斜陽の人

古月

再会の晩餐

 丘の上に一軒だけ、ぽつりと建った家がある。


 彼がその家を訪れたのは秋の終わりのころだった。太陽が大きく傾き、空をオレンジ色に染め始めた中でようやくたどり着いた。遠目に見ても煙突から立ち上る煙から人が居ることは見て取れたし、玄関前の柵には一頭の栗毛の馬が繋がれていた。彼はそれを見て深く安堵の息を吐く。よかった、まだここにいてくれたか、と。もしもここに誰も住んでいなかったなら、まもなく訪れる夜闇の中、行く当てもなくさまようところであった。

 彼もまた自らの白馬をその隣に繋ぎ、馬具を下ろす。そうして振り返ったところでちょうど扉が開いた。


「おかえりなさい、兄さん」

「ただいま」


 扉を開けて立っていたのは中年に差し掛かった女。赤いチェック柄のワンピースに白いエプロン、頭は緑のバンダナで金髪をまとめていた。

 会うのは何年ぶりだろう。男は外套コートを脱ぐと、無言で差し出された女の腕にそれを預けた。


 小さい家だ。壁は石造り。床に敷物はない。入って左手には厨房があり、開かれた扉の奥からは良い香りが漂っている。ちらりと見えた調理台には山のような食材が積まれていた。イモやニンジンなどの根菜に、巨大な肉の塊、七面鳥もある。


「多すぎじゃないか?」

「師匠のお誕生日なのよ? それに、今年は兄さんも帰ってきたのだもの。お祝いするのにやり過ぎなんてないわ」

 それもそうか、と頷く。

「いいから、兄さんは座っていて。長旅で疲れているのだから」


 疲れたのは彼をここまで運んでくれた愛馬であって、彼自身ではない。しかしここは言われた通り座って待つことにした。

 寝室へ続く扉の前を過ぎ、玄関右手の居間へ向かう。暖炉では火が焚かれ、その前に円卓と三脚の椅子が並べられ、そのうちの一脚に禿頭白髭の老人が座っていた。

 その姿を認めるなり、彼は老人の前へ歩み出て膝を突いた。


「師匠、ただいま帰りました」


 椅子に腰かけていた老年の男性は口髭を摘み、ふむと言って微笑んだ。


「久しいな。何年ぶりか」

「八年です」

「そうか。座れ」

「はい」


 勧められるまま食卓を挟んで椅子に座る。すぐさま女がカップを一つ持ってきた。中身は暖かいミルクだ。彼女はいつも気が利いている。八年前からずっと、いや、それよりも前から変わっていない。


 三人に血の繋がりはない。初老の男性は武術の師匠であり、彼と女は兄妹弟子であった。つまり、師匠と弟子と女弟子だ。

 かつて三人はともに技を磨き、各地を旅し、あらゆる武術を研鑽した。しかし、それはもう十数年前のことだ。


 師匠は引退した後、この一軒家に住んでもう長い。以前から後退しつつあった黒髪はついに全軍撤退を完了したらしい。弟子が最後に会ったときはまだごま塩状態であったはずだが。今はもはや口元に残った髭だけが白い。

 女弟子もしばらくはどこぞへ放浪していたそうだ。話ではどこぞの領主に迎えられて剣術の指南などやっていたそうだが、結局は師匠のもとへ舞い戻った。


 今でも変わらず旅を続けているのは彼だけだ。


「今度はどこへ行ってきたね?」

 だしぬけに師匠が問う。その視線は暖炉の炎を見つめたままだ。

「北へ」

 弟子が答える。ほう、と返す師匠。

「どうだったね」


 弟子はかの地で出会った武術家と、彼らから学んだ技術、あるいは実際に剣を交えたときのことを語って聞かせた。師匠はただ淡々とその話に耳を傾け、弟子の語る一挙手一投足のたびに頷いた。そうして弟子が語り終えると、ただ一言だけ問いかける。

「良い経験だったか?」

 弟子はもちろんと頷いた。


「さあ、できたわよ」

 女弟子が料理を運んできた。テーブルに並べられるパンとクリームシチューとグラタンと、真ん中にでんと置かれたのは七面鳥の丸焼き。

 弟子には少々意外だった。彼が知る女弟子は、ここまで料理のバリエーションは広くなかったはずだ。


「さすがに何年も暮らしているのだもの。料理の腕も上がるわよ」

 女弟子は弟子の顔を見るなり頬を膨らませて呟いた。どうやら表情に出ていたようだ。思わず苦笑が漏れる。その目の前にグラスが置かれて、ようやく弟子は思い出したようにカバンから一本のブランデーを取り出した。申し訳ないことだが、近場で買ってきた安物だ。それを開けて三人で乾杯する。

「師匠、お誕生日おめでとうございます」

 三人揃って杯を干す。


「こうして三人で食卓を囲むのは、果たしていつ以来だろうな」

 スプーンでシチューを啜りながら、師匠が感慨深げに言葉を漏らした。

「星の光も届かぬ森で、あるいは隙間風の吹き込む安宿の食堂で、あるいは言葉の通じぬ異国の荒野で、あるいはワルプルギスの夜に沸く街角で、こうして三人で輪を囲んだものだ」

