親指に、光る粉。

奔埜しおり

そのいつか、はいつになる?

たけるー」

 部屋のドアが開く音。勉強中に突然の来客だ。驚いて振り向くと、ドアからひょっこりと顔を出している夏鈴かりん

ふわふわの腰まで伸びた栗毛色の髪。綿菓子を思わせる真っ白で柔らかそうな肌。夏の日の太陽のように輝く大きな薄茶色の瞳。スラリとした体型をしているが身長はとても小さく、小動物を思わせる。

 一言で言えば、とてもとても可愛い。

 そんな幼なじみが、なぜか俺の家に勝手に入ってきていて、当たり前のように俺の部屋のドアを開いて俺を見ている。

 俺は小さくため息を吐く。

「合鍵使ったの?」

「え? ああ、うん!」

 彼女はスカートのポケットに手を突っ込むと、そこから可愛らしいテディベアのマスコットが付いた鍵を出す。そしてそれを、ニッコリと微笑みを浮かべて俺に見せる。

「そのテディベア……」

「クリスマスに猛から貰ったやつ!可愛いからつけちゃった」

 夏鈴はそれをポケットに仕舞いながら、えへへーと笑う。チラリと見える八重歯。その無邪気な笑顔にドキリと胸が鳴る。それを眼鏡を調節する振りをしながら誤魔化す。

 夏鈴と俺の母親同士が中学からの同級生だとかで仲が良く、俺達は物心つく前からずっとそばにいた。


 困ったときは夏鈴ちゃんのお母さんを頼りなさい。


 俺達が中学生になってから、俺の母さんはパートを始めた。父さんも仕事をしているので、両親が共働きになった。そういうわけで俺は夏鈴の家の合鍵を持っており、どうせならなにかあったときのために、と夏鈴も俺の家の合鍵を持っている。

 思春期真っ只中の男女にそんな物を与えていいのかと思ったが、基本的に夏鈴の母親は家にいるし、俺がそういう輩じゃないという信頼をしてくれているからこそなのだと思えば、納得できた。

 そう、納得はできている。だけどだからといって、こんな風に自由に出入りされてはたまったもんじゃない。しかも今は高校生だ。あらぬ誤解を招く可能性がある。……が、悲しいかな。周りからも腐れ縁として認知されている俺達の間に、そんな浮いた噂がたったことはただの一度もない。だから最近はもう、この現状を受け入れつつある。

「そりゃどうも。で、今日はどうしたの? 彼氏と初詣行くんじゃなかったっけ?」

 俺が今いる椅子。そこからすぐ近くにある丸い折りたたみ机。その前にちょこんと座る彼女。いつもの定位置だ。

「それがね……」

 栗毛色のふわふわの髪の毛をいじる。これは、なにかを堪えてるときの夏鈴の癖だ。こうなると、次に言葉が出てくるのは感情の丘を一つ超えてからになるので、だいぶ待つ必要がある。その丘を超える前にすべてを聞かせてくれたらな、と何度も思うし、実際に一度言ったことがあった。そのとき彼女は謝り、焦って、結局なんでもないと笑って立ち去った。ごめんねと笑う表情があまりにも寂しそうで、それ以来俺は彼女を待つことにしたのだ。俺は立ち上がると椅子を仕舞い、夏鈴の向かいに座る。そして彼女から視線をそらして、ただじっと待つ。

「彼氏と、別れちゃったの」

 数分間の沈黙を、彼女の小さな声がそっと破る。理由を問おうとして顔を上げるが、彼女がまだ髪をいじって俯いているので、黙る。

「笑顔ばっかりで、飽きたんだって」

 またか。

 心の中で呟く。感じるのは、苛立ちと優越感。


 それは、今から十年以上前のことだ。

 今と変わらず可愛い彼女は、男子からよくいじめられていた。

 いわゆる、気になる子をいじめたくなる奴らだ。よく泣いていた彼女に、俺は言った。ずるい、と。

 俺と一緒にいるといつでも笑顔な夏鈴。だけど、他の人たちには、泣き顔も笑顔も見せてると思うと、ムカムカした何かが俺の小さな胸を我が物顔で占領して、気がつけばぽろりとそんなことを言っていたのだ。


 ずるい。俺じゃない人に、笑顔以外は見せないで。


 単純で純粋な嫉妬心から出た言葉。それが彼女を未だに縛っているようで。それ以来夏鈴は誰かに泣き顔を見せることはなくなった。俺の前でなら泣くか、というとそういうわけでもなく。俺の前でも夏鈴は今まで通り笑顔を崩さない。

