第十一話 良き人と良き春を




 藤尋祭が始まった翌日から、神和人は再び祝夫の選定に入った。

 前回は慣例通り王宮勤めの若い覡に対しての志願制をとったが、今回は違った。葦原の独身の男のみに限って面接を行った。実利は最初に呼び出され、長時間に渡って下問された。

 神和人は実利の女性関係を全て調べ上げており、実利は叔父の前で冷や汗たらたらに、関係を持っている女たちの説明をしなくてはならなかった。

 神和人は終始無表情のまま弁明を聞き、釘を刺した。

「お前は甥ではあるが、一度でもふしだらな事由じゆうで主上に背けば、私が直々に引導を渡す。心しておくように」

 実利は伊邪夜への忠義忠愛と貞潔を固く誓った。破れば本当に殺されかねない威圧を感じながらも、自分こそが大いに期待をかけられていると確信した。

 祝夫に選ばれたら、即刻女たちと縁を切って身綺麗にならねばと決心した。


 祝夫に志願していない香柏も面接に呼ばれた。彼はいつになく憂鬱そうな長兄の下問に神経をすり減らし、しおれた菜っ葉のようになって出てきた。

 さらに、仕官していない葦原の子弟までもが王宮に呼び出された。神和人は祭りの期間中に、伊邪夜の最良の伴侶を選び出さなくてはならなかった。彼は様々な可能性を考え、昼夜問わず面接を繰り返した。

 人々は、「初日の祝夫の候補は主上のお好みではなかったのだ。神和人様も今度こそは失敗できまい」と噂しあった。



 花残月の下旬になると、王宮に一級工匠いっきゅうこうしょうと呼ばれる熟練の職人たちが出入りするようになった。彼らは主に富裕層を顧客とし、金銀の細工物や装飾品作りに優れた腕を持つ名工だった。

 ある日の夜、野和はいつも通り報告のために日祈殿へやってきた。

 廊下を渡っていると、職人らしき男たちが兄の部屋から出てくるのが見えた。野和も職人の出入りは知っていたが、兄が呼んでいるとは思っていなかった。

 奥宮の私室にまで入れるとは余程のことである。どうにも気になって、こっそり後をついていった。

 職人たちを先導しているのは、兄の使用人である佐野だった。

 佐野は神和人の都の屋敷の家令で、王宮に出入りするため獻使人けんししという特別な位を持っている。十年近く前、神和人の命で都の貧民街を歩き回り、病に倒れた母と栄養失調で動けなくなっていた野和を助けたのも彼だった。野和にとって佐野は第二の恩人でもあった。


 佐野は職人らを外宮まで送った。

 職人たちが案内の下官に従って去るのを待って、野和は佐野に近づき声をかけた。

「佐野」

「これは野和様。ご壮健そうで何よりです」

 佐野は振り返って一礼し、その場に跪いた。野和は意味ありげに門の方を見つめた。

「今の者たちは兄様に呼ばれたのね」

「はい。まあ……そうですね。そういうことになりますか」

 何やら歯切れが悪い。野和は尚も注意深く尋ねた。

「兄様は何用で職人を部屋まで入れたの? ああ、口止めされているならいいんだけど」

「何やら、名工の作った櫛を集めて吟味しておられるようですが……。詳しいことは私にもわかりませぬ」

「櫛……?」

「では、都に戻らねばなりませんので。私はこれにて」

 佐野はすっと立ち上がり、そそくさと去っていった。

 残された野和は、はてと首を傾げた。兄が自分の櫛のために一級工匠を呼ぶはずはなかった。それに櫛とは一般的に女が使うものである。

「まさか……」

 野和は呟きながら、頭に手を当てた。結い上げた髪には当然櫛が挿してある。兄が女物の櫛を集めて選ぶ理由は、一つしか思い当たらなかった。


 藤尋祭が進むにつれ、十二人の御奉女のく先も徐々に決まっていった。

 葦原の男たちはそれとなく話し合って、貰う娘を決めていった。とはいっても、祭りの期間中は女王の供物であるので手をつけることはなかった。

 狭雲月に入ると、御奉女のうち九人は嫁ぎ先が決まった。北部三県から来た三人だけは決まらなかった。

 彼女たちの身を預かる最終的な責任者は領主の神和人であり、彼こそが優先的に側妾にできる権利を持っていたからである。権利を放棄しない限り、三人は誰のものにもならなかった。

 北部の娘たちは琉花るか安慈あんじ鳶女とびめという名だった。特に鳶女は十二人の中でもっとも美しく、王宮でも人目を引いた。ややつり上がったきつめの瞳は俊敏な猫を思わせた。


