第三部 四話『土蜘蛛』
四話『土蜘蛛』
朧げな視界に入るのは、変わることのない人工的な照明と天井。耳元で小さく
流れている曲は、終わることを忘れて再生を繰り返している。
光と音、それらは意識を取り戻した私にとって、不快そのものだった。
私はベッドから身を起こすことなく耳元にあった再生機の電源を切り、ベッドの外へと押し出した。しかし照明を切るには、身を起こさねばならない。私は目頭を手で押さえ、唸りながら身を起こした。
習慣的なものか、身を起こしてまずやったのは、テーブルに投げ出されてあったケータイで時間を確認することだった。午前七時、部屋の明るさとカーテンで分からなかったが、すでに朝だったのか。
私はカーテンに手をかけ、そっと外を覗いた。外は曇り空の為か、まだ夜明け前のような暗さで、家の中の方がよほど明るい。
部屋の中は、ここ最近の荒れっぷりが分かりやすく残されている。酒と、睡眠薬。一ヶ月前からずっとこんな感じだ。酒で自分を誤魔化し、夜は薬に頼って眠った……一ヶ月間。
見れば、テーブルのコップにはまだカクテルが残っていた。私はそれを手に取り、口に含む。
酒の味は健康な体があってこそ美味いのだと、健康を失って初めて分かる。すでに私の舌はワインの渋みどころか、気の抜けたジンジャーエールの甘ささえも分からなくなっていた。
酷い様だ。頭の奥が痺れるような頭痛に顔をしかめながら、私は照明を消し、ベッドに身を横たえた。
いつまでこの苦しみが続くのか。やらねばならないことがあるというのに、私は決心がつけれないどころか、酒に逃げている。初めは酒の力で気を強くしようとしたのだが、それが完全に空回りになってしまった。
「………」
このまま、この使命から逃げ切ることはできるだろう。アルコールと言う毒で体を麻痺させ、真実に辿り着けないようにすれば良いのだから。
しかし、それは私が許さない。
これは私の復讐だ。
四百年を経てやっと得た、真実を知り仇を討つ、たった一度のチャンスなのだ。
私は黙って身を起こし、ベッドに腰かける。そしてベッドに据えられている小さな引き出しから、紙切れを取り出した。
紙には、如月を紹介することを条件に黒笹から得た、大江山の警備状態がメモされている。これさえあれば土蜘蛛達の目をすり抜け、自由に動けるはずだ。
そうだ、今しかない。この機を流せば、次はいつになるか分からない。殺生石のことは気になるが、あの鬼のことだ、抜かりはないだろう。もし負ける時は、そんな大きな力の流れに私がどうこうできるはずもない。四百年前と、同じように……。
全てはあの時と同じだ。大きな時代の流れの中、無力な私は何をするか。あの時は自分の為に、全てから目を背けて逃げ出した。
そして今回は自分の為に、あの時の全てを知る為に、最も危険な所へと赴く……赴かねばならない。
「……はっ、こんな命」
今さら惜しむものでもないか。私は笑みを零し、ふら付きながらも立ち上がった。
「……久しぶりに顔を出したかと思えば、ようやく決意を固めたのね」
私は軽く身支度を整えてから川下邸へと向かうと、邸宅の廊下で出くわした将実が開口一番にそう言った。
「……まあ。で、こっちはどんな感じ?」
ここに黒笹を連れてきてから、私はほとんど人に会っていなかった。しかし彼女からは定期的に連絡をもらい、状況は掴めているつもりだ。しかしどうも、今日の屋敷は雰囲気が暗い。何かあったはずだ。
将実は溜息をつき。
「……昨日、例のアスラと殺生石に、ようやくたどり着いたのよ」
「……なのに、このお通夜ムードなの?」
「殺生石もアスラも捕らえられず、毒島と清は負傷。成果と言えば、貴方が連れてきた土蜘蛛の妹を捕まえられたことくらいかしら」
