ホワイトタッチ

鱗青

ホワイトタッチ




 §この物語はフィクションです。実在する人物・場所・団体・固有名詞に関連するソースは一切ありません。また、記述される競技ルールは時を重ねた未来でのものを想定しておりますので、現代のものと混同されませんようお願い申し上げます。





 ホワイトタッチ   The White touch

 『スクラムにおける特殊プレイの一つ。ロックのポジションの選手による。第35回ラグビーワールドカップ決勝戦にてその真価を発揮されて以後、呼び名が定着した。命名は同試合で活躍した選手の毛並みの色に由来する。』




…俺は昏い隧道の中を歩いている。針葉樹の木立は不気味な闇に枝葉を溶かし込み、嘲笑あざわらうかのような表情で背中を丸めて歩いている俺を囲んでいる。独り歩く俺の、ざくっざくっという足音だけの夜道。

____ここにいていいのかい。

…誰?耳を立てる。誰も、居ない。

____押し寄せてくるよ。呪いが。罪の報いが。お前をひと呑みにしてしまうよ。

…男とも女ともつかず、大きな声で囁くような不気味なこだま。俺は怖くなって足を早めた。

____逃げても無駄だよ。どこまでも、どこまでもお前を追ってゆくよ。追い詰めていくよ。

____お前は咎人だからね。のうのうと生き延びて安穏な生活を送るなど許さない。満ち足りた人生、幸福な未来など許されない。

____逆らうことができるかい?逆らう権利など無いのに?

____ほら、ほら、早くお逃げ。逃げてごらんよ。逃げおおせてごらん!!

…いつしか俺は泣きながら走っている。身体が前方へかしぐ程のスピードだ。しかし気配はどんどん近づいてくる、止まらずに。

…俺はつまづく。痛恨のミスだ。早く立ち上がらないといけない、しかし足首を挫いた、素早く動けない。

…何者かが足首を掴み、背後の暗闇へと引っ張られる。助けて。助けて、誰か!

…白銀の光が差した。違う。光の形をした何者かが、腕をこちらに伸ばしている。俺を手繰り寄せようと、くねる指先。

____助けたる!

…俺もそちらに手を伸ばした。

____もうちっとや、坊主。助けたるし、辛抱せぇ!

…声もする。この声はどこかで聞いた気が………



『___以上でウチらの活動の紹介は終わります。新入生の皆さん、ぜひウチらと一緒にセッションしてみて、バンドの楽しさを知ってください!』

 がくん!と衝撃が全身を揺らした。俺、富岡裕人とみおかひろと・虎人16歳…は、「ふぉわっ!?」と間の抜けた声を出し、顎の先から涎を啜り上げながら顔を上げた。

 こんがり焼けたトースト色の毛並みに覆われた額を小突いて意識に積もる埃を落とす。嫌な夢の割には間の抜けた目覚め方をしたものだ。

 あれは俺の心の闇を映した夢…の、一部。

 なんて言えばカッコがつく。だが、そんな自己美化に務めるほど俺はナルシストでも楽天家でもない。

 いつもバスケ部やバレー部、バドミントン部が練習に使うという陽光降り注ぐ明るい体育館が、今は薄暗い。照明が落とされているだけでなく、窓の全てにカーテンが引かれているせいだ。

 県内のなんとかプロジェクトの一環で、この県出身の高名な建築家が設計したという校舎。その中でもこの体育館兼講堂は、貝殻を重ねたような形と採光の良さで県の内外から見学者が引きも切らない在学生の自慢の建物である。

 その、県立・伊瑠奈いるな実業高校の体育館のステージに向かい、びっちり隙間を探す方が難しい状態にパイプ椅子が置かれ、全校生徒が大人しく腰掛けていた。

 俺の椅子の両隣にも前後にもブレザーの制服を着た同年代の生徒。しかも女子だ。この学校は実業高校に名前が変わる前、そもそもは商業高校で、もとから女子が圧倒的に多い。それはそれで嬉しくなるような環境………の筈だが、実際のところは元気な女子の尻に敷かれた男子が肩身の狭い思いをしているに過ぎない。ウハウハハーレムどころか、ガッカリアマゾネスといったところなのだ。

 この伊瑠奈実業高校、略してイルコーは、6年度前から共学校として商用英語や簿記やプログラミングを学ぼうとする男子学生にも広く門戸を開いた。

 なのに、周囲の会話もまるで女子校のような雰囲気。つまり、俺の周りの皆は舞台の方で盛んにアピールされるレセプションの内容よりも、「ね、ね、サッカー部の紹介やっとったあのキャプテンしゅっとしてへんかった?彼女持ちかな?」「そやない?なんかモテそうやし。それよりうち足首痛ーわあ」「いまのうちリップ塗っとこ」「あー、帰りにマクド寄ろう?今週から新作が出るってさ」「あんた食べてばっかしやーん!せやから胸が育つねんな」…なんていうひそひそ話に夢中、ということだ。うう、ケツが痒くなる。

 俺は欠伸あくびを殺しながら首を回した。凝り固まった頚椎周りがバキバキと鳴る。

 今日は入学式から一週間経っての、部活紹介のオリエンテーリング。お陰様で土曜日の半ドンで9時から延々一時間半もレセプションを聞かされている。ご大層な行事だ。

 これから3ヶ月は、どの部活に何回見学に行っても構わないし、仮入部してから移動したり辞めたりしても文句は言われない。帰宅部になるにしろ、それをはっきり決めるためにまず各人が興味のある分野を覗いてみるように!との校長先生のお達しがあった。

 俺がこの学校を選んで受験したのは、ひとえに早く自立したいからだ。家計に負担をかける庇護者の生活から抜け出したい。だから部活には何ら期待も興味も、無い。

 伸びをするとあちこちから「ちょおっ、前が見えへんでしょ!」「いらいいっとする、縮めばええのに」「肘が当たる!」とたちまち文句の3コンボが放たれる。

 へいへい、と再び首をすくめて丸くなる。仕方ないだろう。俺は入学したての一年坊主だが、身長は172㎝で肩幅が広く、痩せていても女子ばかりの校内では目立つ巨漢、まだ伸び盛りなのだし。

 えーと、今やってるのが軽音部か。いや終わったばかりか。大体ブラバンとロック研と尺八同好会とクラシックもあって、ややこしいんだよこの学校。文化部が多いのも女子が多いからなんだろうな、多分。男子サッカー部以外で男子が見かけられたのは柔道・剣道ぐらいか。なけなしの男子学生はどこでも引っ張りだこなんだろうな、きっと。

 ここは大人しく文芸部かコンピューター研究部にでも入っとこう。体育会系に入部して下手に目立ってもしょうもないし…

 ガツン!照明が落ちる。チューニングするギィゥイイイン!という音。おや、次の部もまたライブ系なのかな。暗転しても俺の虎人の瞳は瞬時に適応し闇を見透かす。

 舞台の袖の方から6・7名の人影がまろび出て来た。やけにわたわた動いている。それになんだかやけに…横幅が太い。

 カンッ!と円いスポットライトが現れる。

 カンッ!カンッ!カンッ!!

 続けざまに打ち込まれるスポットの白円。計四つのまばゆい光の輪。

 どおっと講堂がざわめき、それはすぐに大爆笑に変わった。よく見れば、緞帳の後ろで軽音部が演奏の出だしを鳴らしている。昨年の秋にブレークしたアイドルグループ、さくらペンタグラム略してさくペンの新曲だ。

 曲がはじけて聞こえなくなるぐらいの拍手が鳴り響く。

 俺は自分の両眼に入ってくるものが信じられず、前に乗り出した。

 ヒラヒラで、フワフワの、キラキラなステージ衣装を身につけた8人組。

 腕も脚もごん太い男達だった。

 ほいん!とマイクが鳴る。握っているのは、茶と黒の毛皮の色合いが腕の筋肉の盛り上がりにぴったり沿った口の大きな犬人。

「皆!今日はラグビー部主催の『ビックリエクスペンダブルズ!ガチムチだらけの大漢謝祭・いっけぇ〜花園☆』に来てくれて、ありがとぅ〜!俺は主将のこけら勇大ゆうだいでーす!」バーニーズマウンテン系の主将の甲高い裏声。語尾のエクスクラメーションはどちらかというと「!」でなく「♡」の発音だった。

「副主将、真間等ままら清高せいこうです」と腰まで頭を下げたのはゴリラ人。よく叩頭できるなというほど、胸板が厚い。

十軒じゅっけん八郎はちろうでっす」と尻尾をひらめかすブチ猫人。こちらは身体が小さく尾が太く長くバランスを保っているのが奇跡的だ。

宇田川うだがわ登夢とむです!トミーって呼んでくれても構へんですよ!」小学生みたいに澄んだ声をした、俺と同じ虎人。しかし隣の猫人と変わらない背丈なので二人でいると虎猫のようにも見える。

「萩谷慧悟です」と真面目な顔つきで言い放つ鮫人。そこで「おいおいおい」と他七人の鮮やかなツッコミが決まる。「すんません、ほんまの名前は木嶋きじま卓也たくやです」

 間髪入れず続けるのは柴犬人。一番背が高く、アイドルコスプレが似合うと言えばそこはかとなく似合ってもいる。「こんなんしょむないですよねえ、俺は宮島みやじまさとるです!んでこっちが」それから隣の河馬人を肘でつつく。

「その幼馴染の村田むらた淳吾じゅんごです…こんなあたしですが、ヨロシクオネガイシマス…」河馬人は今にも消え入りそうな声で名前を述べた。だがその体格たるや奈良の仁王さんのごとく筋骨隆々、背を縮めて内股にクネクネしているのに一番男らしい外見だった。

 最後トリに残ったのは…これもシャレのうちなのか?…羽毛の黒い、恐らく鴉系の鳥人。潰れ饅頭の形の頭。目が見開いたように大きくわらを束ねたように太い眉で、鼻筋がちょこんとした童顔で、顔も体型も丸くて、熊本で有名な某キャラクターを連想させた。

 くまモ…いや、鴉人はぴらぴらしたステージ衣装の仲間達に目配せをする。羽毛同様、黒瑪瑙のごとく滑らかに光る嘴が上下に大きく開き。

 ひと声発するや、新入生の全員が全員とも、耳を塞いだ。

「んで、ボクはラグビー部顧問の隆正たかまさ鍾馗しょうきです。関東モンですがヨロシクー!」

 と明るく自己紹介を叫ぶ鴉人のその声は、怪物の咆哮かはたまたジャイアンの歌声かという、それはそれは見事な悪声だったのだ。

「ラグビー言ったらメンツが十五人、あれ足りないぞ?ってなもんですが、どっこいボク達は七人制のラグビーやってます。ま、人数が揃うまでなんですけどね!今年の春に三人卒業してしまって、部員が今七人になってますので急遽!運命の八名またはそれ以上を募集してまーす!!この中から未来のオリンピック日本代表が輩出されるかもしれません。そーゆーわけなので、きたれ新入生男子よ!身体と心をぶつけ合う、勇者の競技へ!!」

 まるで象のウンコをテキーラでカクテルしたような声で、そいつは続ける。在校生は慣れているのか動揺だにしない。

「では早速、ラグビー部毎年恒例の新曲コンサート行きましょか!」

 照明を浴びても黒く、そしてボールのように弾む顧問の一声で一列に並び、ラグビー部の男達は一番の歌詞のサビから完璧な振り付けで歌い始めた。

 俺の尻が椅子からずるずると落ちていく。

 なんなんだ、こいつらは。どこにこんな金をかける予算があるのか。いや、そうじゃなくて、これで勧誘してるのか?悪ふざけにも度が過ぎてやしないか?

 またもやどおっと拍手が湧く。上の学年の先輩達には恒例なんだろう、「きゃー!ショウキっちー!こっち向いてー!」と写メる女生徒、「淳ちゃんカワイーよー!」と河馬人に声援を送る女生徒、「悟くんカコカワ!」と手を振る女生徒、あとは「アホや、アホの殿堂入りやで」などとゲラゲラ笑うばかりの男子の先輩。

 そして呆然とする新入生と、ノリに合わせて楽しく手拍子する新入生。

 と。いきなり鴉人が袖に走って行き、スタンドライトにしがみつくと機関銃の掃討射撃のように縦横無尽に客席側を照らし始めた。さらに飛び散る黄色い歓声。

 そして、あろうことか俺のところでビームの方向を定めて停止。俺はサーチライトを浴びたルパンさながら眉をしかめて顔をガードする。

「そこのキミ!キミだよ、えーと、虎人君!」

 えっと言う間に体育館に居る全員が俺を見た。トロ箱にみっしり詰められたイクラのように大量の目玉がこっちを向いたので、背中の毛並みがゾゾゾとよだつ。

「ボク達とスクラムを組んで花園を目指そうよ!!」

 俺はずり落ちた体勢をなんとか支え、座り直して頭を抱えた。

 失敗した。最悪の展開。完全に選ぶ高校を間違ってしまった。


 玄関の鍵が開いている。俺はスポーツバッグを上がり口に下ろして靴を脱ぐ。

 まだギリギリ午前中だ。ということは、今帰っているのは…

 しゃらん。飴色の玉簾たますだれを指で掻き分け、虎人の細面がのぞいた。

「お帰り裕人。あれ、今日早いやん。なんかあったっけ?」

 この家の長女、富岡みゆき。誰何すいかだけ済ませ、すっと顔を引っ込める。以前一度、不心得者が出入りの酒屋のふりをして上がり込んできて以来、繊細なところの少ない姉が玄関が開く音には敏感になってしまった。

「みゆきねえにはちゃんと一昨日伝えたやん。半ドンなんは部のレセプションやってん。…カレー作っとるんか。手伝う」

 じゃあ芋の皮剥いといてと、ザルに山盛りの里芋を渡される。うちではカレーにジャガイモではなく里芋というのがスタンダードだ。

「そかー、部活動かー。姉ちゃんそんなん遠い昔に卒業してもうたからなぁ、なんや青春って感じしてキュンなるなぁ」

「そやなぁもうババァやねんもんなぁ」

「コラ、24そこそこピッチピチの姉に向かって言い過ぎや口の悪い。そんなん言い垂れるんはこの尻尾か」

 虎人の尾を毛が抜けるほどの勢いで引っ張られ、俺は「んぎゃっ」と悲鳴を上げる。

 俺はこのみゆき姉が大好きだ。第一に、背がものすごく高いから。俺よりも。医療大学を卒業して看護師として激務にいそしんでいるというのに、こうしてたまの休みも家事をしてくれるし、屈託無く冗談に付き合ってくれるし。

「んで、どうなんよ?」

「あー、なかなかかな。コンビニにも寄り道せんで来たし、ご飯大盛りにしたって」

「ちゃうちゃう、あんたの腹の空き具合なんか誰もいっこも聞いとらんよ。大体聞かれんでもいつもお代わりするでしょうが。そやのうて部活動何やるんか決めたん?て聞いとるの!」

「んー…文化部ならなんでもええかなって。ほい剥けたで」

 ありがと。あんた相変わらず手早いなぁ、ええお嫁さんになれるよと笑う姉に「ほなら嫁入り先紹介したって」と返す。

「いやー、しかし文化部?あんたが?それは勿体無いよ。ガタイええんやし運動部にしとき、運動部に!」

「なんで二回言うたんや」

「大事なことだから二回言いました!…っちゅうか、そのほうが余計なこと考えんで済むし。姉ちゃんはね、あんたは運動向きやと思っとるんよ。中学の頃も体育の成績悪なかったやん」

 鳥挽き肉をニンニクで炒めるシャァァァという音がキッチンに響く。今夜はキーマカレー風か。さすが彼氏がインドからの留学医師なだけあって、本格化しつつあるなぁ。

「でも俺、目立ちとうないねん」

 小さく言う。ギロリと睨まれた。

「情けないこと言わんと、男は黙って身体動かしぃ」

 そやな、気が向いたら、な…。ボソボソと口の中で言葉を噛み崩した。

 その会話はそれっきり。すぐに一家の大黒柱が帰ってきた。

 姉とそっくりの細面、ひょろひょろと背の高い虎人の富岡康貴やすたかは、端正な鼻筋をひくひく言わせて「おお、えー匂いやなぁ。疲れた脳には堪らん」とワイシャツの前を開き、冷蔵庫の上のラジオのよく聴こえる真ん前の席を陣取った。

 夫の背広を肘に掛け、そのあとに続いて入ってきたのがやっぱり虎人の富岡祥子よしこ。席につく前に伴侶の背中を思いっきり叩き、「もうお父ちゃん、脱いだら靴はちゃんと揃えて下さいって何度も言うてますやろ。子供達に示しがつかんやないの」と小言を挟む。こっちはでっぷりした体格の、『ザ・関西のオカン』そのもののキャラクターで、文字通り縁の下の力持ち。

 ちなみに前者は大学の社会学部教授、後者はその大学教務課の事務員。獣人種も同じ、職場も同じ、趣味は山登りに美術館めぐりという似た者同士のおしどり夫婦。…ってなんや虎人カップルに使うんも変な表現やけども。

 やいのやいのと言いながら、四人全員がダイニングの所定の席につく。

 男二人の皿は大皿、女二人はジブリの絵のついた中深の皿にカレーを盛り付け、いただきます!で食べ始める。富岡の食卓はお代わりの連続で忙しい。全員が大食漢だから、大鍋のルーも圧力釜の飯もすぐに減っていく。

 カレーの皿にスプーンを突っ込みながら後続の二人も俺に学校の様子を聞いてきた。

「んー、どやった言われてもあんまり変わったことは無かったかな。…ラグビー部の連中が先生も含めてアホばっかやったけど」

「ほう!ほうほう!アホねぇ、ええやないか。どないなアホさ加減やった?お父ちゃんに説明してくれ」

「なんで喜んどるの…人数が足らんくて、七人制ラグビーしとるんやって。さくペンの衣装で歌っとったわ」

「ぶはっ!」と米粒を鼻から飛び出させる母親に「ちょ、お母ちゃん吹き出さんといてよもー!」とティッシュを渡す娘。

「まぁまぁ。んで、お前は誘われなかったんか?そのアホの先生とか先輩に」

 俺は、ぐ、とご飯を喉につまらせた。姉ちゃんが察して手渡してくれた牛乳でそれを胃に流し込む。さすが看護師、気回しがいい。

「誘われたんやな?」にぃやぁぁ、と左に大きく頬肉を持ち上げる笑い方。古いマフィア映画の俳優の真似をしてるらしい。全然中身にそぐわないけど。「で、どないするん?」


 あの気まずい、目立つのが嫌いな俺には拷問のようだったレセプションの後。ホームルームに移動する渡り廊下の中程で、再び鴉人がしゃがれた声を掛けてきた。

「ななな、丁度明日、七人制の練習試合取り付けてあるんだ。時間は午前中だけだしキミ、見に来ないか?ボクが車で迎えに行ってやるよ!」

 声の低さ太さ汚さとは裏腹に、アニメの女の子よりもキラキラした瞳で他のクラスメイトをかき分け俺の前に立つ二十代中盤ぐらいの鴉人は、俺の肩ぐらいの身長だった。

「すんませんけど、俺ラグビーとかよう分からんもんですから」

 なるたけすげなく断ったつもりの俺の冷凍発言にもかかわらず、鴉人はこちらの腕を取る。

「分かる!一度見れば分かるよ!足りない知識と経験はボクとか他のチームメイトがカバーするから。な?」

「な?やのうて。勝手に仲間にせんといてくださいよ」

「おいおい隆正タカァ!まぁた新入生に絡んどるんか?お前っちゅう奴はほんまに懲りひん奴やなぁ!!」

 見咎めた担任の四十がらみのブルドッグ人、泰村やすむら先生が戻ってきた。

「やー、泰村先生ヤっさん、文句はこいつに言ってくださいよ。こんな立派なガタイしててラグビーに誘わないわけにいかないでしょう?そうでしょう!」

「お前なぁ、そのフザけた格好もそやけど、ええ加減にしとけ。やんちゃくれも直さんと教育委員会に目ェつけられるで。第一この子も迷惑しとるやろが」

 ぷるぷるぷる!と広く短いくちばしを振り、この年若い教師は俺の首根っこをがっしり握って引き寄せる。この人、背は高くないけどが大きいんだ。海草のようなムースの匂いでくしゃみが出そうになった。

「彼には間違いなくラグビーの才がある!ボクの目にこれまで狂いがありましたか!?ボクには感じるんです!!もう股間にビックンビックンくるもんがあるんです!!」

「お前は変態か。っちゅうか、つくづくラグビー狂いなんやなぁ」

 と、唇の横長い犬人が渋い顔で黙り込む。え、ちょっと待って、そこで何で退くんだ?

「自分はどうなんや、えーとちょい待ってや…富田…いや富岡やったな。イヤならイヤと言いなさい」

 そんなの、イヤに決まってる。が、俺が答える前に鴉人の黒い羽毛に覆われた顔が目の前に来た。

「頼む一度だけ!!」

 クスクスと残念な笑いをこぼして通り過ぎていく、他の生徒達の様子で覚悟を決めた。反論しても目立つだけだ。ここで揉めておかしなシコリを作ってしまって、のちのち内申とか進路とかに響くのもイヤだし…

「…一度だけですよ」

 っひゅうう!尾羽まで震わせて、校舎の屋根まで響く高らかな隆正先生の口笛に、俺は思わずたじろぐ。

「そんじゃ明日の朝9時にキミんちに行くからな!楽しみにしとけ!!」

 むぎゅううう!と音がするぐらいハグをされる。なんという強引さ。しかも、鴉人はステージの衣装のままだった。俺は恥ずかしさもあいまって消えてしまいそうだった。早くその場を離れたくて、ただ適当に頷いてクラスメートの後を追いかけた。


「明日一回だけ見学には行くけど、入部までは考えとらん」

 そう言ってカレーの残りをさらい、俺は早めに自室に引っ込んだ。

 高校生になって一番嬉しいのは、自分の部屋ができたことだ。中学生の間は勉強も全部リビングでやっていた。「分からんことは全部お父ちゃんにいてな。なんせ大学教授の端くれなんやから、中坊の宿題ぐらいいっくらでも面倒見たるで」と言われたこともあってのことだ。確かに、数学も国語も英語も、分からないことを質問するとこれ以上なく簡潔に分かりやすく、しかも優しく教えてくれた。

 でも高校からはできるだけ手をかけたくない。俺は机に座り携帯のラジオアプリをつけ、数学の課題と予習に取り組み始める。

 今日の授業から3ページ先まで進んで、喉の渇きを覚えた頃にポンポンと柔らかなノックがした。

「あたし。今集中してる?」

「いや、大丈夫。何、みゆき姉?」

 ドアを閉めたまま、囁くように声がした。

「もしどうしてもイヤやったら、断り。誰かがやいやい強要するんやったら、やらんでええんよ」

 俺は椅子を回してドアのほうに向き直る。

「サンキュー、みゆき姉。でもほんまに俺は大丈夫やから。心配せんで」

 そ。なら、ええんよ。ドアを隔てた空間から気配が消えた。俺は頭を下げた。本当に、よくできた姉だ。あ、首のストレッチにもなるな、この姿勢。

 明日。明日のことを考えると胸が重苦しくなった。それを振り払うように机に戻り、俺は方程式に没頭した。


「ひぃーろっとくぅーん、あーそびーましょー!!」

 俺は跳ね起きた。布団が勢いで舞い上がり、ベッドの足元に落ちる。

 なんだなんだ、あの汚い上に間の抜けた声は。カーテンの隙間から明るい日差しが漏れている。目覚まし時計は9時15分前。

 そうか、ラグビー部の練習試合の見学に誘われていたんだったっけ。油っぽくなっている耳に近い部分の毛皮をザカザカと掻き、んぐぁー!と意味の無い叫びを上げた。

 15分前行動とか真面目すぎるやろ、ていうか、インターホンがあるやろが!いちいち叫ぶなや!!

 俺は最高に苦虫を噛み潰した表情で手近に脱いであったジャージを着てドアを開ける。そして今まさにノックしようと拳を上げた姿勢で固まるみゆき姉に「おはよみゆき姉!行ってくる!」と言って階段を駆け下りた。

 玄関では割烹着姿の我が家の主婦が、ジージャンにスラックス姿の鴉人の教師と、年頃の青少年談議に花を咲かせたばかりだった。

 二人して「ヨッ裕人君!」「あら降りてきた。裕人、ひとのええ先生に当たって良かったねぇ」と笑顔を向けてくる。

「…隆正先生…」このクソボケカスいっぺん関東炊かんとだき(おでんのこと)に頭突っ込んで死んで来いや!と言いたいのをなんとかこらえる。「…オハヨゴザイマス」

「んー、いかにも寝起きの不機嫌MAXって感じだなぁ」鴉人は嬉しげに目を細めて顎に手羽先を当てた。「朝飯まだだそうだな。車に用意してあるから、道すがら喰おう。ではお母さん、失礼します」

「あらまぁお急ぎやったんですかぁ、上がって一緒にお茶でもて思てたんですけど」

「それは家庭訪問の際に、是非」

 と、家の奥からトイレの戸をけたたましく開けて廊下を走ってくる音がした。

「おろおろおろ、ちちちちょーい待ってやもー、お客さん!そないに急がんでもええやないですかぁ」

「あ、裕人君のお父さんで?初めまして、うちの裕人がお世話になっております」

 ステテコをずり上げながらあっけにとられた虎人。やおら、ペンとおのが額をはたく。

「…あ、冗談か!むほほ、あんたこの子の学校の先生でしたっけ、関東モンやのにボケるなぁー、せやけどちっとばかし微妙ですなぁ」

 昨日の馬鹿丸出しのにやけ顏でなく、よそゆきの紳士的な微笑を浮かべていた隆正先生が、いきなり真顔になってしげしげと虎人の中年男のつらおもてを見上げて呟く。

「…富岡教授?」

「え?ええ、ワシは確かにしがない教授ですけども?」

「本当に富岡教授ですか!?あの、龍谷大で社会心理学を教えてる!?」

 ああ、そうですが…と、とりあえずの社交的苦笑を浮かべてこちらを見やる虎人は、首の後ろに「なんや裕人こいつ、頭おかしい系のっちゃうか?」というナレーション字幕を浮かべていた。これは補足しなきゃいかんのか。面倒くさいな!

