第捌話
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その夜は、妙に空気が生温かった。
ぬるりとした風が頬を撫でる。瘴気の満ちたいい風だ。その感触に目を細めながら、椿は何本目かになる桜の枝を咀嚼した。ぱきんと小気味よい音が辺りに響く。結界の起点となるほどの力を持った桜はたっぷりと妖力を蓄えていて実に美味だった。
椿は口から木の皮の硬い部分だけを吐き出した。それは地面に落ちると、境界の不明瞭な妖のなり損ないとなってうじ虫のように蠢く。幼子の形をした禍津神はそれを何の感情もこもっていない瞳で眺めたあと、足で踏みつぶした。足裏でぶちりと中身が飛び出る感触が何とも癖になりそうだった。
「……澪」
不意に、男の声がした。振り返れば、ちょうど廃寺の本堂から匡が出てきたところだった。彼は椿の足元を見ると、わずかに眉根を寄せて近寄ってきた。
「……澪、駄目だろう。足元を汚しては」
匡はまるで自分の子供を叱るような声音で言うと、椿を軽々と抱え上げた。それから縁側へ戻ると膝の上に彼女を乗せて、着物の袖口で足先を拭き始める。椿はただぼんやりと匡の横顔を眺めていた。
基本的に椿には睡眠は必要ないが、匡は所詮人間だ。どこかで休まなければならない。しかし、お尋ね者として高名になってしまった手前まともな寝床などはない。そこで目をつけたのが、近頃あちこちにぽつぽつと増えてきた空っぽの寺だった。どういう事情か知らないが、どの寺も棄てられたのはそれほど昔ではないようで、仏の加護が抜けきっていない本堂は椿にとっては若干居心地が悪かった。そういうわけで廃寺に泊まる度に、こうして外で朧月を眺めながら桜の枝を食んでいたのだが、毎度匡はこうして椿を捜してきてくれる。それを不思議に思わないといえば嘘になったが、彼女は一方で自分に求められる役割をよく理解していた。
「……ありがとう、
その言葉に、匡は笑顔の代わりに椿の頭を撫でた。大きくて骨張って、ところどころに軟らかさを忘れた節が目立つ手だった。
「いいんだ。でも、やんちゃもほどほどにな……澪は女の子なんだから」
「……はぁい」
匡は椿に澪という娘の夢を見る。椿はその夢を壊さぬよう振る舞い続ける。たとえ自分を必要としてくれる人が狂っていっても、その人が傍にいる幸せを失うことのほうが恐かった。だから、椿は匡を失わないために、彼を護るために、今一度力を取り戻して強くならなければならないのだ。
どれだけ歪な関係だとしても、椿には匡が全てなのだから。
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