【 雨音2 】
子供の頃の話だ。
体にまとわりつくような霧雨の中、わたしはそれと出会った。
ビニールの雨がっぱに長靴を履いたそれは足元の何かと片手に持ったモノを隠そうともしないで、じっと立ち尽くすわたしを見ていた。
ばしゃりと音を立てて泥をはね上げた傘、赤い傘、みずみずしい花模様の散った傘が白黒の世界でただひとつ赤く見えてわたしにはそれがひどくきれいに思えた。
「何をしているの? 」
別に知りたいわけじゃなかった。
「遊んでるんだよ。」
別に答えたくもなさそうな顔でそれは言う。
「どうして? 」
どうでもいい。
「どうしてだろうね。」
ポツリと雨粒が木の葉を打つような音が聞こえた気がした。足元を埋め尽くす湿った落ち葉がわずかに音を立てると、私の視界から赤が消えた。
「遊んでくれるの? 」
白い曇天を覆い隠さんとするかのように張り巡らされた細い枝をぼんやりと見つめながら問うと、それはよく分からない顔をしてわたしを見下ろした。
「遊ばないよ。」
寂しいな。そんな風に思ってまたあのきれいな赤を探すが、相変わらずあたりは白黒で何もない。
首筋に何かが当たって鈍く痛む。雨がっぱがガサガサいって、水滴がわたしの顔に落ちる。ギリギリ、ギリギリ、音がするたびに自分が一つ違う場所へ遠ざかっていく気がした。
「なんで? 」
不意に降ってきた声に目を開けると、すぐ眼前にあの赤があった。口の周りを赤で染めたそれはきょとんした面持ちで、心底興味深そうにわたしを見る。
「なんで? 」
きれいだなと思いながら問い返す。不思議と気分が高揚する。
「逃げない。」
なんだ、そんなことか。
「きれいだから。」
深爪の指先で赤に触れるとそれはびくりと体を震わせた。わたしは上体を起こしてそれの頬を両手で覆い、おかしな高揚感のままその赤に口づけをした。
「とてもきれいだから。」
それが持っていたモノを手に取り、それがしたのと同じように傷をつける。流れる赤。小刻みに揺れるそれの瞳に、赤で似合わない化粧をしたわたしが映っている。とてもきれいだと思った。もっと欲しいと思った。
霧雨は本降りに変わり、冷たい雨がそれの赤とわたしの赤を交じり合わせては流していった。地面に転がった傘に雨粒がはじける音が嫌に現実的で、けれども嫌ではなくて、それから、それから……。
『ごめんなさい! ごめんなさい! 』
耳障りな金切り声に思考を遮られる。わたしはどろりと目を開けて見た。
『そんなつもりじゃなかったの! あたしはただ……! ああ! やめて! そんな目で見ないで! ごめんなさい! 』
無造作なくせ毛と口元のホクロ。汚い床に這いつくばった中年女は不自由な片足を引きずってわたしから逃げようとする。
『あたしのこと恨んでるんでしょ! 復讐しようっていうんでしょ! だからこんな所に……! 』
相当気が動転していると見えて、その目はもうわたしを見てはいなかった。
『あたしはあれからずっと忘れたことなんてないわ! ずっとずっと……。今だって……。』
わたしは喚く女の前にしゃがみ込んで目線を拾う。女の瞳にいつかのような化粧をほどこした自分の顔が映って、きれいだな、と思った。
「 。」
にっこり微笑むと、女は建物中に響き渡りそうなほどけたたましい咆哮を上げて、糸が切れたようにその場に倒れこんだ。
養老院怪奇脱出譚~老人ホームからの脱出~ 彩華じゅん @jun_ayaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。養老院怪奇脱出譚~老人ホームからの脱出~の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます