破壊

牧 鏡八

破壊

 男はある日、突然破壊した。

 一枚の置手紙を居間に残して、姿を消した。


『もうたくさんだ! 普通に大学に通って、普通にレポートを書いて、普通に就職してサラリーマンだなんてお決まりな展開はうんざりだ! ひかれたレールなんて知ったことか。そんなもの叩き壊してやる!』


 特に反抗期もなく育ってきた息子の疾走に、母親は気が動転したが、父親は年頃の男児の性だと取り合わず、いつも通り新聞を開いた。そうしてそのまま、男は行方知らずとなってしまった。




 男はいい家庭に育った。小さい頃からクラシック音楽を聴かされ、古典的名作を読書には与えられ、勉強も周りより早くと熱心に施され、人が羨むような学歴を手にし、これまた有名企業で働く未来を確定させていた。

 それだけに不満であった。

 何も自分で決めた道を歩んでこなかった、これなかったことを今更後悔したのだ。親というものは、往々にして子を凡庸な社会のレールに乗せたがる。それは一重に自分たちが安心したいからだ。とすると、自分が今まで歩んできた数十年間は、親のエゴで押し付けられていたのか――少なくともこのレールは自分で歩き出したものでも、歩こうと思ったものでもない。そう気付いてしまった男は、心に宿したハンマーをレールに振り下ろさずにはいれなくなったのである。


 男はまず、自分が今まで寄り付かなかったところへ行ってみることにした。

 教養の純粋培養物のような男には、少しでも俗っぽいとそれだけで新世界となる。


 男が決意して入ったのは、大きな駅前のライブハウスであった。

 ビルの地下へ続く階段を固唾を呑んで下っていく。そして店の戸を引き開けると、音とネオンの洪水が身を包んだ。立ちすくんでから、一歩踏み入る。

 カウンターの男性が声を掛ける。

「いらっしゃいませー」

「あぁ……」

 男が力なく返事をする。

「入場料二千円になります」

「え? ああ」

 男は慌てて財布を引っ張り出す。システムも何も分かったものではない。自ら踏み出した新世界に驚く一方で、どきどきしていた。

「五千しかないな。これで……」

「はい、お預かりしま――ってあれ? お前!」

 急に馴れ馴れしくなったのに驚いて顔を上げる。

 と、そこには見慣れた顔があった。

「びっくりしたなあ! クラシック好きなお前が来るとは!」

 五千円を片手に大笑いするのは、大学の友人だった。たしかサークルでバンドを組んで、学園祭でも演奏をしていた。今時の大学生らしい奴だ。バンドと学業を両立し、さらにバイトにも励んで、先日めでたく大手企業から内定を勝ち取っていた。

「……」

「ああ。で、お釣りな」

 レジを開ける。が、男は渡した五千円を奪い返した。

「あ、ちょっと」

「失礼。用事を思い出した」

「用事? またまたあ、恥ずかしがらなくてもいいのにぃ~。柄じゃないかもだけど、いいじゃん、そういうの」

「いや駄目だ。少なくともここは」

「恥ずかしがりだなあ。俺は何も言わんのに。ま、明後日だったら俺シフト入ってねえから、遊びに来てくれよな」

 ひらりと手を振る友人に背を向けて店を出る。


 ――俺にとっては新しいが、あそこも所詮レールがいるじゃないか。


 男の破壊は、生半可を許せなくなっていた。もはや類例が近くにいるのも、忌避すべしと考えるようになっていた。



 男は金のある限り電車に乗り、都会から離れた。




 男はホームで朝を迎えた。朝日がベンチに寝そべる男の瞼を焼く。ついに目を開くと、視界いっぱいに緑が飛び込んできた。爽やかな空気は、都会との違いを感じさせる。

 ――もはや都市の空気が自由にする時代ではない。

 満足げに微笑むと、寝返りを打つ。すると、冷たく光るレールが見えた。途端にむっとして飛び起き、改札を出た。


 しばらく駅前を行く。田舎らしい寂れた商店街だ。人通りはあまりないが、その分あのサラリーマンの葬列もない。素晴らしい空気に、自分で決める道を見出せるような、そんな期待が高まってゆく。

 が、軒先の看板を何気なく眺めていると、次第に苛立ちがつのってくる。

 〈居酒屋鈴 創業大正十年〉

 〈三代目おばあちゃんの弁当や〉

 〈串カツ二代目〉

 〈老舗居酒屋 松鷹〉

 〈風流 江戸老舗〉

 ……。


 どの店も、昔ながらの伝統を、昔から守ってきている、そんなところばかりだ。つまり、親から子へと、無抵抗に旧世代の生活が受け継がれてきた証である。

 ここでもない、と男は大袈裟に嘆息し、ずんずんと山の方へと向かっていく。




 舗装路からそれ、砂利道を行く。やがて獣道を見つけると、無我夢中で木立へ踏み込んでゆく。

 そろそろ気温の上がってきた山の中に、涼しげな水音が響く。


 滝だ。


 喉の渇いた男はふらふらと吸い寄せられるように音を辿る。やがて眼前の草木が晴れ、美しい滝が現れた。たまらず膝をつき、滝つぼの水をすくって飲む。

 ひんやりとしたものが、喉から胃へ滑り落ちていく。


 ――これだ。これじゃないのか!?


