るのを眺めつつ、私は静かに快哉を叫んだ。




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