第十話 森恋歌




 日に日に寒さが増し、北では早くも雪が降ろうかという晩秋のある日。

 帆波はいつものように小照のもとへ通ってきた。珍しく昼間のうちに玻里に着き、真っ直ぐ彦摩呂の家へ行ったが、家人は皆留守にしていた。

 今や勝手知ったる家のため、皆が帰ってくるまで上がって待つことにした。小照の部屋に入ると、ごろりと寝転がった。そのまま目を閉じようとして、彼はあることに気づいた。

 部屋の隅に置いてある行李から、韓紅からくれない色の布がはみ出している。着物のようだが、遠目にも上等な布地に見えた。行李には小照の私物が入っているはずだった。

 帆波は気になって身を起こした。これまで触ったことのない行李を開けてみた。韓紅の布を取り出してみて彼は驚いた。

 それは貴人の女性が纏う絹の上衣うわぎだった。その他にも翡翠の勾玉の首飾り、金と紅玉の簪、鼈甲べっこうに細かな金の蒔絵を施した櫛、銀糸で真珠を縫い付けた帯などが出てきた。どれも売れば数年は遊んで暮らせる一級品である。市場に流通している代物ではなかった。

「なんだこれは」

 帆波は、小照がなぜこんなものを持っているのか怪しんだ。百姓の娘にはあまりに不相応すぎる。小照が身につけているのも見たことがない。


 そういえば……と彼は思った。この家は何かおかしい。

 百姓なのに、何で生計を立てているのかわからない。馬や鶏を飼い、畑を耕して芋や野菜を作っているが売るほどではないし、勤めに出ているわけでもない。

 それなのに金に困った風はなく、食事となるといつも米の飯や獣肉の入ったあつものが出てくる。婿として歓迎されているわけではなかった。彦摩呂と律は帆波を嫌っていて、普段から顔を合わせようとすらしない。神葛は豊かな国だが、一介の百姓が毎日米を食えるはずはなかった。

 小照は時々、所用と称して都へ出かけていく。もしやそこでこの品々を手に入れたのか。まさか都の貴人の邸宅や富裕の商家から盗んだのか。

 そう思うと肝が冷えた。盗人は捕まればまず死罪を免れない。盗人の家族も厳しい罰を受ける。

 とにかく真相を突き止めなければ、と彼は奮い立った。


 夕刻、小照が帰ってくるやいなや、帆波は有無を言わせず腕を掴んで部屋に引っ張りこんだ。

 壁際に追いつめると、着物や櫛を突きつけ、声を張り上げた。

「小照、この着物や簪はなんだ。これをどこで手にいれた。もしや盗んだのか」

 小照は帆波の剣幕に驚いた。掴まれた手首も痛かった。

「盗んでなんかいないわ。痛い。離して」

「だったらどうしてこんなものがある。百姓の娘が持つような代物じゃないだろう。お前は盗人の娘なのか。盗品を売って暮らしているのか」

 大声で怒鳴られて小照は怯えた。殴られるかもしれないと思った。目を潤ませながら首を横に振った。

「……違う。貰ったの。全部貰ったの」

「誰に? 誰がお前にこんなものをくれるんだ!」

「姉様、姉様からいただいたのよ」

 小照は思わず口走ってしまった。

 伊邪夜のことは決して口外してはならなかったのに、その禁を破ってしまった。

「……姉様? 誰なんだそれは」

 帆波は追及の手を緩めない。尚も語気荒く詰め寄った。

 小照はもう隠しきれないと観念し、秘密を洗いざらい話してしまった。

 自分は神葛の女王の妹であること。葦原の総代である父には認知されてないものの、父からの仕送りで暮らしていること。時々、姉に呼ばれて王宮へ行き、姉が身につけている高価な品を貰っていることを。

「はぁ? 女王が姉? 親父が葦原の総代だって……?」

 衝撃の事実に帆波は声を失った。

 田舎の百姓の娘と思っていた妻が王女であったとは……。到底信じられず、夢でも見ているのかと頬を抓りたくなった。

 神葛に来て日の浅い彼も、葦原が神の一族であることは知っていた。

 王宮に勤めるために、神官の家系に縁づくどころではなかった。庶子であっても、小照は雲の上の存在だった。王族は一生交わることのない世界の人間で、本来傭兵なぞはお目見えすら許されない。


 帆波は小照の手を離し、その場にへたり込んだ。

 これはとんでもないことになった。と同時に、決して断ち切ってはならない奇跡的な縁だとも思った。

 彼はしばらく思索に耽った。朧げにも考えがまとまると、ゆらりと立ち上がった。

「……疑って悪かった。けど、これは俺一人の手には負えない。一度、くにへ戻って今後のことを協議してくる」

「閏胡蛇へ帰るの?」

「違う。俺は閏胡蛇の人間じゃない。俺の故郷は東小群あずまこむれの谷だ。親父は東小群の族長だ」

「東小群……?」

 聞いたことのない地名だった。

 帆波は小照にくるりと背を向けた。急に声が沈み、吐いた息に哀愁が滲んだ。

魂枯たまがれの谷だよ。蛇神カカの毒に侵された不毛の地だ。自然の精霊が存在しないから、水は濁るし農作物も育たない。獣たちも暮らせない。そんなところにも人間は暮らしている」


 東小群の谷は神葛の最南東に位置し、琉斌、閏胡蛇とも国境を接している。

 地図には記載されているものの、どの国にも属さない空白の地域だった。

 三国共に谷の領有権を主張せず放置していた。理由は簡単で、領有しても何の役得もないからだった。

 伝説では、太古の昔に水龍と大蛇が七日七晩戦って山を削り、大地を引き裂いてできた谷とされている。神々の激しい戦いでかの地にいた精霊は全て消し飛んでしまい、土壌は大蛇の毒に汚染され、植物の一切が育たない荒涼の大地と化してしまった。

 そんな谷にも、やがてならず者や犯罪者、逃亡した奴婢、浮浪人などが流れてきて、谷底にへばりつくようにして暮らすようになった。不毛の地ゆえに農業や狩猟では食べていけない。かといって匪賊となって町や村を襲えば、正規軍に討伐されてしまう。男たちは傭兵となって他国に出稼ぎに出るほかなかった。

 東小群の族長は子弟を諸国へ送りこみ、情報を収集しながら仕事を探させていた。大きな戦があると、一族で戦地に赴いて戦った。

 傭兵は給金が高い分、危険な任務を負わされ、窮地に陥れば真っ先に切り捨てられる。複数で雇われて戦った方が、生存率が上がるからだった。

 帆波は以前より、どうせ戦うなら不安定な傭兵稼業よりも正規軍の兵士になりたいと考えていた。いずれは一族もろとも谷を出、移住先の国の戸籍を得て、真っ当な暮らしがしたかった。

 戻ってきたらもっと詳しく話すと言って、帆波は家を出ていった。

 残された小照は不安を覚えながら、夫が闇に消えるのを見つめた。


 十日ほどして、帆波は戻ってきた。

 兄の活目いくめと、親類縁者である二十人ほどの屈強な男と一緒だった。

 活目は眼光の鋭い細面の男で、父の族長の代理として弟について来た。

 彼は小照の縁を頼りに、一族をあげて神葛に忠誠を誓い、仕官を願い出るつもりだと言った。

 帆波は小照から鼈甲の櫛を借り受けると、活目らと共に都へ向かった。

 目指す先は、政の中心である王宮だった。


 帆波たちが都に着いた翌日の早朝、神和人がいつも通りに大本殿に入ると、待ち構えていたらしき衣鳩が開口一番にこう切り出した。

「神和人様、昨日から特別に目通りを願う者たちが参っております。私では判断がつかない件でして、ご指示を仰ぎたく」

 神和人は微かに眉を顰めた。

 高官から地方官吏、村の里長まで神和人に謁見を求める者は多いが、その殆どは下官が処理し、後で報告のみが上がってくる。衣鳩がわざわざ言上してきたということは、何か例外が起きたことを意味した。

「いかなる者で、いかなる用件か」

「それが……その、小照様の夫とその兄と申す者たちでして。父は東小群の傭兵らを束ねる長であると。王妹の小照様と縁づいたことを神のお導きと信じ、一族で神葛に臣従したいと申しております」

「……」

 神和人は沈黙した。どういう経緯か、小照の素性が外部に漏れてしまったことを理解した。それも異国の者に知られてしまったのは、正直痛手だった。

「その者たちは本当に小照様の縁者なのか」

「最初は虚言かと思ったのですが、このようなものを携えておりまして」

 衣鳩は持っていた紫の袱紗ふくさを広げた。包まれていたのは献上品の鼈甲の櫛だった。かつては伊邪夜が身につけており、小照に下賜したものだった。

 神和人も櫛には見覚えがあった。彼は逡巡した後、衣鳩に言った。

「その者たちを徹底的に調べよ。東小群にも人をやれ」

「疑っておられるのですか」

「金次第でどの国の、どの勢力にもくみするのが傭兵の生業なりわい。縁者であると同時に琉斌や閏胡蛇の間諜かもしれん」

「……なるほど。仰る通りにいたします」

 衣鳩は引き下がり、適当な理由をつけて帆波らを待たせた。

 彼らは王宮内に留まることを許されず、呼び出しがくるまで都にて待機した。


 一ヶ月後、配下から報告が上がってきた。

 活目と帆波は間違いなく東小群の族長・尾羽おはねの息子であり、一族の男たちは傭兵稼業で生計を立てていた。諸国の傭兵とも繋がりを持ち、谷だけで百五十から二百名の兵を動かす力があった。

