恩讐の獣

水ようかん

第1話

 三月二九日、墨付すみつき密月みつきは先日捕縛した二人組の尋問に当たっていた。無論、話を合わせられないよう別室である。

 捕縛、尋問というと、さも墨付が警官かそれに携わる職に就いていて、その職務を全うしているかのような言葉の選びだが、その実、なんのことはない、彼はただの会社員、それも下っ端であった。

 先日墨付は、とある事故に巻き込まれた。しかし本人自身ではなく、墨付に関係する人物が、という形であった。ただ、その人物は恋人であったため、これは墨付を酷く悲しませた。墨付は意識の戻らない恋人を毎日訪ねた。そしてある日、真実を知った。即ち、墨付の恋人山吹やまぶき言音ことねは、偶発的な事故によってではなく、人為的な事件によってこの状態に陥っている、ということだった。それを知った後のことはあまり記憶に残っていなかった。我に返ったときには既に、一組の男女を捕縛して廃ビルの中に連れ込んだ後だった。最後に見舞いに行った時と同じスーツが身を包んでいることから鑑みるに、日付を跨ぐほど長く忘我にあったわけではないことが窺えた。どうやら持ちうる手段を、あらゆる手練手管を駆使してこの二人を追い込んだらしいが、ここ暫くの出来事も判然しないため、法を犯していないのを祈るばかりであった。いや、目の前で四肢を縛られ口を塞がれ転がっている男女を見る限り、悲しいかな、その祈りも徒となろうが。しかし、眼前の成果を睥睨し、墨付は喜びに打ち震えもした。

 その後二人をそれぞれ別室に幽閉し、現在に至る。

 まず墨付は、男の方の容疑者嵯峨さが説性ときさがの前に立った。スポーツか何かをやっているのか、嵯峨の身体は鍛え上げられており、どうやって彼を拘束したのか気になるところであった。しかしそれも些事と切り捨て、墨付は重々しげに口を開いた。

「三月二三日午後四時頃。お前は何をしていた」

 地響きの如く重く低い声が渇いた喉から発せられる。それを受け、嵯峨は何かを訴えるように何事かを呻いた。そこで初めて、彼の口にガムテープが貼られていることを思い出した。まず墨付は、辺りに目を巡らせて「人を傷つけるに足る武器」を探した。そして、書類やデスク、パソコンなどが散乱する部屋の片隅に大型のレンチを認めた。それを携え嵯峨の目の前で故意に音を立てて落としてみせた。金属質の澄んだ音色が部屋に反響する。いやに凛としたその音を鼓膜に残しつつ、墨付は片膝を折ってガムテープの端を摘み、乱雑に引き剥がした。嵯峨はぎゃっと短い悲鳴を上げ、恨めしげにこちらを睨めつけた。

「……同じ質問を繰り返す必要はあるか」

 膝についた汚れを払い落とし、冷たい床に伏す男に再度尋ねる。

「クソが……! 絶対に殺す……!」

 返ってきた野卑で悪辣な答えに、墨付は敢えて何も言わずただ足元の鈍器を拾い上げた。腕にかかるずしりとした重量を確かめ、今更になってそれが身に余る武器だと気付いた。まぁ、それでもいいかと思い直す。こういうのは、多少過ぎたくらいが丁度いいのだ。

 先端の鋭角な部分を指でなぞりつつ、未だ敵愾心を剥き出している嵯峨を瞥見した。壁に鎖で繋がれ手足を縛られて尚こちらの喉笛を食い千切らんばかりの威勢を醸す嵯峨は、哀しいかな、罠に囚われた猛獣を髣髴させた。

「三月二三日午後四時頃。お前は何をしていた」

 先刻とは一言一句違わぬ質問。しかし、その声音は、抑え難い怒気を多分に孕んでおり、墨付の内なる感情は容易に知れたことだろう。そして同時にそれは、墨付の目的を嵯峨に悟らせ、恐れを抱かせるに足るものであったはずだ。

