第玖話
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その夜。春臣は夕食後も広間に残って一人遅くまで無心で筆を走らせていた。そうしなければ、彼はきっと夜通し布団の中から天井を見上げていたことだろう。
筆先から生まれる画鬼は、しかし全姿を描かれることなく身体の半分を和紙に埋めている。その姿は、まるで描いた者の心の内を映すように、迷いに満ちた印象を受けるものばかりだった。
かさり、と乾いた足音とともに一枚の紙が足元へやってきた。描かれていたのは精悍な顔つきの鷹だったが、その翼は片方しか描かれていなかった。それ故によたよたとよろめきながら志木のつま先を目指して歩く姿は痛々しささえ感じさせた。ひょっとすると相楽あたりはこれに美を見出せるかもしれないが、生憎と志木には彼のような感性は持ちあわせていなかった。
志木の前にそっと膝をつくと、その瞳に朱筆を入れた。それから、内心でため息をついてこちらに背を向け一心不乱に奇怪な画鬼を描き続ける弟分に声をかけた。
「春臣」
ぴくり、とその肩が震えた。ぱっと振り返った目は赤く腫れぼったくなっていて、泣き泣き絵を描いていたことは自明だった。道理で線に迷いがあるはずである。
志木はやれやれと肩をすくめると、歩み寄ってその手から筆を取り上げた。それから、それをくるりとひとつ手の中で回すと春臣の前に座った。
「こんな夜更けまで起きていると明日に響くよ」
少し咎めるような口調になってしまった。春臣は膝に置いた手を握ると、俯いて応えた。
「……すみません。でも……眠れなくて」
行灯の明かりが時折ちろりと揺れて、少年の頼りなさげな横顔を照らす。春の生温い夜風がどこからか微かに吹いてきて、その度に部屋のあちこちに散らかった描きかけの画鬼たちがかさかさと音を立てた。その音さえ大きく聞こえる沈黙を破ったのは、春臣の掠れた声だった。
「……僕は」
思いの外言葉になっていなかったせいか、春臣はそこで数回咳き込んだあと続けた。
「僕は、二葉くんたちに何ができるでしょうか。あの子たちが、普通に笑って過ごせるようになるには……どうすれば……」
尻すぼみになっていく代わりに震えていく声は、皆まで言葉を紡ぐことなく夜の闇に溶けていく。志木は、しばらく黙りこんで筆を手持ち無沙汰にもてあそんでいたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……ねえ、春臣。僕は、慰めを言うのは嫌いだから言ってしまうけれどね」
気鋭と名高い絵師の青年は、そう前置きをきながら筆を文机に置いた。そして、真っ直ぐな瞳で肌身に感じた新都の現実に戸惑い揺れる少年の心を射抜いた。行灯に照らされる志木の瞳は硝子玉みたいに綺麗で、少し怖いくらいだった。
「僕たちは絵師だ。絵を以て妖を祓う───僕たちにできることはそれだけだ。妖の血を引く彼らのために絵師の君ができることは、あまり多くはないんだよ」
春臣は尊敬してやまない志木の言葉にくしゃりと顔を歪めた。言外に絵師たる立場に私情を持ち込んではいけないと言われているようで、志木ならば自分に対して都合の良い言葉をくれるのではないかという甘さを真っ向から指摘された気分だった。志木はその表情をただ冷静に見つめていた。
誰からも冷たい視線を浴びせられることの恐怖も、不快感も、春臣はその出自ゆえに味わったことがある。だからこそ、今自分以上に苦しい立場に置かれたあの家族のためにどうにかできないかと思い悩んでいる。それがわからない志木ではない。
だが、だからこそ必要以上の干渉はおそらく、ひいてはどちらのためにもならない。優しい春臣にはきっととても歯がゆくて悔しい選択をさせてしまうだろうが、それが志木が返すことができる精一杯の答えだった。
再び、二人の間には沈黙が落ちた。春臣は声もあげずに泣いていた。志木はその涙を見て、やっぱり春臣は自分とはまったく正反対の人間なのだと実感する。人のために必死になれる優しさのひとかけらでも自分にあったのなら、きっと他にもっとうまい言い方をいくらでも思いついたのかもしれない。けれども優しさなんぞ生まれる前に落としてきてしまったので、青年は代わりに少年の名を呼んだ。それから、硝子玉の瞳で自分を見上げる顔を覗き込んだ。
「もし君が、今の僕の言葉を聞いてもまだ諦めがつかないのなら……どんなに頼りなくても構わないから、今度は君があの子たちの世界を広げてあげる人になりなさい」
「……世界、ですか……?」
反芻した春臣に、志木は力強く頷く。
「そう。たまに会いに行って、他愛もない話をして……彼らが知らない世界を、君という窓を通じて見せてあげるんだ」
かつて、玲陽が彼に絵の世界を見せてくれたように。志木が春臣にとりとめもない話をたくさん語ったように。今度は春臣が、彼らの窓となればいい。無論、春臣も向きあわなければならない問題はたくさんあるが……きっとそれくらいの寄り道は許される。
志木は言うだけ言うと、弟分の頭を軽く撫でて立ち上がった。いつの間にか周囲に集まってきていた画鬼たちは、志木の動きに慌てたようにさっと道をつくる。その姿は殻付きの雛を彷彿とさせるものがあって、志木はくすくすと笑ってしまった。
そして、志木が広間を出ようと襖に手をかけたとき、小さな声が後を追ってきた。
「……ありがとうございます、志木さん」
それは普段と比べれば元気の欠片もない声音だったが、志木は笑みを深めた。泣くほど悩んでいるときにもそう言えるなら上出来だ。きっと春臣は、彼にとっての最善の答えを見つけることができるだろう。
「うん。おやすみ、春臣」
志木はその答えを見るのが楽しみだと思いながら、今度こそ広間を後にした。
このとき、春臣はおろか志木さえも予想だにしていなかった。春臣があのきょうだいのための“窓”となる日は来ないのだということを。
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百鬼妖画奇譚 懐中時計 @hngm
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