名誉のために

 暖炉の炎を眺めていた。


 椅子に座り、卓に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せる。その姿勢のままじっと燃えて灰になる薪を見つめている。

 その肌は青白く血が通っていないかのようであるし、炎を映す瞳には生気がない。何も知らぬ誰かがこの光景を見たなら、彼のことを精巧な人形と思うかもしれない。あるいは聡い人間であれば、わずかに呼吸をしながら、その身をカタカタと小刻みに震わせていることに気づくかもしれない。


 弟子には何もできなかった。できることはただ、こうして待つだけだ。


 そうしてどれだけの時間が経っただろう。気が付けば薪は燃え尽き、室内は暗闇に包まれていた。窓から差し込む月光だけが薄ぼんやりと物の輪郭を映し出している。


 ギィ、と寝室へ続く扉が開いた。弟子はそれまでの静止が嘘であったかのように、素早く椅子から立ち上がる。寝室から現れたのは、煌々とオレンジ色に輝く燭台ランプを手にした師匠だ。

 弟子が何か言うよりも先に、師匠はさっと手を掲げてそれを制した。


「安心しろ。辛うじて心臓には達しておらん。命に関わる傷ではない」

 最も知りたかったことを簡潔に告げられ、弟子はほっと安堵の息を吐く。体の緊張も瞬時に解かれ、傀儡のように硬かった体がすっと緩んだ。


「良かった……本当に、良かった……」

 弟子はよろよろとその場に膝を折る。涙が溢れていた。女弟子は長い時をともに過ごしてきた仲間であり、友であり、そして家族である。そんな彼女を、こともあろうに剣で突き刺した。


 事故であると言えば、確かにそうだ。だがこれまで彼らは一度たりとも、模造の武器で技を競ったことはない。常に真剣を手に競った。そうでなければ、一歩間違えれば命を失い、命を奪うギリギリの一線を見極めることができない。その緊張感を保つことなどできない。一つ一つを正確に、完璧に。それが守られていれば、あと一歩のところで踏みとどまることができる。


 それができなかったのは弟子の落ち度だ。女弟子があの左右連続の斬撃を放った時点で、彼の敗北は決していた。それなのに、その一線を認められずに無理をした。結果、超えてはいけない一線を越えてしまった。剣が、彼女を貫いた。


 そんな弟子を師匠は一瞥して通り過ぎ、燭台を卓上に置いた。そして火が消えた暖炉の横、その壁にかかっていた一振りの剣を手に取った。握りグリップを覆い隠すような大きな籠鍔バスケットヒルトに幅広の剣身――大きな剣クレイモアだ。


「――出ろ」

 未だすすり泣く弟子に、師匠は静かな声で言い放った。

「私の弟子を傷つけた相手を放ってはおけない。もう一度だけ言う。――出ろ。決闘だ」

 驚いた表情で顔を上げた弟子が、ぶるりと体を震わせる。怯えた目で師匠を見上げ、体は先ほどまでに増して震え、凍えるかのようにカチカチと奥歯同士がぶつかった。そんな状態で発した言葉はかろうじて聞き取れる程度のか細いものであった。

「ぼ、僕は、彼女を傷つけるつもりなんて……そんなつもり、は……」

「――今ここで始めたいかッ!」


 師匠の恫喝で梁が震え、パラパラと埃が落ちた。弟子は喉を詰まらせたようにヒクッと奇妙な音を発したきり、もはや何も言わなかった。ゆっくりと震える膝を抑えながら立ち上がり、出口へ向かう。


 まるで奈落へ落ちながら空中を歩いているかのようだ。足元の感覚がまったくと言ってよいほど無い。真っ直ぐに歩きたいのに体が勝手に左右に揺れる。視界が揺れて、まるで地面が激しく波打つ水面のようにさえ感じられた。

「剣を拾え」

 背後で師匠が扉を閉めた。弟子の腰には未だレイピアの鞘はあったが、剣はない。女弟子が倒れた血だまりの横に、彼女のファルシオンとともに打ち捨てられていた。その光景を見てまた胸が締め付けられる。倒れた彼女を抱きかかえた、あの時の絶望が蘇ってくる。張り裂けそうな心臓を掴むように胸を抱きながら、かろうじてその前まで歩き、腰を屈めて柄を握った。

 何年もの間ともに旅をし、この身とともにあり続けた一振り。体の一部と言えるほどに馴染んだそれは、しかし今はずっしりと重い鉄の塊としか思えない。


 ぽつり、剣身に水滴が落ちる。それは零れ落ちた涙だった。


「……僕が悪いのです。そんなこと、言われずとも理解しています。死ねと仰るなら直ちに頸斬って果てましょう。罪人として永久に牢獄へ押し込められたとて抗いはしません。しかし……しかし、どうして師匠とまで斬り合わなければならないのですか!」


 贖罪を求めるのであれば、いかなる罰でも受けよう。それだけのことをしたのだと彼は理解している。

 だがこの仕打ちはなんだ? 女弟子を傷つけたその剣で、今度は師匠とまで剣を交えるとは。叱責されるより、鞭打たれるよりも辛い仕打ちだ。殺すならばいっそ、ただ一刀の下にこの首を落としてくれさえすれば良いものを!


