【1話完結】私の頭も、脳みそごと
風乃あむり
私の頭も、脳みそごと
「ねえ、その魚の頭、食べてもいい?」
彼は、私の目の前の皿を指差していた。
そこには、アジの頭がのっかっている。
私が食べ残した、アジの頭が。
ーーーねえ、その魚の頭、食べてもいい?
彼の言葉が、私の頭の中で甘く繰り返される。
『はじめ』
私の行きつけの飲み屋さんの名前。
私はこの名前にひかれて、ある時1人でフラリとこの店のドアを開いた。
ドアは木製で、ペンキの緑色が可愛かった。
春の、ふわふわ暖かい空気とともに私は店に入って行った。
「お店の名前は、僕ではなくて、先代のマスターの名前なんです」
何日か通って、いくらか言葉を交わすくらいには親しくなった『はじめ』のマスターが教えてくれた。
「てっきりマスターの名前が、『はじめ』だと思っていました」
私は笑って続ける。
「私にとって『はじめ』は初恋の人の名前なんです」
「それはそれは、僕がその『はじめ』さんじゃなくて申し訳ないなぁ」
「そんなことないですよ、だって幼稚園児のころの恋ですから」
「おぉ、ずいぶん進んだ幼稚園児だったんですね」
そうやって入り浸ってるうちに、他の常連客とも顔見知りになっていった。
特に仲良くなったのが、カレだった。
最初にビールを一杯。
次にハイボールを何杯か。
おつまみはウィンナーの盛り合わせを必ずと、あとはその時の気分で。
そして最後は必ず日本酒をぬる燗で。
そんな感じの人だった。
「私ね、30歳になったから、1人でお酒を飲める女になりたくてね、それでこのお店にきたんだ」
カウンターで隣あって飲んでいる時に、そう言ってみた。
彼は笑って、ハイボールを流し込む。
「女の人って不思議なこと言うよね」
「不思議?」
彼の年齢を知りたくて、あえて告げた話だったのに、そううまくはいかないものだ。
「年齢なんてどうでもいいじゃん」
私より幾分若そうに見える顔で、さらっと言ってしまう。
「そうかなー」
「次は何飲むの?」
「ソルティードッグ」
彼は少し驚く。私の目の前のお皿に目をやる。
「焼き魚にソルティードッグで、美味しいの?」
「ん、別に美味しいよ」
大きな細長いお皿に、アジの開き。
私が箸でついばんで、骨と皮と頭が残って横たわっている。
「ねえ」
彼が私に尋ねる。
「その魚の頭、食べてもいい?」
どういうわけか、その一言は、強烈だった。
ーーーねえ、その魚の頭、食べてもいい?
突然、距離を詰められた気がした。
「…食べ残しだよ? そもそも頭って食べるもの?」
俺、魚食べるの得意だから、と彼は箸をこちらに伸ばす。
長い指。
細い爪。
利き腕は右。
指先が器用に箸を操って、すでに食べ尽くされたと思われたアジを、さらにどんどん解体して飲み込んでいく。
目玉も、口も、何もかも。
それからずっと、頭の中には彼の言葉が甘くにじんで、記憶の中では彼の指先が器用に動いて、まぶたの裏には彼の真面目な顔。
次に会った時、珍しく彼はスーツ姿だった。
私はさりげなく彼のスーツ姿を褒めた。彼はありがとう、と答えてくれる。
その次に会った時は、彼はウィンナーを頼まなかった。それは私の知る限り、初めてのことだった。
珍しいね、と伝えると、彼は少し驚いて言った。よく気づいたね。
その次に会った時は、季節が1つ変わっていた。
もう夏だね、どこか遠くに行きたいなぁ。私が呟くと、それには答えないで、次は何を飲むの?ときいてくれた。
そしてその次に会った時、彼は婚約者と一緒だった。
隣のテーブルで、彼が笑っている。
その目の前にきちんと座って、彼の婚約者も笑っている。
テーブルの真ん中には、美しく食べ尽くされた焼き魚。
残っているのは骨と尾ひれだけ。
なんだ、30にもなって、私はこんなことに動揺するのか。
いっそ、私の頭も、この愚かな脳ミソごと、食べ尽くされてしまえばいいのに。
【1話完結】私の頭も、脳みそごと 風乃あむり @rimuro
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