真実

 東京に発つ日の朝、隼人は最後に残された段ボール箱をあさっていた。「隼人小学生」と書かれた段ボール箱には小学生時代に使っていた連絡帳や制作物が無造作に放りこまれていた。


 輪ゴムで止められたくしゃくしゃの紙束を見つけて、隼人は腕を伸ばす。


「あった……」


 真夏の日差しが差しこむ和室で、隼人は息を吐く。手の中には使い古された「いくつといくつカード」があった。


 それは確かに隼人が真夕とふたりで作成して、小さい隼人に渡したあのカードだった。年数がたってすっかり色が落ちているが、見間違えようがなかった。

 手のひらに収めてじっと見つめていると、ぼんやりとある人物の姿が浮かび上がってくる。


 ある日突然現れて、隼人にこのカードをくれた遠い親戚の人――


 十歳の夏に溺れた隼人を助けたのは、間違いなく未来の自分だった。大輔も琴菜も、そして綾女もこの手で救った。現実味のない夢のような記憶だが、額に残る傷があれは本当にあったことだと物語っている。


「隼人ー、荷物これで終わりかー」


 玄関からそう叫んだのは兄の直人だった。今日、隼人が東京に帰ると聞いて、兄嫁とふたりで荷詰めを手伝ってくれた。一人暮らしの狭いマンションにそう多くのものは持ち帰れないが、リフォーム工事が迫っていることもあって、私物を残してはおけなかった。


「兄ちゃーん、また遊びにきてなあ」


 そう言って足にすがりついたのは七歳になる甥っ子だった。真夕と同い年の彼はいつの間にか隼人になついて、荷詰めをする間もずっと家の中を走り回っていた。二歳下の姪っ子も母親と隼人のあいだをせわしなく行き来している。


 幼い二人が発するエネルギーのおかげなのか、古家は生命の輝きに満ち溢れている。父の遺影を見上げながら、全て片づけて処分してしまおうと思っていたことを申し訳なく思う。


 仏前にはたくさんの枇杷が供えられている。くれたのは確か中年の女性だったが、顔がはっきりと思い出せない。斉藤家が消えたあの瞬間だけ存在した井川家はどうなってしまったのだろう――橙色に熟れた枇杷のそばで写真の母が微笑んでいる。


 再び兄に呼ばれ、隼人は「いくつといくつカード」をジーンズのポケットにしまった。母の遺影に「また来るよ」と言葉をかけて玄関を出る。


 東京から乗ってきた車の前には綾女が待っていた。仕事があるなら見送りはいいと言ったのに、必ず来ると言って引かなかった。


「真夕ちゃん、学童行った?」


 荷物を積みこみながら隼人がそう聞くと、綾女は眉を下げて笑った。


「峰くんとかいう子が迎えに来てくれてるわ。昨日は渋い顔してたけど、今朝はちょっと嬉しそうやった」


 安心した様子で綾女がそう言うのを聞いて、隼人もほっと息をついた。がんばれよ峰くん、とつい心の中で応援してしまう。


「これ、真夕ちゃんに渡してくれるか」


 そう言って隼人は真新しい「いくつといくつカード」を差し出した。真夕と作ったカードは二十二年の時を経てポケットの中に納まっている。

 綾女は黙ってそのカードを受け取った。その時わずかに指先がふれて、二人は目を合わせる。


「むこう行っても元気でね」


 何気ない笑顔でそう言う綾女を見て、胸が押しつぶされたように苦しくなった。「うん」と返事をするのは簡単なことのはずなのに、それができない。 


 兄が車のトランクを閉めて目配せをしてくる。兄嫁の背中を押して、そっと家の中に入っていく。

 蝉の鳴き声だけが響き渡る中で、隼人は口を開く。


「……俺、本当にこっちに戻ってきてもいいのかな」

「……え?」


 不意の問いかけに、綾女が目を丸くする。言い出したものの今の気持ちをどう言葉にすればいいのかわからない。


「……大輔が言ってた。あいつも牧も……綾女も俺が戻ってくるのを待ってくれてるって」


 綾女の眼をじっと見ながらそう言うと、彼女は口元をきゅっと結んだ。


「……そら、そうやん。みぃんな隼人のことが好きなんや。当然やろ?」

「おまえも……?」


 つぶやくように言ったその言葉に、綾女は目を細めた。両手を握り合わせて、隼人を見る。


「……いつか隼人が帰ってくるならと思って、今日まで生きてきた。せっかく会えたのにまた東京に戻るって言うなら消えた方がマシやと思た。けど隼人が、死んだらあかんって言うてくれたから……うちはここで真夕と生きていくって決めたから……」


 次の言葉を待ったが、しばらく綾女は黙ったままだった。隼人も言葉を探したが、なかなか口にできない。大輔が言った「自分を許す」という言葉が頭の中を回り続けている。


 すると夏の陽ざしの中、綾女がぱっと明るい笑顔をして言った。


「でもまあ、戻ってきたいんやったら、ええんちゃう? 戻ってくる前にまずその都会語をどないかせなな!」


 息が苦しくなるほど明るい声でふざける綾女を見て、隼人は思わず腕を引いた。

 すっぽりと胸の中に抱きとめて、彼女の耳に口を寄せる。


「……ほんまはしゃべれる」


 ぼそりとつぶやくと、綾女は「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げて隼人を見上げた。それでも隼人は腕の力を抜かなかった。


