第十二話 官能と殺意




 ――伊邪夜は待っていた。


 肩で切りそろえた振り分け髪があどけない三、四歳の頃。

 人間と精霊の声を聞き分け始めた人型の揺籃期ようらんき

 当時、伊邪夜が暮らしていたのは、外宮の端にある尚香殿しょうこうでんという独立した殿舎でんしゃだった。四方を高い塀に囲まれた皇太宮である。警備は奥宮並みに厳重で、高官の、それも限られた者しか中へは入れなかった。

 彼女は、朝から廊下の柱に抱きつくようにして外に目を凝らし、庭向こうの内門をくぐってやってくる青年を今か今かと待っていた。

 女官たちが部屋に戻そうとしても、頑としてその場を動かない。

 養育係の弥央があれこれとなだめすかし、なんとか着替えや食事を済ませても、少し目を離すとまた縁側に出てしまう。


 弥央は幼子の好みを不思議がった。伊邪夜はとても難しい子だった。

 日々の世話は受けるものの、誰とも馴れ合わず打ち解けない。玩具や遊び相手も欲しがらない。

 一人でいることを好み、暇さえあれば外へ出ていってしまう。毎日のように庭を歩き回り、草木や花を眺める。お気に入りらしき大木の下に座り、幹に背を預けて何時間でもじっとしている。人が近づくと怒るので、側仕えは離れたところから様子を伺うしかなかった。

 その伊邪夜が、なぜか息子にだけは興味を示し、頻繁に会いたがる。

 息子が来るといえば終日機嫌がよく、言うことも聞く。弥央は懇願に負け、特に用事がなくても息子を呼び出していた。



 警護の兵士らが拱手きょうしゅして頭を垂れ、先触れが貴人のお成りを告げる。

 待ち焦がれた青年の姿を認めると、伊邪夜はとてとてと駆け寄った。

「みわと、みわと」

 舌たらずな声で、その名を呼ぶ。

 神和人は伊邪夜の前まで来ると膝をつき、目線を低くした。

「これは森の御娘おんむすめの天孫、神葛の聖徒せいとにして清福たる唯一の王太子殿下、伊邪夜様。本日もするするとご機嫌うるわしく……」

 流暢な挨拶が終わるのを待たずして、伊邪夜は小さな手を突き出した。

「だっこせい」

 神和人は言上を止め、少し拗ねたような愛くるしい顔を見つめた。

「仰せのままに」

 言われた通りに、両手を伸ばして抱き上げる。

 伊邪夜は喜び、声をあげてじゃれつくと固い胸に頬を押し当てた。トクントクンと心ノ臓の音が聞こえてくる。彼の纏う気も、衣を通した体温も、奏でる心音も、何もかもが心地よかった。