「名誉のためだ」

 師匠はクレイモアを腰に佩き、その柄に手をかけながら答えた。

「この決闘は、名誉のために行われるのだ。私の弟子を倒した者が、確かに比類なき腕を持つ達人であったと証明するための。……まさか、それを理解していないはずはあるまいな?」

 師匠はクレイモアを抜き、足を肩幅に、つま先は直角に、背筋を伸ばし、剣先を真っ直ぐに弟子へと向けた。そして弟子を中心にして円を描くように歩み始める。


「――!」

 弟子は息を呑み、構えた。師匠が構えたからには、もうこの決闘を辞めることはできない。しかも、師匠が取った構えはスペイン式剣術「至高の術ラ・ベルダデーラ・デストレッツァ」のもの。師匠の描く円は真円に似た螺旋形。徐々に間合いを詰め、そしていずれは弟子の間合いに踏み入るだろう。そうなれば、もう終わりだ。

 師匠はこの構えを、敵以外に対して用いたことはない。


 死ぬ。弟子の脳裏にはその言葉しかなかった。師匠は本気で、全身全霊で以て臨むつもりだ。もちろん、弟子自身の腕前も昔日の比ではない。師匠の背中を追い続け、追い抜くために技を磨いてきた。だが、その技をよりにもよって師匠その人に対して向ける日が来ようとは思いもしなかったことだ。


 師匠のつま先が間合いに入った。刹那、クレイモアが動く。剣身が月の光を受け、キラリと光った。弟子の腰を狙う!


 弟子はさっと後ろに退いた。ただ飛び退いたのではない。構えを変えたのだ。同じく「第一Prima」と呼ぶそれは、しかしながら先ほどまでとまったく異なる姿勢を取る。腰を大きく後方に退き、肘をやや引いて剣を上方に構えるのだ。見た目は引け腰になっているようだが、その実、相手に対して自身の体を小さく見せつつ急所を遠ざけている。

 師匠がいかに疾風の如き剣捌きを繰り出そうと、剣が届かなければ意味はない。師匠のクレイモアに比べ、弟子のレイピアのほうが長い。師匠が弟子を狙うには危険を冒してでもレイピアの間合いに深く入り込まなければならなかった。


 しかし、それを恐れる師匠ではない。胴に届かないと見るや、振り戻した剣を今度は弟子の手首へ振り下ろす。弟子の体で最も師匠に近いのは、レイピアを握ったその右手だ。そして手首を斬られれば武器を持つことはできない。故の籠鍔バスケットヒルト。しかし弟子のレイピアでは指を守ることはできても手首は覆いきれていない。弟子は剣先を下げつつ柄を持ち上げることで師匠の斬撃を受けた。

 クレイモアは止まらない。さらにレイピアの剣身を遡るようにして斬り上げる。キィン! クレイモアの刃とレイピアの鍔とがかち合い、金色の火花を散らした。


 師匠の足が後ろ向きに円を描こうと動く。クレイモアの剣光が大きく曲線を描き、今度は逆側の下から斜め上へと斬り上げる。だがそれによって胴体が大きく開く。弟子に対して守りのない正面を晒した。

 弟子はさっと一歩踏み込み、突きを放つ。本来ならば心臓を狙うべきだ。だが、相手は師匠だ。弟子は瞬時に狙いを肩へと変更した。

 が、その瞬間に師匠の目がギラリと光ったように見えた。かと思えば、ヒュンと風を切りクレイモアの剣先が弟子の眼前、喉元へと向けられる。弟子はその場で急停止、反動を借りて後ろへ跳んだ。


 弟子のレイピアは師匠のクレイモアよりも長い。では、二人が同時に剣を突き出したなら? 当然、弟子のレイピアが先に師匠を貫く。

 だが、先の一瞬は違った。もしも弟子がそのまま進んでいたなら、師匠の剣が彼の喉笛を貫いただろう。なぜなら弟子の突き出した剣の先に、師匠はすでに存在しなかったからだ。


 弟子はどっと冷や汗を流す。先刻、師匠を「斜陽の人」と見下したことを恥じた。師匠は決して衰えてなどいなかった。ただ、その実力を鞘の内に収めていただけなのだ。その実体を見抜けなかった己のなんと愚かなことか。


 師匠がまた弟子を中心に円を描きながら歩む。弟子の攻撃が届かなかったのはこの歩法のためだ。常に動き続け、相手の側面に回り込む。絶えず位置取りを変え、相手の攻撃の軌道から逃れ、そして自らの攻撃の軌道に相手を捉える。

 武術とは、力ではなく、精神論でもなく、科学である。彼我の距離、立つべき位置、扱う武器の特徴、それらを振るう時間の長短――すべてを合理的な理論の下に組み合わせ、最適解を導き出す。

 ――その体現が、今。弟子の目の前にあった。

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