 鳶女はある時、他の御奉女たちの前でこう放言した。

「私は神和人様のところへ嫁きたいわ。それ以外の方のところは嫌よ」

 周囲は驚いた。これは大それた発言だった。神嫁になれるとはいえ、自分たちは平民の出身。妻に選ばれこそすれ、夫を選ぶ権利はなかった。

 近くにいた安慈が、小声で鳶女をたしなめた。

「ちょっと鳶女ったら。そんなこと言っちゃだめよ」

 鳶女は美貌に自信があるのか、全く悪びれなかった。

「どうして? 奥方様がいないのは神和人様だけだもの。私は何番目かの妻なんてまっぴら。他の方へ嫁ぐくらいなら、御奉女を降りて巫になるわ」

 琉花が呆れたように嘆息し、軽蔑の眼差しを向けた。

 鳶女の発言は不遜に過ぎたし、同じ無礼な輩と思われるのは勘弁してほしかった。

「……野心家なのね。平民なのに国で一番偉い方の妻を望むなんて。女官の方々が聞いたらどう思われるか。出る杭は打たれるわよ」

 同期からいくら責められようとも鳶女は気にしなかった。その後も夜の宴や人前で、平気で望みを口にした。


 数日後、三人は思いもよらぬ僥倖に預かることになった。鳶女の願いを聞いたのか、神和人自身が三人を呼んだのである。

 まさかの召し出しに娘たちは浮足立った。期待に胸躍らせ、念入りに化粧して大本殿へ出かけていった。

 他の娘たちは唖然とした。神がおわす神社かみやしろの王宮ならば、願いごとは口に出してみるものである。自分たちも希望の相手を公言すれば叶ったかもしれないと悔やんだ。

 鳶女たちは、神和人に直々に拝謁が叶った。

 さらには三人ともがお傍に侍り、褒美に櫛を賜ったらしいとの噂が流れた。



妻問つまどいの櫛よ。間違いないわ。贈るまでもないことなのに、平民の娘でも手順を踏むのはあの子らしいこと。ああ、嬉しい。やっとその気になってくれたのね」

 御奉女の噂を聞いた弥央は、呼び出した野和の前で、興奮気味に語った。

 妻問いの櫛は、男が求婚の証として女に贈るものである。

 弥央は御奉女三人に与えたという櫛のことを妻問いの櫛と信じた。

 息子がようやく結婚する気になったと思うと、感極まって涙が出そうだった。

「よかったですね、義母かあ様」

 野和はこれまで兄の縁談に奔走してきた義母の苦労を思い、素直に祝福した。佐野の話から兄が職人たちに女物の櫛を求めたのは確かだし、結婚が本当なら公平を重んじる兄らしいことだとも思った。

 誰か一人を妻にしては不平不満が生じるから、三人共引き受けて面倒をみるつもりなのかもしれない。何より、辛酸を舐めてきた北部の民にとって、同郷の娘が葦原のお大尽の妻になるのはこの上ない栄誉である。民心を繋ぎとめる意味でも、賢い選択に思えた。

 野和は結婚相手が誰であっても、兄が望んだことならそれで良かった。


「結婚してくれるなら、御奉女だろうと妓女だろうとなんでもよい。早く妻を娶って、男の子を、跡継ぎをもうけてくれないとね」

 弥央は先走ってか、早くも孫の誕生を待ち望んでいる。

 母と呼んでくれる子は多いものの、野和も含めて皆、夫の妾や婢が産んだ生さぬ仲。娘の弥佳亡き今、弥央にとっては一臣のみが腹を痛めて産んだ実子だった。

 女にとって最愛の男は息子であるというが、弥央もまた一人息子を溺愛していた。息子の子、直系の孫こそを葦原の跡継ぎ、次の総代にしたかった。

 弥央は顔を綻ばせ、まだ見ぬ孫やその養育について熱く語った。野和は真剣に話を聞き、時折相槌を打った。義母に逆らわないことが、自分にできるせめてもの親孝行だと思っていた。

 兄の母であるし、内心はどうであれ、弥央は下女であった実母と自分を迫害しなかった。父の正妻として誇りを保ち、数多の側妾や継子たちをいじめなかった。それだけで充分だった。

 野和自身はといえば、四番目の妻ということもあって過度な期待をかけられず、子供を急かされることもなく、至って気楽な結婚生活だった。夫の宇丁とは彼が王宮泊まりの時に逢えればいいと思っていた。