 悟りにも似た感覚に、電撃が走る。男は服を全て脱ぎ捨てると、激しく泡立つ滝つぼにざぶんと飛び込む。冷たい水がほてった体を取り巻いて渦を巻く。


 ――何と気持ちいんだ! これが自由な道だ! レール上にない自然の、俺が歩く道だ!


 そうして滝と戯れていると、誰もいないと思った奥深い山の中から人の気配がする。滝つぼの真ん中に立って、迫ってくる音に耳をそばだてる。

 ――一人じゃない。随分多いな……。

 一団は鐘を鳴らし、何事か呻きながら近付いて来る。男は気味悪くなって滝裏の岩の上にあがり、びしょ濡れになった体に服をまとう。

 とん、てん、しゃん。

 とん、てん、しゃん。

 謎の呻きとともにやって来る。

 とん、てん、しゃん。

 とん、てん、しゃん。

 とん、てん、しゃん。

 思わず逃げ出そうとしたとき、木々の間から笠をかぶった僧侶たちが現れた。

 お経を唱え、鐘を鳴らしながら滝つぼを囲むように岸を進む。滝の裏でその異様な光景に圧倒されていると、一人の僧侶が静かに近寄ってきた。

「どうされたのですか?」

 驚いて、目を丸くして見つめ返す。

「あなた達は……」

「わたくしどもは、この付近の寺のものです。今は滝行に来ております」

「普段からここを?」

「はい。わたくしどもにとりましては、この滝も修行場です」

 しかし、決してだからどけというような気配はない。むしろ心配そうに男を見つめる。

「この辺りの方ではありませんね?」

「え、ええ。まあ」

「よろしければ、お話をうかがいましょうか?」

 慈愛に満ちた瞳に吸い込まれるように、男は口を割る。滝の落ちる音と、荘厳な読経を背景に。

「他人に決められるんじゃない、自分で決めた自分の道を歩みたくて……家を飛び出してきたんです」

「家を?」

「はい、そうです」

「親御さんには何も言わなかったのですか?」

「置手紙なら……」

 僧侶は目をしばたたかせる。

「何か喧嘩をなさったのですか?」

「親と、ということですか?」

「ええ」

「いや、そんなことは別に……」

「ではどうして?」

 男がため息をつく。

「親は俺に安全な人生しか用意しなかった。それは、親が安心するためです。俺が行きたい道でもないのに、いつの間にか強制されていた――」

 僧侶は男の話に数度うなずくとやわらかい声で返す。

「分かります。そうした自立の思いは大切ですね。しかし、今まで育ててくださった親御さんに何も言わずに飛び出てきてしまったのは、少し不味かったのではないですか?」

「不味かった?」

「今、あなたがこうしていられるのも、やはり親御さんの今までのご苦労があったからこそです。それに、ご両親も、あなたのことを大切に思って今まで面倒を見られてきたんだと思います。実際は、あなたの本心とずれがあったようですが。ですから、まずはこれまで育ててくれたことに感謝をして、それからご自分の思いを伝えられてはいかがでしょう。きっと理解をしてくださると思いますよ」

 僧侶の言ったことは正論だ。が、男は獣のように吠え立てた。

「そんなじゃ駄目だ! どうして親の理解を得なくちゃならないんだ! 自分の人生だぞ!? 他人にどうこう言われる筋合いはない!」

 男は不意に駆け出し、茂みの中へと飛び込んでいった。背中から滝の轟音と、お経を読む低音が追いかけてくるのを振り払うように走り続けた。


 森をさまよい歩いていると、いつしか夜の帳が落ちてくる。男は木の洞を見つけるとそこへ入った。

 ――自分の道を行くんだ。

 火もない、食料もない、もはや意味はないがお金もない、そんな状態だが、魂は熱い。

 ――誰も口を挟めやしない、そんな道を。

 そう決心すると、静かに目を閉じた。



 小鳥のさえずりで目を覚ます。それも、森の木の洞で丸くなりながら。

 冬眠から目覚めた熊のようにのそのそ這い出すと、大きく伸びをする。同時に腹が盛大に鳴った。が、男は鋭い眼光で前を見据えると、構わず歩き始めた。

 草が踏みしめられた獣道を行く。どこへ行くかは分からない。しかし、これは自由の、己の道だ。他人に邪魔されない栄光の道だ。

 そう思って意気揚々歩いていくと、ふと開けた場所に出た。

 そこには、大きな緑色のテントがあった。テントの前には簡易テーブルが出され、マグカップに入ったコーヒーが湯気を立てている。人の気配はないように思えるが、案外すぐ近くにいるのだろう。

「くそっ」

 はき捨てるように呟くと、素通りして反対側の獣道へ入った。

 虫に刺されながら前進すると、また丸く開けた場所に出る。

 今度は小さめなテントだった。テントだけであるが、ぴったりと入口が閉ざされている。

「中で寝てんのか……? と言うか、また人じゃないか!」

 今度は少し曲がって、別の獣道へ進む。

 もう他人の道にぶつかることもないだろうと考えていると、また出た。開けた場所だ。

 嫌そうな顔をして周囲をうかがう。テントは……あった。ただかなり古いようで、ところどころ破けて、今は使われている痕跡はない。

 が、男は首を横へ振った。

 ――他人の歩んだことのない道を行きたい。俺の、俺にしか歩めない人生を!