付いてきて。と、将実は踵を返し、私を蔵の方へと案内する。私は彼女の背中に言った。
「二人の容体は?」
「別に命に関わる怪我はないわ。……ああ、ムラマサもそれなりの傷を負ってたけど、本人がそれどころじゃあない顔してたわね」
そう言う貴方もでしょう。私はそう言おうとして、思い止まった。毒島誠司、彼がやられた為だろう。将実の顔には、張り詰めたような厳しさがあり、余裕が感じられなかった。
「他の連中は?」
「さっき和田達が帰ってきて、その報告を居間でしているわ」
「ふーん……聞かなくて良いの?」
「今はアスラに集中したいのよ……」
「………」
どうやら、アスラは彼女の逆鱗に触れたらしい。
あまり良い兆候ではない、私は彼女の背中を追いながら思った。まだ死人こそ出してはいないが、冷静さを欠いた策略家の末路など飽きるほど見てきた。彼女もそうならなければ良いが……。
そんな心配をしているうちに、蔵の一つへと着いてしまった。入口には天が地面に胡坐をかいて座り、漫画雑誌を読んでいる。
「この中に黒笹の妹が?」
「ええ。ずっと黙っててね、手を焼いているのよ」
ところで。と、将実は私を見る。
「貴方の知り合いにいない? 心を読む……覚りだったかしら?」
「アレは性格がねじ曲がっているか、享楽的なのがほとんどよ。覚りの口から出た言葉を信じるのに、もう一人覚りが必要になる」
「……つくづく、上手くいかないものね」
ならせめて、私が見てみよう。私は天の横を通り過ぎ、蔵の門を開けた。
中は薄暗いが、正面で腰かけられている為すぐに分かった。後ろ手に手錠で繋がれ、俯いた顔に長い髪を垂らした、幽鬼のような女が私を睨んでいる。彼女が黒笹の妹、山衣か。
「………」
私はその視線から目を逸らさないまま、ゆっくりと歩み寄る。山衣はずっと、私を睨み続けていた。
「……少し質問をしたいのだけど、先に名前を聞いても良いかしら?」
山衣は黙ったままだ、私は溜息をつき。
「土蜘蛛の山衣、貴方はアスラ直属の実働隊にいた……そうね?」
私の言葉に山衣の顔、右半面が僅かにひくついた。私は構わず続けた。
「アスラの目的は?」
「……言うと思うか?」
山衣は身を乗り出し、こちらを見上げた。
「言わなきゃ死ぬだけだ」
私はそう言って、右手を見せるように挙げる。指を鳴らし、右手に火車の青い炎を纏わせた。
「命だけを焼く、火車の炎。知っているでしょう?」
「……ハハハ」
山衣は乾いた声で笑う。そしてぐいと状態を前に突き出し、前倒れになった。ドシリと彼女は胸を床に打ちつけ、髪が彼女の顔を覆ったが、彼女は構わず、熱のこもった声で言った。
「……お前達は、私に猿ぐつわでもしておくべきだった。脚を二本もいだくらいじゃあ、蜘蛛は止められない」
そう言うと、山衣の長い髪が左右に広がり、束ねられ、床を掴む。彼女の胴体は、足と髪、合計六本の脚によって浮き上がる。
「花車、気をつけなさい」
門の前で立っていた将実が、私に言った。
「こいつ、こっちを挑発させて暴力に走らせ、それを機に逃げる気よ」
「……違う、ここで死ぬ気だ。巻き込まれたくなければ下がってなさい」
「何を根拠に……」
「門が開いてからずっと、出口を見てもいない」
将実は言葉を詰まらせていた。私は顎をついと上げ、山衣を見下ろした。
「こいつは、生きることを諦めている」
「……そういうことだ、人間」
山衣は目を血走らせ、引きつった笑みを浮かべた。
「長将実、そして雲隠花車……お前達が死ねば、後々こちらの利益に繋がるだろうな!」
「……約束を破ることになるけど、当人がこれじゃあね」
面白い。私は笑みを浮かべ、脅すように右手の炎の火力を上げた。
「死に花を咲かせたいなら、掛かってきなさい」