「知るかよ、クソが。それよかテメェ、善良な一般市民にこんな真似、やっていいような世の中だなんて思ってねぇだろうな」

 どういう糸口、やり口を通じて彼らを拘束するに至ったのか、記憶を失くしている墨付には知る由も無いが、やはり、尋常の方法で行動に移ったわけではないということは、どうやら確からしい。自分が何をしたのか、誘導して訊き出すという選択肢も浮かんだには浮かんだが、彼が口車に乗るという公算もまだ計りあぐねているし、何より、かような些事に気をかけている暇は無かった。

 墨付はレンチを肩に担ぎ、如何な愚者にも明快な、非常に分かり易くシンプルな最後通牒を発した。

「殺すぞ」

 それは最も実行されない脅し文句にして常套句、しかしそれ故に深く日常に浸透しており、よって嵯峨の頭をも容易く揺らした。

「お前も、あの女も、一緒になって口を噤むというのなら、私が、仲良く諸共、葬ってやる。神に誓おう」

 あの女、という言葉で嵯峨の顔色が目に見えて蒼然となった。やはりこの男女はそういう間柄らしく、そのことによって墨付の内側で赤黒い炎が渦巻き始めていた。この憤りを、いつまで理性という箍で抑えつけられているか、墨付には分らなかった。

 そして不運なことに、嵯峨の恋人として当然でもあろう言動が、静かに燃え滾る業火に油を浴びせかけるという帰結をもたらした。

「テメェ! 常世とこよには指一本触るな! だったら俺を殺せよ!」

 人間の行動を理知が制限しているというのなら、それが弾け飛んだ時、人間はどこまで冷酷に徹することができるのだろうか。その答えの片鱗を、墨付は自らに見出そうとしていた。

 嵯峨の左手の小指と薬指を自分の革靴で関節とは逆方向に踏みつけ、幸いなことに、その軽傷を負わせただけで墨付は我に返った。墨付の人間性を取り戻させたのは、激痛に悶える嵯峨の絶叫か、はたまた自身の奥底に根付いた大義か。

「そんなことは知らない。お前らの生殺与奪は私のものだ。お前らはただ、正直に、私の知りたいことを教えてくれればそれでいい。まずはそうだな、手の甲に指の爪が触れた気分はどうだ?」

 嵯峨の悲痛な喘ぎもどこ吹く風、むしろ墨付の気分は高揚していた。真っ当な倫理観は既に麻痺し、ともすれば一部は瓦解をすら引き起こしているのかもしれない。

 ふむ、と呟き、墨付は蹲る嵯峨に向けレンチを翳した。

「選択を誤るなよ。身の振り方は重要だ」

 もう春だというのに、空気がやけに冷えきっている。恐らく、自分が冷血漢にへと成り果てたせいなのかもしれないと、墨付は自嘲の笑みを漏らす。

「もしお前ら二人共が私の満足する答えをしなかった場合、殺すだなんて残虐なことはしないが、ほんの少しだけ私の気持ちを込めたプレゼントを贈ろう。逆に、二人共が話したのなら、その内容次第では半殺す。嘘をついても半殺す。そして、どちらか片方のみが話したのなら、話した方を五体満足で解放し、黙っていた方を……そうだな、ただでは殺さない」

 墨付の非人道性を、その云為の端々に垣間見ていたであろう嵯峨は、瞑目し、何やらぶつぶつと呟いていた。恐らく嵯峨にはもう、正常な思考回路は残されていまい、そう判断した墨付は、自らが提示した条件に隠れる狡猾にして暴虐な策を心の内で反芻した。

 囚人のジレンマ、というゲーム理論の用語がある。

 その仔細は語るに忍びないが、敷衍して言えば、即ち、「互いに協調する方が裏切り合うよりも良い結果になることが分かっていても、皆が自身の利益を優先している状況下では、互いに裏切り合ってしまう」というものである。その名称の所以は司法取引のシナリオによるのだが、これはあくまでこのジレンマの一例に過ぎないということだ。