 弥央が持ってきた縁談に従って結婚した野和だったが、同族ではなく軍門に嫁いだことが、後に彼女の運命を大きく変えることとなった。





 狭雲月の下旬に入って、神和人はようやく祝夫を決めた。

 吉日を選び、祭りが終わる数日前になって、報告のために藤尋殿へ参った。

 紫の袱紗に包んだ小箱を携えていた。人払いを希望したので、伊邪夜は野和を下がらせた。

 小箱を一旦脇に置くと、神和人は伊邪夜の前に平伏した。

 顔を上げた後も下を向いたまま、神妙に切りだした。

「主上、先日のお申しつけの通り祝夫を選んでまいりました。主上の伴侶となる者でございます」

 伊邪夜は全身に緊張が走るのを感じた。いよいよ来たかと思った。

 自ら選定を命じたからには、いかなる男であっても受け入れなくてはならない。神和人の選んだ男を夫にしなくてはならなかった。

 表面は努めて冷静を装った。

「そうか。良き男なのであろうな」

「はい、葦原の一門でございます。お気に召すと良いのですが」

 祝夫が葦原の出身であるのは当然のことだった。

 複数ならともかく一人しか選べないなら、他のうからの男を推すはずもない。身内の中から祝夫を選ぶのが、総代の務めだった。


「誰なのか」

 伊邪夜は力なく尋ねた。神和人でない以上、誰であろうと同じだった。

「……その祝夫を申し上げる前に、一つお願いがございます。この機会に、どうか私の結婚をもお許しいただきたく」

「其方の結婚?」

 伊邪夜は驚愕した。この男は一体何を言い出したのだろうと思った。

「はい。今は婚姻の季節。主上が伴侶を得られるめでたい時期に、私も身を固めようと思いまして。実は前々から準備を進めてまいりました。非公式ではございますが、藤が散る前に妻を娶りたく存じます。側仕えとしましては、主上のお許しがなくては叶いませんので」