「夏鈴」

 俯いていた顔がそっと上がる。淡い微笑みが、その奥にあるであろう悲しみを思うととても痛々しく見える。

「夏鈴の笑顔、俺は好きだよ」

 大きな薄茶色の瞳がこぼれるんじゃないかと思うほど見開かれ、そしてニッコリとアーチを描く。

「なに?突然どうしたの、猛」

「どうもしてない。ただ、夏鈴の笑顔以外も……泣き顔も、怒った顔も、最近見てないなって思ったから」

 俺のせいなんだろうけども。

「だって……猛といると笑顔になっちゃうんだもん」

 困ったように笑う夏鈴。

「どういうことだよ」

「えー? そのままの意味だよ?」

「じゃあ、そんな風に笑うなよ」

 キョトン。そんな文字が見えるような表情で、夏鈴が首を傾げる。

「そんな風って?」

 どうやら無自覚。薄々気づいてはいたけども。

「泣きそうなのに笑ってるだろ?」

「……だって、笑わないと、嫌われるんじゃないかなぁって」

 小さく笑う夏鈴。

「だからその笑顔やめろよ」

 その笑顔に、過去の自分を殴りたくなってしまう自分がいるから。

「猛、飽きちゃったの?」

「え?」

「私の笑顔、飽きちゃった?」

 夏鈴の言葉に、今度は俺が目を丸くする。

「そんなはず――」

「誤魔化さないで」

 静かで、でも強い口調だった。そんな声を聞いたことがなくて、俺は口を閉じる。

「猛は優しいから、いつでも私の欲しい言葉をくれる。だから、いっつも同じ理由で振られる度に猛のところまで来ちゃうの」

 嫌な予感に、胸が苦しくなる。

「でもね、それじゃダメだって思った。だからね、正直に言ってほしいの」

 真っ直ぐな瞳が胸に刺さる。これが十年前のあの言葉の報いなのだ、と言われている気がする。

 目の前にあるのは、大好きな人の笑顔。

「私の笑顔、飽きちゃったよね?」

「ふざけるな」

 誘導するような言葉を使う夏鈴も、十年前の俺も。

「俺が優しい? 十年も前に、俺じゃない人の前で笑顔以外は見せるなって言った俺が?」

「だ、だってそれ、あまりにも私の泣き顔が酷かったからだよね」

 あまりにもあんまりな言葉に、苛立ちは募る。

「俺には見せない表情を他の奴に見せるのが嫌だったんだよ」

「じゃあ私の泣き顔見たかったの?」

「俺には笑顔しか見せないだろ?」

「猛は私が泣くようなこと、言わないんだもん。泣くはずないよ?」

「泣きそうなの、堪えてるのに?」

「これは……」

 目を左右にコロコロ動かしてから、誤魔化すように笑う夏鈴。

「あのね、猛!」

 そして、突然大声で名前を呼ばれる。あまりにも雑な逃げ方に、小さくため息を吐く。

「なに?」

「初詣、一緒に行こう!」

「……は?」

 予想外の言葉に、間の抜けた声でしか反応ができない。

「よーし、善は急げ! はやくはやく!」

 どうやら決定事項らしい。

 逃げられた。そう感じた。

 逃げられたのならしょうがない。

「わかった、支度するから待ってて」

「うん! じゃあ下で――」

「待って」

 だけどそのまま逃がすのもなんだか悔しい。だから、立ち止まって振り向いた彼女の目の下を、そっと親指で拭った。

「え?」

「俺は、夏鈴に笑っててほしいし、夏鈴の笑顔に飽きる予定も、まあ、今のところはない」

 飽きることなんて、永遠にないと思うけど、その笑顔が寂しい、なんて思うのははやくやめたい。

「俺は……夏鈴のどんな表情でも好きだよ」

 思わず俯いてしまう。

「猛……」

「じゃあ、今度こそ支度するから。外で待ってて」

「う、うん」

 夏鈴が部屋を出る。そっとドアを閉じて、俺はそれを伝ってその場に崩れ落ちる。

「……ほんと、意気地無し」

 表情だけじゃないだろ。全部だろ。

 自分に突っ込みながら、そっと右手の親指を見る。少しだけついたキラキラ光る粉。夏鈴も、いつの間にか化粧なんてしていたのだな、と気がつく。もう自分たちはそんな歳なのか、と。

 いつかちゃんと、涙を拭うことが出来たら言うことが出来るだろうか。

 夏鈴が好きだ、と。

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親指に、光る粉。 奔埜しおり @bookmarkhonno

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