 琉斌が閏胡蛇に侵攻した際は、どちらにも雇われず戦いを静観していた。今のところ、神葛に対して仇なす要素は見当たらなかった。

 衣鳩は神和人に、東小群の者たちを仕官させることを勧めた。

「ならず者の集団ですが、戦場の経験豊かな強者つわものども。これを拒んで琉斌に流れても面白うございませぬ。可留蛇の例もございますし、抱きこんでおいた方が良いかと。主上の妹御を妻にしておるならば、まず背くことはありますまい。これも小照様が導いた神魂かみむすびの縁と思えば」

「そうだな。それが良いだろう」

 神和人も同意した。

 彼もまた即戦力となる兵を増やし、少しでも軍部を増強したかった。


 神和人は宇丁の副官で皇宮警備隊長の賢木さかきを呼ぶと、東小群の男たちを祇候にして面倒をみるよう命じた。ただし、用心して王宮勤めにすることは禁じた。

 賢木は帆波たちを呼び出した。仕官を許す旨を告げ、女王の妹婿であることを考慮して、帆波と活目を百人長である祇候頭さもらいがしらに任命した。

 活目は早速にも東部へ派遣され、宇丁の手足となって琉斌の賊軍と戦った。

 帆波は都の治安維持にあたる衛門府えもんふ警邏部けいらぶへ配属された。都を巡回し、犯罪を取り締まるのが主な仕事だった。

 その後も、東小群の男たちは続々と神葛にやって来て祇候となった。

 上官が族長の息子であるため特に問題は起きず、彼らは黙々と職務に励んだ。


 帆波は小照のおかげで神葛に仕官が叶い、官位も得て、まさに順風満帆だった。

 小照は幸運の女神以外の何ものでもなかった。

 元から好きだったが、王女と知って尚のこと愛着が増した。彼女に流れる高貴な血はそれだけで大変な価値があったし、上品の女を得ることは男の夢であった。

 帆波はしきりに子供を欲しがった。

 小照との間に子をもうけなくては、葦原との関係を強化できない。

 帆波自身の出世も一族の栄達も、小照と彼女が産む子にかかっていた。都で働きながらも、足繁く玻里の小照の元へ通った。

 反対に小照は、帆波との夜の営みが嫌で嫌で仕方ない。

 夫婦は一緒に暮らすうちに情が湧くというが、何度共寝しても傭兵上がりの帆波のことは好きになれなかった。心のどこかに「彼さえ来なければ、自分は殿上人と結婚できた。もっといい生活ができた。父も自分を認めてくれたのに」という想いがあった。


 好きでもない男に触れられるのは苦痛でしかなかった。心とからだがすっぱり乖離かいりしたように、感情の悦楽が結びつかない。どんなに愛されても、帆波を受け入れることができなかった。

 本当は同衾を拒みたかったが、薄情だと思われそうで言い出せない。行為の最中は、早く終わることだけを願っていた。

 小照は幸福ではなかった。しかし、決定的に不幸でもなかった。

 面倒をみてくれる養父母は健在で、衣食住にも不自由せず、夫は好きではないが別れるほどの問題があるわけでもない。

 彼女自身、ぬるま湯に浸かったような現状を打破する勇気も気骨もなかった。

 悶々としつつも、安穏の日々に流されるのみだった。

 いつものように求められて身を任せ、諦め半分に「子供さえ身篭れば共寝せずに済むのだろうか……」と思った冬の夜、彼女は自分でも気づかないままに自己を懐胎した。

 小照の腹に芽生えた種子は、三年後の出生に向けて密やかに、着実に脈動を始めた。周囲も小照の妊娠には気づかなかった。




 一方、年が明けると野和の結婚が決まった。相手は宇丁だった。

 野和は宇丁の四番目の妻になることになった。四番目といっても宇丁が好色なわけではなく、来る縁談を断らないだけだった。

 慣例として、女王の側近は主から結婚の許しを得なくてはならなかった。

 野和は伊邪夜の前に跪き、宇丁との結婚を願い出た。伊邪夜は鷹揚に許した。反対する理由はなかった。

 野和は許しを得て、ホッとした表情を浮かべた。

「本当は宇丁様の弟にあたる方との縁談でしたが、家庭に入って欲しいと言われまして……。宇丁様は寛容な方で好きにして良いと仰ったので、こちらと結婚することにしました。私は結婚しても子供を産んでも、お勤めを辞めず主上にお仕えしとうございます」