「しゃべれるって、何なん! 今までうちのこと騙してたん?」


 関西弁特有の早口でそう言った綾女をじっと見下ろす。懐かしい郷里の言葉を口にした途端、閉じこめてきた綾女への想いが急激に吹き出してきて、ますます腕に力をこめてしまう。


「……騙してたわけやない。こっちの言葉を使うてもうたら、むこうでやってきたこと全部否定してまう気がして……よう言えんかった」


 そう言って綾女の髪に顔をうずめる。追い求め続けてきた綾女の甘い香りが肺いっぱいに満ちて、さらに鼻先を皮膚に押しつける。

 綾女はくすぐったそうに身をよじると、鼻と鼻がつきそうな近さで声を上げる。


「アホやなあ、隼人はずっとひとりでがんばってきたんや。なんにも無駄なことなんてない。隼人を必要としてる人が……むこうで待ってるんやろ?」


 何もかも見透かすように、綾女の黒い瞳が見つめてくる。喉元まで出かかった本音を飲みこんで、隼人は綾女に額をつける。


「……やり残してきたこと、ちゃんと片付けてくる。こんな俺でも、頼りにしてくれる生徒がおるかもしれんから……」


 そう言いながら、担当していた生徒たちを思い出す。難関クラスを担当する講師たちから見捨てられた彼らを、放ってはおけなかった。もう自分を待ってなどいないかもしれない。けれど一人でも頼りにしてくれる生徒がいるなら、東京に戻ろうと思った。ポケットに収められた古びたカードが、隼人の原点だった。


「……それでこそうちの隼人や」


 綾女は額をこすりつけると隼人の胴体に腕を回した。肩甲骨を探るように細い指が動く。綾女の黒髪に指を入れる。じわじわと太陽が照りつけて、香ばしい汗の香りを感じる。

 髪をさぐっていると指先が濡れた。頬に手のひらを当てて顔を上げさせる。


 綾女は泣いていた。声を噛み殺し、嗚咽を何度も飲み込んでいる。


 綾女が好きだと、その一言を口に出来たらどれだけ楽かと思った。十六年前はそれができた。その言葉が全てだった。飽きもせず何度も繰り返した。綾女はいつも笑って受け止めてくれた。


 けれど今その言葉は何の力も持たない。そんな言葉ひとつで綾女の涙を止めることはできない。無駄に期待をさせて、余計に泣かせることだけはいやほどよくわかっていた。

 そっと顎をすくい上げて口づける。熱い雫が口の端を濡らしていく。


「元気で」


 綾女の頬をぬぐうと、彼女は目を閉じた。最後に一粒大きな涙が落ちて、それから綾女は微笑んだ。


「隼人もちゃんとご飯食べや」


 そう言った綾女はもういつもの綾女だった。明るくて快活で、いつも隼人に命の輝きを与えてくれた彼女だった。笑った口元に少し影ができて、お互い重ねた年月を感じさせた。


 隼人が車に乗りこむと、兄が家から出てきた。ガラス越しに母によく似た笑顔で手をふっている。


 その前を斉藤の親父が通っていった。相変わらず世を拗ねたような目で隼人を睨んでくる。その瞳に以前のような威圧感はなくて、彼の中にも時が流れていることを感じる。


 これでよかったと思う。大輔も斉藤の親父も琴菜も、そして兄も元通りになって元通りの生活を送る。消える前と今の違いはわからない。少なくとも自分と綾女には「消えた」記憶が残っていて、知らなかった頃には戻れない。それでもいいと、今は思える。自分たちのやってきたことが残って積み重なって、それが辛い記憶だとしても少しずつ変わっていける気がする。


 サイドガラスを下ろしたが、綾女は近づいてこなかった。東京に発った十六年前と同じように眉をしかめて泣き出しそうになるのを懸命にこらえている。


 けれど隼人と目が合った途端、ぱっと笑顔に切り替わった。そのことが余計に胸を痛めさせる。大人になった今、そうしなければ別れとむき合えないことも、わかっていた。


 隼人はふっと頬をゆるめると、手招きをした。不思議そうに首を傾げながら、綾女が近づいてくる。


 握ったこぶしを運転席の外に出した。何度か催促をして、ようやく綾女が手のひらを伸ばす。


 隼人の手のひらから転がり落ちたのは真新しい口紅だった。捨ててしまった真っ赤な口紅とは違って、ほとんど色のついていないものだ。


「次来たときは、もっとおまえに似合う色を探したるから」


 その言葉でまた綾女の涙腺がゆるんだ。泣かせたくはなかったけれど、口紅の存在そのものを忘れていたせめてもの償いだった。


 ぼろぼろとこぼれ落ちる綾女の涙を見ながら、隼人はアクセルペダルに足をかけた。河から吹く風が彼女の頬を乾かしてくれることを祈り、窓を閉める。


 じっとりとした湿気は車の中に残ったままだ。額の汗をぬぐうと、かさぶたのざらつきを感じた。無数の傷と痣を残したまま、一度は投げ出したあの生活に戻っていく。


 果てしなく広がる夏の青さに圧倒されながら、それでも生きたいと隼人は思った。


                            (完)

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影さえ消えたら わたなべめぐみ @picoyumeko

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