[7]エカテリーナ先生が微笑んだ。
爆発が起きて研究室のドアが吹き飛んだ。ドアの向こうにエカテリーナ先生が立っていた。
きれいなエメラルドグリーンのウロコとしなやかなシッポ。そのシッポが鞭のようにひるがえって野ブタどもをなぎ倒した。シッポの先には銃剣のようなものがくくりつけられていた。
僕は自分が見ている光景が信じられなくて、ただただポカンと口を開けた。
可憐なエカテリーナ先生がこんなに強いだなんて。
「遅くなってゴメンね」
僕の手かせ足かせシッポかせを解いて、先生が僕を抱きしめた。
台から体を起こしたことで、床が見えた。野ブタどもは血の海に沈んでいた。
先生に渡されたフードつきのコートを羽織って研究所の外へ駆け出すと、分厚い雲が静かに雪を降らせていた。
日の出の遅い、冬の町。朝を示す時計台の下で、街灯が弱々しい光を放っている。
本の中でしか見たことのない、五階も六階もあるような建物。大都会だ。
その道を、寒さに身をすくめながら行き交っているのは、醜い野ブタばかりだった。
荒っぽく雪を踏む音に、道行く野ブタが顔を上げる。
ソビエト軍の制服を着た野ブタが僕らを追ってきている。
捕まるのは嫌だ。研究材料にされるのはもう嫌だ。
僕はエカテリーナ先生の腕をギュッと握った。
エカテリーナ先生が、僕に注射器を見せた。
僕とエカテリーナ先生は、身を寄せ合って町を歩いた。
走れば目立つ。何も知らないように。何事もなかったかのように。
軍服の野ブタが僕らの肩を掴み、僕らの顔を覗き込み……
そしてすぐに立ち去った。
僕とエカテリーナ先生は、顔を見合わせてクスクス笑った。
野ブタを騙せたのが嬉しかったのと……
薬の力で野ブタに変身したお互いの顔が可笑しかったから。
野ブタの軍隊が僕らのイャーシチェリッツァ村に押しかけたあの日、村のみんなはエカテリーナ先生の注射を受けて野ブタに変身して危機をやり過ごした。
父さんの服を着ていた野ブタは、本当に父さんだったんだ。
「みんな無事よ。もちろんカルルもね」
嬉しくって涙が出た。
「ここはどこなの?」
喉まで野ブタになったことで、麻酔でつぶされた僕の声が戻ってきた。
「モスクワよ」
「ソビエトの首都?」
「そうよ」
よくできました、と、エカテリーナ先生が僕の頭を撫でた。
毛髪がモサモサして気持ち悪かったけど、エカテリーナ先生の手は、ウロコがなくても優しかった。
モスクワを離れて。
東へ向かう汽車の中で、ほかの乗客に聞かれないように寄り添って、エカテリーナ先生が僕の耳もとで声をひそめて教えてくれた。
「私達が野ブタと呼んでいたあいつらこそが本当のソビエト人なの。私達はやつらから見ればトカゲ型の地底人ってことになるのよ」
十字架もどきのお墓の主は、エカテリーナ先生の伯母さんだった。
「私と伯母は、もともと良く似た顔なのよ。だからでしょうね、私達にはソビエト人の顔の見分けなんてつかないけれど、ソビエト人に変身したあとの姿も瓜二つみたい」
『さらば故郷よ』は実話。先生の伯母さんは、地底合衆国の科学者だった。
地底連邦の兵士に助けられて地上へ脱出して、連邦も合衆国も関係なく暮らしていたけれど、あの年代の人が故郷を忘れるのは難しいらしくって、お墓は合衆国式にしてほしいというのが遺言だった。
だけど村には、伯母さん自身を憎んではいなくても合衆国の印を見るといろいろ思い出してしまうっていうお年寄りも居て、だから伯母さんのお墓はみんなのとは離れた場所に建てられた。
「ソビエト人に変身する薬と、もとの姿に戻る薬は、もともと伯母が開発を進めていたものなの。伯母は自らの体を実験台にして命を落とした……でもそのおかげでこれらの薬は完成したのよ」
それからエカテリーナ先生は、野ブタの姿でソビエトを旅して、ソビエトについて調べて回った。
伯母さんのお墓に一匹だけで現れた野ブタはその時に出逢ったヤツで、エカテリーナ先生のことを勝手に恋人だと思い込んでいた。
「冗談じゃないわ。たとえ彼らの外見を私達そっくりにできたとしても、中身は野ブタなのよ」
伯母さんの体は研究のためにずっと保存されていて、去年やっと埋葬できた。
お墓の周りの木が枯れたのは、伯母さんの体に染み込んでいた薬品が棺から漏れ出たためだった。
汽車は港町へ走る。
「船に乗って外国へ行くの。村のみんなは先に行って私達を待ってる。イャーシチェリッツァ村にはもう誰も居ないわ」
僕らの先祖が地底世界を離れてから、こういう引っ越しは何度もくり返されてきた。
「あなたのせいってわけじゃあないわ。もともとその予定で準備をしていたのよ。村の周りに野ブタが増えすぎてしまったからね」
ずっと前にツングースカを離れた際は、大爆発を起こして痕跡を消した。
「私が生まれる前だったけど、伯母さんの話では思ったよりも大きな騒ぎになってしまって困ったらしいわ」
だからウラル山脈でスノートレッキング中の学生に見つかった時には、学生九人を皆殺しにするに留めた。
「それでもその場所は、彼らのリーダーの名前を取って、野ブタ達にいまだにディアドロフ峠って呼ばれてるけどね」
曇った車窓を指でこする。
海が見えた。
「楽しみね。これから行く国の野ブタは、ソビエトの野ブタよりも甘みがあっておいしいのよ」
エカテリーナ先生が、安心させるように僕の肩に手を置いた。
「その国に行くために、どういう準備が必要だったの?」
そんなにおいしい野ブタを食べられるのなら、もっと早く行きたかったかも。
エカテリーナ先生が微笑んだ。
「日本人に変身する薬を作っていたのよ」
イャーシチェリッツァ村の少年達 ヤミヲミルメ @yamiwomirume
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