 もと来た道を引き返し、途中違う獣道へ入って行く。もう日は高い。

 開けた場所を再び見つけるが、今度は他人の痕跡はないようだ。安心して木の幹へ腰を下ろす。と、リスが駆け寄ってきて首を傾げた。

「かわいいやつめ」

 微笑んでじっと見つめ返す。ビービー玉のように小さい黒い瞳と見つめ合う。気が付くと、周りがだいぶ騒がしい。ふと目を上げてみると、いつの間にかリスの群れに囲まれていた。

「壮観だなあ……こんな景色は誰も見たことはあるまい。そうだ、ここを俺の家にしよう。森の中で野生のリスの大群と暮らす人間なんて、他にはいないだろうからな!」

 笑って言い放つと立ち上がる。と、頭に衝撃が走った。

「いっつ」

 ぶつかったところを触りつつ、頭上を見上げる。


 そこには、カメラがかかっていた。


「カメラ……?」

 舌打ちして足元を見回す。と、幹の反対側に汚れた靴まで落ちていた。もちろん自分のではない。

「何だ、いたのか」

 忌々しげに頭をかくと、獣道目指して歩き出す。が、ふと手前で立ち止まった。

 ――獣道とは言え、人が通った可能性はあるのか……。

 今更そのことに気付き、背の高い草が生い茂ったままの部分を眺める。すると、意を決して文字通り前人未到の領域へ踏み出した。


 しかし、そこでも男は失望の連続であった。

 まずはじめに出会ったサルスベリには、赤々とした花の間から幹に矢印が掘られていたのを見つけ、その矢印とてんで違う方向に行き、次に身を寄せようとした大振りな柳の木には誰かの名前が刻まれていた。明らかな他人の跡に憤慨してさらに無秩序に歩を進める。と、街では見かけないほど背の高くなった椿の下に出た。葉は青々としており、雨風をもしのげそうだ。

 男は一旦満足して腰を下ろす。が、夕日が差し込み、枝から腐りかけのネクタイがふらふらと垂れ下がっているのに気付くと、地団駄踏んでまた歩き出した。




 もう日はとうに落ちている。




 草むらをかき分け進む。たぬきか何かが足元を横切り、驚いて転倒する。すると森のどこからか、ほー、ほー、とふくろうが嘲笑ってくる。男は舌打ちをして立ち上がり、闇雲に走り出す。

 汗やら何やらで汚れた服が重い。駆け足のまま上のワイシャツを脱ぎ捨てる。それでも重いし、臭いし、暑い。タンクトップのシャツも破り捨てる。白い布キレが幽霊のようにふわりと漂って、近くの木に引っかかる。


 ――俺の、俺だけの、誰も通ったことのない、先人のいない、俺だけの!!


 目は赤く血走り、口からは血が漏れる。心臓が痙攣するように拍動する。

 レールを外れた列車は……。レールを破壊してしまった列車は……。


 ふと目の前が開ける。男は両膝をついて倒れこむ。深呼吸して息を整えると、ゆっくり顔を上げる。そして思わず息を呑んだ。

 満天の星だ!

 同時に、はるかずっと下からは、潮騒の音が聞こえてくる。


 ――いつの間に海に……。


 自分でも驚きを隠せない。今、自分がどこにいるのか、どうやって来たのかてんで分からない。

 が、男にとってはどうでも良いことのように思えた。自分が他人の力を借りずに立てるところが、彼の世界なのだ。これ以外は何も重要ではなかった。

 両腕に力をこめ、起き上がる。震える足をさすり、〈自立〉を促す。一歩、また一歩、自分だけの、自分が生きるべき道へ――。


「誰も、海中に生身で暮らしたものはいないだろう。ここが、俺だけの、俺の生きる場所だ!!」


 買い与えられた服も靴も全て脱ぎ捨て、崖の上に丁寧に畳んで置く。

 意を決して振り向き、暗くうねる海面を睨みつける。


「ここからだ。他人に与えられたレール、他人と同じようなレールとは、もうおさらばだ。全てを破壊して、その先に俺は掴んだんだ! 俺が俺として輝ける世界を! 誰にも邪魔されない、正真正銘の俺の生を!!」


 満天の星が耳をそばだてる。森の木々が思わずざわつく。

 男は軽く飛び上がり、騒がしい海の中へと没した。


 一陣の風が森を飛び上がらせ、星々はあまりのことに雲で目を覆う。ふくろうが、ほう、ほう、とせせら笑って飛び立った。

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破壊 牧 鏡八 @Makiron_II

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