14.暗影

 

 カツン、カツン


 足音が響く。段々とこちらに近づいてくるその音を私は狭苦しい事務机の下で聞いていた。


 どうしてだろう、何故そうしたのだろう。自分にも良く分からない。気付いた時には、何かそうしなければならないという強迫観念のような衝動が私を突き動かしていた。


 じとり、雨水を吸った床板から立ち上ってくるカビ臭い空気が全身を包んでいる。


 カツン、カ、カツン


 ゆっくりと近づいてきていた足音はいつしか事務所の入口に到達し、リノリウムを打つ固い音が木の軋みへと変わった。外からは相変わらず雨の音が聞こえている。私の身体は縫い付けられたかのように動かない。


 ――野間さん、だよね?


 そうだ。さっき野間さんは確かにこちらの棟へ向かったはずだ。あらゆるところを調べつくして、体育館に戻るついでにまたここにきたんだろう。建物が広いから私が来たことにも気が付かなかったんだ。きっと声をかければ「由紀ちゃん、びっくりしたぞ! 」なんて言って豪快に笑うんだ。


 床板が嫌に軋む。


 ほら、声をかけないと。机の下から出ていかないと。さもなくば行き違いになってしまう。動け。富美子さんのことも伝えないと。動いて。どうして動かないの?


 軋みが私のいる事務机に近づいて来た。脚を引きずるような、不規則なリズムで一歩、一歩、ソレが歩みを進めるごとに身体中が痺れた。人型をしたプラスチックの箱の中、心拍だけが私は人間であると主張しているような心もちだ。外からはまだ雨の音が聞こえてくる。耳をふさぐことも目を閉じることも出来ない私はただ黙ってそれらを受け入れている。冷えた空気をまとい、視界の端から侵入してきた二本の脚もまた現実として受け入れるしかなかった。


 間近まで迫った足音が止まると、チリリと金属音が鳴り頭のすぐ上――事務机の引き出しだ――で鍵の開く音がした。そのまま引き出しが開けられ、はずみで中に入っていたのであろう何かがバサバサと床に、私の目の前に、落下した。突然のことに身体がびくりと跳ね、ヒッと息を飲む。何だ、何故こんなに恐いんだろう。


 黒い脚はしばしその場で制止した。暗闇の中で見えるその脚はただ黒く、太いのか細いのか、男なのか女なのか全く分からない。


 こんな風に物が落ちた時、私ならどうする。自問自答するまでもない。屈んで拾うだけだ。そんなの分かりきってる。だが、この脚の主が上体を屈める時、事務机の下にいる私を見るだろう。


 引き出しを閉める音がして、頭上から黒い手がゆっくりと降りてきた。


 ――そしたら、私はどうなる?


 考えたくない。見えない糸に絡め取られた私は、その手の行く末もまた黙って見ていることしか出来ない。ゆっくりゆっくり、視界を埋める影をじっと見つめていた。この影が野間さんなんじゃないかという希望はいつしか消えていた。漠然と違うような気がするのだ。でも、そうじゃないとすれば誰なのか。いや、何なのか。


 影は尚も伸び、逃げ場のない箱の中で心臓がただ痛かった。こんな時脱出ゲームならどうする。どうすればこの場を切り抜けられる。私がゲームの製作者だったらどこに逃げ道を作る。痺れる頭で必死に考えを巡らしても答えは出て来てくれない。身体中に冷や汗が滲む。その間も影は止まりはしない。雨の音が聞こえる。


――助けて、お母さん。


 黒い手が床に到達しようとしたその時、遠くで何かが割れるような音が聞こえた。雨音にかき消されそうなその微かな音が鳴った瞬間、黒いソレはたちまち私の眼前から姿を消し、空間には走り去る足音の残響だけが残った。


 いなくなった、んだろうか。あたりの気配を探る。足音は聞こえない。雨音だけが変わらずにそこに鎮座している。頬をつたった冷や汗が湿った床に落ちた時、ようやく私は脱力し大きな息を吐いた。

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