互いの殺意が合わさり、戦いの雰囲気がこの狭い蔵の中で形作られていく。そんな中、蔵の外から天が声をあげた。
「おい花車、代わってやろうか?」
「貴方は将実を守ってなさい。これはもう、私の獲物よ」
「……あーあ、こういうのを抜け駆けって言うんだ」
分かったよ。へそを曲げた天は、そう呟いた。どうやら彼女も、山衣の逆襲を期待していたクチらしい。だから警備など買って出ていたのか。
「………」
山衣は油断なく、こちらの出方を伺っている。私はそんな彼女に対し、口を開いた。
「一つだけ答えなさい。分からないんだけど、貴方がここで死んでどうなるって言うの?」
これはアスラのことを聞いた時とは違う。いわば、私の本心だ。
自己犠牲。誰かの為に命を削る、命を捧げ燃やす行為。それは私にとって、死に花という何よりも美しい花だ。だがそれは同時に、美しいという言葉でしか表現できない、共感を覚えないものだ。
私はただ、自分の為に動いてきた。だからこそ賛美はすれど理解に及ばない……なぜ他人の為に死ねるのか。例え感謝されたとして、死んだ自分には何の意味も持たないというのに。
人も妖怪も、花も変わらない。死ねば骸だ。花も美しいのは最初だけ、散れば醜く腐る。如何なる高潔な魂も、土を盛られれば燐の炎と共に消える。それが真実だ。
「……貴方が死んで、一体何が残るの? 種族の繁栄を思ったところで……」
「何も残る必要はない」
私の言葉を遮る形で、山衣はハッキリとそう断言した。
「如月に裏切られ、泥水を啜ってきた我が先祖の仇を討つ。その為なら例え一縷の望みであろうとこの命、託すに値する」
「………」
「何も遂げられず、無意味な生を送るくらいなら、この方がよっぽど良い」
その言葉で、私は勘違いに気づいた。黒笹はともかくとして、この女は未来を見ていない。例え一族がここで滅ぶとしても、彼女は自分に向けられた訳ですらない、過去の復讐に出るだろう。
全ては自分の命を軽率に思っているからこそ、行える行為。彼女は自暴自棄になっているに過ぎない。女の為だけに苦心し、生き延びようと藻掻いていたあのヒザマとは、決定的に違うのだ。
「………」
醜い。私は自然と顔を歪めていた。右手の炎も意気消沈に伴いゆっくりと小さくなり、やがて消える。
「……興醒めね」
私はそう言って踵を返す。山衣は背後で、ゆっくりと飛び掛かろうと姿勢を下げているようだが、構わずに私は言った。
「反撃を期待しているようなら、思い違いも甚だしい」
「………」
「ただ死にたいだけなら、誰の力も借りるな……それだけ元気なら、一人で死ねるでしょう?」
私はそれだけ言うと、さっさと蔵の外に出ていった。
彼女は私を襲いはしなかった。暗い蔵から出ると、その事実に私は一層顔をしかめた。この様子では、彼女もまた命の軽い駒に過ぎない、私達が求める情報など、持っていないだろう。
外には私達の喧騒を見守っていた二人が、何とも言えない顔で私を迎えた。私は二人に、こう言った。
「……彼女からは、何も得られないわ」
将実と別れた私は、清の所へ見舞に向かった。
あまり落ち込んでなければ良いが、とは思う。しかし、落ち込んでいないはずはないという確信もある。
清と毒島が寝かせられている部屋に着く。戸の前には、ムラマサがどっかりと胡座をかいていた。
「……よぉ」
ムラマサはぼそりと、私に挨拶をした。見るからに不機嫌だ。
「……容体は?」
「………」
ムラマサは黙って立ち上がり、障子を開けた。
清は布団に寝かせられていた。将実の弟分である毒島も、清の隣に並べられている。清の方は寝ているが、毒島の方は私の来訪に頭を下げる。
「……何にせよ、無事で何よりね」
見た感じでは、毒島の方が重傷のようだ。清の怪我は擦り傷らしき傷が多く、目立つのは首に貼られた湿布くらいだ。毒島の方は、川下がやったのだろうか、右腕が装具で固定されている。