「えーとな、この人が俺をラグビーに誘ってる部の顧問の先生。俺のクラスの担任やないけどな。数学の隆正先生や」

「ああ、するとあんたがうちの子に目ぇつけたアホのラグビー部顧問さんですか。はじめまして、富岡康貴っちゅう窓際一歩手前な教授です」

「は、はじめまして!いやー感激だなぁ、教授の著作はあらかた読ましてもらってます!素晴らしいものばかりで、って、アホ?」

「あれ、ワシの本、読んでくれはったんですか?」

「はい!『少年犯罪と発展心理学』、『心の叫びを聞け』、『根を張るために』、あと今年の新刊の『救済への架け橋』とかです…って、アホ?」

 途端に虎人は眉をへにゃりと曲げる。「あー、せやったんですかぁ、ほんま嬉しなぁ!」こんな上機嫌なのは仲の悪いライバルの教授と学部長選を争って、相手がセクハラ問題で退任したのを肴にへべれけに酔っ払って以来だ。

 いやいや、まぁまぁ、こんなところでは、今日はなんですからまた本持って来ますんでサインを、そりゃモチのロンですけ…とか、大人達はなんだかよく分からない挨拶を交わし、俺は富岡家を送り出された。

 外にまで出て来て俺を見送ってくれる三人と、ダークブルーのタントの助手席に乗った俺を、運転席の隆正先生は「んー」と鼻の上の方を鳴らしながら見比べるようにし、「違うかな、やっぱ」と呟いた。

「何がですか」

「いやなぁー、キミんちは皆よく似てて仲いいよなぁと思ってさ。お姉さんも可愛いし」

 なんだか、質問に対する答えがそぐわないような気がした。

 練習試合は町の町営グラウンドを借りてする、あと一人拾っていくからと途中で一軒の精肉店に車を停め、異様に目つきの鋭い黒柴犬人を俺の後ろの座席に乗せた。

「二人ともお互いのことは知ってるかい?隣同士のクラスの筈だけど」

 俺は後部座席を振り返り、黒柴犬人と視線を軽く合わせた。目つきだけでなく、眼光も刃物のように威圧感のある相手に、肩がすくんでしまう。相手の方が先にしゃべった。

「こいつ昨日の部活紹介の時、隆正先生からスポット当てられてた奴ですよね。僕は1ーCの菅原考太すがわらこうた。自分は?」

「え…と、俺は、富岡……裕人。のぎへんの谷でヒロ、人って書いてト、合わせてヒロト」

「そんなに詳しゅう言わんでも分かるわボケ。自分、脳味噌母ちゃんのはらン中に忘れて来たんか」

 うっと息が詰まった。鴉人が「毒舌家か!」とひょうきんに場を濁す。

「先輩達はもう先に集合してるってことですよね、僕とこいつだけしか乗ってないってことは。朝飯は準備するて話でしたけど、どっか寄るんですか」

「やー、もう買ってあるんだ。考太の後ろ、吉野家の牛丼特盛りが二つあるから取ってくれる?」

 黒柴犬人はシートのバックスペースから重そうなビニール袋を二つ持ち上げ、一つを俺に渡してきた。まだほかほかと温もりのある持ち帰り用の再生紙の丼。さっきから充満していたニンニク臭の原因は、これか。

「スポーツする前の食いもんやったらもっと軽うないとあかんのとちゃいますか。これじゃ走ってる最中に反吐もどすかもしれへん」

「そん時ァそん時!大丈夫だって、キミら高校男子なんだからそんくらい2分もありゃ消化できるだろ!?」

 俺は犬人から割箸を受け取りながら、それは無理だと考える。というか、走る?どういうことだ?

「あー、言ってなかったっけ。キミら二人、練習試合にちょこっとだけ出てもらうんだよ。実際のプレーを経験してもらう方が口での説明より分かりやすいんだ。ラグビーってそういうもん」

「でも、プレーも何もルールからして知らんですよ」

 だぁいじょーび・だいじょーび!審判はボクがやっからさ!ンゲッハハハハハ!と笑う鴉人。ともに愚痴を言い合おうにも、黙々と口だけ動かして牛丼を咀嚼している柴犬人。俺は空腹に加え、とにかく納得いかないことだらけの状況にむしゃくしゃ半分で丼をかきこんだ。


 町営グラウンドで俺と菅原を迎えてくれたのは、縮れたタオルみたいに顔を緩めた鮫人の木嶋だった。

「二人とも入部してくれておおきになぁ!ちょうど清高キヨ吐夢トミーが遅れるって連絡あってな、開始人数が二人も足らんで困っとったんよ。ほんじゃあギアとユニつけといて」

 陽気に肩など抱きながら、当たり前のように渡されたヘッドギアとラガーシャツ、ラガーパンツ。うわぁサイズがピッタリやぁ!助かったわぁ!!

 そやのうて!

 俺は顧問の教師をめつける。憎らしいことに、当の本人はぴーひょろり、と口笛を吹きつつあらぬかたを眺めている。その肩を掴んで振り向かせると「うひゃあ乱暴だなぁ!」などとうそぶいた。

「何考えとんですか?俺、入部するなんて言うた覚えないですよ。それにちょこっとって話でしょ!」

「だってしょうがないじゃないか。これでキヨとトミーが来れば7+2で、万が一のときの欠番が二人も用意できるしぃ。でないと試合なんか組まれないって、対戦相手の怖〜い主将が言うんだもん」

 指先をツンツン合わせながらの上目遣い。中学生の言い訳じゃあるまいし、付き合おうてられんわと言いたいところだが、今の状況でこんな風に頼まれると無下に断れない。

「誰が怖い主将やって?」

 大気中の酸素をファンタグレープに置き換えたような凄まじいブドウの匂いをふんぷんと漂わせ、くちゃくちゃとガムを噛みながら、言葉以上に険のある表情の猪人が歩み寄ってきた。

 ささくれた眉毛に三白眼。両耳がくちゃっと潰れ、頬に大きなバッテン傷をこさえているのが迫力を増している。

「あれ、聞こえちゃったかな?地嵐高校の二ノ宮君」

「気易う呼ぶな。泰村先生のたっての紹介やから!こっちゃワザワザ慣れとらん七人制でしかもアンタらみたいな無名高と試合組んだったのに、メインの遅刻やらありえへんやろ!?監督責任どないなっとんねやほんまに!!」

 俺は目が点になる思いだった。なんだこのあしらいは。いくらそう年齢が変わらない相手とはいえ、高校生が教職者に対して許される口の利き方ではないだろう。

 こっちの部員達も、何やオラうちの顧問に何ぬかしてくれとんねん!いわしたるぞボゲ!!…ぐらいの噛みつきもせず、ただ黙々粛々とストレッチしたり靴紐をむすんでいるだけだ。

「その通り!それについては全くボクの不徳の致す限りでぐうの音も出ません」

 さらに輪をかけてペコペコと頭を下げる鴉人に、俺は呆れるのを通り越して諦めた。

 こりゃ、あかん。この部はほんまのダメダメダメの、ダメダメ部や。

 けっ、と隆正先生に軽蔑の眼差しをくれて、猪人はそわそわキョロキョロと肩に埋れた首を巡らす。

「なんや、泰村先生は来はってへんのか?」

「もうすぐ来るよ。寄るとこがあるって言ってたからな。長くてもあと一時間もしないだろう」

「…月初めやから、そうか…寺か」訳知り顏で頷く。そして鴉人の格好に「なんやあんたのその気の抜けたカッコは。ジャージかハーパンぐらい穿いて来いや、ラグビー教える気あるんか」と一層顔をしかめて相手チームの方へ歩き去って行った。

「チームの監督まで動きやすい格好する必要、あるんですかね」

 もう着替えた菅原がヘッドギアをなんなく頭に被せて訊く。俺も慌ててジャージを脱いでユニフォームを身につける。野外だがパンツ一丁になっても気にすることはない。なんせ、観客が誰もいないのだ。

「あいつは生真面目なんだよなー。だから二年にして主将まで任されてるんだろうけど。ちなみにむこうのチームは全国大会に創設以来合計十回出場してる。ま、いわゆる名門というやつか」

 手羽先に鳥人の爪を出して背中を掻き掻き苦笑する。

「そないな名門校がよく引っ張り出されてくれましたね」黒柴犬人は表情を変えない。「ほんで、先生は真面目やないんですか」

「ボク?ボクはラグビーが好きなだけさ!」

 はいはいそうでしょうとも。

「そんで、俺らはどないすればええんです?全くの無知で足引っ張りますよ」

 俺の質問に鴉人が答える前に、犬人が片手を挙げた。

「僕が前面に出ます。ほしたら先輩が来るまでの繋ぎにはなる。富岡は後ろの方で数合わせしてたらええでしょ」

「どうもな考太!じゃあはじめはそれでいこう。簡単なルールを説明するとだな」

「要りまへん」犬人はゴッゴッとギアを叩いて具合を確認し、さっさと走ってフィールドに出る。「やってるうちに覚えまっさかいー!」

 頼もしい科白を残した犬人を見送り「元気な奴だなぁ」と破顔する隆正先生。

「裕人君、キミはそれに比べたら大人しいなぁ。デッカい背丈で小さくなってないで、ほれ積極的にストレッチストレッチ」

「わっ、足触らんで下さいよ!独りでできます!」

「うんうん、いい脛骨してるなぁ。これならまだまだ背が伸びるぞ。ポジションはロッカー狙いだな」

 ロッカー?収納棚がラグビーに繋がるのか?

「ほれ、もう始まるから行ってこい!!」

 太陽に照らされる黒い掌で、べしんと腰を平手打ちされた。大きく柔らかい感覚に、なんとなく気合いが入った。

 俺達をフィールドに迎えた我がチームの主将、杮のいの一番の科白は、

「フォーメーションやらなんやら、こ難しいことは省いとこう」

 だった。

 緊張感に何度も肩を回している俺と、腰の後ろで手を組んで微動だにせず作戦を仰ぐ姿勢の菅原を見比べて、主将は前者をバックに、後者を自分達上級生のサポートにつかせた。それぞれに相応しい役どころを振ったのだろう。

「ラクビーの基本はパス、タックル、ラン、キック、スクラムや。ボールは後ろにだけパスすること。俺がキックと叫んだら迷わず蹴ること。あとは指示するから、試合時間の約14分動いてくれや」

「そない簡単なもんでええんですか」

 そやのうたら君らを試合になんぞ出されへんて!と苦笑する。主将の横顔の向こうで菅原が無言で頷く。質問した俺が馬鹿みたいじゃないか。

 こちらはゴリラ人の到着までの補助人員を役目とする、全く動揺していない黒柴犬人と内心堪忍してや状態の俺とが先輩に続き、とにもかくにも試合が始まった。

 ラグビーという競技そのものは俺が時たま家の外のTVなどで眺めてきたものと大きくは変わらなかった。

 ボールがゴールポストと呼ばれる二本の柱で作られた柱の間に蹴り入れられるか、インゴールエリアの地面に選手がタッチさせればそれで点数が獲得できる。

 これが一つ分かったことだ。そしてあともう一つ、重大な点に俺は気が付いた。

 ラグビーは痛い。物凄く、痛い。

 序盤から前面も後面もなくなり、プレーに夢中になった先輩からはなかなか指示が飛んでこない。ガッチリと筋肉の鎧をまとった相手高の選手(フォワードというらしい)にぶつかられ、転がされ、さんざんに肩腰をいわされて、俺はぐらんぐらんのよろめき歩きで目玉はナルト模様になってしまった。

 始めこそ見よう見まねで追っかけっこしていたのが、だんだんヘロついた小走りになってしまい、なんで俺はここにおるんやろと自問自答を50回ほど繰り返したあたりで、スクラムを組むことになった。

 このスクラムというのも肩や首、特に耳がこすれて痛い。潰れ曲がり裂けてしまうんじゃないかというぐら皆が無茶苦茶に押し合いへし合う。

 こんなんやっとるのマゾか変態や。こいつらみんな頭おかしいんや。俺にはよう務まらん!

「跳べ、富岡ぁ!」

 そこからの行動は反射だった。俺は前で蠢く広い背中(どうやら河馬人の村田だったらしい)を蹴り、生きている土嚢のような男臭い集団から上へ跳び出した。いや、これはそう     

 上空うえび出した、気がした。

 体力測定や体育の授業で高く跳ぶ機会はいくらでもあった。自分は脚力がある方だとは自覚していた。でもその一瞬で、世界は変わった。

 身体が宙を舞う羽になったのか。そう思うほどに重さを感じなかった。俺が蹴った背中を河馬人が押し上げてくれたおかげで、カタパルトを使ったのと同じ効果が出たのだろう、俺のジャンプはゆうに4mに到達していた。

 空を感じる、鳥ってこんな風に浮いてるんだ___そこでボールが俺の胸に止まり、俺はスクラムの外に着地する。

「___走れ!」

 指示に頷き、走り出す。

 いける。これまでに感じたことのない充実した力を、湧き上がる衝動を感じる。それが俺の足を動かし、腰を押し、前へ前へと突き動かす。

 敵はいない。前には誰も。このまま      

「来るぞ!」と、猫人の宇田川が放つ高い警告。

 真横からフィールドを大きく回って猪人が駆けてきた。物凄い俊敏さでほぼ正面に回り込まれ、対決の姿勢になる。

「ぶっ潰したれ二宮ニノ!」

「止まんな富岡!そのまま突っ走りぃ、いけるで!」

 もとよりそのつもりだった。回り込んできたことで向こうの勢いは殺されてる。このまま跳ね飛ばしてしまえ!

 大地を掬い上げるように両腕を構える猪人の姿が、ぐん!と大きくなった。

 その時、空気の味が変わった。

 俺は心臓がエンストを起こしたような気がした。足が止まる。

 えっ?と自分でも声を漏らして、俺はたちまち押し倒された。青い空を仰ぐ瞬間、何かとてつもなくイヤなおののきが血管を駆け巡った。

 ダウンしてしまった俺のせいでまたスクラムになってしまったらしい。ガッカリした空気がフィールドに流れる。

 なんやこれ、どうしたんや俺?

 あのままやったら絶対いけたはずやんけ。そやのになんで?なんで身体が固まってしもうた?

「ようやったのぅ、富岡」

 誰かに助け起こされる。青黒い毛皮、一部はつるんとした皮膚が剥き出しの顔。

 ゴリラ系の猿人がアーチ型の双眉を優しく寄せて俺を労う。

「んじゃっ、そゆことで!」その脇を小柄な虎人がすり抜けていく。俺の前を通り際、人差し指と中指を揃えて額の前でチャッと振った。「おっつー!」

「真間等先輩…」

「待たせたな!選手交代や。お前も菅原もほんにようやってくれた。まだやりたそうな菅原には悪いけんどな、お前らは休め」

 けど、俺、俺がチョンボを…と言いかけると「慣れんとこに放り込まれたんや、ビクつくぐらい何でもあらへん。俺がお前のかたき討ったるし気にすんな!」と鷹揚に言い訳を断ち切り、スッと息を吸い込んで真間等は雄叫びを上げた。

 ゴオオオオオオォォォン!!

 果てしない怒りの声。それから胸板をドオンドオンと叩き、どっしどっしとスクラムへ走って行った。

 俺は鈍く痛む右肩に手をやりつつ、無表情で戻ってきた菅原とホームサイドに入る。地面にガッチリとビスで固定されたベンチに腰を掛けると、審判を対戦校のマネージャーと交代したらしい鴉人が、冷えた濡れタオルを頭に載せてきた。

「お疲れさん。喉乾いただろ。ほい、菅原も!」

 がしゃがしゃと用意していたクーラーボックスの氷の中を掻き回し、ペットボトルのスポーツ飲料を俺と黒柴犬人に差し出す。

「二人とも予想以上によく動いてたぞ。まぁ、一休み一休み」

 何の気なしに笑っている鴉人が無性に腹立たしく、俺はその手を振り払った。

「ようやってへんわ!」

 驚きに普段から丸い目を一層丸くしている隆正先生に、おれはありったけのむしゃくしゃをぶつける。横の菅原がピクリと動いた。

「なんやあんた、ヘラヘラヘラヘラ!チョンボしたんやぞ俺!?あんな大事なとこで!!もっと責めろや!!何考えとんねやほんまに___」

「___おい!」

 ぐいっと顎を掴まれた。殴られる。当然そうなると思った。

 どうしてか頭が熱くなっていた。胸の中には渦巻く負の想念おもいがある。大きくて、黒くて、まるで墨汁の渦潮のようだ。

 ラグビーなんかやりたくもなかったのに。だけどこの敗北感、不甲斐なさ、悔しさは何なんだ。映画のヒーローにやられる下らない三下さんしたになってしまったみたいに、自分に対してやりきれない。

「そうか___悔しかったか」

 鴉人は怒りに血走る眼ではなく、透徹した黒曜石のような瞳で俺をまじまじと見つめた。俺の暴言に腹立ちなど微塵もない口ぶりで「瞳孔が開いてる。過覚醒___それと、侵入か?」と呟く。

「な、何のことや」

 頭からすっぽりと、柔らかい羽毛に包まれる。鴉人の胸に抱かれて、その意外にしなやかな胸筋に顔を押し付けられた。

「大丈夫だ。大丈夫。___まだ始めたばかりじゃないか」

 あれ、なんか凄く落ち着く。呼吸の乱れがみるみるうちに治まるぞ。

「倒された悔しさは分かるよ。それがあるのは悪いことじゃない、決してな。ボクはな、とみお…裕人君よ、キミを信じてる。キミはきっといい選手になれる」

 すっと離れ、俺が地面に叩き落としてしまったペットボトルの砂を払い、それをこちらに渡すと、隆正先生はちょっと筆記用具取ってくる、と車に戻った。

「何やったんやろ…俺」

 つい独りごち、ペットボトルに口をつけると、グビリグビリ一気に飲み干した。

 押し込めてた感情が一気に溢れ出たみたいだった。あんなの、小学校以来だ。富岡家の中でだって喚いたことなんてないのに…

「お前、やる気ない奴やと思っとったわ」

 すっかり存在を忘れていた、俺の右に腰を降ろしている黒柴犬人の横顔。

「見直した。ヌルいクズやなかったな。さっきは悪かった。よろしくな、富岡」

「…お前さ、てっきりイヤな奴と思ったんやけど、ひょっとして口が悪いだけなんか」

「そっちかてズバズバ言うやんか。そや。僕は全部頭で考えたこと口に出してまう。中学でも色んなとこで雰囲気ぶち壊してもうて、どこにも入部でけへんかった。馬鹿やから仕方あらへんやろ」

 いや、さっきからの動きを見ていても非凡な頭の良さだと思う。

「どや、勝っとるか?」

 胸の中でひとりごちていたときに声をかけられ、俺は飛び上がる。苦笑するブルドッグ系犬人、泰村先生の顔がそこにあった。

「なんや富岡の、何をそんなにビビっとるんや。エロい妄想でもしてたんけ?」

 違います誤解ですと手を振る俺に構わず「おおう、地嵐相手にええ勝負しとるなぁ」とスコアボードに眼を細めた。

「あの、泰村先生…は、ラグビーしはってたんですか?あっちの主将が先生のこと知っとりましたけども」

「ん?ニノのことか?あいつとは、まあ昔な、ちょこっと」

 へぇ、それじゃあ隆正先生とはどういう繋がりで…と言いかけたところで試合終了のホイッスルが鳴った。彼我の得点は18ー15。俺達は負けたようだ。俺を含め一旦選手全員が中央のラインまで戻り、短く礼をした。

 と、そこに「泰村先生せんせぇい!」と叫び声。土埃いっぱいに汚れた猪人が、引っこ抜けてしまうんじゃないかと思うぐらい腕をブンブン振りながら、反省タイムで固まる自チームメンバーそっちのけでこちらに駆け寄って来る。

「おう、ニノ!そっちの学校はどないや?元気にしとるようやないけ」

 ニノと気さくに呼ばれた敵方の主将は紅潮した頬に照れ臭そうな笑みをたたえて頷いた。

「もっと見てやりたかってんねんけど、ちょお用事あってな。でもええプレイするようになっとって安心したわ。さすが名門、県の誉れの地嵐高校主将やなあ」

「いやあの、それは、泰村先生が鍛えてくれはったからで…」

 ブルドッグ系犬人は頭を低くする猪人の耳元をわっしと掴み、嬉しいこと言うてくれんなぁこいつは!とがしゃがしゃ揉む。勘弁して下さいよともがきながら、猪人は先程とは打って変わった愛嬌でそれに応える。

「そっちの監督さんにもお礼言わしてもらおかな。姿がみえへんねんけど、どこにおらはるん?」

「あ、うちの監督………すみません、俺に任せる言うて、…その…他の学校の試合を視察に………」

 何やそれ。自分とこの部員を放ったらかしかい。それでも構わんくらい俺らがナメられとるってことやんけ。腹の底が怒りで熱くなる。

「ほうかぁ。ほなら仕方ないなあ。無理くり通して試合組んでもろたのはこっちやのに、礼の一つもせんと申し訳ないなぁ。手紙送っとくけぇそれで許したってくれな」

「い!いや、こっちこそです!俺は…俺は泰村先生に会えただけで…もう…………」

 泣きそうな声になる二ノ宮のおつむりに愛おしそうなデコピンを弾き「ホラ湿っぽくなるな。主将の仕事は明るう、大きゅう、前向きに、やぞ」と泰村先生は微笑んだ。

 ぐすんと鼻を鳴らして姿勢を直し、猪人はハイ!と良い返事をする。それからちょっと間の躊躇を挟んで一番懸念していたらしいことを口にした。

「あの、先生はそっちでは監督されんのですか?あの新米のどんくさい奴よりも先生の方が適任や思うんですけど」

「ぶはっははっ!相も変わらずぶっちゃけた奴やなぁ!いっそ気持ちええわ」

 そのことは、もうええねん。ひらひらと掌を翻す相手に、二ノ宮はさも無念そうな渋面を作った。

 二人のやりとりを見ていた俺の肩をいきなりブルドッグ人が抱き寄せて「で、この新人はどやった?一回ぐらいお前に刺してったか?」と質問した。

 後から聞いたが刺すとはつまりタックルのことらしい。すんなり相手を通したりせず、ぶつかっていったか、と聞きたいのだ。

「そいつですか。まぁ練習が足らんけど悪ぅない思います。俺に、っつかタックルされること自体にビビってました」

「わはははそうかそうか!そりゃええわな!!」何が一体良いというのだろう。「はじめのうちは誰でもそうや。けどな富岡の、悔しさとか虚しさとか一通り経験して、それを乗り越えてこいつみたいになってくもんやから。気にすんな」

 それにな?このニノやって、坊主ん頃にはぶつかってくのが怖いゆうて泣いてチビって難儀やったんやで?先生、そんなことバラさんでくださいよ!…という二人の会話に俺は思わず吹き出した。

「才能が全部っちゅうわけやない___ジュニアの時に教えてもろた泰村先生の言葉に背くわけやないんですが、むしろ目をかけるべきなんは、そこにいるもう一人の一年や思います。そいつも初心者なんでしょ?飲み込みは早いわガッツはあるわ、おまけになんちゅうても身体のキレがええんです。正直俺のチームにも欲しいぐらいです」

「へぇ、菅原はそんなに見所があるんか」

 黒柴犬人は黒い表情を全く動かさず、まだぼんやりと猪人の肩の彼方に面を向けて立ちつくす。負けたのに悔しいのかそれともやり切った開放感からか、ただ尻尾を垂らしてスコアボードを眺めやっているのだ。

「裕人にだって売りがありますよ!」

 鴉人がいつの間にか俺達に並んで、クリップボードにものすごい勢いでメモを書きつけていた。チラリと見えたその文字がどうしてもミミズののたくりにしか思えない。

「ヤっさんにも今度見てもらうことになりますよ!こいつキャッチする時に、このタッパでビャーっと跳んだんです!そう、もう跳ぶっていうより空に舞い上がるみたく!ボクには見えましたね、裕人の背中にペガサスの翼が!!」

 褒められた。こんなことも初めて___いや、久しぶり…なんだろう。俺はずっと目立たないようにとそれだけを心がけてきて、中学では運動も勉強もそれ以外のことでも、すっかり埋没した生活を送ってきたんだから。

 最後に褒められたのがいつかなんて、すっかり忘れてしまった。だけどやっぱり取り柄を言われるのは悪い気はしない。隆正先生に言われると特に、だ。

…あれ?

