レイピアとファルシオン
食事のあとにはデザートが三種類も用意されていた。いくらなんでも作りすぎだ。三人は各々腹がはち切れそうになるまで食べ、そうなると満腹感で眠気を覚えるのも早かった。
師匠はもう寝室へ戻っている。食卓を立つ際、女弟子が差し出した杖にすがって歩いていた。それを思い出し、弟子はまたも落胆と失望の息を漏らした。
彼にとって、師匠とははるか高みの人だった。いずれたどり着けぬ天上の人に等しかった。
しかし、それが今やどうだ。老いに負け、身体の衰えに屈し、精神までもが老いさらばえてしまった。
あれはもはや彼の知る偉大な武術家ではない。ただ一人の、人生の斜陽を迎えた男だ。
来なければよかった、とさえ思った。師匠のあのような姿を目にするぐらいなら、いっそ二度と会うまいと心に誓って東の果てへ旅立てばよかった。そうすれば、幻想の中の達人を追い求めていられただろうに。
胸を押さえる。――穴だ。ここに、大きな穴がある。
いつからだろう、この胸の穴に気づいたのは。長く旅を続ける間に、いつの間にか開いていた。何かが自分の中から失われてしまったかのような、ぽっかりと開いた大きな穴。何かが、足りない。何が? 弟子はその答えを知らない。知っているのはただ、誰かと武技を競うときのみ、この心の間隙が満たされた気分になれることだけ。
だから、必要なのだ。己よりも強い存在が。強者だけがこの穴を埋めてくれる。
パチリ、薪が爆ぜた。ふと弟子は背後の気配に気づいて首を巡らせ振り返った。
女弟子が立っていた。師匠に付き添って寝室に向かったが、なかなか戻らないと思っていたところだ。しかしその姿を見てたちまち理由を知る。
「どうした? また懐かしい格好で」
女弟子は男装していた。ベージュの上着を腰の位置でベルトで締め、その上からケープを羽織り、ズボンを履いた足は膝上までをロングブーツに突っ込んでいる。服を留めるベルトとは別に、腰にはもう一本皮のベルトが巻かれていた。剣帯だ。体の左側にやや反りのある一振りの
「練習相手になってもらいたいの」
女弟子ははにかみながら言った。もう三十代も後半の歳だろうが、その表情はまるで十代の乙女のようだった。だが言っている内容は乙女のそれではない。
「まだ続けていたのか」
弟子が問うと、女弟子はもちろんと返した。
「私が剣を捨てるなんて、できっこないわ。兄さんだってそう思うでしょう?」
「そうだな」
自分たちは似た者同士だ。弟子も己が剣を捨てる未来など想像できない。武術の探求に費やしてきた人生だ。今さら他の何かに捧げるなどできるはずもない。
「しかし、もうこんな時間だぞ」
窓の外を見れば、とっくに陽は落ちて夜が訪れている。ただ遮るもののない丘の上であるのが幸いし、月の光で闇はあらかた払われていた。
女弟子は歩み寄り、弟子の腕を取って引っ張った。まるで遊んでくれとせがむ子供のようだ。
「兄さんは明日には発ってしまうのでしょう? やれるとしたら今夜しかないもの」
確かにそうだ。弟子は椅子を立ち、壁際に置いていた荷物の中から自らの剣を拾い上げた。細く長い剣身、蔦が絡まったような装飾の鍔。剣先から柄頭までが足先から腋までと等しい、やや長めのレイピアだ。
二人は揃って外に出た。夜風が少し肌寒い。冬の訪れは近いようだ。
「どのようにやるね?」
「相手に負けを認めさせれば、勝ちよ」
パチリと片目を瞑り、女弟子は腰のファルシオンに手をかけた。すらりと引き抜いたその刀身には水面の波紋に似た模様が浮かんでいる。彼女のファルシオンは元々イスラムの地で手に入れたダマスカス鋼の
弟子はやれやれと言いたげに肩を持ち上げた。彼女の無理難題は昔からだ。相手に負けを認めさせる――これはつまり、自分が負けを認めない限り勝負は終わらないということだ。彼女は簡単には負けを認めないだろう。余程鮮やかに非の付け所なく追い詰めない限りは。
女弟子は右手に持ったファルシオンをだらりと腰の位置に下げ、左足を前にして構える。一見無防備に見えるが、これはれっきとした「
弟子もまたレイピアを抜き、高く掲げたまま右足を少しだけ前に出した。「
女弟子が硬貨を弾く。キィン、と鈴のような音を発しながら月明かりを受けて輝く。くるくると回転しながら上昇、そして落下。踏み固められた地肌の上に、またも鈴のような音とともに転がる。
女弟子が動く。ついと後ろにあった右足を前に踏み込み、ファルシオンの剣先を振り子の如く突き上げる。なるほど突進力に優れた一手だ。弟子は右足を横に進め、さらに腰を捩じってこの正面からの刺突を躱した。
今度は弟子の番だ。左足を寄せて距離を詰める。右足をまた小さく踏み込みながらレイピアの先を女弟子の首に向ける。
が、女弟子は即座にファルシオンを振ってこれを打ち払った。さらに左足を大きく地面に弧を描くように滑らせ、側面に回り込んだ弟子に対してまた正面を向ける。ばさりと女弟子の肩でケープがなびいた。
「安心したよ。そこまで衰えてはいないみたいだね」
「あら、失礼ね」
心外だ、と言いたげに女弟子は頬を膨らませ、ファルシオンを左下から右下へと振る。その瞬間、弟子は大きく一歩踏み込んだ。剣を振ったその瞬間、女弟子の胴体は守りのないがら空きの状態だった。これを狙わない手はない。