「ええ、覚えております」

 弟子はそう言って、ふと思い出したように苦笑を浮かべた。それを見た女弟子が首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや、ずっと昔、君と出会う前のことを思い出したのさ」


 最初は師匠と弟子と、男二人の旅だった。とある街で師匠が決闘の相手を無傷のまま下した場面に遭遇し、無理矢理に後に付いていったのが始まりだ。

 そのころの食事は酷かった。男二人とも料理などできない。しかしいつでも宿に泊まれるわけがなく、野宿する際には自前で食事を用意せねばならなかった。時には生焼けの肉を頬張り、塩辛いスープを啜り、それで手持ちの食材をすべてダメにした結果、木の実をそのまま齧ったこともある。


 ふふ、と女弟子が笑う。彼女も師匠と弟子のそのような過去については聞き知っている。旅に同行するようになってから、あまりにも酷い食事に辟易した覚えがあった。

「私のありがたみに、ようやく気付いたということね?」

「そうだよ。おかげで今となっては、どこへ行っても君の料理が恋しくてね」

 冗談交じりに言うと、女弟子はピクリと背筋を伸ばし瞠目したかと思うや、次いで俯いてしまった。はて、何か妙なことを言っただろうか。


「そ、それなら……しばらくここにいれば良いわ。ねえ、今度はいつまでいられるの?」

「今日は師匠のお祝いのためだけに寄ったんだ。明日には発つよ」

 するとまた女弟子は一転、顔を上げて眉尻を下げた。

「そんな、あんまりだわ」

 身を乗り出そうとする女弟子を、師匠が肩に手を置いて制した。女弟子は乞うように師匠を見たが、すぐに諦めた様子で椅子に座り直す。


 師匠はまたブランデーを一口含んで、聞いた。

「今度はどこへ向かう? 西か、南か」

オアシスの道シルクロードの先、東の果てを目指します」

 ほう、と師匠が感嘆の息を漏らし、今度こそ女弟子は堪えきれずに椅子を立った。

「嘘よ! いったいどれだけの道のりだと思っているの? 行って帰ってくるだけで、何年かかるかわかりもしない!」

「僕たちはかつて、イェルサレムだって訪れたじゃないか。東の果てだって、なんてことはないさ」

 でも、と言い差して、女弟子は口を噤んだ。確かに三人はともにイスラムの地を目指したことがある。長い長い旅路だった。それでも彼らは踏破した。どれだけ長い道のりでも、歩み続ければたどり着けると証明したのは他ならぬ自分たちであった。


 力が抜けたように椅子に腰を落とし、女弟子はため息とともに頭を振った。

「今度はいつ会えるかもわからないのね。わざわざ東の果てなんて目指さなくても」

 しかし弟子もこれには頭を振って答えた。

「僕はこの数年間、あらゆる地を旅してまわった。そしてその地で最も強い武術家と手合わせをした。でも、ダメだ。今の時代はみんな新しい武器に夢中で、武術に興味なんか持っちゃいない。ましてや強い奴なんてどこにもいなかった」

「当然よ。兄さんの強さは私たちも知っているわ。これ以上を求めてどうするの? 東の果てに兄さんより強い武術家がいる保証もないわ」

 それは弟子も理解している。だが実際に行ってみなければ、そのような相手がいるのかいないのか、それすらもわからないままだ。彼にはどうしても、自分よりも強い相手が必要だった。

「僕は師匠から、あらゆる武術を教わった。およそこの世のすべての武術と言っても過言じゃない。武術書フェシトビュッフにしたためたなら、それこそ分厚いものが出来上がるだろう。でも、その技は使わなければ錆びてしまう。使う機会に恵まれなかった技は、きっと僕の中から零れ落ちて行ってしまう。僕は――弱くなってしまう」


「だから、強い者に会いたいと?」

 それまで黙っていた師匠が、ここでようやく口を開いた。切り分けた七面鳥の肉を頬張り、咀嚼してからブランデーで流し込む。

「私を見てみろ。これだけ老いぼれてしまえば、武術もなにもあったものじゃない。人はいずれ老いて弱くなる。強さの高みを目指して何になるね? いずれ抗えぬ節理によってその高みから転がり落ちると知りながら、どうして自ら断崖の上を目指すのか」


 弟子は驚いていた。師匠をまじまじと見つめ、次いで視線を手元の皿に落とし、心中で息を吐いた。落胆の息だ。

(どうしたことだ。かつて誰にも負けず、天性の才覚でありとあらゆる武術を究め、常に威風堂々としていた師匠が、なんと弱気なことを言うのだろう。人の老いとは、その精神さえも蝕むのか)

 ぽっかりと心に穴が開いたような気分だった。これまで尊敬し仰ぎ見ていた相手が、急に自分と同等、いや、それ以下に堕ちてしまったように感じられて。


 弟子は頭を振って答えた。

「それでもまだ、足りないのです」

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