…なんだろう、この、胸の変な感じ。

 ものの4・5分でメモを終えた鴉人はボードを左脇に挟み、右腕を俺の腰に回す。

「で、な!今二ノ宮君が言ったように、ラグビーに必要なのはセンスや身体能力だけじゃない。それよりもっと大事なものがある。ボク達と一緒にやればそれをキミは得ることができる、これはボクが保証するよ」

「そんな大きゅう怒鳴らんでくださいよ耳元で!あといちいち抱きつかんといてください」

 俺は鴉人の悪声がつむぐ言葉に、その単語の一つ一つにずしりと響く重さを感じた。俺をハグして爪先立ちになって見上げる、紫、深い緑が濃黒の羽並みから浮かび上がるように混沌と入り混じる顔。

「どうだい、本格的にやらないか?」

 誘いは質問ではなく確認。実際、俺の身体の奥で肝臓のあたりが動いているようだ。気持ちは他人にも分かるほどに、はっきり現れているんだろう。

 俺はきっと目立たない。目立つのは俺じゃなく菅原だ。ヒーローが既に誕生しているのだから、注目を浴びることに気兼ねなくこの部で高校生活を送れるだろう。

 決めた。俺は、ラグビーをやる。

 隆正先生は俺の返事を当然のように受け止めた。テンションの高さなら天井知らずな鴉人なら手放しで喜ぶかという予想は外したけれど、その方がずっと良かった。

 その夜、帰宅した俺を家のみんなが待っていてくれた。傷だらけのボロくずのようになった毛皮をみゆき姉がふざけて撫でてきたので、俺は期待に応えるために総毛を立てて痛がってみせた。


 桜の花が散り去って、しとしとと雨が降る四月の半ば。俺の高校生活はローに入っていたギアをダブルクラッチでトップに上げるようなものになった。

 県立伊瑠奈高等学校は想像していた以上に女の園、いや女社会、謙遜せず誇張なく有体ありていに言うならアマゾネスの集団社会だった。

 女尊男卑。男は女の3m後ろを歩け。そして邪魔をするな逆らうな一切の要求に従え…そんな不文律が支配する世紀末覇者の世界(ただし女が主体)だったのだ。

 まず更衣室が男子のものはプールサイドのトタンの掘っ建て小屋しかないので、体育の授業があると着替えるためだけにわざわざ屋上までダッシュで行かねばならない。スケべ、痴漢の汚名を恐れて男子である者は生徒も、また教師でさえも女子の「もう入ってええよー」の許可を頂かなければ更衣中のドアの前にも立てない。

 購買、食堂は憩いの場である。但し、女子生徒にとっての、という前置きがつく。なぜならメニューにはリングイネだのニョッキだの、湯葉定食にデトックスプレートだのという小洒落た品目が並び、カタカナ料理に疎い男子を尻目に女子が優先して並んでしまう。おまけに横入りもし放題。文句など言えば「なんやの男のくせにグチグチとぉ?」と白い眼で睨まれ、そしてクラスの9割から(つまりクラスの女子全員から)ハブられる。

 それなら購買はどうか。そちらはそちらで野菜サンドだのフルーツサンドだの軽いものばかりで、数少ないカツサンドはもはや手にするために熾烈な争いまで引き起こす「購買の天然資源」と呼ばれている。いや実際、どちらが先に指をつけたかで3年の男子と2年の男子が殴り合っているのを俺はこの目で見たのだ。

 単純に節約家の富岡家は購買費を俺に与えず、その代わりに心のこもった白飯の多い二段重ねの弁当を用意してくれたので、幸いにも空きっ腹を抱えて昼休み難民と化す新入生には加わることはなかった。

 授業と昼休み、更には部活動でも男子は冷遇に耐え忍ぶ存在だった。男子の競技は女子の競技に場所も時間も譲る。そもそもスポーツにおいても女子部門強豪校であったため、学校の運営方針そのものが女子部門の応援に回っているのだ。

 グラウンドは女子サッカー、女子ハンドボール、ラクロス、その他に占領されていたので俺達ラグビー部(一昨年の新設だから致し方ない部分もあって)は男子サッカー部と共に、もっぱら最寄りの河原で練習していた。

 こういう部活につきものの女子マネが「お茶です♡」「タオルです♡」「おにぎりです♡」といった甘いイベントは一切起こらない。というのも、女子のほぼ全てが自分が部活動で輝くことに執心しているから、他人の、それも「たかが男子」のお世話をするような暇は持て余していない。かくいう理由でどの男子部にも女子マネはいないのだった。

 俺はみゆき姉との暮らしで女の思考や男へのからかいには慣れていたのでこういった特殊な環境に苦痛はなかった。そうでない者は未だかなり順応に骨を折っているようだ。

 その筆頭たる男子生徒が菅原だ。平然と「女はどこ行っても馬鹿ばっかりやからウザいな」とうそぶき、クラスどころか学年全体の女子から総ハブにされかけたが、全校朝礼の時に貧血で倒れた女子をお姫様抱っこして保健室に運んだのがウケて「菅原五右衛門」という宮崎アニメのキャラをもじったあだ名をつけられ、以来恐れられながらも慕われるようになった。

 このひと月の間に、ラグビー部にはとても喜ばしい変化が起こった。なんと、俺と菅原の他に自主的に入部を志望してきた男子が二人もいたのだ。

 部室での自己紹介はちょっとした誕生日会のように晴れやかだった。特に、顧問の隆正は、羽毛が全部剥がれ落ちてしまわないかというくらい浮かれ騒いだ。

「今月の僕の通帳はリーマンショックぐらいの大ピンチなんだけど、景気付けに駅前で買ってきた!好きなだけ食べていいよ!!」

 と、ケンタッキーのファミリーパックを20ケースも差し入れしてきた。そんな異常な高揚感に取り憑かれた鴉人が右へ左へバサバサガァガァ小躍りする中、新しい仲間は頭を下げる。

上州じょうしゅう儀助ぎすけいいます。ウチは郵便局です。黒ネコとペリカンは宿敵です。奴らは資本主義のハイエナです。みなさん郵便局を利用しましょう」

 俺と同じクラス、町内唯一の郵便局の一人息子だというおっとりとした物腰の蛇人。ふくふくとした餅のようなかどのない体型だが、身長は160㎝そこそこありそうだ。入部後は、大きなヤカンを持ち込んで飲み物を作ったり、掃除の当番表を作ったり、全員の電話番号とメルアドをまとめて連絡網を印刷するなど事務処理に長けていた。

近藤こんどう理陽太リヒターっす!チィーっす」

 右肩の毛皮に髑髏どくろのタトゥーを入れたチーター人、近藤。張り詰めた頬に、筋肉がついたというより筋張った手脚。頭の高さは菅原と並ぶぐらいか。俺達新入り四人の中で体型は一番ひょろっとしているが、眼付きは一番鋭い。ヒャハハとよく笑う人付き合いの良い奴だったが反面すこぶるキレやすく、特にその下の名前をからかわれるとすぐに殴りにかかるので、入部後は俺と菅原と近藤がそばにいて大人しくするよう目を光らせなければならなかった。

 なんとはなしに、菅原も上州も近藤も俺の教室で一つの机を四人で囲み昼飯を摂るようになった。

 中学時代は特につるんで行動する友達ツレのいなかった俺は、常日頃から顔を付き合わせる関係に戸惑いを隠しながら、忘れた教科書の貸し借りや漫画やゲームの話をするうちにこの同じ部活の同学年の三人に慣れていった。

 菅原は本人が自覚している通り、発声器官と思考回路が直結していて、身も蓋もないことをぺらりと口にする。そのせいで冷酷な感じを持たれる。でも言うことなすこと筋が通るものだから、時間がかかるがやがて人に好かれるようになるスルメな人格者なんだと分かってきた。

 表面上では人懐こそうな癒し系、そんな上州はものすごい頑固者と判明。言葉が丁寧で目上を尊重して周囲に気を配るからすぐにそうとは知られないが、気に食わないことには絶対に従わない。そして根に持つ。副主将の真間等にボールの片付けの順序について食ってかかり、ほとんど口論になりかけた。

 それを抑えたのが意外にもヤンキー丸出しの近藤だった。「上州、お前何様のつもりやねん!真間等さんは先輩やろが!先輩には黙って従えやこんアホが!!」と間近に顔を寄せて凄んで蛇人を黙らせた。会話の端々に挟まれる経験談から推察すると、煙草に喧嘩に万引き飲酒、軽犯罪なら一通りこなしてきたようなのだが、反面漢気と義理がたさに溢れている。したがため、俺達の中で一番の良い子に決定した。

 そんな俺達は、部活では仲良く新米ラガーマンとして鍛えられた。

 部活動は朝練と夕練でともに2時間行われる。肝心の勉強のほうもサボるわけにはいかない。…というよりそっちが本業であるので、中間テストで平均以下なら部活動に参加できないルールに従い、俺はゲームを封印して一心不乱にペンを握った。そのまま寝落ちして机の上で朝を迎えることも度々あった。

 おかげでゴールデンウイーク直後の中間試験では上から二十番目に滑り込みセーフ。菅原はなんと学年トップの座に輝いた。

 黒柴犬人が両手から胡椒の匂いをプンプンさせつつ「おとんの惣菜作り手伝う方がテストで点取るよりよっぽど難しいわ」と呟いていたことが掲示板前の同級生を騒然とさせ、俺はなんとなく隣から肘鉄をくれてやった。

 ゴールデンウイークの期間は前もって「計画性をつけるために自由行動をしろ」と言われていたので、部員は勉強したり軽いトレーニングを行ったりそれぞれが好き勝手にバラけていたのだが、中間試験が明けてからは本格的な基礎練習が始まった。日々は駆け足で過ぎ、ツツジが咲き誇る5月中旬になる。

 ラグビーの初心者として、まずはボール扱いとパスの姿勢を叩き込まれ、次にランパスとタックルを、そしてキックとスクラム、モールをと順調に段階を踏んでいく。

 そして台所の冷蔵庫脇のカレンダーをめくり、6月の紫陽花と傘をさした女の子のいわさきちひろの絵を出して俺は背後に声をかけた。

「ごめんなみゆき姉、最近家事の手伝いせんで」

 サバを煮ている鍋の様子を屈み込んで確認し、うんうんと頷いてみゆきねえはピロピロ尻尾で応える。

「それよかさぁ、あんた小遣いとか間に合うてんの?スパイクやら一ヶ月ちょいで穴ほがしてるみたいやん?帰りにマクドにも寄るんやろ?なんやったら姉ちゃんからお父ちゃんに言ったげるよ。こないだの中間テストでも成績良かったんやし」

「うん、コンタクトとシャツとスパイクなんかでほとんど飛んどるよ。けど、なんとかやれとるし、気持ちだけ受け取っとく。あとファストフードやら行っとらんよ。他の部活の奴らは帰りに飯屋に寄っとるけど、俺らには隆正先生がおるから」

「は?なんそれ」

 みゆき姉に煮汁を皿にすくって渡され、すすってみて舌の上で転がす。少し濃いかな。それにいつもより甘めや。

「う〜ん、そうか〜…これ夜勤に持ってこう思ってるんよ。ボブは多分こんくらいのが好きなんよねー」

「ボブって、看護師の?」

 そう!恋する乙女の輝きで、薄い醤油色に染みのできた築20余年の家の台所をキラキラさせ、虎人はバレリーナのように片脚で回転してみせた。

「そう!全てはマイダーリンのためなんよ!ボブったら『ジャパニーズトラディショナルメニューを食べてみたい、君のことをもっと知りたいんだ』なんて言うんやもん。それに、それにね、『君にアリゾナの故郷の夜明けを見せてやりたい…茫漠とした広野に壮大な光の円環が昇るんだ。きっと君の毛並みに映えることだろう』…なんて!なんてなんてなんてなんてなんてやだぁ」

 もう!と右拳で臍の真上を殴られ俺は洒落にならないぐらい呼吸ができなくなった。

 るんらるん、マイボブマイラブマイスイート!歌いながら蓋を閉じるみゆき姉。

「何騒いどるんあんたら」

「あ、お母ちゃんお帰りなさーい。ジャガイモとニンジン買うてきてくれた?」

 玉すだれをくぐって帰ってきた虎人の主婦は大きなビニール袋をテーブルに載せる。

「丁度タイムセールやっとってねぇ、えろう安う手に入った…て、裕人は何しとん」

「ん、あいや、なんでもあらへん…俺は平気や…お帰り」

「ありがとーお母ちゃん。ポテサラもボブにリクエストされとったんよ」

 ボブってあのアメリカ人のナースさん?そうそのボブ!二人のやり取りの間にボウルを出してジャガイモをその中にあけ、蛇口をひねって洗い始める。

「あんた今年に入って、もう何人めよ?彼氏を取り替えるの。ええ加減にしときなさい」

「ええやん。前のは結局一族がどうとか世間体じみたこと言い出すんやもん、ほんま興ざめしたわ」

「せやかて別れたんはあんたからなんやろ?気をつけんと、向こうにね、もしまだ未練が残っとったらカーストになるかも知れんやないの」

「それを言うならストーカー。彼氏選びはあたしの勝手やん?それに今度はアジア系やないから平気よ。アメリカ人はええわー。あっちはそういうサポートもあるし、常識からしてドライにできとるから」

 尻尾でぽふんと腰をタッチされて、俺はこわばりかけた顔をなんとか中途半端な笑顔にし、みゆき姉に向ける。

「ほんでねぇ、裕人。ボブにあんたがラグビーやっとる言ったら、ぜひ試合とか見てみたいって。あっちはラグビーも強いお国柄やしねえ。せやから今度試合ある時教えてね」

「…分かった」

 心底ほっとしたみゆき姉の気配。俺は無心にジャガイモを剥き続けた。

 一家の大黒柱は妻に遅れること2時間、8時きっかりに玄関でげんなりした姿を見せた。

 ただいまぁ、ああしんどかった!とへたり込むように上り口に腰を降ろすのを三人で出迎える。

「おぅ、待っとってくれたんか?先に食べとって良かったのに」

「お父ちゃん、教授選考しんどいんやない?白毛増えとるよ」

 鞄を受け取りながらのみゆき姉の一言にえらく慌てて頭の毛皮を掻く。

「げっ!まじか!どこやどこ?」

 ここ、左耳ん後ろよ。妻に指差されたところを携帯のカメラで撮影し、それを見るなり、うげぎゃんちょ!と変な悲鳴を上げた。

「はぐー…ストレスやなぁ。これは染めとかんとあかんかなぁ。外見が老けすぎやと学生のやっとる人気投票に響くかもしれんしなぁ。どう思う、裕人?」

 また答えづらい質問を。珍しいな。

「…そのまんまでもええんとちゃう?男前は変わらんし」

「オッ!嬉しいこと言うやないかぁ」

「ちょ、みゆきあんた、温め直しのお鍋火にかけたままなんやないの」

 固唾を飲んでいたみゆき姉がハッと我を取り戻し、きゃああと叫んで台所に駆け込んだ。

 その日の夕食後、風呂場で頭を洗っていると背後でからりと戸が開いた。

「よぅ!久しぶりにお父ちゃんと一緒に入ろうや」

「ちょ、ちょちょっ!?」

 俺の後ろに腰掛けを引いて座り、木桶に湯を汲んでヘチマのタワシに泡を立たせ、背中を洗い始める相手に俺は肩を押さえつけられた。

「背中流すのもたまには、ええよなぁ。お前擦り傷いっぱいこさえとるけど、染みんか?」

「もう大丈夫やのに。中学の頃とは違うんやし」

 そういう心配はもうしとらんし!こんぐらいならスポーツやっとれば当然やろ!と朗らかな返事がタイル壁に響く。

「な、裕人」

「なに?」

「俺はな、裕人が熱中でけるもんがでけて嬉しいんや。お母ちゃんも、それにみゆきもそうや。中学の頃とは全然違うなぁ。友達もおるし、あのアホな先生にも可愛がられとるみたいやし。心配なんか今のお前には要らんお世話なんやろけどな」

 ぎゅっとうなじを掴まれた。動くなというサイン。頭から湯が降ってくる。

 懐かしいな、この感じ。中学の頃は毎日こうしたスキンシップがあった。そのまま肩から背中にかけての泡を軽く流される。

「一つだけ頼みたいのはな、頑張りすぎんでええぞってことやねん」

 俺は言葉が無かった。頑張れ!と言われるのは辛いだろうけど、頑張るなと優しさから言われるのもまた、なんともむずがったい。

「えーとさ、俺、頑張っとらん…っちゅうより、頑張るのが苦やないんや、今。クラスでも部活でも普通にできとるし、なんちゅうても皆初めての人間ばっかやろ。このままなら前みたくならんでいけると思う」

「そっかそっか。お父ちゃんの取り越し苦労やな。な?」

「………」

 無言でいたらいきなり身体をグルッと反転させられた。俺より少し色の薄い毛皮の虎人の、しんみりとした表情など微塵もない二ヤケ面がそこにはあった。

「こないな立派なガタイな息子、心配する必要も無いねんなぁ!やぁ、こっちの方もこないだまでベビーコーンやったのにもうモロコシみたいやしなぁ?」

「げっ!どこ見とんの!?エッチ!!」

「うーん、長さはあるんやけど太さがちいっと足らん気もする…山芋でも食わしたろかな」

 えーから、そーいうの!まぁまぁ前も洗てやるさけ、股ぐら隠しとるその手ぇ開いてみ?おっさんにチンボコ洗われるとか死んでもイヤやわ!!おっさん言うなや、せめてエロオヤジ言えや!!

「ちょお二人とも!外まで聞こえとるんよ、風呂ぐらい静かに入れんの!?」

 何の前触れもなくまたも戸が開き、そこには仁王立ちの虎人の主婦。俺はよくある乙女ゲーのヒロインのように股間を隠した。

「おう祥子、お前も一緒に入るか?」

「この歳で息子と入る母親がおる?…あら、あらぁ、あらあらあら裕人、えろぅええ身体になってぇ、胸板も厚ぅなってぇ、お父ちゃんにそっくりやないの」

「せやろ?高校のおぼこい娘さんらにはこのナイスバディが分からんやろうけど、こいつはそのうち女泣かせになるでぇ」

 ニンマリとする中年の夫婦に、俺は「さっさと閉めてや!もう上がる!」と湯船に避難した。

 こんな風に、富岡家の6月は過ぎていく。みゆき姉のボブへの愛情はデザート付きの手弁当へと進化を遂げ、今度こそトライ…もとい結婚へと近づくように見えた。

 話を学校生活へと戻すと、顧問の隆正先生は選手ごとに事細かなトレーニングメニューを組み、疑問はすぐに相談できるという雰囲気と状況を常に崩さず指導に当たった。

 それは体格や性格を含めた個性を潰すことなく、いやむしろ能力に併せた形で伸ばせるように研究を重ねているとしか言いようのないもので、俺はこの鴉人が口だけのお調子者ではなく徹底したリアリストであることを思い知った。

 隆正先生はラグビーを愛し熟知しているのみならず、部員をまるで弟のように扱った。三年から一年まで、性格も体格も学力もてんでバラバラ、はては家庭の事情に当人の資質でトラブルをはらむ俺達に分け隔てなく接し、侮ることも媚びることもしない。

 朝練では誰より早く来て一人でストレッチや筋トレをするジャージ姿が、夕練の後は最後に部室を出て家の遠い部員と一緒に帰る。

 自ら率先して針を持ち繕い物もするし、練習前にバイタルも記録する。要するにかいがいしいマネジャーとしての働きを立派にこなしているのだった。

 それにポケットマネーでしょっちゅう食べ放題の焼肉屋にも連れて行ってくれる。おかげで俺達は買い食いに散財する必要はなかった。みゆき姉の小遣いアップの提案は有難かったが、そこまで甘えるほど子供じゃないと自分に言い聞かせ物欲を封印した(本当のところは欲しいゲームソフトがたくさんあった)。

 そして、7月。今年は蝉の鳴きはじめが遅いとラジオアプリのパーソナリティが話していた。

 期末試験前に少し長めの休部期間があり、部員は存分に勉学に打ち込み…近藤は「ジタバタしてもしゃああんめぇーし!赤点取らんかったらええんやろ?」と最初から投げ出していたが…結果発表は最終登校日と同日。

 掲示板に張り出された順位表で俺は10番台後半にいることを確認し、まずまずの満足感を得て教室に戻った。そもそも勉強でトップになれるとは思わないが、最下位クラスは将来のために困る。上位近辺をずるずるしているぐらいが俺にはちょうどいい。

「あー、明日から夏休みなわけやがー、皆に言っておきたい事があるー」

 最近は何かとちょっかいを出してくる後ろの席の男子とふざけながら鞄に教科書とノート、返却されてきた答案に成績表を詰めていた俺は担任の泰村先生の注意事項を丸っきり聞き流していた。

「…であるからー、こらー、静かにしてよく聞きなさいー!…えー、夏休み中は健康に気をつけて過ごしなさい!他にはー、プールサイドや海での水難があるなぁ。不注意による熱中症、交通事故なんかにも充分に気をつけなあかん…」

 俺が瞬間ぎくしゃくとしたので後ろの席の相手は「おいどした富岡?」と脇をくすぐる指を止めた。

「そう言うたら何年か前にもこン近くの高速でぇー、大きな事故が立て続けに起こったなー。あれもちょうどこの時期やー。自分で気ぃつけるんはともかく、そういう風に向こっから災難が来ることもぉーありますー。せやからー、重々に慎重に、その上でかつ楽しく充実した夏休みを過ごすようにー。先生からは以上ですー。…日直!」

 肩が重い。皮膚の感覚が無い。教室の窓ガラスがひび割れるほどの蝉の声が聞こえず、全身の関節がまるで他人のものみたいに感じる。

「日直。おい日直!誰やこらー、早く号令かけんかい!」

「おい、富岡。呼ばれてるぞ、早く起立・礼せぇよ」

 耳元で教えられてそれに気づき、俺は焦って「起立!礼!」と号令をかけ、心が乱されたことをボーッとしていたようなふりで誤魔化して上州と連れ立ち部室に行く。

 のんびり屋の蛇人と成績のことで冗談を飛ばしつつ、俺は腋の下を指で確認した。冷たい汗が毛皮をねばつかせている。

 やっぱり忘れられないんだな、全然…

 部室に行くとただならぬ雰囲気が狭くオス臭い空間に満ちていた。

「おう、来たかヒロ、儀助ギー」腕組みをして部屋の真ん中に座っていた杮主将が周りを見回した。先輩達だけではなく既に菅原も近藤もいる。そして全員押し黙っている。何事だ?「これで全員やな」

 ふと壁際に眼をやると、違うクラスの男子が数名塊になって立っていた。皆緊張の面持ちで。…なんでや?

「裕人、お前次の試合でセカンドローに決定。FWフォワードの要になれや」

「ほげ!?」

 咽喉の真ん中で息が爆発し、俺は咳き込む。セカンドローとはナンバーで4か5番、FWの中列、俗に言うロッカーのことだ。ロッカーはロック、つまり施錠のことをさし、スクラムの中心となるポジションになる。初めて聞いたときは棚のことだと勘違いしたのが懐かしい。

「そ、そ、それってどういうことですか」

 バーニーズ系犬人は長く息を吐いた。

菅原スガがな、新しく部員候補を4人引っ張ってきてくれたんや。しかもこいつらみんな地域ジュニアチームにいた経験者。そんでさっきタカ先生に他校との試合を組んでもろてええか相談してきたんや。今頃、先生がこのあたりの高校やらチームやらに片端から電話かけとるとこやろ」

 そうか、さっきから感じているこのピリピリした空気は、創設以来初の十五人制に挑む先輩達の意気込みが放電現象を起こしているせいか。

 七人制についてはもうあらかた分かっているのはもちろん、十五人制についてはこれあるを期して練習をしてきたのだ。時間を作り有名な試合のDVDも見た。七人制での14分という短縮された試合時間を遥かに上回る40分×2の前後半戦に耐えうる下地はスタミナも判断力も培ってきたと主将は話す。

 言葉が切れて音が止まると名伏しがたい静寂が広がる。むふー、ふーふー、ばふーという部員の息遣いの他は。

 俺は床を見下ろした。頭では大体のところは想像できている。しかしいきなり!?しかもFWっちゅうのはスクラムを作って押し合いへし合いする、それで試合の流れを決めるんやないんか!?そのキーマンになれて、まだ一回しか試合に出てへん俺が、そんな大それたこと、できるんか!?