 墨付は、これを嵯峨説性とこよみ常世の二人に見出そうとしているのである。窮地に追いやられた人間の利己的な醜態を垣間見んという腹づもりなのである。

 今になっても、墨付はこの二人が無辜の市民だという可能性は考えなかった。勿論、捜し求めるべき人間だったのならそれに越したことはなく、然るべき報いを受けさせる所存ではある。しかし、人違いだった場合。その場合墨付は、憤激の対象を見失うことになる。それを無意識に怖れてのことなのだろうか、墨付の思考は、「自らの暴虐性の捌け口として人を甚振ることさえできればそれでいい」というものに変じつつあった。換言すればそれは、「私怨の矛先が相手を問わなくなった」という極めて邪悪な思考であった。だから墨付は、新しく目の前に四肢を拘束された人間が転がれば、一切の迷いなく手を下すだろう。

 蛇心を己が内に侍らせたまま、墨付は「また後で答えを聞きに戻るから、それまでに心を決めるといい」と言い残し、嵯峨の部屋を去った。

 嵯峨の恋人、暦常世に当てられた部屋も、先刻と同じく殺風景なものだった。ただ、書類やデスク、パソコンなどが散見された嵯峨の部屋とは異なって、こちらは何やら工業機械らしきものが撤去されずにそのまま放置されていた。その機械の傍に、暦は横たえられていた。

 墨付が姿を現しても暦は反応らしい反応を見せず、自失の体に陥ったかと訝らせたが、近付いてみると、単にまだ目を覚ましていないだけであった。

 しゃがみ込んで暦の容姿を注視すると、なるほど、魅力的であった。当然の如く口はガムテープで塞がれているが、それでも顔立ちの美しさは眩然としており、その体つきも摑めば手折れそうなほどに華奢であった。この女をものにした嵯峨は、さぞ鼻が高かったことだろう。

 暫しの沈思を経て墨付は、徐にレンチを脇に置いた。そして、暦の衣服に手をかけた。

 もう二度と目を覚まさないかもしれないとまで宣告された、自らの恋人の代わりという言い訳も、毛頭、口にする気は無かった。墨付には今、自分が邪な感情を抱き、それに応じた悪徳をなしている、という自覚が、しかとあった。蛇心を以て鬼手をなす、悪罵も賛辞に能うほどであった。

 墨付は、たかが人間二人を拘束し抵抗できないようにしただけで、この世の全てを掌中に収めたかのような悦楽に浸っていた。規範や倫理といった柵をかなぐり捨て、最早自制心は残っていなかった。

 手籠めにしている最中、流石に暦が目を覚ました。そして、自らが置かれている状況を瞬時に理解し、ガムテープの下でくぐもった悲鳴を上げた。拒絶の意を示すように暦が激しく体を揺するが、端正な顔を躊躇いなく殴打することでこれを鎮めた。頬骨に罅が入ったような感触がしたがどうやらその通りらしく、爾来暦は噦り上げていた。墨付は涙を流す暦に一層興奮した。

 行為が済んで気が済んだ墨付は、暦の口のガムテープを乱雑に引き剥がし、レンチを担ぎ直して嵯峨にしたのと同じ質問を投げかけた。しかし、さもありなん、暦は乱れた着衣を直すこともできないまま啜り泣いていた。

 ここで暦にとって不運だったのは、墨付が先に嵯峨の元を訪れたことだろう。あの問答で、嵯峨が墨付を激昂させなければ、墨付は暦に対して先程のような危害を加えることはなかったかもしれない。しかしそれは反実仮想というもので、事実、墨付はこうして凶行に及んだ。厳然として、それ以外の現実はここには無い。

 全能感を得ていた墨付は、自らの思い通りにならないことが、非常に気に食わなくなっていた。儘ならぬ不快感に対し、尽きせぬ恣意的な欲望の湧出を増幅させる。そうして嫌忌するものを強引に満足のいくものにへと矯める。往々にして、力を手にした者はそういった短絡的な行動に走りがちである。現在の墨付とて例外ではなかった。尤も、墨付が手にしているのは、泡沫にも等しい暫時的なものであったが。