「……そんな」

 伊邪夜は愕然とし、声を震わせた。膝の上で握った拳も震えた。

 一瞬の間を置いて、濁流のような悲しみが襲ってきた。

 ……嫌だった。神和人が妻を娶るなど、他の女と睦み合うなど嫌だった。

 これまでは彼が独り身であったからこそ、切ない想いも耐えられた。自分が祝夫を持っても耐えられると思っていた。

 その当の本人が他の女に想いをかけるなど、番うなど……ましてや、主として結婚を許さなくてはならないなんて。これ以上の残酷はなかった。


「なぜ今になって婚姻などする。其方は申したではないか。人を愛せぬと。女も男も好きではないと。我に嘘を申したのか」

 伊邪夜は、見えない手で縋るように言った。自分のそれはどうでもいい。なんとかして神和人の結婚を阻止したかった。

 神和人は伊邪夜の悋気りんきを感じたのか、困ったように目をしばたかせた。明らかに戸惑う気配がした。

「……それが、その、唯一例外ができてしまいまして」

「政略なのか。政のための婚姻か」

 違うとわかっていながら、伊邪夜は尋ねた。彼は既に権力を掌握している。政略のために婚姻する必要はなかった。

「違います。想いをかける女人がおりまして。その女人と一緒になりたいと思うがゆえでございます」

 神和人は控えめながら、誠意を込めてはっきり言いきった。


 伊邪夜は目の前が真っ暗になった。底の見えない深い沼に吸い込まれていく心地がした。神和人から視線を逸らした。もはや彼を直視できなかった。

 その口から、他の女を想う言葉など聞きたくなかった。

 ……やはり御奉女か。あの平民の娘たちに心惹かれたのか。

 伊邪夜は一度舞台で観たきりで、顔さえ定かでない娘たちに嫉妬した。

 眞枝夜が亡くなってもう八年近く経つ。神和人も眞枝夜に負わされた心の傷が癒え、妻や家庭という平凡な幸福を求め始めたのだろうか。

 だとしても許せない。絶対に許せない。どうしても結婚するというなら、あの娘たちを……と薄ら寒いことを考えたところで、伊邪夜は荒ぶり始めている自分に気づいた。

 だめだ。このままでは眞枝夜の二の舞になる。

 母と同じ哀れな末路を辿ってしまう。荒魂となって人を祟れば、神和人を悲しませてしまう。

 だったら醜態を晒す前に、錯乱する前に、いっそこの男を……隠してしまおうか。

 きり穿うがたれるように、ぎりぎりと胸が痛んだ。

 足の感覚がない。どうして泰然と座していられるのかわからない。席を蹴り立って、部屋を飛び出してしまいたい。ここから逃げだしてしまいたかった。


 二人の間に鉛のような重い沈黙が降りた。

 伊邪夜は怒りと悲しみを堪えながら、大きく息を吐いた。

「……誰か。其方がそれほどに想う女人とは誰か。申してみよ」

「申し上げれば、お許しくださいますか」

「聞いてみなければわからぬ」

 寛大な風に言ったものの、誰であっても許す気はなかった。

 神和人は迷うように目を泳がせた。彼もまた激しい葛藤を抱えていた。伊邪夜の怒りを恐れているのかもしれなかった。

「申せ」

 伊邪夜はやや低まった声で再度命じた。これ以上、生殺しにされるのは耐えられなかった。


 神和人は顔を上げ、正面の伊邪夜の瞳を見つめた。かつて飽くことなく眺めた美しい寝顔、艶めく瞼の下にある、吸い込まれそうな宇宙の瞳だった。

 憧憬の眼差しに、感情の熱がこもった。

「それでは申し上げます。私が妻に望んでおりますのは……主上でございます。目の前におわすあなた様でございます」

「……えっ」

 何を言われたかわからず、伊邪夜は小さく叫んだ。彼女もまた神和人の顔を穴が開くほど見つめた。

「……我、か?」

「はい、伊邪夜様でございます」

「なぜか」

「あなた様に想いをかけておりますゆえ」

「なぜか」

 それしか言葉を知らない鸚鵡おうむのように伊邪夜は繰り返した。

 神和人は急に恥ずかしくなったのか、口もとを手で押さえた。

 年甲斐もないことと照れているようでもある。

「あなた様は長らく私の美しい夢でしたが、その夢が存外浅ましく、あなた様を我が物にしたい、ただ一人の妻にしたいものと気づいたからでございます」

「其方が我の祝夫になるのか」

「はい、誠に恐れながら自薦させていただきたく」

 伊邪夜は信じられなかった。まさか神和人自身が祝夫に志願してくるとは思わなかった。

 だが、他の誰でもなく、自分こそが妻に求められていると理解すると、胸のうちに沸々と喜びがこみ上げてきた。

 元より虚言を言う男ではなかった。間違いなく彼の本意であるに違いなかった。

 伊邪夜は身を乗り出すようにして、念のため尋ねた。

「其方が我を求むるは、おおやけのためか」

 神和人は緩くかぶりを振って否定した。

「いいえ、違います。です。私情です。もし主上が祭りの初日に祝夫をお選びになったなら、この想いは諦めるつもりでした。ですがそうはなさらなかった……。だからこそ、もう抑えがきかなくなってしまったのです」

「神和人……」

 伊邪夜は切なく呼んだ。二人共に同じ想いであったことを知った。

 神和人は、再び床に擦りつけんばかりに深く頭を下げた。

「お許しください。私は職務を果たせません。祝夫を一人として差し上げることができません。御子をお産み参らせるためだとしても、あなた様を他の男に好きにされたくないのです。身内や兄弟であっても許せません。もし私以外の男に情けをかけようものなら、嫉妬に狂って名莫にちてしまいます。どうか忠義を逸脱し、この不肖の身にいただくことをお許しください」

 伊邪夜は立ち上がり、駆け寄って、その胸に縋りつきたいのを懸命に堪えた。

 いけなかった。神が、女王が、そんなはしたないことをしてはいけなかった。

 人間に愛を乞うてはならなかった。主人らしく尊大に、驕慢に、第一の忠臣の求愛を鷹揚に許さなくてはならなかった。

 それでも発した声には、はちきれんばかりの喜びが滲んだ。

「……許す。其方を、良き人とする。わがつまとなれ」

 神和人は顔を上げた。心からの安堵が滲む声で言った。

「お許しくださり恐悦至極。人には得がたき、この上ない僥倖でございます」


 およそ十年の時を経て、二人の想いは通じ合った。

 しばし見つめ合った後、神和人は傍らに置いた袱紗の包みをほどいた。

 中には白木の箱があり、蓋を開けると絹に包まれた櫛が出てきた。

 金の細い二本足の頂きに、宝石で造った藤をあしらった花の櫛だった。

 葉脈まで彫った精緻な翡翠の葉が数枚、その下には大小の花房が二つ、紫水晶の薄い花びらが幾重にも垂れ下がった見事な細工物だった。

「妻問いの櫛でございます。どうかお収めいただきたく」

 そう言って、伊邪夜に恭しく櫛を差し出した。

 伊邪夜は奉げられた櫛に目を細めた。透き通った藤の花びらが美しかった。彼がくれるものは何であっても嬉しかった。

「良い物だ。大義である」

急拵きゅうごしらえですが、間に合ってようございました。当初は出来合いのものを集めたのですが、若い女人の好みはわからず……。領地の御奉女を呼んで、色々と意見を聞いたのです。やはり主上には藤が一番似合うかと思いまして。この世でもっとも高貴な花ですので」