 伊邪夜は薄らと微笑んだ。兄に似てよく働く妹だと思った。

「そうか。引き続いて励むがよい」

 温情ある言葉に、野和は瞳を潤ませた。

 自分の選択は間違ってなかったと思った。敬愛する女主人の傍を離れたくなかった。結婚しても夫に依存せず、仕事を持って働き続けることが彼女の誇りだった。


 野和が宇丁と結婚することを知った勇人はいてもたってもいられなくなり、半ば強引に宇丁の護衛に立候補して東部から戻ってきた。

 結婚を阻止するつもりはなかった。そんなことをしても何にもならないとわかっていた。

 彼は同期として祝辞を述べるために、野和を外宮まで呼び出した。

 会うまでは笑顔で祝福するつもりでいたが、実際に野和の顔を見ると、しきりにこみ上げてくるものがあった。思わず愚痴がこぼれた。

「宇丁様は俺の上官だし立派な方だけど、歳は神和人様とそう変わらないし、今の奥方様だって葦原の出だ。何も野和がかなくたって……」

 野和は勇人を見上げ、少し寂しそうに笑った。

「いいの。私、歳の離れた人が好きだし。元から選べる立場でもないしね。婢の子だし、破談でケチがついちゃったし。貰ってくれるだけありがたいと思わないと」

「生まれや破談は野和のせいじゃないだろ」

「いいの。自分で決めたことだから。兄様は軍門との結びつきを強化したがっている。宇丁様と結婚することで兄様の役に立ちたいの」

 野和は迷いなく言いきった。揺るぎない意志を感じ、勇人もそれ以上は何も言わなかった。昔から、そういう芯の強いところが好きだった。

 上官の妻となっても幼馴染として、一人の武官として野和を守っていこうと心に決めた。

 その三日後、野和は宇丁と新枕を交わし、翌日披露目の祝言をあげた。




 ***




 寒風がやわらぎ、草木が萌えて、暦は春に入った。

 花残月(四月)の中旬にもなると、王宮の藤の蕾がほころび始めた。

 藤は晩春の花である。花残月の中頃から始まり、およそ狭雲月(五月)いっぱい咲き続ける。

 神葛の春は、小草生月(二月)から藤が散るまでとされていて他国よりも長かった。藤が散って、ようやく夏に入るのである。

 藤が咲くと、王宮では毎年恒例の藤尋祭が始まる。藤の強靭な生命力にあやかりつつ、春を謳歌する祭りだった。祭りは王宮から都、地方へと広がってゆき狭雲月の末まで続く。

 この時期は婚姻の季節でもあり、藤が咲いてから散るまでに祝言をあげるのが最良の結婚とされた。


 藤尋祭の初日には、女王に神楽が奉納された。

 この日のための特別な舞台が設営され、伊邪夜の前で歌舞が演じられた。

 神楽殿には葦原を中心とした高官らが一同に会し、伊邪夜の隣りには神和人が控えていた。

 伊邪夜からは舞台全体がよく見えたが、外からはひさしの傾斜と座った位置で女王の顔は見えないようになっていた。昼から酒や御膳も供され、和やかに宴は始まった。


 奉納された神楽は、「森恋歌しんれんか」だった。

 神葛の初代女王である現夜あらやと、祝夫の名莫ななき(名なし)の悲恋の物語である。

 森恋歌は市井でもよく上演され、人気のある演目だった。

 立身出世を夢みる名莫は、幼馴染で親友の照陽てるひと共に神葛へ赴く。二人は器量と才覚を見込まれ、女王の現夜の傍に侍ることとなった。

 現夜は、当時在位百二十年を越えていたが、容姿は若い娘のままだったという。祝夫となった名莫は、現夜を熱烈に愛した。現夜も名莫に情けをかけ、幾度か褥を共にした。

 しかし、現夜が良き人、即ち内縁の夫に選んだのは照陽だった。

 仲睦まじく暮らす現夜と照陽の影で、名莫は一人苦しみ続ける。

 やがて現夜は照陽の子を生むが、嫉妬に狂った名莫はとうとう照陽を殺してしまう。それどころか生まれた姫御子ひめみこを自分の子であると披露目、壮絶な権力闘争へ身を投じるのだった。

