第2話 味坂葵の日常

(葵は母と20階建ての高層マンションの20階で二人ぐらし、母は朝早く出かけ、帰りが非常に遅い、三歳上の兄はお母さんの弟の夫婦とともに養子としてグアムに暮らす)

 朝六時。美しいトランペットの音色が、耳元に流れる。面倒くさそうに、葵は、自身の目覚まし時計代わりのガラケーに手を伸ばした。しかし、暖かい毛布は、彼女を捕まえて離そうとしない。

 「あおいーーー。さっさと、起きなさいよーーー」

 忙しそうに、ドタバタと歩き回る母の足音が聞こえる。やっとの思いで、葵はベットから解放され、横に並ぶピアノの前に腰掛ける。小学1年生から使っている、古ぼけたハノン集を取り出した。軽く指慣らしをした後に、大きく息をすい、弾き始める。奏でられる旋律は、優しくそして力強く、マンションの一室に流れた。

 「あれーー、ないなー、お母さん間違って持ってんたんちゃうの?」

 先日の夜、勉強が終わったあとに作った、弁当の材料を探す。ご飯と大きなノリ、カニカマ、キャベツ、唐揚げなど、タッパーに小分けされた食材が、テーブルに並ぶ。葵の母は、彼女が物心つくときから、朝早く出かけ、夜遅く帰ってくるという生活をしていた。なぜ、母親だけなのか。そんな疑問は、そもそも葵にはなかった。保育園から私立の教育機関に入れられ、生活してきたが、何も不自由に感じたことはない。むしろ、他の富裕層の子供達と互角以上だった。そんな日々を過ごす中で、初めて父親という存在がいないということを切に感じたのは、中学校になってから。入学して間もない頃に行われた、比叡山延暦寺での校外宿泊学習だった。そこで、先生の提案により、普段伝えられない家族への思いを綴った手紙をみんなで書くことになる。周りの友達は、みんな二枚以上手紙を書いた。でも、自分だけは、母への日頃の感謝を書いた一枚だけ。それまでは、全く実感がなかったが、なにか物足りない気持ちでいっぱいだった。

 空っぽのタッパーを取り出し、ラップを敷く。ノリを広げて、ご飯をその上に乗せる。あとは、食材を適当に乗せて、巻いて入れるだけ。これが、葵の毎日の朝食であり、昼ごはんの弁当である特製巻き寿司だった。作るのは、簡単で単純だが、食材には高級なものが使われている。勿論、それを知るのは、味坂家の二人だけだったが。恵方巻きのように大きく口を開けて、一本を食べきる。口に入れようとする手と、寿司を噛んで飲み込む口、消化する胃が、猛スピードで動いていた。最後の唐揚げを、喉から食道を落とし込む。食べている間にも、欠かさないのがお茶を使ったうがい。お茶の名産地宇治で茶農園を営む祖母の友人が、長年続けてきた虫歯予防法だ。食べ終わると、すぐに歯を磨く。歯磨きをしながら、パソコンで日本史の高校講座をオンデマンドで聞く。学校の用意と、弁当の確認をする。時計を確認し、慌てて着替えを始める。それでも、制服に着替えてから体重計に乗る。それを記録すると、すぐに家を飛び出す。気持ちのいい朝の風を玄関の前で思いっきり吸う。眼下を見ると水色のボディと黄色のラインが入った列車が、道路を走ってくるのが見える。慌ててエレベーターまで走る。向かい側からいつものビジネスマンが歩いてくる。挨拶をする。エレベーターに乗り込む。次々に点灯する数字を見ると焦りが増す。二階につくと真っ先に駆け出す。駅への連絡通路を軽く走る。青色の駅名標の下でICカードを取り出す。改札を通る。階段を降りてすぐの場所に並ぶ。しばらくすると、坂本方面の電車がやってくる。それと同時に、反対側のホームに浜大津止まりの京津線の電車が到着する。線路に落とされないように壁にもたれかかる。大きな音を立てて坂本方面の電車が走り出す。そして、すぐに信号待ちで停車した。その電車が走り去り、完全に建物に隠れ見えなくなる。一番線に京津線経由で京都市営地下鉄東西線に直通する太秦天神川行きの到着を告げる案内放送が流れる。マイクと旗を持った駅員が人の波を掛け分けながら、葵の隣に立つ。先程、マンションの廊下から見ていた電車が自分の目の前に停車する。足早に乗り込み運転席の後ろを陣取った。

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