新しい夜明け

 白み始めた空を大きな剣クレイモアが舞う。あるいは蝶のようにひらひらと、あるいは蜂のように素早く、あるいは獅子のように獰猛に、あるいは龍のように荘厳に。それが前後左右あらゆる方位から襲いかかる。

 弟子はそれらを必死の思いで受けた。もうどれだけの時間が経っただろう。いっそ剣を捨ててしまえば一瞬で決着がつくのに、しかし弟子にはそれができなかった。剣を交える直前、師匠が投げつけた言葉。

 ――この決闘は、名誉のために行われるのだ。

 弟子には、勝つことも、負けることも許されない。勝てば師匠を傷つけ、負ければ女弟子の名誉を損なう。決して、赦されることはない。師匠の憤怒はそこまで深かったのか。


 弟子は追い詰められていた。それは戦況だけでなく、精神にも言えた。いや、もしかすると心はとっくに折れていたのかも知れない。女弟子をこの手で貫いた瞬間、弟子の中にあったものはすべて崩れ去った。胸の穴どころか、すべてが虚無の中に落ちてしまった。


 師匠のクレイモアが唸りを上げ、またたく間に三連撃を繰り出す。弟子はこれをすべて受けたが、煽りを喰って下がろうとしたところ、足が縺れた。ずでんと尻から地面に落ちる。

 誰が見ても彼を殺す絶好の機会である。弟子はまったくの無防備を晒している。これを狙わぬ手はない。だが、師匠は追撃しなかった。ただ剣先を弟子の喉元に向け、冷ややかな視線を注いでいる。


「それがお前の手に入れた強さとやらか? 地面を這いつくばり、無様を晒すそれが技か? 一体どこの誰に学んだのか、ぜひとも師の名を聞きたいものだ」


 彼にとっての師匠はこの世にただ一人だ。弟子は何も言えなかった。


 本当に、無様だった。弟子はもちろん、決して手を抜いたりはしていない。勝つことも負けることもできない以上、全力を発揮するしかない。だから正真正銘、これが彼の実力だ。

 師匠が引退した後も旅を続けた。さらなる高みを目指して歩んでいたつもりだった。しかし、現実はどうだ? 目の前にいるのは耄碌もうろくしたと侮った相手だ。とうの昔に引退した人間だ。


「……どうして、師匠はそんなにも強い」


 弟子はもう立てなかった。腰を大地に落とした時点で勝負は決している。あとはただ、師匠がクレイモアを振るい、この首を斬り飛ばすのを待つだけである。

 しかしその前に、それだけは聞いておきたかった。


「僕は強くなりたかった。僕は武術の最果てを目指したかった。だから千里の道も苦ではなかった。しかし僕は――まだ、届かない」

 師匠が立つその高みに、未だ至ることができない。それは一体、どんな不条理によるものなのか? それを知れなければ、死んでも死に切れぬ。


 師匠の剣が、弟子の手中からレイピアを弾き飛ばした。これで、弟子は完全に抗う術を失った。師匠の剣が今度は首筋にかけられる。


「武術など、ただの道具だ」

 師匠の口から発せられたのは、そんな意外な言葉だった。これまでの人生をずっと武術に捧げてきた人間が、そのすべてを「道具」であると言い切った。

「武術は人を強くし、周囲の人間すらも守ってくれる盾にもなる。だが武術は人を驕り高ぶらせ、周囲の人間すらも傷つける刃にもなる。お前が手に入れたのは、どちらだ?」


 弟子は長く長く息を吐いた。考える必要などない。その問いに対する回答は自明だ。


 暖炉の火は人を暖める。その一方で、炎はすべてを呑み込み灰燼にもする。

 包丁は野菜を切り、肉を切る。その一方で、その刃は料理人の指を切り落としもする。

 薬は病を治し、人に活力を与える。その一方で、人を蝕み害する毒にもなる。

 文字は人に知識を与える。その一方で、虚言や中傷を容易に流布することもある。


「足りないと、お前は言っていたな。お前がそれほどまでに求めていたのは、一体何だったのだ?」


 そして遂に――剣ではなく、師匠のその言葉が、胸を刺した。


 師匠は強かった。これまで出会った誰よりも。だが……どうしてだろう? 胸の中はちっとも満たされていない。あれだけ強者を渇望していたはずのこの胸は、どうして空っぽのままなのか。

(僕はこれまで……何を追い求めていたのだろう? 僕はずっとずっと、道化を演じていたのじゃないか?)

