Ⅳ
団地内に、鶏の声が響いた。
最初に出会った場所。そして、今日も出会う場所。
「おはよう、
「
控えめに口を動かす少年と、それを吹き飛ばすようにふわっと笑う少女がいた。
「大丈夫? 今日からまた学校だよ」
ブラウンのスクールバックを肩にかけ、橘と呼ばれた少女は歩き始めた。
黒瀬も、それについて行く。
でもそこには、埋まりそうで埋まらない、微妙な距離感があった。
その隔たりを保っているのは黒瀬だけれど、橘もそれには気づいているだろう。でも、何も言わず、何も振り返らないで、進む。
「ねぇ、橘さん」
黒瀬が口を開いた。小さい声じゃ聞こえない距離。耳を澄まさないと、聞けない距離。
橘は、後ろを振り返った。俯いて目の合わない彼を、みる。
「僕は……僕は、記憶が戻らないと、僕じゃない?」
消え入りそうな声で、不安げに問う。
きっと前々から用意していた、聞きたかった。でも聞けなかった。そういう雰囲気の漂う、言葉。
きゅっと唇を結んで、笑う。
橘に、不安はない。当たり前のことを当たり前に言う、それだけだった。
「ユウキはユウキだよ」
黒瀬は、橘の隣に行く。
車は、もう怖くない。記憶がないのも怖くない。実際は怖いかもしれないけれど、怖くないと印を押した。
怖くなんか、ない。だって、アイカがいるから。
「ありがとう、アイカ」
* * *
しょうねんは びょういんに いました。
さいわい いのちは たすかりました。
ですが かれは きおくを うしなっていました。
じぶんが だれだかも わからず
みまいにきたひとが だれかも わかりませんでした。
そこには かれのかぞくと ひとりの しょうじょが いました。
「たちばな、さん?」
「うん、たちばなあいか。藍色に、花って書くよ」
「僕の、名前は?」
「ゆうき」
彼女は、鉛筆を持った。
『橘 藍花』と書かれた下に、『黒瀬 祐樹』と書いた。
鉛筆の芯は、黒かった。
【短編】イン・テンポ ぽんちゃ 🍟 @tomuraponkotsu
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