ムラマサは私の隣に立ち、こう言った。
「別に死ぬような怪我じゃあないってさ。毒島の肩も……亜脱臼? ってので済んでたんだと」
「充分痛いですけどね」
そう苦笑する毒島君の前に、ごめんね、と私はしゃがみ、検分を始める。毒島は気恥ずかしそうにしているが、肩に触れられると身を強張らせた。
「……少し出てるから、ここ、任せるな」
ムラマサはそう言って、部屋から出て行ってしまった。その背中は、随分と小さい。
「……重傷ね」
「えっ」
「ああ、いや、あっちの方ね」
パッと見た感じでは、肩周りの怪我以外に目立った怪我はない。肩の方もしっかりと整復済みのようだ。しかし、これは……。
「式神を使っていたらしいけど……毒島君、これって関節技?」
「いてて……はい。腕を取られたと思ったら一瞬で」
厄介だな。私は溜息をついた。式神と体術、どちらを得意かは知らないが、一つの技術に終始しない奴は大抵用心深い。
「将実さんらと別行動で捜索していたんですが、殺生石が見つかったって連絡があって……現場まで急ぎ足で向かっていたんです。それで男の横を通り過ぎようとしたら、腹を思いっきり殴られて、それから……」
「一瞬で潰された訳ね。焦る気持ちは分かるけど、次からは気づかれないよう、振る舞いには気を付けなさい」
「そうします。しかも……クソ、無線まで取られちゃって……」
毒島は悔しそうにうな垂れ、ブツブツと呟く。
しかし私は内心、そのアスラと言う男に感心していた。必要最低限のダメージで彼を無力化し、しかもこちらの通信を筒抜けにした。中々の手際だ。
「まぁ、この怪我じゃあしばらくは無理できないわね」
私はそう言って、彼の肩を軽く叩いた。彼はビクっと体を震わせ、こちらを見上げた。
「後は将実に任せて、しばらくゆっくりしてなさい」
そう言って、私は立ち上がり、立ち去ろうとするが。
「ゆっくりなんて、してられないよ」
と、そんな言葉に思わず振り返る。清が目を開け、天井をぼんやりと見ながら、そう呟いている。
「何にもできなかったよ、ハナ」
彼女は布団から身を起こし、私にそう言った。その声は怪我のせいか少し掠れていて、顔つきは暗い。
「ケン君の隣に立つには、強くないといけなかった。でも私は無力だったよ。あれだけ努力したのに、あいつに簡単にあしらわれて、出しゃばるなって……」
醜態を晒しただけだった。そう、清は言った。彼女がアスラに倒される時、近くにムラマサもいたと聞いている。彼の前で無力であったこと、きっと彼女には、それが許せないのだろう。
「ケン君やハナは、強いよ。本当に強い。戦いのこと、天ちゃんや羽ちゃんに教えてもらって、ようやく、はっきりと理解できた」
「………」
「でも、私はただの化け狸だ。どれだけ取り繕っても、二人のようにはなれない……自分を化かすのだって、限度があるから」
「ムラマサさんって、そんなに何でもできる人ですか?」
その時だ。清のセリフに、隣の毒島が割って入った。彼は頭を掻きながら、こう続けた。
「そりゃあ、ムラマサさんは強いっすけど、でもあの人が味音痴で定職もなくなっちゃって……結構穴だらけな人じゃないです?」
清は毒島を見る、彼は目を閉じて、話し続けた。
「将実さんだって、あの人辛いもの苦手なんですよ。それに腕相撲じゃ、もうジーナにも負けてるし。それに自分なんて、遠山さんの比じゃないくらいに足手まといでしょ?」
「………」
「良いじゃないですか、努力できる分。本当にどうしようもない、何にもしない奴は、失敗すらしないんですよ。俺は将実さんに拾ってもらうまでは……どうしようもないクズだったから。……いや、あんた凄ぇよ、ムラマサさんだってそれは認めてるって」