 神和人が尚香殿にいる間、伊邪夜は片時も傍を離れなかった。抱き上げられて移動し、坐れば必ず膝の上に乗って、ぴったりとしがみついた。

 神和人は伊邪夜を抱えたままで、母親やその他の者と話さなくてはならなかった。無理に離そうとすると癇癪を起こすので、周囲の者もそのままにしていた。

 あまりの懐きぶりに、女官たちが「神和人様は伊邪夜様の父君なのではあるまいか。父君とわかるので格別に慕われるのでは」と噂するのも無理からぬことであった。


 伊邪夜はまた、神和人を伴って庭を散歩した。

 彼だけはお気に入りの沙羅双樹の大木の下へ連れていき、膝の上に抱かれて昼寝をした。

 神和人は伊邪夜を自分のほう(上着)の内側に入れ、いとけない寝顔を見守った。

 幾度かそのようなことが続いたある日、彼は寝起きの伊邪夜に尋ねた。

「伊邪夜様は私といて楽しいのですか?」

「……ん?」

 伊邪夜は瞼を擦りながら、男を見上げた。

 彼といて、楽しい楽しくないを考えたことはなかった。ただ一緒にいたかった。ずっとずっと、寝ている間も、起きているときも。

 神和人はふっと顔を曇らせた。

「私は何の面白味もない人間でございます。気のきいたことも言えませんし、遊びを知るわけでもなく。あなた様のお気に召すようなことは何も」

 伊邪夜はポカンとし、それからむうっと頬を膨らませた。

「おもしろうなくてよい」

「伊邪夜様……」

「そなたがいい」

 彼の何がいいのかは上手く説明できなかった。この男を構成するもの全てが、理由なく好ましかった。

 ひしと抱きつくと、胸にぐりぐりと頭を押しつけた。

「そなたがすきだ」

 なんのてらいも遠慮もなく、思ったことを声に乗せた。

「……それは、うれしゅうございます」

 神和人は伊邪夜の顔を上げさせると、指先で乱れた御髪を整えた。

 子供の言うことを真に受けたわけではない。が、幼子の純真に当てられたのか、憂えた横顔に少し赤味がさした。

 ここを一歩出れば、泥沼のような政争に明け暮れる日々。

 意思なき罪悪の果てに、膨らんでいく眞枝夜の腹……。

 考えるだに恐ろしく、懊悩に満ちた現実が迫ってきていた。

 それを束の間忘れさせる穏やかなひと時に、彼もまた安らぎを覚え始めていた。

 外界と隔絶した典雅な箱庭に住まう、無垢なる後継の、無垢なる温情。

 忠誠を奉げ、命を賭して守らなくてはならないもの。

 確かに、伊邪夜はかけがえのない美しい夢であった。


(いざや、いざや、さらい、さらい)

(いざや、いざや、ちかきもの、もりのよきひと)


 香ばしい陽の光を受けて、青々とした新葉がざわめく。

 冷やかすような木精の囁き。伊邪夜はまだその意味を理解できなかった。



  



 ――伊邪夜は恋をしていた。


 奥祁幸来の森で契りを交わした翌日から、神和人は時間を作り、ご機嫌伺いと称して藤尋殿に参った。唯一仰ぎ見るべき高貴な新妻を、一日たりとも放ってはおけなかった。人払いをすると、日暮れまで伊邪夜と二人きりの時間をもった。

 伊邪夜は傍に呼びつけると、神和人の膝の上に乗った。

 幼き日も同じように抱かれたが、今はだいぶ意味合いが違った。主従関係を守りつつも、肌を重ねた男女の気安さがあった。

 互いに想い合って、合意の上で結ばれたのである。後ろめたさは微塵もないが、まだ公にできず、褥を共にできないもどかしさが二人を性急に馴れ合わせた。ぴたりと寄り添って体温を感じ、幾度も唇を重ね、袖を重ね、明るいうちからの交歓という不埒なよろめきに酔いしれた。