 人間たちの争いに嫌気がさした現夜は、幼い娘を置いて奥祁幸来の森へ帰ってしまう。夜になると、森から照陽を慕う悲しい歌声が聞こえるようになった。

 名莫は半狂乱となり、現夜を求めて毎晩のように森を彷徨う。現夜は名莫の呼び掛けに応じるが、決して姿を現さない。女王の歌声は七日目に途切れ、名莫は悲しみから床に伏してしまう。

 十日目、枕辺に七人の木精が立ち、女王の死を告げる。名莫は自らの罪を悔いながら衰弱死する。

 この故事から、「女王が森へ帰る」とは、崩御を意味する言葉となった。

 現夜と森を彷徨う名莫の歌のやりとりが森恋歌で、男女一組で舞って歌う。

 舞台上の名莫は実利が演じた。実利は名莫を完璧に演じきった。


 本編が終わると、舞台に木精の役である御奉女みぶめと呼ばれる美少女たちが登場した。御奉女は各県から一人ずつ選抜された平民の娘で、今年はこれまでの九人に北部三県も加わって十二人となった。

 白の千早ちはや濃色こきいろの切袴を穿き、頭に蔓をかたどった金の挿頭かざしをつけている。手には白藤の枝を持ち、両手で大きく掲げた。



 藤波の咲きて盛かりし春を待つ

 千歳散りても不死なるものを

 星屑の永き御魂みたま言祝ことほいで

 あらわし夜を仰げば尊し


 藤波の咲きて盛かりし君を待つ

 決して離れぬはらからの花

 薫風くんぷうに愛のおもかげ揺るるなり

 最良花さらかに乗りて最良人さらい来たれと



 歌って舞う少女たちの顔は、厳しい選抜を勝ち抜いて御奉女になれた喜びに輝いていた。

 彼女たちは神に奉げられた供物であり、祭りが終わっても故郷に帰されることはない。まずは女王に献じられ、神の一族に下賜される。夜な夜な宴に侍り、祭りが終わると葦原の男たちの側妾となる。妾といっても妻とほぼ同じ待遇であり、都に屋敷を賜り、郷里の家族を呼び寄せることができた。

 この国で平民の娘が出世栄達を望むなら、巫か御奉女になる他なかった。御奉女は神嫁とも呼ばれ、庶民の羨望のまとだった。

 歌を奉じると、御奉女たちは深々と礼をして下がった。

 葦原の男たちの間では、早くもどの娘を貰うかの品定めが始まっていた。


 御奉女が下がると、神和人が立ち上がって合図を送った。

 今度は十人ほどの男たちが出てきて、舞台の前に跪いた。

 全員が王宮に勤める若い美丈夫で、その中には実利の姿もあった。

 神和人は伊邪夜の方を向いて頭を下げた。

「主上。この者たちは代々巫覡を輩出してきた由緒ある家系の生まれ。神葛へ忠義を誓い、身命を賭して仕える覚悟に溢れております。私が直々に面接をし、正しい心根を確認いたしました。もしお気に召す者がおりますれば、お傍に差し上げたいと存じますが」

 伊邪夜は神和人をまじまじと見つめた。

 少しして、神の情人たる祝夫を勧められたことを理解した。

「我が気に召す者……。祝夫か」

「はい」

 伊邪夜は茫然とした。

 まさか憎からず想っている男に、他の男を宛がわれるとは思わなかった。

 祝夫の選定は神和人の職務であるが、彼が祝夫について何か言い出したことはこれまで一度もなかった。一体どういう心境の変化なのだろう。国と跡継ぎのことを慮った末だとしてもあまりに唐突だった。

 男と交わらずに子供が生める伊邪夜からすれば、祝夫など茶番でしかない。好き者でもない限り、男と寝ようとは思わなかった。


(我に人の伴侶を得よと申すのか。其方が、其方以外の男と番えと)


 伊邪夜の胸は、針で刺されたようにちくりと痛んだ。

 痛みを堪えながら男たちを見渡し、どこか投げやりに言った。

「知らぬ者ばかりだ。誰が良いのかわからぬ。其方が勧めるおのこは誰か」

「私が何か申し上げては公平ではなくなってしまいます」

 どこまでも冷静な声に、伊邪夜は苛立った。たちまち声が険を帯びた。

「わかっておる。其方が案じているのは跡継ぎのことであろう。子をもうけるために祝夫を持てと申すのであろう。……ならば誰でも良い。誰でも同じことだ。忠臣たる其方が選んだ者を傍に置く。それで良かろう」

