団地内に、鶏の声が響いた。

 

 最初に出会った場所。そして、今日も出会う場所。


  


「おはよう、黒瀬くろせくん」

たちばなさん、おはよう」



 控えめに口を動かす少年と、それを吹き飛ばすようにふわっと笑う少女がいた。



「大丈夫? 今日からまた学校だよ」



 ブラウンのスクールバックを肩にかけ、橘と呼ばれた少女は歩き始めた。


 黒瀬も、それについて行く。



 でもそこには、埋まりそうで埋まらない、微妙な距離感があった。



 その隔たりを保っているのは黒瀬だけれど、橘もそれには気づいているだろう。でも、何も言わず、何も振り返らないで、進む。



「ねぇ、橘さん」



 黒瀬が口を開いた。小さい声じゃ聞こえない距離。耳を澄まさないと、聞けない距離。



 橘は、後ろを振り返った。俯いて目の合わない彼を、みる。



「僕は……僕は、記憶が戻らないと、僕じゃない?」



 消え入りそうな声で、不安げに問う。


 きっと前々から用意していた、聞きたかった。でも聞けなかった。そういう雰囲気の漂う、言葉。


 

 きゅっと唇を結んで、笑う。


 橘に、不安はない。当たり前のことを当たり前に言う、それだけだった。



「ユウキはユウキだよ」





 黒瀬は、橘の隣に行く。

 

 車は、もう怖くない。記憶がないのも怖くない。実際は怖いかもしれないけれど、怖くないと印を押した。


 怖くなんか、ない。だって、アイカがいるから。



「ありがとう、アイカ」




   *  *  *




しょうねんは びょういんに いました。


さいわい いのちは たすかりました。


ですが かれは きおくを うしなっていました。


じぶんが だれだかも わからず 


みまいにきたひとが だれかも わかりませんでした。


そこには かれのかぞくと ひとりの しょうじょが いました。




「たちばな、さん?」

「うん、たちばなあいか。藍色に、花って書くよ」

「僕の、名前は?」

「ゆうき」



 彼女は、鉛筆を持った。


 『橘 藍花』と書かれた下に、『黒瀬 祐樹』と書いた。



 鉛筆の芯は、黒かった。 

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【短編】イン・テンポ ぽんちゃ 🍟 @tomuraponkotsu

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