 ザバタドン!羽毛を撒き散らし鴉人がドアを開ける。がひゅうがひゅうと玩具の笛みたいに咽喉を鳴らして、頭を一旦下げ、ギッと仰向けて右手を突き上げた。

「今週末、の、日曜日!練習試合とったどー!!」

 うおおお!先輩も同級生も席を立つ。

 よっしゃよっしゃと脇を締める者、ブツクサと準備を念じる者、興奮で喋りまくる者、そして俺と同じく黙って飲み込んでいる者。

「月曜日は幸い創立記念日で休みだからな、天気予報も晴れだって言ってるし、おもっきし暴れてやろうぜ!」

「相手高を聞いたらお前ら更にやる気出るで」

 入口を塞いでいた隆正先生がどいたので、後ろにいるブルドッグ人の教師が不敵な笑顔でいるのが見えた。

「こないだの試合、ほんまはお前ら不完全燃焼やったんちゃうんけ。スタメンやった二人が後から混じったし、何よりタカのこと、ニノにこきおろされてなぁ。どや?」

「それは、つまり、今度の相手高は」ゴクリと唾を飲み込んで、柴犬人の宮島が整った顎を引き締めた。「またしても地嵐高校…ちゅうわけですね」

「そうや…」

 鮫人、木嶋が低く呟いた。

「あんとき、全部聞こえてた。向こうの主将の猪野郎が、俺らのタカ先生をクソカスに言うとって、俺ほんまは殴っどつきまわしたろか思っとったわ」

「せやね」河馬人、村田が首に掌を当てて腰をくねらす。「あの場はなんもでけへんかったけど、試合でならあの腹立つ人達を泣かせてあげられるかな」

「お前が言うと緊張感無いのぅ」猫人の十軒が三角耳の先を尻尾でこすって苦笑する。「えげつないことはポリシーに反するよってせぇへんけど、正々堂々とやるぶんには構わんやろ。あいつら見返してやりたいな」

 虎人の宇田川も、ゴリラ人の真間等も深く首肯した。

「あの日はええ勝負でした。けど今度ならええ勝負どころでなく」菅原が頼もしく言い放つ。「僕らなら勝てる、そう信じてます」

 そうだろうか。本当にその可能性があるのか?

 いや、そんなことで悩んでる場合じゃない。試合は、ラグビーは生き物だ。一発逆転、大番狂わせが山ほどあるんだ。

 俺はもっと個人的なことで不安に駆られているんだ。それがイヤになるくらい自覚できてるから、息苦しくてたまらないんだ。

「そんで、今日が木曜日だから、明日の金曜日から集中的に練習をしよう。特別に校長に頼んで校内宿泊許可も貰ってるから寝る時以外は全部練習に割けるぞ!」

 うぉぉぉ、と歓声が上がる。

「なんや学校に泊まるってワクワクすんな!」

「そうだろう近藤!飯も調理場借りて作るし、洗濯機は部室棟のを使えばいい。女子がなんやかんや言ってきても大丈夫!」

 こっちにはイケメンが揃ってるからな!と鴉人は胸を張る。

「一番のイケメンは、ここにいる…」

「自分やとか言わんといて下さいよ!」

 上州の野次にクワハハハと隆正先生が笑う。

「せやな、1番のイケメン言うたらこの俺やろ」

「ヤっさんはイケメンから一番離れた存在ですよ」

「なにおう木嶋!ちょおこっち来い!」

 シャハハ、シャハハとロッカーの間を逃げ回る鮫人と、半分本気で追いかけるブルドッグ人のコント。

 俺は誰かに尻尾を引っ張られた。自然身体が部員の輪から離れて壁際に寄る。

「ちょっといいかな、裕人。ちょっとだけ」

 声を抑えて鴉人は俺の背中に腕を回して部室から出た。


「ヒロが不安になってるのはタックルのことだろ」

 校舎の横っ腹を上下に伸びる非常階段。三階まで上れば下の部室には声は届かない。反対に誰かが来ればすぐに分かる。

 嵐が来そうに澱み歪んだ黒雲が渦巻き___だったら相応しいのかもしれないが、晴天無窮の見上げた空のもと、野焼きの臭いがする他にはのほほんと蝉が鳴くばかりだった。

 その青空をまん丸い瞳に映し、隆正先生は幼い顔貌に似合わない深刻な表情で腕を組む。俺はその横で、グラウンドの方を見下ろしている。

 やっぱりバレてたんやな。そらそうか。この鴉人、大っきな眼を皿みたいにして部員全員を余すところなく見守ってくれてるんやもんな。

 あの試合。あれが俺のこの世に生まれて初めてのラグビー体験だったわけだけども、あの猪人が正面からぶつかってきた時、俺は尋常ではない恐怖に足がすくんで動けなくなってしまった。

 それは以後も抜けることのない癖として俺のプレイにまとわりついて離れない。こちらからタックルするのもそう。とにかく真正面から誰かにぶち当たる状況になるとなぜか身体が凝固してしまうのだ。自分では無理やり足を動かしているつもりでも、瞬間のぎこちなさは知られてしまっていたのか。

「キミのタックルへの恐怖心ってちょっと普通じゃないからな。何かトラウマでもあるんじゃないのか」

「トラウマ」

「そうだよ。小さい頃か、これまでに植え付けられた、心の奥の傷のこと。ボクの見解みかたではPTSDに近いような気もしてるんだ。そういうのに心当たりは無いのかな」

 俺は顎に力を入れた。駄目だ、我慢しないとドバッと吐いてしまいそうだ。この優しい先生に、俺の秘密を。

 でも___言うたところでええやないか?

 俺の意識の一部が反論してきた。

 ええやん。そろそろほんまの話打ち明けても。えろう苦しんだやないか。ほとほと疲れとるやろ?秘密を打ち明けてスッキリしてまうええ機会やないか。隆正先生なら信用でけそうやし。な?

「無いですよ」

 気がつくと、ゆっくり、でもわざとらしくないようかぶりを振って、俺は否定していた。

「本当に?」

 くりんと首を傾げて俺の腹に胸がつくくらいの距離で尋ねる。

「ほんまに」

「ほんと…ほんまのほんまのほんまのほんまのほんまに?」

「わざわざ下手な関西弁にせんでください。ほんまに心当たり無いんです!もし、もしですけど俺にそのPなんちゃらいうもんがあったとして、この合宿でくせ治したらそれでええんでしょ」

「___それがその、それと関係があると思うんだけど。ヒロ、キミはもしかしてボクと」

「もしか、何です?」

 えーと、うーん…。隆正先生はまじまじと俺を見つめて頭を掻いた。ちょっと視線に懐疑的な光を加え、ぎゅっと眼をつぶり自分の額を叩く。

「うん、分かった。それならそれでいいんだ。変なこと聞いちゃったな。皆と練習計画と作戦も立てなきゃいけないし部室に戻ろう!」

 それから、とにかくボクが力になるから明日からも頑張ろうといつもの笑顔に戻り俺の胸を叩いた。トンと軽い拳の音が、俺の骨を砕かんばかりに響いた。

 ああ、やっぱり自分、卑怯者やな。

 もう一人の俺が胸の内でそっぽを向いた。


 その夜、俺は夢を見た。

 暗闇。目をつむっているので辺りには物音しかない。バチバチと何かが燃えぜている、耳障りな音だけ。

 鼻が痛む。喉が渇いた。睫毛がチリチリしている。瞼が熱気で眼球に張り付いて苦しい。燃えるような熱い空気が吹き付けてきて、まるで地獄のようだ。

 いや。ここはまさに地獄なのかもしれない。

 なんとか目を開いて、傾いたバックミラーを見た。

 そこに映っていたのは隈取りのある虎人の子供、自分おれの顔だ。現在のものじゃない。それは理解できるが、夢は続く。痛みも、熱さも、息苦しさもある。そして状況への恐怖感も。

 俺は横転した長い車の中にいる。フロントガラスは弾け飛び、ドアはひしゃげたバスの、前部座席に。シートベルトは千切れかけ、かろうじて胴体に巻きついている。命を救ってくれたそれが、いましめとなって動けない。

 イヤだ。こんなところに居たくない。縛り付けられるのはもうごめんなんだ!

 どうしてこんなに身体が重いんだ!?解放して、誰か___俺は呻いた。

 誰か助けて。

「助けたる、今助けたるさけ、こっちに手ェ伸ばせ!!」

 俺は細めた眼の先にある、逆光を背負う影へ向けて腕を伸ばした。痛いぐらいに手首を掴まれた。グイッと引かれ、恐竜に踏んづけられでもしたかのようにぺしゃんこになった車から身体を引きずり出される。

 視界に銀色の光が弾広がる。凄い量の光源が瞳孔を貫いて脳を焼く。

「も少しや。も少ししたら、助けがくる。頑張り!こっちもな、足轢かれてもうてんねんけど、諦めんぞ。生きるんや。生きるぞ!死んでたまるか!!」

 誰かに力強く抱きしめられた。ぶわっ、と音がしたような気がした。スポットライトの中を白銀の羽が雪のように舞う。これって…ヘリコプター?

 俺は何か相手に言い返す。キラキラと光輪を背に浮かべたその人は眼を細くして(容姿は分からないが)顎を引いた。

「おう、分かった。約束や。君が………」

 プツンと台詞が切れる。

「BP135/95、P80、BT37・2、呼吸正常、瞳孔反射正常」

「___意識を取り戻したぞ」

「動くなよぼん、俺達は呼ばれてきた救急隊や。これから病院に連れてったるさけな」

 俺はぼやけた視界の中で身じろぎをした。毛皮が所々ヒリヒリとする。

「おじさんの顔、見えとるか?」

 白のヘルメットにオレンジと銀色の制服を着た救急隊の大人が、霞がかったような姿で覗き込む。

「………おと……お…か…」

「お父ちゃん、お母ちゃんか?安心しいや、今は℃▱∫のヾÅ」

 何?何て言ってるんだ?音声の境界が定かでなくなって、救急車の中の様子がぼけて、ずれて、遠ざかり   

 蚊の鳴くような目覚ましの電子音と、みゆきねえのおきゃんな声で目が覚めた。

「起ーきーなさいっての三年寝太郎め!」

 布団をバサっと剥ぎ取られ、夏物のパジャマで両腕を天井に伸ばしている俺の腹を虎人の足が軽く蹴っている。

「裕人ー?今日から合宿なんでしょー?早よ起きんでえーのー!?」

「もう起きてるし!いてて、そこはあかんて、玉蹴っとる玉!なんってとこ蹴りよるねんこのSMの女王様が!!」

 ニヤリと悪い顔をして「おぬしもチェリーボーイよのう」とほざくみゆき姉の細い脚に猫パンチをお見舞いし、ベッドから背中を起こす。

階下したに部活の子達が来てるよ。早く用意しなさい」

「あ、ちょお待って姉ちゃん」

「え?」

 俺は口を滑らしたことに自分でも狼狽した。そして俺以上に驚いている相手に早口で伝える。

「明後日の、日曜日な、よその高校とリベンジの練習試合やるさけ、皆が良かったら見に来て欲しいねんけど」

 平静さを取り戻したみゆき姉が目尻を下げる。

「明後日ね」

 うん、と俺は頷く。多分午後2時ぐらいから始まるはずや。

「分かった。お父ちゃんお母ちゃんと、あたしとで見に行くからね!弁当はいる?」

「いらん。あ、みんなは持ってきた方がいいかも知れん。俺のぶんは大丈夫、タカ先生が用意してくれるし」

「あー、いつやったかあんたを迎えに来てた若い先生ね。至れり尽くせりやないの」

 思わずため息が出た。言ってしまった以上、もう後戻りはできない。

 夢の影響だろうか。俺は、あの日のことをどうにかしたいと思ってる。いや、もうずっと前からそう願ってきた。溜め込まれた雨水がかめから溢れ出るように、極めて自然に欲求が発露されたんだ。

「裕人ってば変わってきたやん」

「ほ、ほうけ?」

「うん。あーあ、こりゃお父ちゃんには一等嬉しい孝行やなぁ。きっと泣くなぁ。泣いて喜ぶなぁ」

「ほーかなー」あの中年にしてはシニカルでイケメンの虎人が泣くかな。この5年がたそんなシーンは無かったけど。「なんで早よ教えんかった、今日言われて明後日なんて、急に調整でけるかい!て怒鳴るんとちゃう?」

 ううん、泣く、絶対よ。微笑んでもう一度同じ言葉を繰り返し、みゆき姉は「じゃあいいものあげとこか」と小走りで部屋を出てすぐに戻ってきた。

「はいこれ、あたしから裕人に誕生日プレゼント。まだちょお早いけどっ」

簡単な薬局の包装袋に入れただけの中味を取り出す。

「!!」

「あんたが使いとうなったら、使えばええし」

「ん。分かった」

 俺はそれをデイパックの一番底に押し込み、黒柴犬人の菅原・蛇人の上州・チーター人の近藤と自分の合わせて四人、それに新たにメンバーに加わった一年生の四人と学校に向かった。


 今朝のグラウンドは曇天のもとに湿気が垂れ込め、熱に浮かされた気だるい大気を乗せた地表ではヤケクソのように蝉が鳴く。咲き遅れのアザミがフィールドの周囲でげんなりとうなだれて、本格的な夏の到来を教えていた。

 鴉人はラグビーの聖人の彫像のようにベンチの前に立ち、楕円のボールを片脇に抱え、よく通る悪声で言う。

「皆にボクから一つ提案がある。曲がりなりにも県内の決勝戦では常連になってる地嵐高校と対戦するに当たり、どうしても必要不可欠なもの、つまり秘密の作戦についてなんだ」

 スパイクの紐をギッギと軋むほど固く結んで俺は立ち上がる。珍しく他の部活は利用しておらず、校舎裏の六面グラウンドを有する広大なフィールドは俺達ラグビー部の貸し切りだ。

 登校してきた部の仲間は昨日と打って変わった顔つき。眉根が引き締まり、頬は膨らみ、心なし身体の筋肉が張りつめているみたいだ。

「やり方自体は至って簡単。ボールトス、通常のパス、どれにも共通してボールを奪ってそのまま連携でトライにつなげる技さ。名付けて『ホワイトタッチ』!」

 効果を出すためか、隆正先生は少し間を作る。当然俺達は拍子抜けして目配せを交わす。わざわざ大言壮語を吐くように明かす作戦なのか?ボールを奪ってゴールを決めるのが命題の球技では当たり前過ぎる内容。書道家に向かって「墨を筆につけ、半紙に書け」と言うようなものだ。

 その雰囲気をじっくり味わってから鴉人は続けた。

「普通にやればこの上もなく単純すぎるだろう。それに、この上もなく難しい。なんでだろかな、はい近藤?」

 チーター人は俺ッスか!?と泡を吹く。

「えー?って、そら難しいっすよ、そのー、ボールを奪うー、パスしてくー、それをさせんように相手が邪魔してくるんすから?俺らがしとるラグビーってそーゆーゲームなんやし」

「手が届いてしまうからだよね。奪われるのも、奪い取ることもできる」

 また間だ。ああとゴリラ人が太い眉を片方だけ吊り上げて唸る。

「タカ先生、空中戦にヤマを張るつもりですか」

 そう!さすが副主将!ビシィと指でさされ巨体の胸板がたじろいだ。

清高キヨ勇大ダイ、それに裕人ヒロ。三人とも身長が190以上あるだろ?まずはこの三人をベースに高空飛行パスのラインを、それに他の皆の力で中・低空のラインを築く。デタラメに考えついたんじゃないぞ、検討した結果あの学校と対戦するにはベターだと判断したからだ。とにかくパスのスピードが命!俺の頭の中をそのまま見せられたらいいんだけどそうはいかない。なので、今日明日は通常メニューに十五人制に慣れるための練習、更にその上にこのホワイトタッチのランパスをガンガンしてく。分かったかな!?」

 確かに俺はこの二ヶ月で身長がぐんぐん伸びた。でもその数値までこの顧問が知っているとは思わなかった。身長が低めなのをコンプレックスにしているらしい菅原が途中で羨ましそうにこちらを振り向いてきたのに、なんとなく気まずく頷く。

「去年は七人制ギリギリだったのと、FWもBKバックスも背が足りなくてっていう理由で、結局この連携プレイを提案できなかったんだ。そこでヒロ、お前が登場してきた!俺の積年の夢を、この技を完成させられるかもなって思うさ!」

「先生の夢?その作戦がですか?」

「そうさ菅原スガ。ホワイトタッチっていうのは呪いを解く、自由を取り戻すって意味があってね、とある昔のゲームに出てきて」

「先生はどっかでラグビーやってはったんですか?」

 うわ。またそれか。その質問は何百回も聞いてきて耳にタコできとるわ。誰もがそう思っていた筈だ。こんなに一生懸命にこだわって部活の顧問をしている教師なのに、隆正先生は一貫して「俺が昔ラグビーに関わってたのかって?色々あってなぁ。そのうち話すさ」とはぐらかしてきたのだ。そりゃあ嫌でも言いたくない理由があると察するところを、菅原は生まれ持った空気の読まなさで狙い打ってくる。

 いつもなら毒沼の泡ぶくみたいに「ンゲハハハ」と笑い、まぁまぁ置いといてと体をかわされるのに、今度は置いておかれなかった。

 鴉人はイタズラをけしかけるガキ大将の顔つきで「そうだね、試合の後でキミ達皆に話そうかな」とウインクしてきた。

 おおっ!部員達の腕に力がこもる。やる気ゲージがまた跳ね上がる。

 じゃあストレッチから柔軟、はじめ!の合図で部員はバラけ、俺は黒柴犬人とペアで関節と筋肉をほぐす。

「しゃあけどスガ、自分よう懲りんとタカ先生に質問でけたな。ひょっとしたら心臓、ダイヤモンドでてきとるんちゃう?」

 足を開いて座り、俺に背中を押されながら菅原は「別に」と三白眼の視線を前方に投げる。遅れてきた泰村先生の小山みたいな身体がてっくりてっくりと校舎とフィールドを繋ぐ斜面を下りてきた。

「勇気のあるなしやないやろ。誰やら秘密はある、それは僕が馬鹿でも分かっとる。でもな、秘密はいつか必ず誰かにしゃべってまうんや。せやったら黙っとっても無駄や。ま、それ以前に僕は頭に浮かんだことをしまっとけへん性格やよってな」

「何や、まるで自分にも秘密があるみたいな言い方やないか」

「___無いっちゅうわけでもないな」

「何やそれ。寄ると触ると毒舌カッターでぶった斬るお前らしゅうない歯切れの悪さやな」

「ほうか?僕らしゅうないか?」

 せやせや、何も考えんとずっぱりはっきり言うんがお前のええとこちゃう?さよか、ほしたら言わんといけんな。軽く会話しながらポジションを交代する。今度は俺が押される番だ。

「僕な、もらわれっ子やねん」

 俺は笑顔と硬直の半分こな面相になってしまった。…と思う。自分で自分の表情は確認できない。

「つっても元から父子家庭で母ちゃんはおらんかってんけどな、ホラ今から6年前、ちょうどこの近くの高速の交通事故あったやろ、あれでな。長距離トラックの運ちゃんやった父ちゃんが、クソボケカスの高速バスの運転手の起こした横転に巻き込まれてしもてん」

 俺の前屈運動が止まった。それを早よ前にかがめ!と注意され、あわあわと上半身を開いた股関節の間に倒す。

「ほしたら…お前んちの肉屋のおじさんとおばさんは」

「里親ゆうことやな。おとんもおかんも僕にはアンタもらわれっ子よ、てとこから全部隠し事なしで教えてくれてん」

 頭の中にいつもニコニコとしている黒柴犬人の店主とコーギー人の夫婦の顔が浮かんだ。そらごっつい秘密やないか。こないな場所で俺なんかにペロッとしゃべったらあかんやろ。

 そんな俺の胸中を見透かして、柴犬人は「せやから僕も、思ったものをまんま口に出してまうようにしたんや。今はもうそれが板に着いてっちゅうか癖になってしもてんねんな」と最大の体重をかけて覆いかぶさってきた。俺は限界まで脚を広げてしまい、ぎええ!と叫ぶ。

「気にすんなやヒロ。どうせ皆にも言うつもりやったんや。この部の仲間になら話せる、そう思っとってん」

「オラオラぁー!とっととランパスに集まりぃ。先生も先輩も柔軟終わってんねんで!」

「秘密って何のこと?スガちゃん何か隠しとんの?」

 蛇人とチーター人が手をぶらぶらさせながらやって来る。

「ん、僕は秘密っちゅうか学校の他の奴らには言いとうないことがあってな。この部の内に限って言っとこて思て、たった今こいつに打ち明けたとこや」

「へー。つまりラグビー部の仲間だけの秘密ゆうわけか」

 せやねん。首肯する黒柴犬人の胸をチーター人はぼんと叩く。

「お前のそゆとこ、俺好きやで。したら俺も内緒にしとること言うたる」

 蛇人は「ええ?何か二人だけの世界でズルいわ。せやったら僕も言う」とむきになる。

 お前大した秘密やらないやろ?そんなことない!やいのやいの言い争う近藤と上州と、俺と菅原は主将の声かけでランパスに加わる。

 ランパスそれ自体はプレイの基礎訓練のうちだが、それにホワイトタッチ用のバージョンアップがなされ、その練習だけで午前から午後いっぱいを使い切った。フィールドを二百回は往復しただろうか、しまいにはボールを落とさないでいることだけが目的になってしまった。

 脚は限界まで酷使されてガクガクに笑い、口は乾きベロが奥歯に張り付き、喉は焼け付いたようになって声もろくに出せない。主将は気張って音を上げるそぶりすら見せないが、それでも精神力の方も底をつく寸前なのが垂れ下がる尻尾で分かる。

 しかし、へこたれて倒れるやつは一人もいなかった。昨日来たばかりの新入り連中もなんとか意地を見せていた。

 一種異様な昂揚感が部をまとめていた。俺達なら、できる。このメンバーなら、やれる。

 それに、少し慣れてからバテるまでの間のホワイトタッチは俺達にとって得点に繋がる可能性を十分に感じさせるものだった。

 各自が俊敏に思考し、機動的にフォーメーションを組まないと効果は発揮しないが、一度パス軌道を確定してしまうとボールがまるでジグザグに飛ぶトンボみたいに一瞬で移動していく。これなら強豪校だって翻弄できるかもしれない。

 いや、できないといけない!