 神和人は顔を上げ、伊邪夜を見つめた。主の不興を買ったことを理解した。

「これは大変なご無礼をいたしました。日を改めて選定をやり直しますゆえ、どうかお許しを」

 その場に平伏して詫びると、男たちに「大義であった。下がれ」と命じた。

 藤尋祭の初日は、女王の祝夫を選ぶ日でもあった。

 栄えある祝夫が一人も選ばれなかったことに周囲はざわついた。

 伊邪夜は多勢の家臣の前で祝夫を拒み、候補を選んだ神和人に職務を全うさせなかった。恥をかかせてしまった。それでも嫌なものは嫌だった。情人などいらなかった。

 その後も出し物は続いたが、伊邪夜の耳には入ってこなかった。傍らの神和人とも口を利かなかった。



 優しい春風の下、緩やかに夜の帳が降りた。例年に比べ、暖かい夜だった。

 奉納が終わると、伊邪夜は藤尋殿へ戻って休んだ。

 側近以外には顔を見られないとわかっていても、人の多いところは疲れた。

 夕刻になると、「一人になりたい」と言って、野和を始めとして女官たちに暇を出した。彼女たちは一度房へ戻り、美しく着飾って出ていった。新婚の野和は、夫の宇丁が泊まる部屋で一晩を過ごすに違いなかった。


 内宮では、日暮れと共に花宴はなのえんが始まっていた。

 遠くから軽やかな楽のが聞こえてくる。

 花宴は神が取り持つ縁結びの宴でもあった。身分に関係なく酒や馳走が振る舞われ、高官たちの間を御奉女が酌をして回る。夜が更けて無礼講になれば、王宮のあちこちで恋の花が咲く。


 伊邪夜は宴に混ざりたいとは思わなかった。が、歌声や喝采を聞いているうちに、自分も歌を歌ってみたくなった。

 誰かに聞いて欲しいわけではなかった。自らのために歌いたかった。歌えば、胸にわだかまる切ない想いを吐き出せる気がした。

 決心すると扇を持ち、縁側に出て内庭へと降り立った。

 石畳を音もなく歩き、大きな池の前まで来た。誤って池に落ちないようにと、篝火が幾つか置かれていた。

 灯に照らされた庭の藤は、夜になって一層あでやかさを増していた。神霊たる伊邪夜の登場を歓迎するように、垂れ下がった花房がゆらゆらと揺れた。

 群青の空を見上げれば、ぽつんと浮かんだ大きな望月。

 欠けたるところのない完全無欠の球体は白々しらじらとした光を放ち、少し離れて取り巻く星が燦々と煌めいている。天を割るように、真っ直ぐ横切る天の川。柔らかな月光が降り注ぐ即席の舞台。星、月、地上の花。観客はこれだけで充分だった。

 星河一天せいがいってんの下、伊邪夜は月に扇をかざした。大きく息を吸うと、朗々と歌い出した。歌ったのは、昼間聞いた森恋歌だった。



 照陽、照陽、光のおのこ

 汝なき今、心は深き春泥しゅんでいに沈み

 とめどない涙に幾度袖を濡らしても

 ながの現夜はようとして明けぬ

 汝の熱きかいなにいだかれて

 明けがらすの声を憎みし朝は

 夜こそつい棲家すみかと信じたものを



 伊邪夜は繰り返し、照陽を想う歌を歌った。

 自分の秘めたる想いを歌に込めた。歌に乗せた。歌で表現した。

 歌うほどに魂が解放されてゆくのを感じた。歌うことが無性に楽しかった。生きている喜びがあった。胸が発火したように熱くなった。心に焦がれるものがあった。火山の底から噴き上げる岩漿がんしょうのような、激しい恋着があった。

 歌いながら、伊邪夜はなぜ大霊樹が人型を持ったのかわかった気がした。

 太古より、人間たちは大霊樹を神木と崇めてきた。春になると森へ入ってきて大霊樹に祈りを奉げ、森の野草や実を摘み、獣を狩る許しを乞うた。豊穣を願って地面に酒を撒き、歌を歌い、舞を舞った。森と大地を讃頌さんしょうし、生の喜びを歌舞で顕した。


 おそらく大霊樹は、自分の前で歌って踊る人間たちが羨ましかったのだ。妬ましかったのだ。自らも声を持って、人と同じように歌ってみたいと思った。手足を持って踊ってみたいと思った。人に惹かれ、夢を叶えるために人型を生んだ。

