第二章
デーシックスは久しぶりに良い気分だった。エイチェスの死体を回収した際の不快感など、とうに消し飛んでしまっている。
やはり上質なアルコールは違う。普段からこういうものが支給されれば、仕事の効率も上がると思うのだが。
特に目的も無く、部屋を見回す。持ち主の性格を反映してか、エスセヴンの部屋は装飾らしい装飾も無い質素なものだった。そのエスセヴンは現在、新しいボトルを取りに行っている。
その時、ある物がデーシックスの注意を引いた。
本だ。
紙でできた本など、数千年前、まさに神代と呼ばれる時代の物でしか有り得ない。以前に教会本部の資料室で展示されているのを見たことはあったが、中身まで読むことはかなわなかった。
以前から、神代の文献には興味があった。
神代と言えば、“ユーロパの壁”が作られた時代でもある。ユーロパの地全体を取り囲み、空までも覆い尽くしているあの壁。その外へ出ることは教義によって固く禁じられ、壁に設けられた“御門”と呼ばれる扉も、教会本部によって厳重に管理されている。しかもどうやら、本部の選ばれた者だけが御門から出ることを許されている、というわけではなく、本部の者達もけっして御門を開いたりはしないらしいのだ。
一度ならず理由を尋ねたが、まともな答えが返ってきた試しは無かった。ただ、天にまします我らが創造主がそうお定めになったのです、とか、壁の外には何も無いので出る必要はありません、などと繰り返すばかりだ。かと言ってあまりしつこく追及すると、今度は背教者呼ばわりされ、教会から追放される恐れがある。
本来なら自分のような下位のエクソシストになどけっして閲覧が許可されないであろう古代文献が、目の前にある。無論、古代文献だからと言って壁の外側について記されているとは限らない。しかし僅かな可能性があるというだけでも、十二分に蠱惑的だった。
デーシックスはその誘惑に抗えず、本を手に取った。
表紙には“Diary”という古代文字が大きく書いてあり、その下に“R. Kirisawa”と同じく古代文字で署名がされてある。
まがりなりにも教会の一員であるため、デーシックスも教養として古代文字は把握していた。
「キリサワの日記、か」
変わった名前だ。神代を生きた祖先達は皆このような名前だったのだろうか。
頁をめくってみる。紙は一枚一枚がコーティングされていた。貴重な古代文献の劣化を避けるため、本部の方で施したものだろうか。あるいは、失われた古代技術によって、最初からそうされていたのかもしれない。いずれにせよ貴重な物である点に間違いはなく、そんなものを保管しているエスセヴンは思いのほか高い地位についているのかもしれない。だが、本を読み進めるうちに、そんなことは頭から消し飛んだ。
大きな物音に、デーシックスは我に返った。どうやら、本に没頭するあまり、周囲の情報が遮断されてしまっていたらしい。音のした方を振り返ると、エスセヴンが呆然とした面色で立っていた。足元には真新しいエタノールのボトルが転がっている。その視線は、デーシックスの手の中にある本に固定されていた。
もしこの時点で読み始めたばかりであったなら、デーシックスは無断で本を手にとった点について、あるいは気後れを感じたのかもしれない。だが、既に半分ほど読み終わり、そこに記されていた内容を知ってしまった今、デーシックスの内にあるのはむしろ怒りであった。
「エスセヴン……ここに書いてあるのは、本当のことなのか?」
デーシックスは怒りを押し殺しながら尋ねた。エスセヴンはその質問には答えず、つかつかと歩み寄ってくると、デーシックスの手から本を取り上げた。その際に開かれた頁を見て、一瞬安堵したような表情を浮かべた。その表情が、デーシックスを更に苛立たせた。
「質問に答えろ、エスセヴン。教会本部は……お前は、いつからそこに書いてあることを知っていたんだ?」
返答はにべも無いものだった。
「デーシックス、この本に書かれていた内容は、記憶から消去しておくんだ。これは君が知る必要の無いものだ」
その言葉に、デーシックスはついに怒りを抑えきれなくなった。
「知る必要が無いだと?!そんなわけがあるか!お前は……本部から出ずにふんぞり返っている奴らはともかく、少なくともお前は知っているはずだ。民衆がどれだけ新しい土地を求めているかを。このユーロパの地で育てられる作物の量は限られている。しかもその僅かな作物すらエイチェスどもに食い荒らされる始末だ。畑をあの忌々しい害獣から守ろうとして命を落とす者も少なくない。俺はいつも考えていた。ユーロパの外……あの壁の外に、もし作物が育てられるような土地があったら、と。だが、教会本部の答えはいつもこうだ『壁の外には何もありません』『ユーロパから出てはいけません。教義でそう定められています』……だが、この本に書いてあることはどうだ。これを書いたキリサワが住んでいた土地はEuropeと呼ばれていたそうだが、これは我々が住むこのユーロパのことだな?その外側には、AsiaやAfricaといった遥かに広大な土地があり、そこで多くの作物も育てられていたというじゃないか。本部は何故このような重要な情報を伏せているんだ。答えろ、エスセヴン!」
激昂しながらも、デーシックスはどこか期待してもいた。エスセヴンならば、納得のいく答えを返してくれるのではないか、と。
だが、苦渋に満ちた表情でエスセヴンが絞り出した言葉は、デーシックスを失望させるものだった。
「デーシックス……もしも君が今まで、壁の外側のことを考えてきたというのなら……今後はそんなことはやめるんだ。無益なことだよ、それは。教義は間違っていない。壁の外には何も無いし、出てもいけないんだ」
デーシックスは自分の心が急速に冷めていくのを感じた。
「失望したよ、エスセヴン。結局はお前も、本部の他の奴らと変わらなかったということか」
冷ややかに決別の言葉を投げつけると、デーシックスは部屋を飛び出して行った。そして、それ以来二度と戻ることは無かった。
“開放者”を名乗り、壁の外へ通ずる御門の開放を求める異端集団が現れ、急速にその勢力を拡大していったのは、それから暫くしてのことだった。
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