「では本物も愛でるか? まだ散ってはおるまい。その櫛を持ってついてまいれ」

 伊邪夜はすくと立ち上がった。神和人は櫛を持って後に続いた。



 二人は庭に降り、散り始めの藤の大樹の下に入った。

 花のすだれをかき分けるようにして奥まで進んだ。

 重たげに垂れた花房が、薫風に波のように揺れていた。

 伊邪夜は幹の前で神和人に向きあうと、甘くねだるように告げた。

「櫛を飾れ」

 神和人は伊邪夜に近づき、少し迷って、結い上げた豊かな髪に櫛を挿した。櫛は柔らかな木漏れ日を弾き、シャラリシャラリと涼やかな音をたてた。

 紫水晶の薄い膜を横目に見ながら、伊邪夜は問うた。

「美しいか」

「はい」

「……母上よりも?」

 また意地の悪いことを言ってしまった。

 眞枝夜とは、貌も声もからだも全てが同じ造りである。違うところがあるとすれば内包する魂だけだった。その魂を神和人は選んだのだった。

「はい。伊邪夜様こそをお慕いしておりますゆえ」

 神和人は眩しそうに目を眇め、迷いなく言いきった。

「ならば受けとれ」

 伊邪夜は、今度こそ男の胸に身を投げた。神和人は伊邪夜を受け止め、しっかりと抱きしめた。

 二人はどちらからともなく唇を寄せた。無数の藤の花房に隠れるようにして口づけた。唇が触れ合う儚い音がした。

 伊邪夜は背中に両手を回し、夢中で男の唇を吸った。

 ずっとこうしたかった。抱き合って、触れ合って、想いを交わしたかった。

 一度唇を離すと、約するように告げた。

「我は母上のようにはならぬ。其方を苦しめることはない」

 神和人の瞳が大きく見開かれた。それから全てを悟ったように何度か瞬きし、閉じられた。

「……ありがたき幸せにございます」


 今度は神和人の方から求めてきた。

 伊邪夜は唇を薄く開き、その愛を受けた。先程よりも深かった。噛みつくような口づけに、頬は薄らと朱を刷いた。嬉しかったが、明るいうちからするのは少し恥ずかしかった。

 ひとしきり貪ると、神和人は耳もとに囁いた。

「おそらく、私ほど傲岸な人間はいないでしょう。生まれて初めて心から欲したものが神であったとは」

「そうだな。其方は傲岸だ」

「お許しください。誠心誠意お尽くしいたします」

「良い。許す」

 伊邪夜は花のような笑みをこぼし、そっと男の胸を押した。名残惜しくもからだを離した。

「明日、其方と共に奥祁幸来へゆく」

「奥祁幸来に?」

「聖地のはらからに、神夫かむつまである其方を披露目なくてはならぬ」

 そうは言ったものの、披露目云々は建前だった。神名備の森の、太古から続く自然の中で二人きりになりたいだけだった。

「そこで其方と初蔓を絡む。妻にせよ」

「……御意のままに。では今宵は禊をして清らかでありましょう」

 神和人は軽く微笑んだ。伊邪夜はたまらなくなって、反り上がった唇に、念を押すように口づけた。



 翌日、神和人は珍しく暇を取った。

 伊邪夜を馬に乗せると、荷物を積んで北上の森を進んだ。

 奥祁幸来に入ると馬を置いてさらに細い道を上り、成人の儀の際に雨宿りをした祠に辿りついた。

 周囲の藤は二人を待っていたように、祝福の花びらを降らせた。薄紫の美しい雨だった。胸焼けするような甘い匂いが漂っていた。

 神和人は祠の中に簡易の新床をしつらえた。伊邪夜の手を取って中へ導くと、許しを乞い着物に手をかけた。伊邪夜はするすると衣を剥がされた。

 二人は裸になって抱き合い、誰にも何にも憚ることなく、思う存分口づけを交わした。二本の蔓のように上から下までしかと絡みあって、幾度も契った。

 伊邪夜は、その身に施されるありとあらゆる無礼を許した。何をされても構わなかった。嬉しかった。幼い頃から惹かれてやまなかった男の、愛も忠義も手に入れた。



 二人は幸福だった。

 藤が散っても、心には花が、常緑の春があった。

 長くは続かない幸せと知っていても、一刹那いっせつなを惜しむように、深く愛し合ったに違いなかった――。



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