 叶えたあとも歌っていたくて、歌って喜ぶために人型を存えさせた。その果てに生まれたのが伊邪夜だった。

 伊邪夜もやはり歌った。歴代の女王と同じく、歌うことが己の本望と知った。

 昼間の舞台を思い出しながら扇を開き、くるくると優雅に舞った。

 天性の鶯舌が薄闇を震わせた。月光の下、鬼気森然ききしんぜんの美貌が凄艶を増してゆく。深遠の果てない夜こそが彼女の世界だった。

 ひとしきり歌うと、伊邪夜は満足して扇を下ろした。歌うのを止め、目を閉じて静寂に身を委ねた。

 どれくらいそうしていたのか。不意に、池の向こうから声がした。



 主上、主上、愛しき神人かむびと

 なぜ私に振り向いてくださらぬ

 なぜ落日せしおのこを求められる

 故郷を捨て、家族を捨て、名を奪われ

 あなた様に身も心も征服されて

 一夜の夢に溺れて捨てられても

 月影のように寄り添ってきたのに



 聞こえてきたのは名莫の歌だった。

 現夜に全てを奉げ、誰よりも深く愛しながら、振り向いてもらえなかった悲しい男の歌だった。

 さわさわと草をかき分けて、現れたのは神和人だった。

「神和人……」

 伊邪夜は信じられない面持ちで、近づいてくる男を見つめた。

 神和人もまた内宮の花宴に出ているはずだった。彼は女王の名代であり、宴の主賓でもあった。まだ宵の口のはずなのに、奥宮に戻ってきているとは思わなかった。


 彼は伊邪夜の傍まで来ると跪いた。

「どうかお許しを。主上の鶯舌があまりに素晴らしく。火にる虫のように、ふらふらと彷徨い出てきてしまいました」

「其方、宴に出たのではないのか」

「出ましたが、酒に酔いまして。部屋に戻って休んでおりました」

「……てっきり御奉女とでも戯れているのかと」

 伊邪夜はつい意地の悪いことを言ってしまった。

 神和人は内宮の方を振り返り、ふうと切なげに息を吐いた。

「御奉女は野和よりも若い娘たちです。私のような中年男の相手をしても詮なきこと。若い男の傍に侍った方が良いかと」

 卑屈めいてはいるが、まんざらでもなさそうな返事だった。

 伊邪夜の胸は激しくざわついた。もしや御奉女の中に気に入った娘がいるのか、と勘ぐった。好いてはいるものの、歳の差を気にしているのだろうか。その気になれば、思い通りにならない女などいないだろうに。

 伊邪夜は存在するのかもわからない女の影に嫉妬した。自分の名代だろうと、女のひしめく宴に戻したくなかった。傍にいて欲しかった。


「それにしても其方、歌が歌えたのだな。驚いた」

 感心したように言うと、神和人は心外そうな顔をした。

「私とて主上に仕える覡の一人。神祇官の長なれば、神楽歌の一つや二つは歌えます。主上がお生まれになる前は、藤尋祭の舞台に立ったこともあるのですよ」

「森恋歌を歌ったのか」

「はい、宮仕えに出てすぐに。その時は名莫を務めました」

「そうか。なかなかに上手いな」

 伊邪夜は素直に褒め、舞台に立った若き日の神和人の姿を思い浮かべた。

 歌を奉じられた眞枝夜は、その凛々しい立ち姿と清廉な魂を見初めたのかもしれなかった。

「主上こそ、大変にお上手でいらっしゃいます」

「初めて歌ったが気に入った。……もっと歌いたいものだ」

「森恋歌は一人では歌えません。私でよろしければ名莫を務めますが」

「良い。相方になれ」

 神和人は立ち上がり、つつと伊邪夜の近くに寄った。



「照陽、照陽、愛しきおのこよ。汝なくしては生きる甲斐もなし」

「主上、主上、お戻り召されよ、お戻り召されよ。姫御子も母君を慕って泣いておられまする」

「早く汝がもとへ。照らせ、照らせ、夜を打ち破って照らせ」

「主上、主上、どうか私の元へ。せめてひと目だけでもお情けを」


 爛漫らんまんの藤が風にざわめき、月と星々が見守る下で伊邪夜と神和人は歌った。どこまでもすれ違う、神と人の愛の歌を。

 森恋歌は創作部分を多く含み、どこまでが真実なのかはわからない。

 伊邪夜も初代女王の現夜の記憶を見たわけではない。

 けれど、彼女は歌いながら、なんとなく歌の本当の意味を知った。

 いきさつはどうであれ、現夜は名莫を隠したに違いなかった。おそらくは憎しみからではなく愛しさゆえに。

 現夜は名莫こそが欲しかった。その証に名莫から人の名を奪った。

 名を奪うことは完全な征服を意味し、命を奪うことと同じである。

 愛する人を隠すことが、神の純粋極まる至高の愛だった。

 人には理解できないというだけで、それは確かに愛なのだった。


 共に歌うほどに、伊邪夜は指一本触れないながら、神和人と心が近づいていくのを感じた。心が安らぎ、和やかになっていくのを感じた。無上の喜びがあった。いつまでもこうして二人で歌っていたかった。