 恋情がたかぶると、彼女は全身から甘い芳香を発した。

 好きな相手のみに賜わす、藤の純正の誘惑である。妻となった後も、同じ相手に恋をしていた。むしろ性の快楽けらくを知ったことで、狂おしい恋着は増す一方だった。

 言葉はいらなかった。潤んだ目で見つめ、切ない吐息一つ、それだけで十二分に伝わった。

 鼻孔をくすぐる香りに気がつくと、神和人は心得たように耳もとに口を近づけ、低く囁いた。

「御伽をしてもよろしゅうございますか」

 返事の代わりに、伊邪夜は男の首すじに軽く口づけた。

 それからは、几帳の影で身を委ね、欲しいままにされながら、肌を触れ合わせるたびに自身の香りを移してゆくのである。


 日が暮れると、神和人は政務のため内宮へ戻っていった。

 野和は、洒落気しゃれけがまるでない兄から、女の香のような甘い匂いがするのを訝しんだ。

 伊邪夜は香を好まず、日頃から聞くことはない。主人の嗜好を知っている女官たちも香遊びを遠慮している。

 まさか……と思いつつも、尋ねるのは野暮というものであった。




 昼間の逢瀬を繰り返した数日後、藤尋祭が終わるのを待って、ごく限られた者たちに披露目があった。

 神和人が祝大夫に任ぜられたことは、高位の人々を大いに驚かせた。

 彼を伊邪夜の父だと信じていた者は父娘おやこで番ったのかと仰天し、叔父こそが良き人に選ばれたと知った実利は衝撃のあまり数日間寝込んだ。

 人々の感情はともかく、制度上の問題はなかった。

 神和人は眞枝夜の祝夫ではなかった。小照の存在から関係を推察されるのみで、正式に神の情人となるのはこれが初めてだった。


 内々の沙汰を、もっとも嘆いたのは弥央だった。

 あくまで男妾にすぎない祝夫は、お役御免になれば俗界へ戻り、新たな縁を結ぶことができる。が、内縁の夫たる祝大夫は生涯女王への貞操義務を負い、いかなる再縁も叶わない。

 女王は女腹で、これまで男子が生まれたことはなかった。

 弥央が葦原の跡取りとなる直系の孫を得ることは、ほぼ絶望的となった。

 眞枝夜と伊邪夜、母娘に通じるというのも道義上の物議をかもすものの、息子が志願した以上は伊邪夜を恨むわけにもいかない。

 巫覡は神へ伺候しこうし、奉仕するための存在。

 内縁とはいえ、女王の夫に選ばれることはこの上ない名誉である。息子は主上に差し上げたものとして諦める他なかった。


 祝大夫になったらなったで、新たに心配ごとが出てくる。

 早々に壮年の息子に飽きて、若い男に乗り換えられてはたまらない。

「今更、地位や権力に惹かれるはずもなし。主上はあの子の何が良かったのだろう。もしや前から懸想され、拝み倒されてしまったのか。だとしたら申し訳ないこと」

 と野和に愚痴をこぼしつつも、一日も長く寵愛が続くことを願わずにいられなかった。

 野和も当初は驚いたものの、よくよく考えれば兄が頑なに独り身を貫いていたのも、浮いた噂一つなかったのも、全ては女王をいただくための用意周到な準備に思えなくもない。

 何せ伊邪夜の成人後は、身内を含めて若い男を一切近づけず、祝夫の「ほ」の字も出さなかったのである。警護の皇宮兵とて、既婚者のみを配置している。元より対人関係が限られ、異性の情報を遮断された主に選択枝はなかった。夫にするなら、全く知らない男より信頼できる側近を選ぶに決まっている。