毒島は微笑みながら、清にそう語る。
毒島誠治。将実が異母姉妹であるジーナを救う際、協力を買って出た男だったと聞いている。元は将実の父親らに使いっぱしりにされていた若者だったらしい。まともな生活を送らず、金に困ってあんな連中の下っ端にされていた彼だからこそ、清の努力が眩しく映るのだろう。
しかし清は毒島の言葉に、いったんは黙り込み。
「……それでも、努力だけじゃあ駄目なんだよ。私はね。私は……」
と、徐々に言葉を探るように絞り出し、やがてそれも我慢できず、それこそ決壊するように清は。
「悔しいんだよっ!!」
そう叫び、握った拳で床を殴りつける。
「あれだけやれば、強くなれるって思ってた! 役に立てて、ケン君も信頼してくれると思ってた! でも何にもできなくて!! 馬鹿にされて……じゃあどうすれば良いのっ!?」
言葉は悔し涙と一緒に、止めどなく流れ落ちていく。
「できない、できないといけないのに! 威勢ばっかりで全然……できない!! 結局最後は誰かに迷惑かけて……もっ、もっと強かったなら…こんな思いも……!」
清の言葉は、次第に嗚咽によって聞き取り辛くなってくる。
「ぐっ……あああぁぁぁ……うああぁぁぁぁ……!」
清は布団を力なく叩きながら、泣き始めた。
彼女にかける言葉は、見つからない。いや、いらないのだろう。私は彼女が泣き止むのを、ただ待っていた。
悔しさ……意地か。私はぼんやりと考える。
例え無力で、何一つ変えることができないとしても、捨てられない意地、理想像がある。だからこそ絶望することなく、命さえ武器にして最期までそれを貫き通す。それは、私が今まで考えていたような終末の美、死に花なんて小奇麗なものではないのかもしれない。もっと泥臭く、見苦しいとさえ言える。
だが、それならばはっきりと見える。泣き叫ぶ彼女の姿に、あの人の背中を見えるのだ。ひょっとしたら、あの人もこうだったのかもしれない。こうあるべしという、自分の姿を最期まで貫く、それだけだったのかもしれない。
ふと、私は外を見た。障子には一点、人影が写っている。それは肩を怒らせながら、すぐに廊下の方へと去ってしまった。
私は川下邸から離れ、私は一度家に戻った。着替える為だ。こんな洒落た服装で土蜘蛛が棲みつく大江山を登るなど、自殺行為だろう。
まずは禊ぎとシャワーを浴び、一息つく。そして曇った鏡に手を添え、表面をそっと撫でた。
拭ったところから現れたのは、目にギラギラとした光を宿らせた女の顔だ。この女は一体、何をそんなに猛っているのだろうか? 清の熱に当てられたか……。
いや、やめよう。私は最近、あれこれ考えすぎだ。欲しいのは頭の中から絞り出せるものではない。実態のあるものだ。答えは動き、奪い取ることでしか得られない。
シャワーの蛇口を捻り、サッと外に出て服を選ぶ。黒のTシャツにタートルネック、下は濃い色のカーゴパンツを履いた。靴は動きやすいように、靴底のしっかりとしたブーツを選ぶ。
準備を整えた私は、最期に玄関前に裏向きに立て掛けている姿見をひっくり返し、服装を確認する。……少々薄着だが、これくらいでちょうど良いだろう。私は一人頷き、鏡をそのままに外へ飛び出す。
私は京都へと車を走らせた。この熱が冷める前に、決着をつけたい。私はアクセルを踏み続けた。また京都で活動していた情報屋、藤井に連絡し、途中で拾う。
そして今、私は運転を藤井に任せ、大江山手前の道を走っている。そろそろ日付が変わりそうだった。見れば、すでに短針は頂点に迫っている。
ムラマサや将実達はどうしているだろうか。そろそろアスラとやらに、反撃の一つでも加えているのか。気にはなるが、こっちの動向を知られたくない以上、連絡はもう望めない。