だが女弟子もそのような隙を易々と晒すような腕前ではない。直後にファルシオンを斜めに振り上げざま、重心を後方左足へと移動して右足を引き上げる。弟子の刺突を跳ね上げ、そこで手首をわずかに捻る。ファルシオンの刀身が上向き、また切っ先が弟子の胸を差す。女弟子が引き上げていた右足を降ろしながら、重心を再度前方向へ沈めるようにすれば、ファルシオンは弟子の心臓を狙って突き進むだろう。しかも、弟子のレイピアはそのファルシオンの刃によって上方に留め置かれている。
(へぇ、なかなかやるな。師匠の教えた通りだ)
弟子もこの技は知っている。師匠と女弟子と、三人で繰り返し練習した下へ潜りながらの突き。彼女はそれを忠実に再現した。――ならば、こちらもその返しを忠実に再現するまでだ。
弟子は右腕を肩ごと前に突き出した。普通ならば、ファルシオンの剣先から逃れようと身を仰け反らせるところだろう。だが、それでは逃げ切れない。だから前に進む。右側を前に押し込むことで、上体を捻って半身になる。これにより左は後ろに下がり、また左右の軸もずれる。ファルシオンの剣先は空を突いた。
次いで弟子はファルシオンの制御を解かれたレイピアの柄を腰の位置まで引き下げる。女弟子はすぐさま横薙ぎの斬撃を繰り出そうとしたが、弟子がレイピアの剣身をその軌道に挟み込んだために中断せざるを得なくなった。さもなくば自ら腕をレイピアに押し付けることになってしまう。
女弟子は深く沈んだ姿勢から飛び上がりざま後ろへ飛ぶ。仕切り直しだ。弟子は追わずにその場でまた構えを取り直した。
ふと、女弟子が微笑を漏らす。
「どうした? 何がおかしい?」
弟子が訝し気に問うと、女弟子はその微笑みのまま、
「兄さん、笑っているわ」
言われて、それでようやく弟子は気づいた。己の口元が知らぬ間に緩み、笑んでいたことに。
「楽しいのね。嬉しいわ。だって、私も楽しい」
女弟子は言い終わらぬうちに次の攻撃を仕掛けてきた。弟子はそれを受け流すが、心中では動揺していた。
(僕が、楽しんでいるだと? 彼女との剣闘を?)
昔からのわがままに、嫌々付き合ってやっただけなのに。どうしてそれを楽しめよう? だが事実彼の顔には笑みがあり、楽しいかと問われれば、もちろん楽しかった。なぜ?
(――満たされている)
埋まっているからだ。胸の穴が、埋められている。満たされている。久方ぶりの満ち足りた感覚――これだ。この感覚をずっと求めていた。至福の時だ。願わくば今この瞬間の時を止め、永遠に封じてしまいたいとさえ思えるほどの。
――ほんの、一瞬のつもりだった。己の内側に意識を向けるのに費やした時間は、ただ一度瞬きをする程度の時間であっただろう。だが、その瞬間、確かに弟子は目の前の攻防から意識を背けていた。それは勝負の中に在ってはならない油断であり、隙であった。
彼と同じ師に学んだ女弟子が、それを見逃すはずがない。
サッ、と右上から左下への斬撃を繰り出す女弟子。弟子はこれをわずかに後退してやり過ごした。女弟子は大きく踏み込んだ直後だ。次の攻撃へ入るにはまず左足を寄せなければならない。
だがここで女弟子は思いもよらぬ行動に出た。左足を、右足よりも前に出したのだ。すなわち、左足による踏み込みだ。弟子の間合いに女弟子が飛び込む。だが、剣は? その行き先を追って、驚愕した。
――ファルシオンが左手にある!
忘れていた。彼女は元々左利きなのだ!
ファルシオンが唸りを上げる。体を大きく開き、弟子の右腋下を狙って刃を
敗北。その単語が刹那のうちに脳裏に
(僕が負けるなんてッ!)
瞬間、弟子は大きく体を捻った。左体側を沈め、右側をファルシオンの軌道から逃す。だがこれは大きく体勢を崩すことにつながる。弟子はそれならばいっそと、ファルシオンの巻き起こした旋風に煽られるようにしてぐるりと体を回転させた。一度星空を見上げ、そして地面を見る。左足を踏ん張り、左手を地面に突いた。それから? 無意識に剣を腋下から差し込むように突き出す。ほとんど背面越しだ。ただひたすらに勝利を求めて打った奇手だ。
ブツリ。肉を貫く感触を得て、ようやく弟子は己の過ちを悟った。
「え……? ……あ……」
女弟子の口から言葉が漏れる。だが意味のある単語にはならなかった。
彼女の肋骨下部から侵入した剣身はそのまま斜め上――すなわち、心臓めがけて突き刺さっていた。
女弟子の瞳から光が消え、体が傾ぐ。呆然としていた弟子は動けなかった。そのままずるりとレイピアは女弟子の体から抜け、その傷口から鮮血が噴き出す。どうと受け身も取れぬままに女弟子の体は仰向けに大地に転がった。
「――そんな!」
弟子はレイピアを投げ捨て、女弟子の体を抱き上げた。傷口は早くも真っ赤に染まり始め、身動き一つする様子がない。瞼は閉じられ、どれだけ揺さぶっても開かれる気配がない。ただただ真っ赤な血潮が流れ出るだけだ。
「嘘だ……嘘だ! こんな、こんなことって!」
弟子は天を仰いで叫んだが、月も星も、何一つ耳を貸すものはなかった。
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