 一応にも祝夫を選びつつ、平行して妻問いの櫛を揃え、自ら志願すると、求婚の翌日には既成事実を作るという手の早さにも舌を巻く。

 純粋な愛情だけで女王を勝ち得ることはできない。兄の権力者としての、用心深くもしたたかな執心を感じずにはいられなかった。



 披露目が終わると、二人の仲は公となった。

 夜になると、神和人は世の夫婦と同じように藤尋殿へ通ってきた。

 昼間は臣として、夜は夫として忠勤に励んだ。

 二人は飲食を共にし、盤上遊戯をしたり、取り寄せた珍しい絵巻物や書物を眺めたりした。

 夏の庭に蛍を放ち、月を眺めながら酒を飲んだ。

 時々歌を歌い、舞を舞って、風雅な遊びに興じた。

 歳が十八も上であることや、望まずとも眞枝夜の情人であった過去に引け目を感じていたのかもしれない。私生活の全てを伊邪夜に奉げ、まめまめしく仕えた。


 夜が更けて閨房へ入ると、一人の男として尽くした。

 平伏して祝大夫の務めを誓い、慇懃に添い伏すと、枕辺の薄明りに照らされた真白ましろ玉肌ぎょくきを心を込めて慰撫いぶした。

 呼吸すらしむ口づけは浅く深く念入りに。

 扇情的なおうとつを優しくたどり、丁寧に戯れた後、秘められた花弁を開く。佳客かかくを迎える側は喜びわななき、押し入ってくるものに潤沢な蜜を与える。

 柔らかな媚肉が、労わりに満ちた責めに感応し、悦楽を取りこぼすまいと収斂しゅうれんする。なめらかな肢体はめくるめく快美にうねり、痺れるような官能に身を震わせる。

 丹念に愛撫されて光沢を放つ肌。たっぷりとして乱れる髪。

 いっそたおやかな腕ですがりつき、更なる逸楽を求めて腰を揺らす。押し寄せる恍惚の波。歓喜の海に惑溺する。


 やがて男の肩越しに、天上に浮かぶ遠い星のような、かそけき白光を見る。

 ぎゅうと押し挟まれたまま、強く口を吸われながら、陶然として呼ぶ。

「神和人」

「……伊邪夜様」

 応える方も声が掠れている。

 肌のみならず、心も触れ合わせる。高まる恋慕と、細やかな熱情と、慈しみに満ちた愛念をかさねがさね。

 組み敷かれて、のしかかられて、本望に強く突き上げられれば、峻烈しゅんれつな火花がはじけ、幾度も明滅する。濃密な交わり。襲いくる陶酔と情熱に、男ではなく、女でもない至善の心がとろけてゆく。

 燃えて露わになっていく樹の本性。無意識下で、伊邪夜は人型をほどいて蔓となる。何百何千という無数の蔓を伸ばして、捕らえた獲物にねっとりと絡みつく。

 その首に、胸に、腹に、脚に何重にも巻きつく。逃げられぬように縛る。抵抗を封じるために絞める。

 真っ向から犯す。淫らに喘ぎながら、精を搾りとってゆく。犯しつくして使いものにならなくなると、狂奔のまま引き摺り回す。欲しがって、欲しがって、きつく締め上げる。弄りながら損壊する。皮膚を鬱血させ、青黒い痣を広げ、肉を潰し、骨を砕く。四肢をちぎり取る。

 離さない。決して、離れない。もはや原型をとどめない肉塊を押し抱く。愛しむあまり、土にまんべんなく埋め、根から血を吸って養分とする。男を糧にして、新たな蔓を伸ばす。艶々とした葉をつける。

 乱れ咲く花、サヤ、種子、循環、器官、涌きあがる殺意、甘い体臭。淫蕩なる死の香り。

 どちらがどちらともわからなくなるほど意識を混濁させて、熱望する。

 愛しさの究極を越えて、殺してしまいたい……。

 滅殺したい、この男を――。


 嗚呼、と艶やかに叫んだ。煽られたからだが大きく跳ねた。

 神の本懐が脳髄を灼いた瞬間、一気に上りつめた。殺意は快楽の起爆剤だった。

 蹂躙、絶頂、性と死の交錯。

 伊邪夜は果て落ちて、しばし忘我の境地に至った。満ち足りた肉が慎みを忘れて弛緩ちかんする。

 大きな手が、優しく頬を撫でていった。

 賜死の本能は、現実の理性を凌駕しなかった。愛する男は生きたままで、貪婪な肉に離れがたく繋がれていた。それで、良かった。


 呼吸が整うのを待って、吐息と共に囁かれる。

「ようございましたか」

 どこか重く苦しげな声。彼は仕えるばかりで、まだ歓楽の頂きに達していない。

 かつて眞枝夜に強いられた狂瀾の閨、長きに渡る虐待のうちに、彼は神葛という凶暴な生き物の性のしもべとされ、完全に躾られてしまった。雄の強壮を、奉仕のためにしか使えなくされていた。だが、今は――。

「……大義」

 伊邪夜はそれだけ言うと、奉仕の褒美に口づけを賜わした。

 満ち足りたはずなのに、馴染んだ肌がたちまちかつえていく。

 彼は深々と息を吐き、再び強く抱きしめると、ようやく自身に愉しむことを許すのだった。


 夜伽は子を孕むまで続く。

 子作りという大義名分のもと、その実、二人は愛し合うための交合を繰り返した。

 そのうち、女王の臥所ふしどには、常に枕が二つ並べられるようになった。

 二人は毎晩一緒に寝た。神和人が仕事で王宮を留守にする時以外、伊邪夜が孤閨を囲うことはなかった。



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鶯舌記 -おうぜつき- 八島清聡 @y_kiyoaki

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