15.笑気 【 ある老人の日記帳2 】


 

 暗闇。さっきまでそこにいた何かが確かに去ったことを確認し、私はゆっくりと顔を上げる。

 

 ――いなくなった、んだよね?


 極限まで張り詰められた神経が一気にゆるみ、止まっていた血が再び流れ出したように全身が変にあたたかい。


 歯医者で笑気ガスを吸った時のような心もちで懐中電灯のスイッチを入れる。接触が悪いのか、電灯は何度か明滅を繰り返して目の前の床を照らし出す。ちょうどわずかな水たまりになっているそこには、十数枚ほどの紙が散らばっている。



 さっきのが何らかのイベントだとするとこれも何かの手掛かりになるかもしれない。机の下から這い出た私はあたりを警戒しつつ再び脳内でアイテム確認画面を開く。



【紙の束】”ボロボロで所々水にふやけてしまっている。”

 よく見ると端の方に糊付けされていたような跡がある。恐らく元々は一冊の本なのだろう。落ちた衝撃でバラバラになってしまったらしい。



 比較的無事なものだけを拾い上げてみる。紙面には見覚えのある達筆が走っていた。恐らくこれは日記帳の続きだろう。



 一枚一枚、破れないように慎重に机の上に載せてみた。




『9月 日(木) 雨

   婆さんの  が如何ともし難く、ユカ  話す。

  ユカリは    と言ったが、     な顔をしていた。

  あ 婆さん、名前は 辺ヨリというらしい。



 

 5月 3日(火) 天 雨

  隣の与四  いさんが、何かといちゃもんをつけてくる。

  前はこんな奴では、なか   思ったが、最近いつも何か怒 ているようだ。

  一人で大声を出しては、寮母達に められている。

  担当  美子も、手を焼いているようだ。

  何か、あったのだろうか。




 19 6年 月3日(金) 大雪

  退屈に過ご  いる内に年が明けた。

  こんな所に世話になる身 でも、大晦日には蕎麦を、食べ  るのだからいいものだ。

  正月早々、ヨ 婆さんは  だとかで、顔に かい痣をこしらえていた。

  大 は主任にしこたま、怒られ ようだ。

  全く笑い話だ。




 8月7日( ) 曇り

  ユカリから   た体操を続けている。

  くだらないと思って  が、少しずつ が動くようになってきた。

  驚いた話だが、ユカリがどうやら  を授かっていた様だ。

  力仕事は に障るので、しばらくは大 と 美子、3人で私の  をしてくれるそうだ。

     は、4月に まれる、と云っていた。

  私に、是非 を見てほしいと。

  こんなに  しいことがあるだろうか。




 8月 0日(土)  暑

  今年の も、随分暑いようだ。

  ニュースでは、猛暑猛暑と騒  いるが、ここにいれば 係ない。

  ヨリ婆さ が、また花瓶  を持って部屋に来た。

  何時まで私を旦  、思っているのだろうか。

  退屈しのぎに、夫婦 っこに付き ってやることとする。

  ユカリが、足のリハビ   言って、体操を えてくれた。

  続ければ歩けるよ   るかもしれない、と云っていた。

  今更歩けたところで、どうにも りはしないが。




 3月1 日( ) 雪

  昨日、  郎爺さんに、 を殴られる。

  一本残っていた 歯が、折れてしまった。

  かな 痛い。

  だが、 リさんが怪我をしないで良かった。




 1 月 5日(水)  り

  おかしな、夢を見た。

  ベッドに横になっている、私のことを、誰かが天井から見ている。

  恐らく、   が、見回りに来ていたんだろう。

  起こさないよう、気を使ってくれたのだ。

      は、カセットを、かけてくれた。

  懐かしい、     の主題歌だった。

  起き上がると、笑っている     が   になっていた。

  ああこれは ではないと分かっていたが、それでも  かった。

  



 5月6日(水) 晴レ

  ユカリが、 婚するそうだ。

  来月の結婚式で、白 垢を着  喜んでいる。

  日頃世話になっている分、いく か包んでやり いと思うが、  になる金などない。

  残念だ。』





 拾い上げた紙の中でかろうじて読めたのはこれくらいだ。所々インクが滲んだり掠れたりして虫食いのようになっているが、最初に見つけた日記帳と同じく、橋田留蔵さんの他愛ない日常がそこには綴られている。



 通常であれば、これらの文章から情報を読み取り、脱出の手掛かりにするのが脱出ゲームのセオリーだ。



 だがしかし私は頭の中のゲーム画面が紙面の解析を始めようとするのを無理やり止め、紙の束を鞄の中に仕舞い込んだ。



 この謎解きは今することじゃない。



 懐中電灯をギュッと握り直す。



 さっきの人影はこの部屋で何かを探していた。たまたま物音がした方に向かって行ったが、目的のものはまだ見つかっていないはずだ。となると、またここに戻ってくる可能性が高い。



 あの人影が野間さんかもしれないという期待はとうに消えた。身体を満たす不思議な熱が――本能が――「アレは危険だ」と告げている気がしたから。



 ここから出なければ。


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