前方の暗がりを、車のヘッドライトが切り裂いていく。空は雲が掛かっていて星明りもなく、他にある人工的な光源は一定の間隔で立てられた電柱だけ。偶に通り過ぎる家々には明かりが燈っておらず、無人と分かる。
「しかし、まだ電気通ってるんすね」
藤井が、ぽつりと言葉を漏らす。
「ここら一帯は連中の影響下なんだから、人間のお偉いさんも電気切っちゃえば良いのに」
「明かりがないと、上からどうなってるか確認し辛いでしょう」
私は助手席に全身を預け、薄目で流れる景色を見ながら答えた。
「それに……仮にそれをやって、どう世間に説明する気? 電車を止めるのだって、その準備に二週間も掛かったのよ?」
「あー……何でも大規模な土砂崩れで、トンネル一本を埋めたとか……調査で一帯も危険だと判明したってんで、指定区域の住民は全員避難させたんでしたっけ?」
大変だなぁ。と、藤井はこともなげに呟き。
「この先にある小学校も、地図で見た感じは土砂なんて被らない場所にあるのに……それにトンネルを崩したっていう山だって、正確には大江連山じゃあないんすよね?」
「そうね、でも連中だって一番標高のある鍋塚山だけに陣を置いているって話じゃあないわ」
大江山と一口に言っても、実際は三つの山を連ねた連山だ。黒笹の話では、占拠している土蜘蛛はこの連山全体に散り、侵入者が来ないよう警備しているという。当然、連山近くの山も、そしてこの人のいなくなった集落も例外ではないだろう。
「何にせよ、非難のお陰でここは無人の……それこそ千年以上前、朱点童子がここを支配していた頃に逆戻りした」
ほー。と、藤井はまたも他人事のように声をあげた。
「それをまた人間達の手に返す為に、鬼であるはずの如月さんはあれこれ動いてると……」
「皮肉な話だけどね。まぁ、私には……いえ、私達には関係ない話よ」
私達はそれから暫く、黙ったままだった。こちらから話すこともない為、私は窓から外の暗闇を見つめていた。
暗闇を見ていると、過去の記憶が勝手に湧き上がってくる。きっと、これが私の心象風景なのだろう。光に背を向けた、暗がりの生き物。隣には誰もいない。ただ自分の為だけに生きて、そしてそれ故に死なず、誰も助けられない。
それがどうしてか、今は過去の復讐の為に身を危険に曝している。復讐を終えたって、その先にあるのはもうどうすることもない孤独だけなのに、今さらどうして私は走っている? 誰の為に走っている?
……その答えは、今も分からないままだ。だが、得体の知れない感情が、私をあの山へと突き動かしている。あの時の真実を求めているのだ。
「……そろそろね」
私は先ほど話題にあがった小学校を前方に確認し、ダッシュボードにから地図を取り出し、広げる。
「って、まだ麓っすけど」
「っと、減速はしないで。そのままで良いわ」
私の言葉に、車を止めようとした藤井は慌ててアクセルを踏み直す。私は軽く情報の最終確認をしながら、説明する。
「ライト点けて走ってたから、もうこっちの位置はバレてる。だからここからは山駆けで行くわ」
「じゃ、俺は囮ってことですか……聞いてないなあ、んなこと」
悪いわね。私は平然と言い、話を続ける。
「貴方はそのまま車を走らせて。道が左右に別れたら右に、そのままここから急いで離れなさい」
私はそう指示して、後部座席の方に地図を放り、小さめのリュックサックを引き寄せる。隣の藤井は、車内でも相変わらず被り続けている野球帽を目深に被り直す。
「了解。借り物の車を、如月さんのみたいにはさせたかないですからね」
どうせ貰い物の車だ。そう言おうと思ったが、言ってる場合でもない。私は代わりにと、こう言った。
「それと……分かってるわよね?」