 本来、伊邪夜は人間に対して「怒り」と「慈悲」の二つの感情しか持っていなかった。怒っては祟り、慈悲で恩寵を与えた。

 今は違った。「寂しい」を知っている。「悲しい」も知っている。この男が傍にいないと寂しい。この男が悲しむと自分も悲しい。


「神和人」

 伊邪夜は舞いながら、己の名莫を呼んだ。人の名では呼ばなかった。声には執着ばかりが滲んだ。

 もし自分が現夜だったらどうしただろうか。

 名莫の呼びかけに応え、情に絆されて人界に戻ったのか。

 それとも愛しい男を誰にも奪られぬよう、出口なき永遠の森へ連れていったのか。

「神和人」

 伊邪夜は再度呼んだ。

 魂を鎮めながらも、唯一心をかき乱し、翻弄してゆく男の仮の名だった。

「……伊邪夜様」

 神和人が振り返って、伊邪夜を呼んだ。主人の想いに応えた。

 その瞬間、二人の気は同調した。心は何重もの清廉な波となってぴったりと隙間なく重なった。伊邪夜は歓喜と恍惚の嵐に包まれた。



 月が、天の頂きに向かって昇ってゆく。

 宵闇が濃くなるにつれ、星は清冽な輝きを増した。

 森恋歌が終わると、二人は向き合ったまま無言で立ち尽くした。

 互いの距離は限りなく近く、誰にも何にも邪魔されないものの、それ以上は近づけない透明な潔癖の壁がそびえ立っていた。

 伊邪夜は、けして触れられない男を前にして深い溜息をついた。

 歌に想いを込めることはできても、当人を前にしては募る想いを告げられなかった。

 拒絶されるのが怖かったし、拒絶されるに違いないと思った。

 何せ自分は愛されなかった眞枝夜と寸分違わない容姿をしている。


 それでも伊邪夜は一縷の望みを込めて問いかけた。

「神和人、其方にとって我はなんだ」

 神和人は空を見上げ、満天の星を眺め渡した。

 それから視線を落とし、伊邪夜に憧憬の眼差しを向けた。

「主上は私の美しい夢でございます。穢れなき夢でございます」

「夢……」

 神和人の返事に、伊邪夜は深く落胆した。

 夢という美々しく曖昧な言葉で、想いを拒絶されたと思った。

 着物の下の肌は火照り、皮膚の下の血潮も沸騰するかのように熱い。

 手を伸ばせば容易く届くのに、彼は伊邪夜の生身に触れようとはしない。それは神を穢すことだと信じている。

「……そうか、夢か」

「人の世界は複雑怪奇なれば。私も国のためとはいえ、今の地位を得るまで多くの血を流さなくてはなりませんでした。権力を維持するための死屍累々の修羅の道です。己の不浄に嫌気がさすたび、主上という美しい夢を見ることで、なんとか生き延びてこられたのです」

「我が其方を生かしたのか」

「はい。夢なくして人は生きられません。私のような不出来な人間であっても」

「怒れば人を祟るというのに、随分と物騒な夢を好むのだな」

 揶揄するように言うと、神和人は大真面目に返してきた。

「ですが、あなた様は純粋です。誰よりも純粋で慈悲深く、ありがたくも美しい」

「そんなにも我は美しいか」

「この世にあなた様に並びたつ者はおりません。男ならば誰であっても恋焦がれ、命を賭けて守ろうとするでしょう。……若い者なら尚更です」

 伊邪夜は、神和人が遠回しに言わんとしていることを理解した。

 彼は本気で自分が祝夫を持つことを望んでいるのだ。

 ならばそれでもいいと思った。その通りにするのが、彼のこれまでの献身に報いることになる。

「わかった。其方の想いはよくわかった。では申し渡す。藤尋祭が終わるまでに祝夫を上げよ。一人でよい」

「主上」

「其方が選んだ男なら間違いはあるまい。その者を……夫とする」

 伊邪夜は、振りきるように神和人に背を向けた。

 そのまま藤尋殿に向かって足早に歩き出した。

 胸が張り裂けそうなほど悲しかったが、これで良いと言い聞かせた。

 神和人が選んだ祝夫を持って新たな男と情を交わせば、きっとこの想いも諦められるだろう。


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