 鴉人は練習中ずっと嘴を爪で磨きながらボードと俺達の走り方を見比べていた。

「んー、よっしよしよし、上出来上出来!」

 夕陽が沈む前、午後五時半でひとまずクールダウンのストレッチが始まる前に、俺はその手元を覗き込んだ。

「イヤん馬鹿ん!そんなとこ勝手に見ないでッ!」

「何言うとんですか。これ、地嵐の選手のデータ?よく調べましたね」

「ゲフフフ、これは前回にボクがメモしておいたんだよねー」

 あぁあのミミズののたくりですか、と菅原が言ったのを隆正は傷ついた表情で受け取る。

「そりゃぁないだろ!?速記だよ速記!これあるがためにボクは資格までとってあるんだよ!!」

「またけったいなとこに努力してますねえ」とバーニーズ系犬人の杮が毛並み豊かな頭を揺らす。

「あたしも、速記取ろうと思ってるんですけど、結構難しいんですよね」河馬人の村田は下まつげの長い瞳をぱちぱち瞬かせる。

淳吾ジュン、お前簿記に情報処理にTOEFLにって幾つ資格とるつもりやねん」河馬人の台詞に柴犬人の宮島が突っ込む。

「何にせよ心強いです。この間の試合に出とった選手が全員とは言わんまでも、ここに癖やら傾向やら書かれとる。これを参考にするんですよね」ゴリラ人の真間等が二重顎の肉をこねくりながら納得する。

「あー、そゆことかぁ。ええこと考えついたもんやなぁ」ブチ猫人の十軒が頭を振っているが、多分、あまり分かっていない。

「手癖足癖から尻尾の振り方まで書いてはる。タカ先生見かけによらずキッチリしてますねえ」鮫人の木嶋は鴉人から額を軽く平手打ちされた。

「明日の練習はこの対策含めっすね。したら飯タイムにしましょうよ。俺はもう腹ペコや」虎人の宇田川、己が腹をさすった途端に胃袋がグルルといなないて、チームメイトの輪が笑いで凸凹に歪んだ。

 ブルドック系の泰村先生が「そやな。お前ら先にシャワー浴びて来い。飯の準備はわしとタカとでしといたるさけ」と言って、な!と隆正先生の首に腕を回した。

 先生達は?食材やらこまごましたもんやら買い出し行ってくるわ。そんな会話のあと、俺達は階段をよろばいながら(膝に力が入らないのだ)上り、部室棟のシャワー室へ着替えも持たず雪崩れ込んだ。

「ぷっひゃわ〜生き返る!やっぱ部活の後の風呂は最高やなぁ」「風呂やのうてシャワーやろ」「せやで」「せやせや」

 同学年の新人四人はなぜだか全員兎人で、しかも似たり寄ったりの顔付きで俺には誰が誰だか判別できないのだが、その一人が嘆声を漏らした。

「せやけどコレ普段は女子が幅きかせとって男は入れんのがなぁ。勿体ないっちゅうか、悔しいなぁ」

「股に金玉挟んでたらあかんやろか」

「小学生かアホ。すぐバレルわ」

「うわ、真間等先輩のチンポ、めっちゃ巨根やないですか!流石やなぁ!」

 兎人の一人が横からゴリラ人の横から股間を遠慮会釈なく観察して、ええなぁええなぁ、と繰り返す。

「あんまでかいのも考えもんやで。これのせいで嫁はんとエッチするとき向こうが痛がるよってな」

「へぇー…って、真間等先輩、嫁はんって!?」

「あ言ってなかったっけ?俺は結婚しとるねん」

 俺含め、一年生全員が口の形を◇にして「どえええええええ!?」と叫ぶ。

「秘密にしとるわけやないねんけど、そういえば言う機会がこれまで無かったなぁ。俺からわざわざ言うたら自慢しとるみたいやしな」

「…じゃあ、こないだの練習試合で遅刻したのも」

 驚きながらも冷静な菅原の洞察にゴリラ人はおうと肩をすくめる。

「娘が熱出してもうてな。嫁はん出勤しとったからそっちの実家に預けて来たんや」

 なるほど、と得心する黒柴犬人。こいつほんまに天才なんちゃうか。察しがええのにもほどがあるやろ。

「いっちゃん女受けしそうなガタイは村田先輩っすね!」近藤が隣の河馬人の外人の野球選手みたいな肉体美を賞賛の眼差しで見やる。「んでも…相手が宮島先輩っすもんね」

 気遣いの苦笑に、村田先輩が巨体をもじもじひねくって何事か言い淀む。それをじれったそうに見ていた柴犬人の宮島先輩が、近藤の反対側の仕切りから声をかけた。

「あんなぁ近藤コン、ジュンはゲイやないど。そいつはヘテロや」

「え…って、えええ!?せやったんですか!?」

「ああ」

 てっきり俺も、宮島と村田はそっちの意味での主人・女房役だと信じ込んでいたので三人の方へ首を巡らした。

「ジュンは女きょうだいばっかの家で育ったさけ、こないナヨナヨしとるけどな、中身はちゃんと男や。結構皆がこいつの仕草に騙されよるんよなー」

「はぁ。俺もまんまと騙されましたわ」

 俺達只の幼馴染やのに、なんでだか周りの人間にはゲイカポーやと思われるんよなぁ。ねー、変よねー?柴犬人と河馬人は長距離会話。

 と、いきなり俺の尻を撫でくるざらついた手の感触。俺はぎぇっ!と飛び上がって足を滑らした。

「シャハハシャハハハ!ヒロ、ええリアクションやのぅ」

 俺を触った犯人はこけかけたおれを抱きとめ、肩に顎を載せてきた。

「木嶋先輩!?何しとんですか」

「ゲイは俺の方な。一年生ん時、ジュンに告って振られてん」これがいやらしい触り方ならぶっ飛ばしてるところだが、なんというかやけに爽やかに尻を揉まれ腹を撫でられる。「ジュンもええカラダしとるけど、ヒロもそこそこいけるで。細こいマッチョタイプやな」

 またしても晴天の霹靂だ。お前このタイミングでそれ言うたらドン引かれんぞ!という同級生のたしなめにも頓着せず俺の尻に股間をすりつけてくる。

「もー、どないなっとんねんなこの部は!」

「カミングアウトはもののついでってことでな。っで!ヒロよぅ、自分はタカ先生のことどう思てんねや?好きなんか?」

「え、どこをどうしてそないな話に!?」

 何々、裕人もソッチ系なん?ざわつく同級生に俺は、いや違うし!と首を振る。

「そうなん?お前とタカ先生って入部してからやたら仲ええわ、時々二人の世界作っとるわ、てっきりそういう感じなんかと思とったんやけど」

「もー離したってくださいってー!そんなんあるわけないやないですか。男同士なんですよ?」

「ホモじゃダメなんか」

「そうですよ。だってそんなの、気持ちわ」

 しまった。口を塞いだが遅い。鮫人がすっと身体を離す。表情は明るいままだが、それだけに罪悪感が俺におっかぶさってきた。

「気持ち悪いか。まあせやろな」

「…すんません。俺の間違いです」

「間違い?」

「自分が理解できひんこと…簡単に、安易に言い換えました。先輩に失礼なことしました。人間として最低です。怒ってください。殴ってかまへんですよ」

 木嶋は剽軽ひょうきんに目玉を剥き、ヒュウと唇を吹く。

「ヒロ、自分ええやっちゃなあー!冗談やったのに惚れてまいそうや。惚れてもええか?」

「そ!それ、はちょっ、ちょっと困ります!」

 湯気の立ち昇る黒い毛皮が俺の前に割り込んだ。菅原が、怒っているのか心配しているのか定かでない無表情で俺に淡々と説く。

「冗談に決まってるやろ。相手の言うことなんでも真に受けて取り乱すなや、見苦しい」

 あれ、俺もしかして怒られてるのか?

「お前らじゃれつくのもいい加減にしときなよー。飯が冷めちまうぞー!」

 鴉人の頭が入り口から横ざまに生えた。顔を突き出している相手と眼が合って、急に尻尾の上あたりがカッと熱くなる。

「ヒロ、ボクの名前が聞こえたけど、なんか相談かな?」

「そんなもんやないです!ただ、ちょっと、ふざけとっただけです。ね、木嶋先輩!」

「ふうん?なら早くな。もうよそるだけになっとるし、手が足りなくて困ってるんだよ。ちなみにメニューは野菜たっぷり肉どっさりの寄せ鍋だ!」

 うーす!という部の面々の応えを聞いて、ふくれ饅頭の顔がふわりと緩む。

「自分の面、赤うなっとるで」

「えっ」

 菅原に言われて頬を擦った。そんなわけあるか、タカ先生はええ先生やけどそんな気持ちは俺には無い!

 でも確かに、俺の鼻先から顎までの毛皮が火照りを帯びていた。


「うぉー、今朝はまたいい天気になったねぇー!」

 合宿二日目の朝の第一声は、隆正のそこらじゅうにピースマークをばらまくような場違いな感想だった。

「天気なのはタカ先生のお脳だけですよ。見てくださいあの荒れた空模様!今にもざあっと来そうやないですか」

 俺の指差した先には山に囲まれた町の空を遮る灰色の雲のカーテン。頼りなく昇ってきた綿埃の集積体のような太陽が、それを透かして辛うじて確認できた。

 鴉人はガァと右手を振り上げ「うるさいなぁ。ラグビーができりゃ基本いつでもいい天気ってことなんだよ!」と俺を払う。羽毛が一本俺の鼻の孔に飛び込んできて、ぶしぇん!とクシャミをこぼしてしまった。

「ケヘヘ、天罰てきめん!」口元を抑えてニヤリとする。「っさぁて皆、昨日はよく寝られたかな?ボクはぐっすりでウンコもどばっと出たよ!鍋は消化にいいんだよねえ」

 そんなん誰も尋いてへんよ!と全員に返され、嬉しそうに鴉人は頷く。

 二年生から一年生、総勢十五名。ユニフォームを身につけ、ベンチ前に集合している。準備運動で身体は慣らしてあり、いつでもランパスができる態勢だ。

 隆正先生が発表した本日の練習メニュー。午前は昨日と同じホワイトタッチを行い、練度を高める。午後はスクラムからキックまで基本動作の確認と各個人の微調整。

 それらをブルドック人のもう一人の指南役とやり取りしつつ説明する鴉人のコーチの上気した顔を眺め、二人は相部屋で寝泊まりしているのだろうかと余計なことを考えてしまい、慌てて首を振る。

 午前中は毛皮の毛根をつつくような大量の汗をかき、ホワイトタッチのパス練習にのめり込んだ。11時に早めに休憩に入り、ストレッチ、昼飯はみんなでサンドイッチを作ってその後は昼寝。午後一時から練習再開。

 そこで各人に一枚ずつプリントが渡された。

「読んでみてもらえば分かると思うけど、一人一人の調整を4・5人の班になってやってもらうよ。人手が足りないのを補って、お互いのチェック項目を押さえていってくれ。課題のクリアは目標だから、必ず今日には仕上げるつもりでやること!明日もあるから今日も5時半上がり!では開始!」

 上州と村田先輩と新人ズはキックとボールトスとモールを、近藤と宇田川と宮島と十軒はパスをという具合にそれぞれの班分けでメニューに従いバラけていく。

 俺は菅原と杮先輩と真間等先輩とタックルを主に練習する班になっていた。

菅原スガはタックルに単純に力が足りない。こないだの試合もまあまあ良かったんだけど、角度がこう、甘かったんだよ。だから押し負けてた。そこは改善されてきてるけど、その総決算て感じでいこう」

 隆正先生のアドバイスに黒柴犬人は素直に短く「はいっ」と頷く。

「キヨはウチでは一番攻守のバランスがとれてる。ダイはタックルに耐える下半身の安定でズバ抜けてる。とゆーわけなので、二人にはヒロとスガのために胸を貸してもらう」

 ゴリラ人とバーニーズマウンテン系犬人は巨体をいっそう張り出して「ウス」と応える。

 鴉人の瞳が俺を射た。これまでにない鋭い視線。今日は上下に古びたピタピタのジャージをまとい、俺達につきっきりで指導するぞという意思を示している。

「ヒロ、分かるよな」

 俺は無言で答えた。

 俺は、タックルが怖い。いや、隠しても今更しょうがないことだが、ぶつかることがんだ。これはラガーマンとして、ラグビーという競技において、そしてもっと根源的に、人間的にも俺の弱さを顕現させていることでもある。

「ボクは決めてる。この練習でキミをぶっ壊す!…って、誤解しないでくれよ!?今の弱点を克服するってことだからね!?」

 それまでコーチの顔だったのに、途中からいつもの調子に戻るので、そんなん分かってますし!と笑いで返した。

 フィールドの一角を陣取り練習開始。二人の先輩が構える。俺と菅原がその前に構える。先輩達から突進、俺達がその腰から下へとタックルする。その特訓なんだ。

 俺の最初の相手はゴリラ人の方だった。土煙を蹴立ててくる相手に難なく突き進む。そしてその下半身にダイブ。成功。ただ「ヒロ、威力が弱い!」と怒鳴られる。

 それを十本繰り返し、バーニーズマウンテン系犬人に切り替えて再び十本。これはさっきよりよく出来た。しかし「ダイの体重からしたら、相手をつんのめさせるぐらいで済ませても不十分、倒すまで思い切っていけ!」と叱咤される。

 これを交互に行った。俺も菅原も、格段に高まった集中力で大幅に精度が上がってきた。この数ヶ月の鍛えられた感覚と筋力が成果を結んだんだと嬉しくなる。

 俺の最大の難関は最後にやってきた。

 そこまで!と鴉人が片手を挙げたとき、丁度午後5時半のチャイムが流れた。

 夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る…と和やかな童謡が耳に響いている。あちこちでチームメイトが膝に手を置き姿勢を崩してはぁはぁと息を上げていた。

「じゃあ最後に一本だけ頼もうかな。スガ!!」

「はいっ」

「ボール持ってヒロに突っ込め。ヒロ!!スガを全力で仕留めるんだ!!」

「分かりました。その前にヒロ、ちょおこっち来い」

 練習を締めくくるラスト一本を、体格の劣る菅原となぜ組ませるのかと戸惑う俺の胸倉を、菅原が掴んで引き下げた。

「僕は忘れてへんで」

 何をや、と訊き返す俺に一層声を落として囁いた。

「自分の胸にきいてみろや」

 ドライアイスを押し付けてくるような昏い視線に、ぞくっと背中が毛羽立った。

 鴉人達がいぶかしむ前に、パッと手を放し何事もなかったかのように黒柴犬人はボールを抱え、位置につく。

「OK、用意セット!」

 嗄れ声が遠く感じる。脇の下、そして掌にさっきまでと違う質の汗が湧く。

 こいつ、知ってるんや。知られてもうた。

 隆正先生の声が水槽を通してさらにスローモーションをかけたようにゆっくりと、「ごぉぉぉぉ〜」と聴こえる。

 ずしん、ずしん。ボールを左小脇にして菅原が走ってくる。俺が迎え撃つ。練習だけど練習じゃない。本番前の大事な瞬間。これを克服できなかったら、多分俺はこの先ラグビーをやれない。俺はなんとか駆け出した。

 黒い犬人の牙っ面が、歪んで、溶ける。

 大きくなる対向車のライトが視界を眩ませた。

「___ヒロ!」

 我に帰ったとき、俺の頭の上には菅原の手があった。そのままグイと押し下げられ、前方へと円運動の軌跡を描いて俺は転がされる。

 俺を突き倒し走り過ぎた黒柴犬人はスパイクの刃を立ててスピードを殺し、アイススケーターのごとくスピンを決めて停止。

 俺は大の字で地面に仰向けになり、まだ薄明るい曇天を仰いで目を閉じた。

「___明日は本番だ」こわばった、いつもより元気の無い隆正先生の悪声。「とにかく、ここまでで切り上げよう。___皆!練習終了だ!!」

 夕飯の献立は、菅原が中心になって作ったポトフと全員で握った形も大きさも不揃いな巻きおにぎり。空腹と疲労でいつもなら吸い込むように胃袋に消えていくはずなのに、いちいち喉につっかえた。

 砂を噛むような食事。喰うことは楽しく幸せなことだと富岡家で教えられてきた俺にとり、これは一番辛い状況だ。

 中学校以来か、こんなに居心地が悪いのは。

 沈んでいる俺をはやして「おーいおい、おいよヒロ!なんも話さんと下向いてお通夜か?そない真面目にならんで、ほれこのウインナーでも喰っとけ!丁度上州ギーのチンポのサイズやで!!」とおちゃらける近藤にも、「もうやめてやコン、僕のそんな小そうないもん!」と顔を真っ赤に抗弁する上州にも、まともに顔を上げて話せなかった。

 菅原はあの後から俺と少し離れた位置を取り、食事中は黙々とし、その後一年生に割り当ての畳の部屋で布団を敷いて消灯するまで静かなものだった。

 隆正先生はといえば、夕飯からずっと何やら考えあぐねているようで、ロビーで夜遅くまで低声こごえで泰村先生と相談をしていた。寝られなくて小便でも出したら気分が変わらないかと常夜灯のついたロビーを通るときまで、ずっと二つの影が会話をしていた。

 明日が怖い。太陽が昇らなければいい。自分も日本も地球も、いっそ消えてなくなってしまえ。

 そんな気持ちを抱いて横になり、いやになるくらいあっさりと就寝。

 そして日曜日が、試合の日がやってきた。


 隆正先生と泰村先生とでバス(側面に学校名が大書された)を誘導して、顔も態度もふてぶてしい地嵐高校の面子をフィールドに迎える。今度こそは生徒だけの面子ではなく、ちゃんと顧問も来ていた。

 隆正先生とどっこいどっこいの身長、運動部の顧問よりも音楽教師が似合っていそうなチョビ髭蝶ネクタイの小太りな豚人で、押し出しがいいわけではないのにやたらと威圧感がある敵方の顧問。

「今日は申し入れを受けて頂きありがとうございます」

 握手に右手を差し出した鴉人をフイと無視し「二ノ宮、後は任せた。何ぞあったら呼べや」と車内に戻ってしまった。

 互いのベンチの側、トイレや更衣室、自動販売機の場所などの説明があって、すぐにアップを始める。

 どうも今朝は関節が固い気がしてしょうがない。昨日の菅原とのタックル練習がハエのように心にまとわりつく。こんなんで俺は、セカンドローをやれるんやろか?

 二ノ宮は前回と同じくグレープ風味のガムを頬張り現れた。そして、またまた嬉しさがスパークしそうなテンションでブルドッグ系犬人になついていき、前述の説明を噛み砕いて飲み込むように一言余さず聞いていた。

 それから人が変わったように「今日はよろしゅうに頼む。こないだよりも骨のあるプレーを期待してるで」と俺らに侮蔑と挑発の中間あたりの科白を投げかける。

 開始予定は午後2時。ぽつぽつと応援に来た三年生がサイドに姿を見せ、現役メンバーのそれぞれの家族がシートを広げる。今にも湿気が雨の雫を結んで降ってきそうな空模様であることを除いたら、ちょっとした運動会みたいな光景だ。富岡家の面々はまだどこにも見えない。

 試合の前に円陣を組む。これは俺も菅原も、他の一年生と同じく初めてだ。

 体調は万全であること、試合後はすぐに校舎を後に帰宅しなければならないので玄関前のロッカーに鞄を持ってくるのを忘れていないこと、そして何より一昨日から練習してきたホワイトタッチを成功させるために平常心で望むこと。

 鴉人は一人一人と眼を合わせ、いつものように軽い表情でそう言った。そして。

「ヒロ、こっちを見てくれ」

 どきりと脈が跳ねる。俺はおずおずと隆正先生へ面を向ける。

「まだタックルが怖いか。どうなんだい」

 う。

 …息が止まってすぐには言葉が出なかった。と、瞬きするより素早く鴉人は決断を下した。

「キミは試合に出なくていい。代わりにボクが出る」

 はぁぁぁぁぁ!?

 流石に誰も彼もが肝を潰し一斉に同じ人物、つまるところ隆正先生の童顔を、餌の匂いを嗅ぎつけた野性の獣のように注視した。

「ヒロ、キミは引っ込んでいろ。今のキミがフィールドにいるのははっきり言って目障りだ」

「そ…そんな先生、俺はまだ」

「ええから退場せぇ!自分がおったら邪魔やっちゅうとんのじゃ!!」

 奥歯をガタガタ振動させるほどの関西弁に、俺もチームメイトも黙り込む。豹変した鴉人の異様な眼差し。

「ちょお皆待っとれや。用意、するしな」

 隆正先生はジャージを脱いだ。ハムを重ねたような胴体があらわになる。そこにはラガーシャツとパンツが着いていた。さらにスパイクをカバンから出し、ギアを顎で留める。

「ほな___行くで」

 完全なるいでたち。戦闘に向かうラガーマンの装束があまりに板についていて、他のメンバーはただ黙然と従ってフィールドへ行進していった。

 ホイッスルで高らかに試合開始の宣言をする泰村先生。俺がふらりふらりとよろめいてフィールド脇から出たところで肘をガッシと捕まえ、囁く。

「あっこはああでも言わんとお前が後に退けんやろ思て、タカの奴わざと辛辣に言うたんや。額面通りに取らんどけ」

 俺は何を言われてもかぶりを振るしかなかった。「もう俺………ええです。終わりました。タカ先生の言う通りや。役立たずは消えんとあかんのです」慰められたってそんなの、なんにもならない。

 諦めよう。ちょっとでも向いてるかも、なんて思った自分が馬鹿だったんだ。

 ため息をついてヘッドギアを外しかけた、その時。

「阿呆が!」

 頭蓋骨が割れるんじゃないかという音量で怒鳴られた。校舎に反響音が響く。あれこれシゴキちゃうかなー、他の部員の家族も見とるのにー。

 そんなしょうもない思考を吹き飛ばすように、俺はブルドッグ系犬人からシャツを掴まれて、上手投げに転がされた。

「大先輩がおどれのためだけに封印を解くんやど!それを不貞腐れて、よう見とかん奴がおるか!!」

 俺は地面に肘をつき身体を起こした。まさに始まったばかりで乱戦となるフィールド。ボールはどこにある。鴉人は何をしている?

 ボールは敵陣地真っ只中にあった。そしてそれを持って勇ましく走っているのが、隆正鐘馗その人だった。

「あれがタカのプレーや。どない思う?」惚れ惚れと腕組みをして泰村先生は自答する。「チームの要として、仲間を押し上げもするし引っ張りもする。男らしいええ仕事しとるのう」

 確かに隆正先生は凄かった。

 相手側のタックルを躱す小技、こぼれたボールを掴んで走る瞬発力、ウイングに的確な指示を出す指揮力、いい地点ところに糸で引かれるようなキックを放つ集中力、陣地を稼ぐために攻守をとっさに切り替える機転の利きよう。

 とても付け焼き刃のプレースタイルには思えない。鍛錬を重ねた身体の使い方、うねる男達の中を老練なサーファーのように追い越し、乗り上げ、隙を突く。

 観戦に来ていた家族のうち、ラグビーに詳しいらしい父兄達がざわめき立つ。

「なぁ、あの真っ黒い選手、どっかで出とらんかったっけ?」

「テレビ?昔の録画やったっけ?確かにそんな記憶があんなぁ」

「どっかで見たことあるねんけど、どっこやったか思い出せん…」

 ぽん、と掌を打った誰かが言った。

「いつやったか京都の公立高に有名な選手のおったやん!」

「ああ、あれに似とる!なんやったっけあれ、アダ名がついとったあいつ…」

___黒の流星。

 鴉人の勇姿に見惚れてしまっていた俺を、ブルドッグ系犬人の声が揺り起こす。

「黒のリュウセイや!どっかで見たことあるはずやん!」「そや!そや!『関西の星』や!」「黒の流星や!うわーほんもんやで!なっつかし!」

「隆正と書いて、リュウセイ。誰が言い始めたんか知らんが、流れ星に引っ掛けてリュウセイと呼ばれたかつての天才選手や」泰村先生の誇らしげな顔は、息子を眺める愛情豊かな父そのもの。「黒の流星。皮肉な二つ名やのう。あいつは天に昇るはずやったんや、ほんまならな」

 何のことだろう、と思う前に、隆正先生のプレースタイルのわずかな変化に俺は気付いた。それは毛先を撫でる風の温度が変わるぐらいの、本当にごく些細な変化だった。だけど俺にはすぐに分かった。

 隆正先生の膝裏まで届く長いソックス。それがめくれ下がり、くるぶしまでが露わになっている。

 右ふくらはぎに___いや両方に、醜く引き攣れた手術痕が、出来の悪い特殊メイクみたいに貼りついていた。

 鴉人の闇夜の墨汁より真っ黒けの面に苦痛のおりが堆積してきている。これも、ウチの連中や地嵐の選手で察している奴はいないだろう。

 だけど俺には___四六時中ひっつかれ、抱きつかれ、いじられいじり返していた俺には、分かる。あと数分か、それとも十数分か。ともかく鴉人の脚力は精神力でのカバーが足りなくなり、走れなくなるだろう。

 きっとあの傷がもとで隆正先生はラグビーを諦めたんだ。いや____

 を、だ。

 泰村先生の鼻が、いつもより濡れている。空気が更に湿気てきているが、それとは無関係に。

「あの意地っ張りなぁ、いつも練習のあと、こっそり俺んとこ来て泣きよるんや」

___ヤっさん、ここは地獄や。ほんま、地獄の一丁目やで。

___ボクは二度と思うように走れへん。もう身に染みて分かっとることやのに、覚悟してあいつらを預かっとる筈やのに、どうしても憎い。

___こないにラグビーが好きやのに、ボクにはもうできひん。それを目の前で毎日、時々は文句垂らしながら楽しそうにやっとるあいつらが、羨ましゅうて羨ましゅうて、憎うて憎うて堪らなくなる。

___ボクがほんまにあいつらのためにやっとるのか、あいつらのこと大切にしとるのか、それともボクの欲望のためにシゴいとるのかよう分からんくなってまうんです。

 ブルドッグ系犬人はぬるりと流れた両眼からの水滴の跡を袖で勢いよく拭いて、顎を噛みしめる。

「へへっ、大の男がのぅ。まだチンポに毛ぇも生えておらん餓鬼みとうにボーロボロボーロボロ、大粒の涙流して訴えてきよるねんで。おっかしいよなぁ」

___なぁ、ヤっさん。いつになったらボク、失くした夢を諦め切れるんやろ?いつになったら、ボクの苦しみは終わるんやろ?

 俺は拳を握りしめた。

 隆正先生はずっと夢を追って来たのか。

 青春をかけた未来を折られ、奪われ、すり潰されてもなお、ラグビーにかけた想いを捨てず、その実現の方向性を変えてまでも、絶望の中で闘ってきたんだ。

 たった一人で。

「でも、そうやない」

「んむ?」

 そうじゃない。先生は独りではなかったんだ。

 泰村先生がいた。女子ばかりの中で部を立ち上げてくれた、OBになってこの試合を観にきてくれている先輩達がいた。

 杮先輩が、真間等先輩が、十軒先輩が、木嶋先輩が、宮島先輩が、村田先輩が、宇田川先輩が、菅原が、近藤が、上州が、四人の新人が、そして。

 俺がいる。

 もう何があっても絆は断ち切れない。

「先生が、夢の中に」そうだ。それなら、俺がやってやる!「悪夢の中におるんやったら、俺が助けたる」

 隆正先生はああして身悶えするほどの苦痛をこらえて戦っている。なら俺は!

 意を決して校舎へ駆け出した。泰村先生の、何処行くんやコラ!という制止が追いつかないほどの速さで玄関前のロッカーに飛びつき、しまっていた自分のデイパックを取り出した。

 指先が痺れるほど慌てていたのでチャックを開けるのに手間取った。その紙包みを放り込んだままにしていたことを神様に感謝し、叩きつけるようにロッカーを閉じる。

「おいヒロ、お前何するつもりなんや?」

 グラウンドへ、フィールド脇のベンチで問いかける泰村先生を無視し、俺は上だけユニフォームを脱ぎ捨てて、水撒き兼補水用の水道へ歩きながら紙袋からチューブを掴み出す。

 必要なのは使用方法だけ。使用上の注意は読み飛ばす。看護師のみゆき姉の推すものに間違いは無いだろう。

 水道に並んだ蛇口の端の一つをひねる。力一杯やってしまったので、勿体なくも盛大にぬるい水が滝を作る。向きを上にすれば、噴水のようにジャアアと水の玉が降り注ぐ。

 今こそ恩を返す時だ。の恩を。俺が今度は先生を助ける番なんだ!!