 墨付の苛立ちは募っていた。その原因の一端が自分にあるのは言うまでもないが、過ぎたことをどうこう悔やんでも仕方あるまい。対処法の一つとして、さもそれが当然であるかのように墨付は、暦の腹部に執拗な蹴りを、耳朶に横暴な怒号を、容赦無く浴びせた。しかし、暦の口から出てくるのは嗚咽と吐瀉物のみであった。

 とうとうこの鈍器を振るう時が来たのだろうか、と握る手に力を込めた。しかしその時、墨付の脳裏にある妙案が浮かんだ。

 そうだ、今の暦の姿を撮影して嵯峨に見せてやろう。嗚呼、何故今まで思い付かなかったのだろう。どうせなら、襲っている時の動画が撮影できれば重畳だったろうに。

 すぐさま懐から携帯電話を取り出し、蹴りの猛威に黙して耐える暦を写真に、動画に収めた。半裸で蹲る暦の姿はなかなかどうして滑稽で、忽ち墨付は愉快になった。華奢な身体つきに反して豊かな双丘も、滑らかな腹部も、丸い臀部も、柔らかな脚部も、その全てがカメラに収められる。白い肌に青い痣を認め、その数を増やすのに快楽を見出した。寂れた部屋に、墨付の哄笑のみがただ木霊していた。

 数分後墨付は、少し羽目を外しすぎたかもしれないと、淡白に思った。全身に蹴りを受け続けた暦は赤子のように力無く丸まっており、虫の息で意識を失っていた。下手を踏めば死まで長くないかもしれない。失禁、嘔吐、吐血、落涙の結果様々な液体に塗れた暦を、お気に入りの玩具を壊してしまったような気分で見下ろしていた。真実を話すまで勝手に死なれては困るので、墨付は暦にこの場でできうる限りの処置を施し、データを保存した携帯電話を握り締めて再び嵯峨の部屋に向かった。

「テメェ……」

「未だ息災か。重畳なことだ」

 嵯峨は墨付の姿を認めるや否や、構えてこちらを睨みつけた。それだけしかできないというのが墨付の喜悦を再び刺激した。

「おや、指の骨が折れているじゃないか、可哀想に。一体誰がこんなことを」

「…………」

「おぉ恐い恐い。そんな恋人を寝取られた時のような目で私を睨んでくれるな。恐ろしくて指の骨が折れそうだ」

 嵯峨の反応は鋭敏だった。

「テメェ! まさか、常世を、常世をぉッ! 殺す、絶対にぶっ殺す! があああああッ! クソが、クソがあああ!」

 その剣幕は、今まで見たどんな凄みよりも鬼気迫るものだった。獣のように叫び、吼え、自らの拘束を力づくで解こうと躍起になっていた。嵯峨から溢れ出した殺意は、しかし、対象に届くことなく虚しく四散する。そのことが嵯峨の敵愾心や虚無感を一層強くさせているように窺えた。

 一方で墨付は、動物園で檻越しに猛る獅子を観賞しているかのように、涼しく、さながら他人事のようにそれを眺めていた。 

「はて、なんのことやら私にはよく分かりかねるが。そんなことより、貴様に見せたいものがある」

 嵯峨は聞く耳を持たず、徒に吼え続けている。その横っ面を蹴りつければ多少は静かになるかと思ったが、暦とは違い、焼け石に水だった。二度蹴っても、三度蹴っても嵯峨の咆哮は静まるところを知らず、顎を蹴り上げてようやく収まった。それでも手負いの猛獣のように息荒くこちらを睨め上げていたが、結果として静かになったので墨付はそれを意に介すことなく自らの懐をまさぐった。

「見ろ」

 嵯峨に暦を甚振る動画を見せつける。

 忽ちにして嵯峨の意識が墨付から携帯電話の画面にへと注ぎ込まれた。ただただ瞠目し、嵯峨は言葉を忘れていた。部屋の中に、録音された墨付の笑い声と鈍い打突音のみが聞こえていた。