 だとしたら、実に滑稽だ。何千何百里と旅をして、その実ただ同じ場所で足踏みをしていたとは。


「僕はただ、剣が好きだったのです。槍が好きだったのです。武術がただただ好きだった……ただ、それだけです! 人を傷つけたいだなどと願ったことは、一度たりとてありません! それなのに、ああ、こんな……ッ!」


 弟子は己の両手を見つめた。心から渇望し、手に入れようとしたもの。しかしそれはこの手中にない。あるのは、悪魔から下賜された凶刃だった。弟子は憑りつかれていた。「強さ」という名の悪魔に。今ようやく、それに気づいた。


 しかし、それならばなぜ。

「師匠は、武術をそこまで究めることができたのですか」

 魔道に導かれることなく、老いてもなお強い。その強さは一体どのようにして成されたのだろう。弟子に足りなかったのは、なんだ?


 しかし師匠は頭を振った。問題はそこにないと示すように。

「人が絵画を見て心動かされるように、音楽を聴いて心洗われるように。私たちは武術に魅せられたのだ。……愛してしまったのだ」

「……愛」

 弟子は呆然として繰り返した。それを見て師匠は頷いた。

「技を失うことがなんだ? 老いゆくことがなんだ? 私たちはただひたすらに、武術を楽しめばよいのだ」


 楽しむ。武術を楽しむ。

 嗚呼。弟子はまた深く深く嘆息した。


 なんと単純明快な答えだろう。どうして今まで気づかなかったのだろう。己が欲していたのは強さの頂点などではなく――武術を楽しむ心であったことに。

 女弟子は言った。「笑っている」と。「楽しんでいる」と。彼女は知っていた。武術の醍醐味を。己を満たしてくれるものを。弟子が無意識のうちに欲していたそれを。強さを求めるあまりに、遠く置き去りにしてしまっていたそれを。


 顔を上げる。瞼を閉じ、その首を白刃の前に晒した。知るべきことは知った。もう心残りはない。あとはただ、罪の清算をするだけだ。


「待って! ダメッ!」


 その時、割って入った声がある。弟子は驚いて目を開いた。玄関の扉を開け放ち、女弟子が立っていた。壁にすがるようにしながら、はだけられたシャツの下、傷口に巻かれた包帯を手で押さえている。


「やめて、師匠! 兄さんを殺さないで!」


 女弟子が駆け寄ろうと足を前に出す。だが数歩も行かぬうちにぐらりと体が揺れた。転げそうになったところを、さっと飛び出した師匠が支える。


「どうして起きて来た? まだ傷は塞がっていないのだ。安静にしなければ」

「だって、師匠と兄さんが斬り合う音が聞こえて……。師匠、兄さんを殺さないで。どうかお願いだから!」

 女弟子はすがりつくというよりも、むしろ組み付くといったほうが正しいぐらいに師匠の体を掴んでいた。もしもがえんぜないならば、絶対に放すものかと言わんばかりである。

 師匠はふっと息を漏らし、口元を緩めて笑みを見せた。

「殺したりなどするものか。お前の大事な兄ではないか」

 そうして、クレイモアを鞘に納めた。


 それを見た女弟子は安堵の息を吐くや、今度はよろよろと弟子の下へと歩み寄ろうとする。また大きくよろけたところを、膝立ちになった弟子の胸へ飛び込むように抱き着いた。その細腕がぐっと弟子の体を締める。


「ごめんなさい、兄さん。私が悪いの。兄さんにほんの一瞬でも勝ることができたなら、兄さんは遠くへ行かないでくれるのじゃないかと、そう思って無理をしたの。ほんの少し、びっくりさせようと思っただけだったの。それが、こんなことになるなんて……」

 女弟子はまだ本調子ではないのだろう。弱弱しい声は、耳元に囁くようだった。

「謝るのは僕のほうだ。僕は憑りつかれていたんだ。強くなりたいという欲望に憑りつかれ、敗北を受け入れられなかった。でも今なら認められる。僕の負けだ」


 しかし女弟子は体を離すと、唇を噛んで俯いた。

「私の勝ちなら、どうして私は怪我をしているの? やっぱり兄さんの勝ちよ。……だから、気にしないで。もう行ってしまうのでしょう?」

 間もなく出立の朝がやってくる。なるほど、女弟子は彼を心置きなく送り出すために、どうしても自らが敗者であると言いたいようだ。


 だが、それはもうどうでも良い。勝ち負けなどもはや関係なかった。


「いや、やめた」

 弟子が言うと、女弟子は首を傾げる。何を言われたのかよくわかっていないようだ。弟子は笑みを漏らして、そしてなんの前触れもなく片腕を女弟子の膝下に差し入れた。そのままひょいと女弟子を抱え上げる。きゃっ、と驚く女弟子。

「東へ行くのは、やめた。もっと大事なものを見つけてしまったから」


 丘の向こうから、斜陽に似た朝日が昇る。


(了)

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斜陽の人 古月 @Kogetsu

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