 びしょびしょになった毛皮に直接チューブをひねる。青いゲル状のチューブの中身は手で毛皮の上をこするだけで泡立ち、俺の頭から胸、肩、脇腹、手の届く範囲はあらかた真っ白な泡の雲に包まれる。少しの間傘の形に広がる水から離れる。

 ゴロゴロと空が鳴っていた。泡の隙間から仰ぐと、天気は急転直下の様子を示していた。フィールドも薄暗くなり、そこに稲光がフラッシュを焚く。

「おいヒロ、自分ほんまに何しとんねん?そのボディソープは」

「石鹸ちゃいます。もうちっと待っとってください」

 背後で犬人の呆れているらしい溜息。

 まだか。もういいのか。即効性のある薬剤やからか、「落ちてくるまでに多少個人差があります」とあったけど…

 ぽつ、と俺を覆っていた泡のバリアに穴が開いた。ポツポツポツ。ボソッ。ボソボソボソ…

 驟雨しゅううが降り始めた。泡の雲にどんどん穴がほげ、溶け崩れてゴソリと流れ落ちる。下のユニフォームは水を吸って海パンのようになってしまった。そのまま水道の噴き出す水で泡の残りすべてを流しきる。

「おいヒロ、お前のそれ」

 ブルドッグ系犬人がごくんと唾を飲む音が聞こえた。成功だ。俺は息を止めて蛇口の噴水の下に戻る。

 泡が全部無くなるまで数秒かかった。もうここからはコンマ一秒ですら惜しい。俺は振り返り言葉を失くしている泰村先生にフィールドへ帰ると、試合に出してくれと、その許可を求めた。

「___選手交代や!タカ、ベンチに入れ!!」

 丁度スクラムになるタイミングだった。呼ばれた鴉人は表情で「まだまだボクはやれるんや!戻りとうない!!」と叫んでいたが、ブルドッグ系犬人の隣で雨に打たれるまでもなく既にずぶ濡れになっている俺の今の姿を見るや、ハッとして嘴を閉じる方法を忘れた。

 俺は自分の腕を持ち上げ、じっくりと観察した。虎人の縞模様はそのままに、地毛の黄色は純白になっている。

 違和感は物凄くあるのだけれど、同時にとても馴染む。自分のコピー細胞からできた毛皮をもう一枚まとっているような感覚。

 近藤が疲れてきているにもかかわらず律儀に「おい富岡ァ!自分何しくさっとんねや!!大事な試合なんやぞ!?第一、校則に毛を染めるのは違反て書いてあるやろが!!」と責める。

「おう。せやからな、戻したった」

 勇気を出して伝える。

 チームメイトの皆がたじろいでいる。俺を指差し、怪訝な顔つきで互いに見合い首を傾げる。

 俺と隆正先生を除いた二十六個の瞳が「こいつ何かしとんねん?」と疑義を映し出す。

 俺は一呼吸入れた。この感じ、四面楚歌になった中学校でのあの日をありありと思い出させる。

 違う。今は、あのときとは違う。週刊誌に居場所が知れて、その心ない記事で俺の来歴を知った同級生が半分は道義の精神から、半分は面白がって俺を村八分にしたあの日とは違う。

 真実を。本当のことを告げよう。

「俺はずっと校則を違反しとった。しゃあから元の毛の色に戻した。これ、染め粉やないで。染めた毛皮を元に戻すための、脱色剤や!」もう片方の手に握っていたチューブをベンチの上に投げる。

 は、はァ!?チーター人の眼が丸くなる。

 そこで俺は背筋を伸ばした。

 逃げない。そのための、第一歩を踏み出そう。

「改めまして、この間の試合の名誉挽回のために戻ってきました。えらい迷惑かけてすんませんでした!」

 頭を下げる。その耳の先から首、腕、ずずいと指の先から尻尾まで、濡れてもなおたなびく俺の毛皮の色は、白。

「え、お前………」

 戸惑う声は、真間等清高。

 俺は顔を上げ、真面目な顔をさらに硬くしているゴリラ人に笑ってやった。

「毛皮が白い!」河馬人が管楽器のように甲高く叫ぶ。

「あ、これも忘れたらあかんか」

 俺は両目に指を突っ込んだ。小さなシリコンの欠片を地面に捨てる。

 顔を上げると上州がひゃっ!とおかしな声を出した。

「それだけやない、ぇもあおいやないけ!」

 元の姿に戻った俺は、そんなに変に見えるだろうか。なんだか照れ臭くて鼻をこする。

「お前、シベリア系やったんか!?」

 素っ頓狂な声でのけぞったのは木嶋卓也。シェエエ、シェエエと鮫人は牙の隙間で息を鳴らし首を振る。

「毛染めもカラコンももうやめます。これが本当の俺の姿や」

 そうなのだ。

 俺は、シベリア系虎人。もともとの白い毛皮を黄橙に染めて、瞳の色も茶色に変えてこれまで生きてきた。

 俺は鴉人に近づいた。ここまで来ると、どれだけ相手が疲弊しているかが見て取れて、胸が鉄パイプで刺し貫かれたように鈍く重く痛んだ。

「ヒロ」

 隆正先生は泣きそうな顔をしていた。俺も多分同じ顔をしていた。視線を下げると相手の膝が小刻みに震えていた。うずくまる寸前の辛さのはずだのに、まだ立っているんだ。

「タカ先生」

 俺はたまらずに鴉人を抱きしめた。全部が繋がった。俺をラグビーに誘ってくれたこと、初めて菅原と顔合わせした車中での会話、そして試合が決まって非常階段に呼び出してされた、あの質問。

 言葉にできないとラブソングでよく聴く、あれはこんな気持ちなのか。瞑目する瞼の裏に、俺の人生を変えた事故の夜の光景が蘇る。

「約束、憶えてくれてて、おおきに」背中に大きな掌の温もりを感じた。ああ、俺も憶い出せた。この、弱る心に強さを与える抱擁を。「俺、俺は___もう大丈夫やから」


 雨風が荒れる中、試合はスクラムから再開した。鴉人はブルドッグ系犬人に肩を貸され、びっこを引きながらベンチにどすんと腰を降ろす。

 泰村はまだ困惑していた。目の前で起こったことが偶然の巡り合わせの結実したもの、奇妙な因果の導き出したものだということがまだ飲み込めず頭を抱える。

「ヤッさん、だからボクが言ったじゃないですか。ヒロにはラグビーの才能がある、股間にビンビン感じるものがある、ってね」

 標準語に戻った口調の隆正のすっきりした面を恨めしげに眺め、「ドヤ顔でそう言われるとなんや知らん腹立たしいわ」と呟く。「よぉも俺に黙っとってくれたのぅ。しおらしゅう相談するフリで『タカの尻に火ぃつけてやりたいんですぅ、もしかのときはボクを試合に出してくださぁい』とか言いくさりよって」

「ボクだって全部分かってたわけじゃないですよ。そうじゃないかと思ってた…いや、壁は乗り越えられるって確信はしてましたけど、ボクがあの時助けた子がまさかあんなになってるなんて想像してませんでしたから」

 天気は完全に雷雨になっていた。しかしプレーを止めさせるつもりも、双方の選手達にその意思も無かった。

 試合の流れは完全に伊瑠奈側に持ち直していた。点数が互いになかなか取れずにいたところへ富岡が参戦したことにより、先の展開が読めないものに変わり、僅かな残り時間をタイマーで計る泰村の手にも、つい力がこもってしまう。

 選手の家族やOB達はとっくに校舎の庇の下へ避難している。フィールドにいるのは両校の選手と、二人の教師だけだった(地嵐の顧問はとうとう一度も外に出てこないつもりらしかった)。

 いや、その二人の側へと三つの傘が寄って行く。一番背の高い紺の傘から太い声がかけられた。

「どないですかねぇ、うちの裕人は」

「は?どなたさんで?」

「あ!これは富岡さんの」

「ヒロの…何やて?」

 富岡家の父親、母親、そしてその娘。三人が三人とも同じ優しさをたたえ、フィールドを駆け巡るシベリア系虎人を見つめた。

 長身でやや苦味の入る男振りの良い虎人が頭を下げる。

「どうも、裕人の父親です」

「え、ええ!?」

 泰村は取り乱してフィールドと自分に対し叩頭する相手を何度も確かめた。

「おっしゃりたいことは分かります。ワシは富岡康貴いいます。裕人の戸籍上の父親、あと遺伝上の…叔父にあたります」

 黄色い毛皮の虎人はまなじりを下げた。その妻の、同じ毛の色の虎人は、白い毛皮を泥まみれにして楕円のボールを追う虎人の少年を、遺伝の異なる養い子が他の少年にぶつかって倒し倒されるさまを目の当たりにし、細かく震えて夫に寄り添う。

「裕人は、ワシの妹の息子です」

 鴉人も犬人も一番相応しい科白を選んで答えた。それは、沈黙。

 富岡家の父親は端然としている鴉人に、そっちのアホの先生にはもうとっくにバレとったみたいですけど、とはにかんだ。

「情けないですよね。くちではお父ちゃんと呼んでくれとか言いながらも、心のどっかで身構えとったんです。あの子を壊れ物扱いして、却って傷つけとった。苛められてやしないかと風呂で身体を洗うのにかこつけて確認したり、マスコミに追われたトラウマを呼び起こさんように家ん中に極力媒体を置かずに生活したり。そんなこんなが、あの子を追い詰めとった。ずうっと息苦しく感じとったんでしょうなぁ。あの子が臆病に成長してもうたんは、ひとえにワシの責任なんです」

 それでも。それは愛情であったに違いない。さぬ仲の養父として、他にやりようがなかったのだ。

「本物の両親のことが忘れられるはずあらへんのに、こっちが期待して押し付けて…あの子はそれをどう感じてたんか、薄々は知ってたけどやめられんかったんですわ。退きとうない、俺はこいつの父親になるんや!って肩肘張っとってました。それが余計あの子をつろぅさせとったんやな…」

 それはちょっとズレてるんやないかな?父親に似た細面の虎人の娘が、硝子質の砂のような音色で語る。

「誰のせいやとか、何かの報いやとか、そんなん全部思い込みやん。阿ッ呆らしい。

 裕人は裕人で、お父ちゃんはお父ちゃんよ。二人とも性格も顔もやっぱりよう似とるし。見てみ?あの子、楽しそうやない?お父ちゃんとお母ちゃんにはそう見えへんの?」

 フィールドではボールが地嵐に渡り、それを奪い返そうと伊瑠奈が押し返していた。運良く雨で足元を滑らせた相手側のバックスの保持していたボールを杮が器用にすくい上げ、素早くホワイトタッチの軌道に巡らせる。

 作戦は効を奏し、そのまま伊瑠奈の誇る駿足・菅原がタッチを決めた。

 大人達は胸を撫で下ろす思いでその選手を見守っていた。富岡家の長女の感想は正しい。ことここに至っては、悔恨など無用なのだ。

 またも攻守が替わる。白い毛皮の虎人の前に、縦横比がほぼ2:1の猪人がボールを脇にがっちり押さえて泥の飛沫と共に突っ込んできた。


 俺、富岡裕人は、この短い数日間のことをうっすら意識しながらプレーした。

 俺が両親を喪ったあの日も、こんな風に天気の悪い日だったっけ。

 父親は東京都内に支社を持つ長距離バス会社に務める白虎人の運転士で、虎人の母親はスーパーのパートタイマー。典型的な共働き夫婦の間で俺は小学校時代を過ごした。

 その日は7月21日。俺が六年生、小学校最後の夏休みの始まり。やっと都合がつけられた家族揃っての旅行で、俺は妙にはしゃいでいたのを覚えている。旅行といっても、会社の運行するバスに乗り降りして大阪へ往復するだけの、小さな計画。

 パーキングエリアで小休憩した後、俺は途中下車した旅客がいて空いていた最前部の座席に移り、ひとしきり高い位置からの走行を堪能した後、しばらく転寝していた。

 次に目を開けた時、車は中央分離帯を乗り越えて横転していた。

 最悪な事態。原因は父親の居眠り運転によるものと報道された。運転席にいた父親と、後部にいて車外に吹っ飛ばされた母親は即死。バスの他の乗客は重軽傷、正面からぶつかった車が一台、玉突きを起こして巻き添えになった車は五台。とにかくおびただしい被害者が出た。未だに最悪のものの一つに数えられる事故だろう。

 その負傷者の中に、全国大会出場中の高校ラグビー選手、世界的にも認められる駿足のトライゲッターで日本代表は堅いと見込まれていた選手がいた。

 それが鴉人のラグビー部顧問、隆正鍾馗その人である。

 悲惨な事故を起こした父親は被疑者死亡のまま書類送検され、母親も亡くした俺は孤児になった。のみならず、小学校最後の半年は事故の取材から逃げまくって過ごした。

 世間には情というものがあり、それには歯止めが全くと言っていいほど利いていなかった。住んでいたアパートには事故後から連日報道陣が詰めかけ、周囲の住人から「夜になってもテレビ局のライトがまるで昼間みたい。眠れない。人殺しの家族は迷惑だ」と苦情が出た。容赦の無いレポーターは子供の俺を捕まえようと躍起になり、やれブラック企業の犠牲の連鎖だのやれ低所得者層の悲劇だのと面白おかしく焚きつける記事がネットや雑誌を賑わす。

 他の親戚連中が俺を引き取ることに腰が引けていた中で、叔父さん達だけが怯むことなく受け入れてくれた。

___お前には何の責任もない。両親が死んだのは巡り合わせの不幸で、他の人には本当に申し訳ないことだったが、その責をお前が背負うべきではない。これからは自分達を親きょうだいと思って、一緒に暮らしてくれ。

 そうして俺は叔父さんの家の子になった。

 中学二年の秋の半ば頃だった。クラスメイトがネット検索して事故を知り、俺の個人情報を学内SNSで呟いたことから野焼きの火が瞬く間に回るように、苛烈なイジメが始まったのは。

 発端となったのは、そいつを含めた数人を家に遊びに呼んで、富岡家の遺伝と系統の異なる毛皮と瞳を不思議がられたことだった。

 叔父が素早く学校側へ届けたことで、事態は急速に収拾がついた。イジメた子供の親達へきちんと我が子を躾けるよう訴え、富岡家を訪れた糞尿を食い漁る蛆虫より性根の薄汚れた記者に法的対処をチラつかせ、更に住居を換えたおかげで大事に至らずに済んだが、俺にも身に染みて分かった。自分がどんな重大な事故の加害者の子であるかということが。

 それ以来、俺は人と交流する事が怖くなった。引っ越してから真っ先に関西訛りを覚え、転校した先では目立たないように、存在感が埋もれるように努めた。それはもう必死で。

 そしていつの間にか、他人とぶつかる事を恐れるようになってしまっていた。

 それがプレーにまで影を落とし、俺の心身をがんじがらめの鎖のように縛り付けた。そう、もはや呪い以外の何物でもない程に。

 今。仲間のタックルを次々とかわして猪人が真っ正面から挑んでくる。

 

 俺は魂の底から湧いてくる気持ちに、口許に牙をせり出させて抗った。

「やったる」まるで多重人格障害になったように、精神が引き裂かれそうだ。確固たる言葉で自分を奮い立たせる。「負けるか。ここでやらんかったら、どこでやるんや」

 バーニーズマウンテン系の巨きな体躯が果敢に猪人の横から腰へぶつかる。それで少しだけ勢いが殺された。

 杮先輩を打ちのめして前に出てきた二ノ宮の視線と俺の視線がぶつかった。ビリッと電気が走り、意識が通じる。

___死にとうなかったら、退きさらせぇぇぇ!

___やれるもんならやってみぃやぁぁぁ!!

 ゆるりゆるりと船を漕ぐかいのように、二ノ宮の両脚が泥濘ぬかるみを深くえぐって前進してくる。俺より大きい体躯が迫る。前回とは反対に俺が飛び込む番だ。

 正面から攻め寄せる相手の姿にトラックが重なった。バスが横転する直前にぶつかったのが、闇夜の怪物のようなそれだった。

 菅原の一言は教えてくれた。俺の父親があいつの父親を殺したのだ、と。抑えかけていた逃亡の衝動を呼び起こし、またしても俺は動けなくなった。

 菅原は、このフィールドのどこかで見ているだろう。あいつの視線を感じる。

 まだ幻がはっきりと現れている。バンパーの色、雨が流れ打つフロントガラス、そしてそのガラス越しの、菅原に生き写しの柴犬人の驚愕に満ちた断末魔の表情。

 ああ、恐ろしい。首筋の毛皮が粟立って剥がれそうだ。

「___こん畜生ォォォォォ!!」

 俺はそこに向かって飛び込んだ。

 白い羽毛が視界に舞った。一度だけ見た光景がサブリミナルのように繰り返される。

 稲妻が音より早く闇を切り裂いた。トラックの幻影を打ち消して、白銀の羽毛に包まれた姿が手を差し伸べる。束ねた藁のような眉、見開いた大きな瞳、男らしい童顔の鴉人。光の反射がその身体の表面を輝かせているのだ。

 その手羽の先端を、あの手を取るためには低く体勢を取らねば。

 頭を下げる。肩を降ろす。腰を引き、しかし勢いはそのままに   

 疾走。地を疾駆する古代の恐竜のように。踏み込まれて泥が跳ね、俺の後ろで水たまりがシャーッ!とシダの葉みたいに開く。

 一直線に俺と二ノ宮の走行が重なる。気の狂ったドライバーが駆る大型バイク同士のように。

 激突!

 肩が外れたかと思った。肘から先にありったけの力を込め、相手の腰に腕を巻きつける。

 一瞬の押し合いに勝ったのは俺だった。

 猪人は「ぶもおおぉ」と無念極まる唸りを漏らし、胸から倒れ込む。地面に叩きつけられた筋肉質の身体が俺をひっつかせたままバウンドし、腕と足が絡み合う状態で転がった。

 そこに黒柴犬人が駆けつける。チーター人も、蛇人も、三毛猫人も、相手チームも。たちまち俺達は人間団子の塊になる。

 そこでホイッスルが鳴った。夢中になってボールを奪い合っていた俺と二ノ宮はそれぞれのチームメイトにひっぺがされた。

「時間や!試合、終了ぉ___!!」

 泰村先生のどら声に、全員がよろよろと立ち上がる。

 どっちや。どっちが勝ったんや?点差、いくつやったっけ?

 雨が激しさを増していた。夕方のような暗さではバスケ部に借りたスコアボードも読めない。

「どっちも良くやった」

 鴉人が傘も差さずに集団の中に入り、そしてさっきの泰村先生よりも大きく、結果を示した。

「53ー48で、地嵐高校の勝ちだ!」

 どおっと地嵐の選手達が湧き上がった。伊瑠奈の選手もやり切った表情で胸いっぱいに深呼吸し、降り続く雨を顔にこすりつけ泥を流す。

「すげぇ良かったで」

 横にいた猪人から言われ、俺は何のことかと首を傾げた。

「タックルや、自分の。ほうけとってからに」

 お互いに健闘を称え合うなんて想像してなかった相手から「自分、ヒロゆうたったか?前の試合とは別人みたいやんけ。完全に俺の負けやな」と笑顔を向けられる。

 俺は拳骨を握って突き出した。二ノ宮はニヤリと口の端を曲げ、同じように拳骨を握りごつんと当てる。

「次は倒されんで。県大会でろうや。この試合がまぐれやなかったらな」

「それはこっちの科白や。あんた達こそ、途中でドロップアウトしてガッカリさせんなや?」

「おうおう、でかい口叩きよるわ!」

 ばっはっは!と笑う猪人。菅原がやって来て「ウチの顧問と、あとそちらさんの顧問のかたに了解取り付けたんで、地嵐の皆さんもシャワー使うて校舎の中で少し雨が弱まるのを待ってから帰って下さい」と提案したのを受け、そのまま案内されて行く。

 さてと、俺は一番大事な人達に報告に行かなくては。

 康貴おじさん、おばさん、みゆき姉の三人に白い毛皮を見せるのは久しぶりで、なんだか裸を直接晒してしまうよりも恥ずかしかった。

「えへへ…負けてもうた。せっかく観にきてくれたのに、ごめんな」

 ごめん言うことない、よぅやった!と顔を下げ、叔父は目許を隠すようにこすっている。

「泥だらけやけど男前になったよ、裕人」おばさんは揉み手が止まらない。喉を詰まらせながら、なんとか笑顔を保っていた。「毎日あんなに痛そぉなことしてたんやねぇ。家に帰ったら手当てしたらんとね」

「裕人ぉ!」みゆき姉は感動が我慢の限界を超えたらしく、お気に入りのワンピースが泥まみれになるのにも構わずに抱きついてきた。「やったねぇ!あんた、いっちばんカッコ良かったよ!それでこそあたしの自慢の弟よ!!」

「姉ちゃん!ちょっ、やめてぇや!」

「なぁーによ、こん程度なんか救急治療室ERの血飛沫に比べたら屁でもないわよ!汚れなんかどうでもええやない!」

「そーゆーことちゃう!みんなの前で恥ずかしいっちゅうねん!」

 あら、そうか。それはゴメンね!と小さな牙を唇からこぼす虎人に、泰村先生がこれで拭いて下さいと綺麗なタオルを渡した。

「おし、今夜は帰ってワシがご馳走作ったる。何がいい裕人?餃子か?唐揚げか?ステーキか?」

「あ、おとん、それなんやけど」

 うわ、皆止まってもうた!

「おっおっおとっ…!」

「康貴さん落ち着いて。はい深呼吸深呼吸、ヒッヒッ・フーのリズムよ」

「お母ちゃんそれ無痛分娩法よ」

 ド緊張でおかしくなりそうな叔父達に、俺も変な笑いが出そうになる。

「…おとん」

 初めて叔父にかける呼び方だ。俺にとっての『父さん』は死んでるし、こんなに親しい叔父に対して『お義父さん』では他人ぽすぎる。『お父ちゃん』と呼ぶとなんだかわざとらしい気がして毛皮がむず痒くなりそうだし。

 だから俺はこう呼ぼう。

「おとん、あんな。俺、隆正先生とちょぉはなししときたいさけ、ウチに帰るの遅うなってもええ?」

 喜びを大声で吐露してしまいたいのだろう、叔父はへの字口で顔が崩れるのをこらえ、さよか、さよかとだけ呟く。

「じゃあ、ちょっと行ってくる、後で」

「あ、でも裕人、あんた帰ってくる前に電話しぃ、あたしが車で迎えに行くし」

 きびすを返した俺の背中に片腕を伸ばすみゆき姉。そこにブルドック系犬人が柔らかく上から手を添えて、細腕を下げさせた。

「それは心配ないですよ。タカが車で送るでしょう。しばらくそっとしたってやってて下さい」

「あ…そうなんですか」

 あれ、なんか姉ちゃんの瞳が泰村先生と目が合った途端に、ポッとピンクのハート形になったような?…いや、気のせいか。


 校舎のロビーに上がり、タカ先生はどこかと上品なブランドスーツに身を固めた両親に挟まれてもじもじしている上州に尋ねた。ほこほことシャワーの湯気を上げる坊ちゃん坊ちゃんした蛇人の頭の向こうに、親兄弟全員ヤンキーかと腰を抜かすほど柄の悪いチータ人とその家族がいる。

「あ、どっかの教室に忘れ物取りに行かはっとるよ」

「忘れ物?どこや?」

「月曜日が祝日やって忘れてた!って言って、上の方の階に」じゃあ四階の一年の教室か。「あ、それから今日はもう自由解散やって!お疲れさん!」

 俺も尻尾をひらりと振って「おう!」と返し、賑やかなロビーから階段を駆け上がる。

 校舎の電気は二階から上は消されていた。三階にあと数段というところで俺は四角い塊になるほどの量のプリントを両腕に載せ、あらえっさ、こらえっさと降りてくる黒い羽毛の鳥人にぶつかった。

「うわぁっ」

「おっと!」

 バランスを失った相手が背面から倒れるのを、すんでのところで抱き留める。紙の束が三階の廊下へと空中を滑り、ばさばさと分解。そのうちの数枚は信じられないほど遠くまで飛び散る。

 俺は隆正先生の身体を、まるで女の子に迫るディズニーアニメの王子のように片腕で抱き、傾いた姿勢で嘴を半開きにした顔を覗き込んでいた。

 すぐさま相手を離す。鴉人も、ぱっと距離を取り廊下に落ちたプリントを回収し始める。

「す、すいません」

「あ、こっちもボッとしてたから」

 ぎこちない沈黙。

 散らばるプリントから成る紙の領土。その端から集めていき、鴉人に渡す。

「これで全部ですか」

「ん、あ?あっちにまだ二枚あるね」

 隆正先生が俺の後ろの彼方、音楽室の方へ歩く。俺もその横にぴったりついた。

「ご両親はどうしたんだ?」

「タカ先生と話したい言うて帰しました。この後、予定ありますか?」

「ボクは別にないけど」

 とっぷり陽が暮れて、窓の外には小雨になった夜が横たわる。照明が無いので鴉人がどんな反応をしているのか分からない。

 プリントの残りの二枚が音楽室のドアに角を突っ込んでいた。俺が屈み込むのと、隆正先生がしゃがむのが同時だった。

 すべすべした羽が指先をかすめた。思わず目をつぶる。なんやこれ、心臓が潰れてまいそうやないか。こないに相手を意識してどないすんねん?