 呆然となる嵯峨の内側を、どんな感情がどんな風にどれだけ渦巻いているか、それは計り知れない。

 墨付としては、更に怒り狂う嵯峨が見たかったのだが、最早その閾値をも超えてしまったらしい。しかしこれもまた一興と思い直す。

「三月二三日午後四時頃。お前は何をしていた。答えろ」

 動画の再生が終了し、俯いて言葉を無くした嵯峨に、再度問いかける。数秒待って答えなければまた顔を蹴りつけてやろうと考えていたその時、消え入りそうな大きさの声で嵯峨が何事かを呟いた。聞こえなかったので足で小突いてもう一度言うよう促す。押し殺すような気迫がじわじわと滲み出てきているように感じられたが、墨付は歯牙にもかけない。

「……俺は絶対に喋らねぇ」

「……理由を聞こうか」

「常世に訊け。そして答えたら常世を逃がせ。俺のことは勝手にしろ」

「……ほう」

 墨付は嵯峨の思惑を理解した。つまりは自己犠牲だ。墨付の提示した条件を逆手に取り、その矛先を自らにのみ向けさせることで結果的には暦を救うことになるという、なるほど慈しみに満ちた利他的な美談を演出しようとしているのだ、この男は。そして勿論、墨付はその魂胆が気に食わなかった。

「それが貴様の出した答えか」

「そうだよ、人でなしめ」

「…………」

 墨付は、かえって冷静になった嵯峨に唾を吐くと、そのまま踵を返して再び暦のいる部屋に向かった。

「おい起きろ売女。恋人の欺瞞に付き合ってやれよ」

 部屋に着くや否や、半死半生の暦を何度か蹴りつけて起こす。しかし主だった反応は無かった。薄っすらと目は開いているが、殆ど意識は無いままだろう。蹴られたから目覚めたのではなく、先刻の暴力でできた痣が疼いて目覚めたといった様子だ。無論、墨付はそのことを意に介しはしなかったが。

「聞け。お前の男が、お前に生存権をくれてやった。チケットはお前の答えだ。さぁ答えろ。三月二三日午後四時頃、お前らはどこで何をしていた」

 暦は虚ろな目でこちらを見返す。眼球はこちらを向いてはいるが、焦点が定まっておらず、墨付を捉えられている気色は無かった。暦は口の端から血反吐を垂らしつつうわ言のように以下のことを呟いた。

「……貴方の怒りも尤もだわ」

「なに?」

 墨付は予想外の返答に眉を顰める。

「確かに私達は、人を轢いてしまった。それは決して雪ぐことのできない私達の罪よ。でも私達が裁かれるのは公の場であって、貴方が失意と激情に駆られてその手を汚す必要はないはずよ」

「はッ、語るに落ちたな。もういい、お前に用は無い。黙れ」

「本当は気付いているはずよ。こんな私刑紛いのことをしたって、貴方自身は何も報われず、満たされないということを」

「その不愉快な口を閉じろ、女」

 諭そうというのか、この墨付密月を。慰めようというのか、この恩讐の獣墨付密月を。馬鹿げている。笑止と言わずしてなんとしようか。ブレーキの失われた機関車を一体どうやって止めようというのだ。不可能だ。彼は耳を貸さない。志は曲げない。

「貴方のことを責めるつもりはないわ。地を易うれば皆然り、私だって、貴方と同じ境遇に立たされれば同じことをすると思うもの」

「黙れと言っている!」

 墨付は怒りのままにレンチで暦の蟀谷を殴りつけた。鈍い音がして、漸く暦は口を閉ざした。

 息を荒げる墨付と、虫の息の暦。傍から見れば、両者が対照的に見えただろう。

 この女が憎い。いや、女だけではない。暦常世という女も、嵯峨説性という男も、幸福の最中にあり自身が加害者であることを自覚している者していない者、その一切が憎かった。何の落ち度もないひとがその身を哀切に窶しているのが耐えられない。何故、無辜の恋人が轢かれなければならなかったのか。墨付の身の内には、憎悪がひたあった。腸が煮えくり返らんばかりの、黒々とした溶岩のような、醜い憎悪があった。その憎悪をぶつける先が正しいのか最早分からない。しかしどうでもよかった。八つ当たりでもいい、お門違いでも筋違いでもいい、ただ恋人を失わねばならないという慟哭を、暴力の形にして晴らさねば、この身を引き裂く痛みに耐えられそうにもなかったのだ。