「ヒロ」

 小さく小さく、遠くにかすかなノイズを生んでいる鳴きめたばかりのコオロギのように、隆正先生の悪声が囁く。

 暗闇に鴉人の瞳が輝いていた。嘴にそのきらめきが移り、顔貌の隆起はなんとなく見て取れる。一瞬、キスする場面なのかと俺は唾を飲み込んだ。

「ヒロ。あっち、あっち、アレ…」

 手羽先が音楽室のドアを指している。硝子を嵌め込まれた部分を示しているらしい。なんやろ、こないな時に…

「は、…あんっ」

 ん?

 俺は硝子に鼻面をひっつかんばかりにして教室の中へ目を凝らした。

 目の前の灰色のカーペットタイルが敷かれた床の上で、大きな尻が小さい尻にまたがっていた。

「うぉ」

 わ!と叫んでしまう前に隆正先生の掌が俺の口を塞ぐ。

 教室の中に灯る非常口の常夜灯が、ぼんやりと二体分の裸を照らしていた。汗を吹きこぼした彼等の毛皮は闇に慣れた眼に明るく浮き上がる。

 黒い毛皮の柴犬人を仰向けに寝かせて膝を立たせ、焦げ茶色の毛皮の猪人が股の間にしゃがむ格好でリズミカルに腰を突き入れていた。

 菅原と、二ノ宮!?

 二人の位置は俺と隆正先生からは脚元側から眺めるようになっていた。正常位で重なる二つの尻、その中心に猪人の睾丸がぶら下がっているのが強烈に印象付けられる。防音効果のおかげで蟻の喘ぎ声のようなものしか聞こえてこないが、実際は中ではとんでもない大音量で「んあっ!かっ、くひぃ!ええっ…ええですよ!!」とか叫んでいるのだろう。

 ぐちゅぐちゅという肉のぶつかりが聞こえてきそうな激しいピストン運動。猪人の尻の筋肉が、犬人に突き込む度に盛り上がっている。

 いつの間にか隆正先生の手が俺の手を握っていた。俺も握り返す指先についつい力が入る。

 急に二ノ宮が菅原を抱き起こした。駅弁という体位に違いない。部室のエロ本以外ではついぞ見かけたことのないシロモノだ。

 二ノ宮は相手をグッグッグッと下からお神輿のように突き上げる。菅原は首をのけぞらして喘いでいたかと思うと、二ノ宮の頭を支えるようにしてその唇を吸った。

 がくん、と猪人の動きが止まる。

「う…!う………ぉぉぉぉぉっ!!」

 雄叫びが上がる。エクスクラメーションは床と壁に吸収されている筈なのに、猪人の声量はドア全体を軋ませた。二ノ宮の腰と背中が菅原を抱いたままガクガク震える。やがて踏ん張っていられなくなり、どさりとカーペットに尻を着いた。

 睦言むつごとを猪人の耳に吹き込む黒柴犬人。なんて穏やかな顔なんだろう。エロいことをしているのに不健全な感じが全くせず、むしろ清々しくさえ映る。

 不意に菅原が眦を上げ、俺と鴉人の方をまともに見返してきた。そしてニッと笑う。

 あ。あいつ気づいてやがる。

 隆正先生が俺の手を強く引いた。足音を殺して足早にそこを去る。

 二人がこんなことになってるなんて思わなかった。いつからだろう、いつの間に?そういえば、あの最初の練習試合のとき菅原は最後に____

「ほぁあ!びっくりしたね!」

 鴉人ののんびりした感想で我に返る。俺達はもう一階ロビーに戻って来ていた。煌々と蛍光灯に照らされた整然と並ぶ靴箱とロッカー。静まり返る空間には、2、3の家族の輪が雨の向こうに遠ざかってゆく会話のこだまを残すだけ。どうやら他の連中は全員が帰路についたらしい。

 俺もぶはぁと息をつく。もうしゃべってもいいだろう。

「驚きました!」

「だよなぁ」

「まさかスガが二ノ宮と…いや〜、意表を突かれるてこのことですね」

「え、そっち?」

「何がです?」

「いや、ボクはその、男同士って」鴉人、かぁっと火がついたように額も頬も朱に染めて「男同士って、ああするもんなんだと思って」と斜向かいへ視線を注ぐ。

 それは俺も同じくだ。男の穴は尻に一つだけ。そこに入れるしかないと理屈は分かっても、想像だにしたことのない行為を現実に見せられて、困惑するなと言う方が無理というものだろう。

「凄かったです」

「うん」

「エロかったです」

「うん」

 顔を合わせて、俺達はプッと噴き出した。

「帰ろうか、ボク達も。キミんちまで送るよ。話があるって言ってたっけ?車の中でしようか。ここにいるとスガ達と鉢合わせしちゃうだろうし」

 是非も無い。バッグ片手に隆正先生の置き傘を俺が差し、プリントを濡らさないよう寄り添いタントに乗り込む。今回も助手席だ。

「助手席て、嫌いなんです」シートベルトを締めたら気が緩んだ。「事故の事を思い出すんで」

 鴉人はミラー位置を調整して丁寧に発車する。ジャズ調のアニメの主題歌がスピーカーから流れ出してきた。エアコンは送風だけだが、雨で気温が下がっているので室温は丁度いい。

 とても落ち着いた気持ちだ。心地良い疲労と興奮。フロントガラスをワイパーが拭うリズム。

 敷地をするすると滑り出て車道へ。田舎道には他に走る車も無い。ライトに照らされた雨粒が鉛のしたたりのように太い線を引き、前方に浮かんでは消える。

「いつから俺の嘘を見抜いてたんですか」

「はじめから!」

 鴉人の横顔を見た。真面目な口調だのに、嘴はニコニコと楽しげだ。

「えー!?マジですか!?」

「おおとも。忘れたことなんかなかったさ」

「けど俺、かなり変わっとったでしょ」

「そこはなかなか確信が持てなくてねー。なんせあの時とは名前も変わってるし毛の色も替わってるし、何より」

 あの可愛かった坊主が、ボクよりでかくなるなんて思えなかったんだ。

 先生は何もかも溶かしてしまうような熱い笑顔で俺に言う。

「遅くなってゴメンな。長いこと果たせなかった約束のこともな」

 忘れないでいてくれたんだ。俺でさえ記憶に沈めていた約束なのに。

 瞳を閉じる。この気持ちを確かめよう。内なる心の目を反らさないように、真剣に。もう、嘘はいらない。

 赤信号で停止。ん!と膝を叩かれたので何かと思ったら、レバーを持つ手羽先に無理矢理手を重ねさせられる。

「ヒロは俺の初恋の人だよ」

 轟音と振動で俺の背中がシートからビクッと離れる。デコトラが一台、荒っぽいスピードで鼻先をかすめて走り去った。

「あの時、俺まだ子供やった思うんですけど」

「うん。ボクも若造だった」

「今もでしょ」

 ゲハハハハ!それもそうか。痰が絡んだような音だが快い返事が車内に軽やかに弾ける。

「ボクからしたら、…なんでか分からないし上手い事言えないんだけどね、あの時、あの夜、救急隊が着くまでしがみついてきたキミの事がとても………」

 青信号。ブレーキを柔らかくほどいて進む。

「一緒に居てくれって頼んだだろ」

___大丈夫や!ボクも脚かれてもうてんねんけど、諦めんで!死んでたまるか!

 自分だって苦しかっただろうに、痛かっただろうに、俺を抱きしめて勇気付ける言葉を吐き続けた特徴的な悪声の主。俺はただ心細くて恐ろしくて、この人の胸にしがみついた。

___お兄ちゃん、一緒に居て。一人は怖いよ。

 俺は確かにそう頼んだ。全身打撲で気を失ってしまったのは、それからそんなに長い時間ではなかったと思う。

「あの夜のヒロはほんの子供で可愛らしかった。守りたいって思った。それからしばらく経っても忘れられなくて、好きになってるんだって自覚してさ。キミんちまで行ったんだけど、引っ越してて会えなかったんだよ。行き先も分からないし、調べる方法も無かったから」

 そんな前から好きだったと言われると、なんだかくすぐったくて横隔膜が裏返りそうだ。

「先生は、事故の後どうしてたんですか?」

 うーんと唸り硬い眉根になる。

「ヒロが大変な事になってたのは知ってた。週刊誌とかテレビとか見るたびボクも辛くて…自分の身の上に関して言えば、それと逆のことがボクに起こってたよ。ヒロの他にも何人か助けてたから」

 不愉快な口調。俺の想像力が今乗っている車のエンジンよりも速く回転する。

「先生は英雄視されたんですね?」

「おー、やっぱり鋭いねキミは。スガとはまた違って頭がいい」

 鴉人のぽってり膨れた愛嬌ある頬肉がややしぼんだ。物寂しい微笑みが取って代わる。

 それで合点がいった。なんだ、この人も俺とおんなじやったんか。

 俺は加害者遺族として世間の非難の標的になった。対して隆正先生は、ヒーローとして世間から賞賛された。事故ではからずも負傷し、尚且つ他人を救った悲劇のヒーロー。

 そんな世間の勝手なレッテル貼りに再び振り回されるのがほとほと嫌で、西の国訛りもラグビー選手だったことも隠してきたんだろう。

「タカ先生」でももっと。俺の想像だけじゃなくて、この人の深いところまで本人の口から聞いて知っておきたい。「知りたいです。先生の辛かった頃のこと、俺にだけ話してください」

 鴉人の手に重ねた己の指先を広げ、相手の指まですっかり包み込む。俺の体温が黒い羽毛に染み込んでいく。相手の肩甲骨を満たしていた緊張がほぐれ、ほうっと丸っこい腹に溜めていた息を漏らした。

「そうだなぁ、まず難儀だったのがエロ本一冊も買えなくなったことだったよ、それも数年間」

 静かに、言葉の片隅にも気をつけながら隆正先生の過去が形になる。周囲がどのように彼に対して理想という名の檻を築いたか、そこにどれぐらい頑なに閉じ込めようとしたのか。

 加害者の遺族が報道被害の実態を訴えたところで相手にされないように、英雄が迂闊うかつに人々を落胆させることは誰にも受け入れられない。他の国では違うのかもしれないが、この日本では、そうなのだ。

 品行方正であるべきとされ、道を外れることを許されず、精神こころの中まで縛り付けられる。つまるところ、呪縛だ。俺達は形こそ対極だが、互いに同じものから呪縛を受けていたんだ。

「次に辛かったのは、仲間内に気持ちを伝えられなかったことかな。お前らはいいよな、好きにラグビーができて羨ましいよ…なーんて、口が裂けても言えなかった。ボクはフィールドを離れたらしおれちゃう弱虫だからさ。人の目が怖くてね」

 フィールドで走れなければ選手に復帰できない。その為に手術を何度も繰り返し、その度に絶望の奈落に突き落とされる。手に入れたのは、糞の役にも立たない讃美と、その裏にほんの少しの優越感をはらんだ薄汚れた同情の視線。

「どんどん人付き合いがわずらわしくなって、自分の殻に閉じこもることが増えてった。気が付いたら孤立して、高校が終わる頃には部の仲間だった奴らも離れていった。そんで目的の無い大学生になって、ただなんとなく教職課程をとるだけの腐ってたボクに、ヤッさんが声をかけてくれてくれたのさ。も一度ラグビーを、今度は顧問としてやってみるべきや!って。それで今に至ると、こんなわけ」

「ゼロから始めようっちゅうわけですか。伊瑠奈高校みたいなほぼ女子校に就職したんは」

「まさしくそうだね」

 恨み辛みは消化するか昇華するのが早道だ。あのブルドッグ系犬人はそう誘ったのだという。

「先に言っておくけど、ヤッさんもやっぱりラグビー繋がりだよ。とある事情で自分自身が直接関わることを避けてるけど。あの人もかなりのラグビーバカなのは分かってるだろ?」

「そないな言い方したらヤッさんに雷落とされますよ」

「それはいかんなぁ、ヘソ隠さないと!」

 腹回りを撫でくりながら「ヤッさんには今回腹芸かましちゃったから、近いうちに埋め合わせしとかなきゃ」と言う。この人と泰村先生はじゃあ…

「タカ先生はヤッさんと付き合うとるわけやないんですね?」

「ンゲッハハハハハ!どうしてそうなるんだよ」

「そりゃ…昨夜も二人きりで内緒の話をしとったし、ヤッさん頼れるし、仲ええし、二人して独身やし…」

「細かいこと気にしてるねキミは」

 だって、俺は。あんたのことが好きやから、小さこまいことまで気になってまうんや。

「あと俺らが好き勝手にラグビーでけるのをただ眺めとるしかないのが辛いって打ち明けて泣いたって聞きました。そんなこと、よっぽど信用してないとでけんでしょ」

 ずごん!いきなり額をハンドルに振り下ろす鴉人。

「え、ちょちょい待て!マジか!?それヤッさんキミに言っちゃったのか!!」

「はぁ、俺が一旦退場させられた時に」

「うわはー、マジか、マジかよー、そんなの生徒に知られるとかめっちゃ恥ずかしいんだけど!!」

 片手でトサカの羽根をひねくり、「恥ずかしい恥ずかしい」を繰り返す姿がなんとも無防備で可愛い。て、あかん、まだ聞きたい質問が残っとる。

「今は、俺のことどう思っとるんです?」

 鴉人はカーブを曲がるため右にハンドルを切りながら鋭く答えた。「大事な生徒!」あとは直線をひた走る。

「即答ですか。他には?その、他の奴らと同じやないとことか、特別に想っとることとかありませんか?」

「無い。いや、個性はあるけども、キミはみんなと同じようにボクの大事な生徒さ」

 なんだ。俺の独り相撲か。あぁそれとも、育ちきった俺にはもう興味無いっちゅうことか。

 身体にみなぎっていた熱が抜けていく。俺は諦めとともに隆正先生の手を離した。と、それを追いかけて隆正先生が俺の肘を掴みぐいっと引き寄せる。

「ボクからも聞きたい。ヒロは、ボクのこと、す、す、す、すすすすすすす好きか・なー?」

 嘴に汗を浮かべて前方に視線をわざとらしく据えているのを、俺はまじまじと眺めた。

 わけが分からない。どもってまで何を言っているのだろう、それについていましがた質疑応答したばかりだのに?

「いいとも風に『好きやともー!』とでも言えばええんですか?俺は好きに決まってますやん。タカ先生はそうやないみたいやけど」

「えっ!?」耳元で絶叫されて思わずのけぞる。「ボクだって!ヒロのこと、大っ好きだよ?…ってゆーことはだね、あれだな…両想いってゆーことなんじゃないかボク達?」

「へ?しゃあかて、さっき先生が言ってましたやん、『他の生徒と同じや』って。ほしたらあれ、どないな意味やったんですか!?」

「あれは!ただキミがどう思うって訊いてきたから教師と生徒の立場について正直に答えただけで、恋愛感情とは別だろう?」

 ずるぅと座席からずり落ちるほど腰が抜けた。

「じゃあこういうことですか、生徒としては他と差別したりえこひいきしたりするつもりはない、けども、恋愛的な意味では好きや!っちゅうんですか」

 片手運転を危なげなくこなしつつ、隆正先生はこっくり首肯する。その無邪気な仕種がカチンときて俺は後頭部にきつい平手打ちを見舞った。シパンと良い響き。

「いったぁ!何すんねん!?」

「何すんねんちゃうわボケ!頭固いにも程があるわ!マジメか!マジメ君なんか!!」

「何やその言い方!?ボクはただキミを大切に想うさけ、学生と教師でいる間のケジメだけはつけとかなあかんて言うとるだけや!!」

「じゃっかましいわ、こぉのボケナスのテンプラが!車、停め!」

 はぁ!?と聞き返す相手にええから停めぇや!!と逆ギレる。

 田んぼが広がる一本道の、街灯の下にタントはタイヤを軋ませて急停止。ブレーキに驚いたカエルが合唱をやめ、やおら再び鳴き出す。

「もう、なんなんやホンマに。わけわからん…ほら停めたで。これでええのんか」

 俺は深呼吸をした。試合開始の前には深呼吸をする、そんな癖がすっかり身に染み付いてしまった。

 俺の横で、ぶすぶす不満の焦げを顔に浮かべている、情熱的で誠実な顧問のおかげで。

「もうすぐ、あっこの角を曲がれば俺の家です」俺の家…ええ響きやな。今日からやっとほんまもんの家族になるんや。「このままやと、何にもなくて送り届けられることになってまう」

「それはそうだよ。無事に届けるのが教師の仕事だから」少し冷静さを取り戻す、黒い眉毛のしたり顔。「公事に私情を持ち込んだらあかん…いけないんだ。生徒をたぶらかすとか教師の風上にも置けないよ」

 思わずため息が漏れる科白、おおきに。

「あんたの立場なら満点回答なんやろうけど、恋人としては間違うとる。オールペケで赤点や。ダメダメや」

 俺は隆正先生の肩を掴み、シートに押し付けた。左手で自分のシートベルトを外し、自由になった上半身で相手に覆いかぶさる。

「俺、タカ先生とHしたい。スガとニノがしてたみたいに、裸で抱き合って、嘘も見栄もなんもかんもひっぺがして、あんたと一つになりたいんや。ほんまに両想いの恋人やったらええでしょ?」

 間近に面を寄せた鴉人の瞼が、これ以上ないくらい開かれ、ゴクリと喉仏が上下した。はっはっはっと呼吸が波打ち始めている。

「で、でもな、ヒロ?未成年者と婚姻の事実無く性交することは、まぁボク達は男同士なわけだけれども、この県の条例でも禁止されてるし、ボクは教師としてそれを破るわけにはいかないよ」

 ようもまぁぺらぺらスラスラと、こんな時に道徳を語れるものだ。俺は押し返そうという鴉人の手羽先を反対に抑え込む。

「あーもー分かった!なら俺があんたを姦淫ったる。それならええんやろ?生徒が教師を襲って犯すなら問題無い筈や!」

「あー、なるほど。え?いや待て、思わず納得しちゃいそうになったけどそれはそれでダメだろ!」

「なんでです?」反駁はんぱくする鴉人のシャツの下に手を入れて弾力ある腹を揉みしだくと、たちまち目が細くなって黒曜石の羽毛は紅く照らされる。ジャージの股間が硬くなって隆起する。ほっ、なんやかや言うてから、やる気満々やないけ。「先生も俺とHしとうてたまらんのでしょ?何があかん?何が問題なん?」

「ボ…ボクのほうが年上なんや」隆正先生の右の乳首に指先が触れる。キュェ!と太い上半身で身をよじる。「キミのことを抱いて、やるなら、ともかく、抱かれるんは…情けないやろ」

 ハァハァと俺の指先を感じながらの、絞り出すような囁き。俺の股間も痛いほどに勃起して、泥が乾いてへばりついたラグパンのファスナーを突き破ってしまいそうだ。

「どっちでもええですやん。俺もう火ついてもうたし、先生の中にこのままトライさせたってくださいよ」

 いやそれはなんやおかしな言い方やなぁ。ええぃ暴れんでください!まっ、待て待て待ってくれ、後ろに行こ、そっちのが広いし!

 鴉人が車のエンジンを切ってシートベルトを外し、何とも恥ずかしそうにうつむいて後部に移る。俺もさっさとそのデカッ尻を追って後ろの席へ。後部座席のシートを倒すとダブルベット以上の広さの寝床ができた。

 シートをボンボンと叩いてロックを確認する隆正先生の、四つん這いになっている背中からおぶさるように抱き締めた。そのままゴロンと横になる。

「あだっ、頭打った、ちょい待てよ、尾羽ポジション悪い!がっつきすぎだって、こらヒロ!ハウス!」

「俺は犬ですか。ほなら我慢できひんのも当然ですよねタカ先生?俺、あんたのこと好っきやねんから。サカリがついてもうてん」

「ボクはどこにも逃げないし、なんていうかこー、抒情というか慕情というか冷静と情熱の間というか、もっとゆったりしっとりと…」

「んなこと言うとったらタカ先生溶けてまうでしょ」

「ボクはアイスじゃない!」

 とにかくやりたい。隆正先生の中に入りたい。一秒でも早く。俺を衝き動かす気持ちは、これが全部だ。

 相手を仰向けにして、最初のキスをする。嘴の先は尖っていて、固くて、温かい。唇を触れ合わせた時のギュッと閉じた瞼を、こわばる首と肩を、心底愛おしく思った。

 愛撫はぎこちないどころじゃないのだろうけど、そんなの知ったこっちゃない。俺に腹や胸や尻や脇の下をいじられつつも、半分自力で服を脱いで行く鴉人。一枚脱ぐごとに興奮して噛み付こうとする俺の額を片手で抑え「慌てることないねんで」と優しく諭すように言う。

「先に言っとこかな。ボク、セッ、セックスやらするの初めてやさけ…ヒロをガッカリさせたないねんけど、上手くやれんかったらごめんな」

 そんなん俺だってそうや。けど、嬉しゅうて堪らん。初めてをもらえるんや。誰も手ェつけとらんキレイなとこを俺がいっぱい足跡つけたるんや。

 不意に隆正先生は身体を起こし、すい、とおでこを俺の肩に押し当てる。

「懐かしいな、このキミの毛皮の匂い。あの夜からちぃとも変わっとらんね。多少は雄のフェロモン混じっとるけど」

「すんません、俺汗臭いでしょ?シャワー浴びてきとけば良かった…タカ先生はええ匂いですね。いつものムースもつけてる」

「3分もあれば水浴びできるやろ?」

「まんまカラス行水ぎょうずぶっ」

 今度は俺が頭を叩かれた。

「好きな人の前でぐらい、いつもええ匂いさせときたいもんやねん」

 やられた!このタイミングでこの言葉はグッときた。俺は早く襲いかかりたいのをこらえてユニフォームを脱ぐ。

 やっとトランクスに手をかけたところで隆正先生が起き上がり俺の顎を撫でた。カチャリと留め具を外されるまでヘッドギアをつけたままだったことを忘れていた。

 ユニフォームとヘッドギア、下着を隆正先生が丁寧に畳む。靴も脱いで、これは自分でシートの下に揃えて置いた。

 腕と脚とを開き、大の字に寝そべる鴉人。艶々とした黒雲母のような羽毛に全身が覆われ、頬と胸、脛から下は少し色の薄い羽毛に変わっている。

 ふー、すー…規則正しく呼吸で上下する胸郭。大胸筋も小胸筋も心臓の真上で左右にばっくり割れている。腹肉はそれより盛り上がり、筋肉と脂肪のあいまった曲線を作る。下腹部は急な勾配で下り、ふさふさと長い羽毛が密集した股間には、垂れて揺れるおいなりさんと太いチンポ。

 俺にまじまじ見られて気恥ずかしさがあるせいか、みるみるうちに相手の雁首が膨張し、全体が引き揚げられる御柱のように屹立していく。俺のと比べても少し大きいぐらいだ。いつか反対の役割になったら、きっと俺はこの太さに泣かされるんだろう。

 俺の視線はさらに下った。太いタコ糸をって作った大縄のような太腿。くびれた膝、そして脛骨けいこつ。さらに下、アキレス腱の上には。

 事故の傷痕。

 俺はおもむろに相手の両のくるぶしを掴んで持ち上げた。ぷるんと局部が揺れる。

 脚が目の高さまでくると、その縫合の引き攣れに舌を這わせた。

 さしもの鴉人もこれには動転し、羽を散らして腕を振る。

「わ、ちょ、なんでンなとこ舐めるん!?キミは足フェチやったんか!?」

「違います。そやな、強いて言うならタカ先生フェチや。俺が体の隅々まで舐めまわしたい思うのんはあんただけやで」

 ひー、堪忍してくれ!早くも挿入かと身構えていたところに想定外の行為をされ、相手はガァガァと喚いている。

「いつもスラックスやらジャージやら穿いてたんは、この足首を隠すためやったんですね」真一文字に縫われた跡は、素人の俺から見ても下手糞だった。「俺の親父のせいででけた傷を」

「みっともないから、ひゃっ、見せたないだけやねん。このせいで長ぅ走れんとか言い訳すんのも好かん、し、うひゃ」

「みっともなくなんか、ないです」俺は愛情をこめて両脚ともまんべんなく舐める。「あんたのコレは誇ってええもんや。負けずに克服したんやし」

 くしゃりと俺の頭の毛をくように大きな黒い掌が載った。そのまま撫ぜられる。柔らかくて、温かい。

「ありがとなぁ、ヒロ…」

 俺を見上げている隆正先生の表情は、とてつもなく穏やかで優しい。ああ、あの時とおんなじや。

 我慢ができなくて俺はおのが胸を掻きむしった。

「…やめてください」

「ん、気持ち悪かった?」

「違います。そないに優しゅうされたら、俺は…もう…マジで」

 あんたがもっと好きになってまう。もっと、あんたが俺を好きや言うてくれる以上に。気違いになるぐらいに。

 自分の子供っぽい顔を見せたくなくて、鴉人を転がしてうつ伏せにさせた。丸々とした尻。固まって生える尾羽の下の、割れ目の一番上に右手を差し込んで尻たぶを押し広げる。

「ひょえ」

 裸の、やや汗ばんだ身体の後ろ半分を、車内灯があかあかと照らす。鴉人の尻の穴は黒い羽毛の中でそこだけやわらかな桃色をしていた。

 顔を近づけ、ためらわず匂いを嗅ぐ。ボディソープと、成人した証拠の淡いフェロモン臭。隆正先生の背中がビクリと波打つ。構わずに舐め、唾液を染み込ませる。「あ、あ」と反応があり、臀筋が固くなる。

 舌を尖らせて勢いよく突っ込んだら、内股が閉じて膝小僧の間隔が無くなる。

「ヒロぉ…」

「なんですか、タカ先生」

「もう舐めんといて」

「イヤです」

「いけず言わんで。もう、こっ恥ずかしゅうて、ようキミの顔見られんくなってまうし!」

 ププッと鼻を鳴らしてしまった。あ、笑いよったな!と首をねじって睨む鴉人を後ろから包むように抱き締めて、嘴に口を付けた。

「好きです、タカ先生」

「ボクもだよ、ヒロ」

 物凄く単純かつテンプレート、いまどきエロゲでだって有り得ないやり取りだろう。けれども、これを言うだけで、俺の心臓はオーバーヒートして溶けてメルトダウンしまいそうになる。

 こうしていると、自分の毛皮と相手の羽毛は対照的で際立つのがよく分かる。黒い身体に重なる白い身体。俺のは毛染めが取れきれなかった部分が少し色残りしてまだらだけれど。

 鴉人の太腿を引っこ抜くように持ち上げて膝立ちにさせ、尻を高く突き出す姿勢にする。みゆき姉が時たまヨガでやっているネコのポーズだ。

 予感でぷるぷると震えている真っ黒な桃のヘタに当たる部分に、俺の白い股間の剛毛から飛び出す雁首の、その一番尖る所を差し込む。

「うぃにゅやっ!」

「まだ当ててるだけで先っぽも挿入はいってないですよ。ここ、固く閉じたまんまやな、もちっと緩められますか?」

「え…うん、分からないけど、こう…かな?」

 ふわりと穴の緊張が解けた。どうやったのかわからないがありがたい、今のうちや!

 ずん!と根元まで突き挿れた。過冷却水に棒を入れて攪拌するとたちまち凝固するように、尻の中がギュキュッとこわばり俺のチンポを締め付ける。

「ひぃやぁぁぁっ!!」

 腕の中で隆正先生が悶絶した。ザワッと羽毛が毛羽立ち、両腕が壁登りでもするようにシートにつっぱる。

 俺はといえば、温かくヌルヌルしている尻の穴の中のせいで頭がぼうっとし、おまけに初めて合体した喜びと興奮で尻尾をバンバンそこら中に打ち付けていた。

「ど、どどどないですか先生!?すっ、すっげぇぇぇ!センズリこくのと全然!違って!ええ気持ちですっ!!もう、俺っ」

「どない言われても」鴉人の表情は極めて冷静で、いや青ざめてすらいる。「痛いな。痛いとしか言えんわ」

「えっ、すんません…抜いた方がええですか?」

「ええって、肝を太く持ちなよ。こういうのもきっと…試合と同じなんやな。しれっと落ち着いてもらわんと、一緒にプレイしてるボクまでビクビクしてまうよ」右手を後ろに回し、腰を引きかける俺の尻を自分の方に引き寄せる。「せっかく先に譲ってやったんやし、このままじっとしてたら痛うない」

 気付いたら全体重をかけて隆正先生にのしかかっていた。この体勢だと、俺が重すぎやしないだろうか。相手をいたわる心と裏腹に、思い切り抱き締めて広い背中の肌を味わってしまう。くそー、俺ってほんまにどーしようもな。

 俺の軽い自己嫌悪を見抜いてか、静かにしていた鴉人があーあ!と唸った。

「初めてするのってこないに痛いもんやったとはなぁ。ほんまやったらぶち抜くのはボクのほうやったのに。しかしスガ達はようあんなに激しゅうでけたな。初めてやなかったんかな、あの二人は」

「どないやったんでしょうね?あいつもあんま自分のことよう話す性格やないですけど、俺らにデートやらする時間なんて部活と勉強でほぼ無いですし、試合の前には二人が付き合うとるって雰囲気もせぇへんでしたし」

「じゃあ、あいつ、たったの数時間でニノを落としてHに持ち込めたってこと!?スガめ…恐ろしい子!」

「なんですかそれ」

「ん、古ーい漫画の名科白」

 へぇ、と返事をしつつ、そろりと腰を動かしてみた。ビクリと尾羽が立つ。まだ痛いのだろうか。

「そろそろ、動きたい?」

「えっ、あっ、その…はい」

「素直なええ答えやな」

 覚悟を決めた顔でこちらを振り返り、やりたいようにやってみぃ、受け止めてやる!と発破をかける。

 俺は感情と欲望の環状線を一巡させてから頷き、上体を起こした。タカ先生よりタッパがあってほんまに良かった。後ろから突くこの姿勢が絶妙にしっくりくる。

「ほな、いきますよ」

「う…うん」

 少し腰を引く。ねっとり絡みつく肉を感じる。

「あ、あうっ」

 構わず次は腰で押す。ムリュリ、と俺の性器に抵抗感がある。

 俺が前進するのに対し、抗うように絡みつく肉の壁。続けてまた引いてみる。と、一度呑み込んだものは吐き出すまいとするかのように吸引力が働く。

 突くとグップと鳴り、引くとチュブブと鳴る。俺は両手に余るほどたっぽりと丸く大きいすべすべした尻っぺたをしっかり掴み、突いては引きを繰り返す。隆正先生の内側は俺のチンポを軽く吸引しているみたいで、前後どちらに動かしても穴の内側と亀頭がこすれて気持ちがいい。

 鴉人の「ひっ…ひっ…」というかすれた悲鳴に胸を痛めつつ、俺はひたすら潮騒のように柔らかに腰を使う。好きな相手を抱いて男になったんだ。そう思うと喜びと達成感が同時に押し寄せて余計に力が入る。そして俺自身も「くっ…ぐぅぅ…」と喘いでしまっていた。

 ああ、隆正先生の…この人の腰はなんてしなやかでバネが利くんだろう。

 俺に純潔を与え、犯される痛みを必死にこらえてなお啜(すす)り泣きを漏らしていた鴉人の嘴から、だんだんに快楽の呟きが聞こえてくる。腰の押し引きを緩やかに続けると、鴉人の溜息の連続がオクターヴごと上がっていくみたいだ。

 うう、いいな、いいよ。そんな岩清水が湧くようなささやかな喘ぎ。切ない泣き声。それがやがて大きく成長し、車内に反響し車体を振動させるよがり声となる。

「___あっ!んあっくっふんぅむ!そっ、そこっ!そこやそこっ!そこ、突いたってっ!」

「えっ、そこって…ここですかっ?」

 俺が腰を斜め下に向かいえぐるように揺すると、鴉人の羽毛の一枚一枚が腰骨からうなじまで背骨をウゾゾゾと逆立っていく。

「いいっい!あ、あああああッ!!」隆正先生はこくこくと頭を下げる。「そっ、そこやァっ!あはっ、ボ、ボクおかしゅ…なるっ!!」

 黒い背中の筋肉が波打っている。衝撃をもたらしているのは、他ならぬ俺だ。やった。やっと悦んでもらえた。でも背面からだと顔が見えない。

 ので俺は「タカ先生、ちょお横向きになってもらいますよっ」と断って、挿入したまま相手の左脚からすくい上げ、身体を右向きの横倒しにする。

 言ってみればジャンケンのチョキとチョキを組み合わすような体位を作る。横向きに片脚を高く揚げた鴉人のその股間に自分の腰を入れてさかんに振りながら、思う存分に面相を眺めた。

 太陽から瞳を守るように俺から目許を覗かれまいと左手をかざして見えなくしている顔の上半分。指の間のわずかな隙間から涙を溜める下まつげが分かる。嘴は笑い哭きをして、端っこからよだれが垂れている。

 うわ、なんてエロいんやろ。

「初めてやのに、随分いやらしゅうないですか」

「…っ、…、……!」

「なんです?はっきり言うてくれんとわかりませんよ」

 ふっ、はっ!という荒い息の合間から「ふざけんな!こんな、ん!初めてやし!!」と絶叫された。

「…へー」

「なっ、なんっや、その、『へー』て?」

「どんな感じなんです?俺に大事なとこ貫かれて、どんな気持ちなんです?聞きたいなぁ」

「キミっ…へ、」

 変態、の、ドS!そんな女子高生ばりの罵倒だが、これもよがりながら言われると可愛いらしくて仕方がない。

 それに俺はもう一つ重要な変化に気付いてしまった。

 上体をぐっと倒し、ほとんど正常位に近い状態に持っていき、顔を隠し続ける鴉人に囁いた。

「タカ先生、俺にヤられてる時の声は甲高くてキレイなんですね」

「エ?」

 彼我の境となっている手をどけさせた。まん丸な黒おはじきの眼がこちらを見る。間髪いれず両手を握り体重をかけてシートに押し付け、ついでに正常位に持っていった。

「ボ、ボク…そんな、声、しとるの?」

「はい」問いかけに満面の笑みになってしまう。「あーとかいいとか言うてる声が見事なボーイソプラノ。可愛くて子供みたいや。尻尾にビリビリくる」

「こっ子供ちゃう!」

 そうだ。隆正先生は童顔だが確かに男の凛々しさがある容貌の造作をしている。ガラガラの悪声ならむしろスポーツマンとして相応しい、男臭い人相だ。

 だが、ひとたび俺に挿入されるやいなや、少年のようにいたいけないじらしさ、愛らしさがこの人の内側から滲み出ている。

「タカ先生、俺、そろそろトライします。こっちの腰に脚載せて下さい。グッとしっかり!」

 俺の指示に極めて素直に鴉人は従う。真正面から深く挿入。そして半開きになったままの嘴を割かんばかりにおのが口をはめ込んだ。

 タカ先生との身長差に再び感謝。この、初めての合体で、キスしながら射精することができるなんて。これはもう…なんて言ったらいいのか…とにかく、幸せだ。今まで生きてきた15年間で一番嬉しい経験だ。

「先っ生!うぁぁぁぁっく!イっく!イくぅぅぅふっうう!!」

 強く抱きしめすぎて、俺の下で鴉人がクェェと喉を鳴らす。濡れた穴の奥底をより潤して、俺の精液が流れ込んでいく。背中にきつく突き刺さる相手の爪を感じた。

 だんだんに筋肉がゆるむ。まだジンジンと疼くチンポには熱い湯に突っ込んだような感覚がある。…あれ、そういえば…

「イッたね、ヒロ」地の羽毛より長い胸羽が生える温かな胸の谷間に鼻面をうずめ、夏場のチーズのようにへにゃっている俺の額を、隆正先生が嗅いでいる。「惜しかったなぁ、もう少しでボクもイけたのに」

 そうや。隆正先生は途中からよがってなかった。もしかしたら俺が気づいてなかっただけかもしれへんけど、正常位になってからはアンアン言うてない。

「タカ先生!」

「な、なんや藪から棒に。さ、もう初Hも済んだんやさけ、服着て帰る準備を」

「あかん!」

 俺は上半身を起こした。まだやれる。一発出したぐらいじゃ俺の金玉はしぼんでない。

「タカ先生、まだイけてないやないですか。ほしたら、俺がイかしてあげまっさかい、もう少しだけ時間下さい」

「ええっ!?ええてええて!そないに気張らんでも、もう充分やって!」

「そっちが良くてもこっちが困る。このままやと恋人をイかせられへんかったただのワガママ男や。そんなんイヤや」

「えー…キミはほんまに頑固やなぁー」

「恋人に誠実にならへんよりかずっとましやないですか」

 この場合の誠実ってそーゆー事やないんやけどな、とボリボリ頬を掻きながら呟く。

「角度が重要なんですよね」俺は両肘に鴉人の重い膝を担いで、相手の腰が少し浮くようにした。「これならさっきの『斜め』の感じに近づけると思います。後はどこが気持ちいいか教えて下さい」

「うーん、こらエロの授業か?はたまた性行為の個人レッスンか。DVDのタイトルにありそやなぁ」

 俺はもう腰を振り始めているのに、まだ余裕しゃくしゃくか。ほしたら、角度をもっちょい上向きに突き上げて…

「んっんんんんんっ!?んおっ!?」

 頚椎の接続が切れたアンドロイドのようにいきなりガクンと顎からのけぞり、まさしく仰天した様子の隆正先生。

「ここ、ですね!」

「うっうう」みるみるうちに下瞼からもみあげあたりまでが真っ赤になり、ツウと涙を流す。「くっ…ビン・ゴ…」

 満ち溢れてきた自信が身体中の血管を流れ、どくどくとこめかみが脈打つ。はぁーっと息をつき、腰を構える。

 それから死に物狂いのスピードで鴉人の肛門に肉棒を突き入れ、腸の中が削げてしまえとばかりにビートを打った。

「あーっ!ああ____っ!!あ、うわぁぁ______ぁ!!」

 悲鳴だ。快感の悲鳴。鴉人は臍がひくついて、その下では自身の肉棒が岩を打ち砕く破砕機のように硬く高く勃起している。

 俺の精液が馴染んだ、隆正先生の奥深くの黄金に輝く秘密のポイントを無慈悲に、しかし愛情をもってほじくった。

「ひぁっ、あっ、死ぬ、死ぬぅぅ!」

 相手が味わう快楽に比例するかのように締め付けがきつくなり、金玉の皮が引っ張られてよじれる。激しく突き込んでいるうちに再び、感じが高まってきた。

「飛びましょう、タカ先生」

「とっ…飛・ぶっ?」

 二人分の体熱が湿気の爆発となって発散し、フロントガラスもバックガラスも曇らせる。

 飛びたい。飛べる筈だ。いや、飛べる。

 先生の黒い身体と俺の白い身体がピンクの太い橋で繋がっているんだ。そう考えるだけでまたしても射精したくなる。

 車体の壁も天井も底も無くなって、溶け合わさった下半身から熱を生みながら、俺達は夜の空へ浮かび上がる。月の無い晩に見えない筈の夜景が鴉人の黒銀の体表に反射し、その中心部を蹂躙する俺の白ぼらけの身体は、まるで鴉人の身体から芽吹いた大きな翼のようだ。

「うぁあ、ヒロ!もう、ボク…」

 俺の両親が、それと俺が、先生から奪った大切な物。未来へのスターダムを駆け上るはずだった先生の可能性。

 ラガーマンとしての、先生の翼。

 俺が返したる。俺が先生を連れてったる。もっと高く。あの空の向こうの高みまで!遠く遠く星を越え、天の上まで!

「イく、飛ぶ、飛んでまう!」隆正先生が嬉しいような悔しいような表情をして叫んだ。「ボク、あそこに…」

 ドン!唐突な衝撃が真下から俺を突き上げた。隆正先生の腰が膝蓋腱反射みたいに短く緊張したのだ。

 俺達の魂は確実にゴールラインを越えた。が、鴉人の科白は最後までは届かなかった。白い光のような射精がその股間の柱から発して俺の肩を撃った。そして何回もこちらの腹や胸へ弧を描き、チンポが精力を使い果たしてはたりと倒れるまで。俺は腰で貫く動きを止めてはやらなかった。


 家に戻ると靴が一足多く玄関に並んでいて、そのデカさ臭さ、何より履きつぶした踵に見覚えがあり、俺は声に出してその名前を呼んでしまった。

「ヤっさん?なんでうちにいるんですか!?」

 玉簾を潜り抜けて、ブルドック系犬人がひょっこり顔を出す。

「おうヒロ、お前タカに送られ…ってタカもおるんか。やけに遅いのう」

 富岡のご両親に心配かけさすな、と目上の大先輩から睨まれて、隆正先生は俺の隣で首を縮こませる。

「ちょ、ちょっと個人的なミーティングをしてまして」

「そ、そうなんですよ。悩み事の相談とか、も、してまして?」

 青い瞳と黒い瞳で無言の打合せ。俺はユニフォーム、隆正先生はジャージ。あの後はきちんとして、車の中も互いの毛皮や羽毛もしっかり拭き上げた。正味帰宅まで二時間ぐらいだろう。

 そう、キスをした後で。

「裕人、おかえり!泰村先生にこれまでの経緯いきさつとか裏話とか色々と聞かせてもろてたんよ♬」

 泰村先生の前にひょこっと顔を出す細面の虎人。俺の姉、みゆき姉。

「遅い!」

 泰村先生の後ろから頭を越えて一喝する、渋い男前の虎人。俺のおとん。

「ごはん冷めてもうたよ。先生と一緒やったからええけど、こないに遅うなるようなら携帯持たせんとねえ」

 おかん。おとんの後ろから出てきて、玄関先で俺のデイパックをひったくり、「さ、汚れ落としてき。お風呂沸いとるよ」と背中を押す。

「じゃあ、俺もそろそろこの辺で失礼しますよって。どうもお邪魔しました」

「泰村先生、隆正先生と一緒にまた是非いらしてください。先生のお好きやっていう肉ジャガ、あたし得意なんですよ」

 みゆき姉がだんだんブルドッグ系犬人に接近しているような気がする。いや、軽く腕を引っ張って言っているから間違いない。これはまた例の虫が騒ぎ出しているようだ。

 犬人と鴉人は鴉人の運転で帰ると言うので、そのまま玄関で別れた。

「またな、ヒロ」

 すっかり元の悪声に戻り、隆正先生は家族や同僚にそれと悟られないよう素早いウインクをしてくる。俺はまた胸にポッと火がともるのをくすぐったく感じながら一礼する。

「明後日もよろしくお願いします。お疲れ様でした、ほんまに」

 俺は最後の形容詞に重きを置いた。予想にたがわず、相手はつい今しがた俺の尻尾と交わった尾羽をパタンと動かして、上眼遣いに俺を軽く睨んだ。


 所構わず走り回る子供というやつは、手に負えない怪物みたいなものだ。

 真新しい荘厳なスタジアム。青いセラミックの座席に反射する快晴の照り返しが俺の顔を灼(や)く。頭頂から顎へ、とめどなく湧いてはしたたる汗。俺は最早若くはないことを骨身に染みて噛み締めつつ、昔取った杵柄のステップでその子の後ろから追いついて、小さな身体を両脇から抱き上げた。

「そうら捕まえたぞ!もう一人でトコトコ行ったらあかんで」

 きゃいきゃいと足をばたつかせる尻尾の長いその子を、これだけは未だに自慢の鍛え上げた広い肩に座らせ、スタンド席の最上段から下へと降りていく。

 観客数はまぁまぁといったところか。俺が子供を担いでいるのを見るや、老若男女を問わず人波がさっと分かれる。まるで旧い映画の中で、預言者が海を割ったように。

「エクスキューズミー、エクスキューズミー」

 覚束ない日本式の発音の英語で頭を下げて進む俺に調子を合わせ、右肩の上の子も「えぐじゅーみ!えぐじゅーみ!」と神妙な面で真似っこをしている。全く誰に似たんやろな、こいつは。

 選手のベンチに一番近いところで背の高い虎人の娘が手を挙げたのが見えたので、俺はその隣で腰を下ろした。

「おおきにね、ヒロの面倒見たってくれて」

「ほんまやで。こいつ、ちょっと目を離すと誰彼構わずついてって菓子やら食いもんやらもらって来よるし、こんな外国で迷子にならんか誘拐されんかとこっちゃヒヤヒヤしっ通しや」

 俺はふぅふぅ息を切らし、虎人の娘そっくりに顔の整った子を肩から膝に下ろす。これから何が始まるのか、何か楽しいことが起こるのかとワクワクしているその耳を引っ張りぼやく俺は、娘から尻尾で背中を叩かれた。

「そんなの当然やないの。あたしと、あなたの息子なんだもの。ラグビーの試合をただじっと見守れるわけあらへんよ」

「あー、しんど。こないに暑いんやったら背広やら着てくるんやなかったわ」

 俺はどっかり背もたれに仰け反る。膝の子の母親、現在の俺の妻、泰村みゆきの手が額に乗る。

「もうグロッキー?昭一しょういちさん?」

「年甲斐なく駆け回れば疲れもするわ、奥さんよ。あー、俺も手術したら走れるようになるんかなぁ」

「それは無理」口調は真面目に顔は笑って妻は答える。「あの人はもともと腱さえ移植できれば走れる年齢と体力なんです。IPS治療やって万能やないのよ?若返り効果は期待しないこと!」

「あー、そやったっけ?まぁええわ、とにかく俺は完全グロッキーや」

 ぐーろっき!ぐーろっき!膝でピコピコ跳ねる、当年とって6歳の我が息子の祐一ひろかず。この子は自分がイギリスに来たことも、ロンドンスタジアムにいることも知らない。国際線ではずっと眠りこけていたのだからしかたがないだろう。

「で、ヒロはどないやった?」

「ちょっと待って」ハンドバッグから関係者のネームプレートを出し、俺のワイシャツにピンで留める。「出場の時はいつも緊張するし、あんまり話はでけんかったけど、今回は万全やって息巻いとったわ」

「ほ?ちゅうことはやっぱりあれか?」

「そ。何てったって今回はあの人がいるから」

 思わず頬がほころぶ。そうか、あいつの夢がとうとうかなったんやもんな。そりゃあ百人力いや万人力やろうとも。

「あっ、出て来たわ!」

 勢い良く背中を起こしたせいで、危うく息子を落としそうになる。

 日の丸を背負った碧いユニフォームの日本の選手達が、この日の為に集められた精鋭が、客席の下に奥まったベンチからフィールドに並足で出てくる。

 黒柴犬人の菅原や鮫人の木嶋、日本人では今や一番の重量級となった二ノ宮が腕を振り上げながら走って行く。母国から団体でやってきた応援団やプレス、見も知らぬ他の国の様々な毛皮や体毛、羽毛、鱗の人間達が歓声で迎える。

 芝生を力強く踏みしめ、一際ひときわ目立つ黒い選手と白い選手が現れるや、我慢できずに俺は立ち上がった。息子も膝の間でバランスを取って足を踏ん張る。

「おおい、ヒロよ!タカよ!!」

 二人が同時にこちらを振り返った___漆を塗り重ねたような美しい黒の羽毛の鴉人、俺のかつての教え子の隆正鐘馗、そして真綿か淡雪かと見まごう純白の毛皮の虎人、俺の現在の義弟の富岡裕人。

「お前ら念願かなったんやぞ!日本で練り上げてきた完全な『ホワイトタッチ』を見せたれや!死ぬ気で何発でもかましたれ!!」

 それぞれ虎口と嘴を大きく開き。

「はいっす!!」

 これまた同時に答え。

 そして駆けて行く。もうこちらのことなど意識の片隅にも無いだろう。振り返らず、センターへ一直線だ。その体表が異国の日差しに輝いて、二つの光の塊になって視界にぼやける。

 ああ、あいつら、ほんまに___遠くへ___なんっちゅう遠くへ行きよってからに。

 目頭に痛みを感じる。蛇口をひねったように涙が溢れ、ブルドッグ系犬人の俺の頬肉の垂れる顔をポタポタと伝う。祐一の黄色い毛皮の頭を打ったので、幼子おさなごがキョトンと俺を見上げた。

 みゆきが俺の腕をそっと触る。分かっとるよ、と微笑んで。

「おとちゃん、痛い、えーんえーん?」

 俺は息子に首を振る。

「いいーや。嬉しいんや。男はな、ええか、祐一」

 低い位置にある肩に手を置いて、前を向かせる。この子の叔父の勇姿を、その澄んだ眼に焼き付けてやるために。

本物ほんまもんの男が泣くんは嬉しい時に限られるんや。ええか、これから始まるのは、楽しい楽しいゲームやぞ。ゲームはな、皆がおらな始まらん。いつも遊んでくれとるヒロおじちゃんや、お前によう土産くれるタカおじちゃんや、スガやニノ、そいつらの仲間や、相手のチーム」

 はなを啜り上げ、顔をぐいと袖で拭く。みゆきが小さく「クリーニング代、かさみそう」と文句を言う。

「それだけやのうてな、ここにいる、観てくれとる皆がおらんとあかんのや。それが良かったーって、嬉しいなぁ思って、お父ちゃんは泣いとるんやで」

 ふーん?虎人の裕一は見開いた目をくりくり動かしている。この子にも俺の言いたいことが解るだろう。いつか、近いうちに。その時には…俺がコーチしたらなあかんな。俺ももう、過去に引きずられとるばかりはやめや。

「あ、中継中継!携帯でお父ちゃんとお母ちゃんに動画送らんとね」

「それもええけど、しっかり自分の眼で見いや」

「今回はちゃんと専用のタイピン型WEBカメラ買うたったし!」

 俺はどうも頭の中身が旧い人間らしく、こういうPCや通信関係の道具には疎い。しかしそれもこの妻が補ってくれる。

 さあ、今日はきっといい試合になるぞ。その予感がスタジアムに燻蒸の煙のように満ちている。憧憬も、嫉妬も、期待も、希望も、何もかも真昼の光の向こうに溶かして。

 ホイッスルが鳴る瞬間、俺は静かに目を閉じた。

 完全となった教え子たちのプレースタイルが、ホワイトタッチが功を奏することを、その夢を見るために。




終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホワイトタッチ 鱗青 @ringsei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