 怨み、呪い、憎んだ果てに殺すことができなければ、もう自分が死ぬしかなかった。

「さぞかし貴方はあの女性を愛していたのでしょうね。だからこそ、やりきれなくてどうしようもなくて私達を拷問するという凶行に及んだのでしょうね。ねぇ、月並みなことを訊いてもいいかしら」

「…………」

 肩を怒らせつつも、最早、墨付に返す言葉はなかった。仇の質問になど耳を貸してやる筋はない。墨付は、再びレンチを高々と振り上げ、以てこれを答えとした。

 瞳は、揺らがない。墨付も、この女も。

 渾身の力を込めて振り下ろされた凶器が、女の脳天に肉迫する。

「恋人さんは、貴方になんて言うかしら」

 がつん、と鈍い音がして、暦は昏倒した。

 息を荒げ、目も口も閉じた女を睥睨する。墨付は取り落とすようにレンチを手放し、その重い金属音に唾を吐いてその場を立ち去った。


   ~~~~~


 廃ビルの屋上。朽ち果てたフェンスと罅割れた冷たいコンクリートの地面が、しとしとと雨に濡れる。屋上の縁に立ち、雨天の下、遥か下界を見晴るかす私はそれ以上に濡れていた。

 私の名は墨付密月。最愛の人を撥ねられ、復讐という妄執に囚われた哀れな男である。

 嗚呼、この身にこびり付いた汚れは、雨をして雪がれることはない。この雨がもっと冷たければよかった。初春に降り注ぐこの雨は、私には温かすぎるから。この雨がもっと激しければよかった。草花を眠りから覚ますこの雨は、私には穏やかすぎるから。

 馬鹿な事をしたものだ、と自嘲の笑みが零れる。

 何もかも失ったのだ。彼女も、私自身でさえも。

 重態で今も病院のベッドで眠っている言音は、いつ目を覚ますか分からない。数年後、数十年後、或いは眠ったまま息を引き取るかもしれないと担当医師に宣告された。その時は、涙さえも出なかった。いずれそう遠くない未来に彼女と結婚し、子供を育て、やがて私が死に、後を追うように彼女も安らかに眠るのだと思っていた。それらの夢を、一夜にして奪われた。今までの自分を全て否定されたような気分だった。そして、私は墨付密月を捨て、獣となり果てた。自分が自分でないような感覚の中、ずたずたの心が叫ぶのにも耳を塞ぎ、悪魔に身を委ねた。

 忘れていたのだ、この身は私だけのものではなく、半分は言音のものであると。その言音が私の行いを知れば何と言うか、どんな顔をするか、何をするか、全て手に取るように分かった。その上で、私のこれからの行動を、赦してほしい。

 懐から煙草を取り出し、火を点けた。吐き出した煙が雨に掻き乱され、瞬く間に薄れて見えなくなる。煙草が雨で湿るのも構わず、燃え尽きるまで吸った。火が消えるのを見届けると、私は直下に目をやった。撤退されずに放置された重機や、積み上げられた鉄骨、そして、地面。私は目を閉じると、ゆっくりと、身体を前に倒した。


   ~~~~~


 数時間後、何者かに拉致、拘束されていた嵯峨、暦両名は、無事警察に保護された。嵯峨は指が骨折しており、暦は全身に打撲痕と性的暴行を受けた跡があり更に軽度の脳挫傷を引き起こしていたが、その後両者共に順調に快復しているという。

 この男女監禁暴行事件の犯人と見られる男性は、被害者が監禁されていた廃ビルからの投身自殺を図っており、二人とは別の病院に搬送されたが死亡が確認された。警察は今回の犯行の動機を私怨によるものと見ており、被害者の容態の安定次第、事情聴取を行うとのことである。

 これと時を同じくして、奇しくも同病院内にて自動車事故で意識不明の重態となっていた山吹言音が、奇跡的に意識を取り戻したが、傍らにいるべき人は、いなかった。

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恩讐の獣 水ようかん @mzyukn0809

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