「はいはい、時が来たら如月さんに、でしょ?」
それで良いと、私は頷く。これで私が死のうと、後は連中がどうとでもしてくれるだろう。これで私は、私だけの戦いをするだけとなった。
「じゃ、このまま真っすぐ走って。速度はこのまま」
私はそう言って、ドアに手を掛け、ゆっくりと開く。ドアから流れ込む冷たい風が、私の頬を斬りつける。タイミングが重要だ。住宅で車が隠れ、且つ電柱の明かりがない所でければ、降りたことを察知される。
それを見た藤井は珍しく、慌てた様子で言う。
「と、飛び降りる気ですか?」
「まあね……じゃあ、後はよろしく」
それだけ言うと、私は車外に飛び出た。
私は車から発生した速度を殺す為、車と同じ方向へひたすら走る。気を抜けばそのまま前方に転びそうで、足から地面の感触を確かめる暇もない。
私はその勢いを殺し切らぬまま、横へ逸れる。そして道路沿いに並んでいた家の一軒、その塀へと突っ込む。
ぶつかる直前に私は振り返り、自分と塀との間にリュックサックを割り込ませた。しかし衝撃の全てを殺し切れる訳もなく、思わず呻き声を漏らす。しかしその一瞬後には駆け出していた。
車の走行音はすでに遠い。しかし役目を理解したのか、その排気音はいたずらに大きくされている。
急がねば、あれがここを離れるまでが勝負だ。一々回り道を考えている余裕はない。庭を走り、塀を飛び越え、生け垣の隙間を潜り抜ける。
無人の住宅地を駆け抜ける中で、私の心臓は蘇ったようにビートを刻み始め、全身に熱を送り込む。
私は冷たい夜に、強く息を吐いた。そうすると、体とは打って変わって頭の中がクリアになる。ほんの少し前まで、あれこれと考えていたのが嘘のようだ。そうだ、今はとにかく前へ、前へ進めば良い。結論は後回しだ。
藤井の車の音が消える頃には、私は山の暗がりに身を投じていた。
人工的な明かりのない、暗闇の森。その闇から何かを見出そうと目を凝らすのはいつ以来だろうか。
掴まっている木の幹から手を離せばそのまま転がりそうな斜面の中、私はじっと前方の斜面を渡れるか探っていた。
狼の気性に梟の心を持つ、それが土蜘蛛だと聞く。彼らは人間社会に排された者達であるが故に、夜目が効くのだ。谷のような地形になっている国道は、土蜘蛛からは丸見えだろう。山家の者が使う道も、当然見張られているはずだ。
だから彼らと同様、この森の中を行くしかない。藤井と別れて、結構な時が経つが、痕跡を残すまいと慎重に道を選んでいる為、進むペースはかなり遅い。
私はゆっくりと斜面に突き立つ木に手をかけ、重心をそちらに移す。木の根に足を置き、腕を回した木を軸にぐるりと回って斜面を超える。
斜面を超え、私は一息つく。山中の、さらに険しい場所を選んで進むというのはやはり疲れるものだ。
私は息を整えながら、進んでいる方向が正しいか確認する。先ほどのようなアトラクション染みた歩き方をしていると、あっと言う間に方向感覚を見失ってしまう。そうなる前に、逐一確認しておく必要がある。
そういえば、と、私は山を歩きながら、将美が言っていたことを思い出す。人間に殺生石を埋め込み、アスラは一体何をする気なのだろうか。
私から言わせれば、殺生石なんてものは百害あって一利なし、九尾の狐が遺した負の遺産だ。それを式神の使い手、それも人間が何をしようとしているのか。あの殺生石を、どう捉えているのだろうか。
そもそもだ。私は再び山を進みながら、考えを深める。殺生石を盗んだと聞いた時、私はそれを、毒として使うと考えていた。ちょうど、この山を支配していた朱点童子を殺したような。
それが如月という怪物、童子の鬼を殺すのに最も効果的な方法だ。あの策士、将実が如月を殺すというなら、間違いなくトドメには毒を用いるだろう。
それなのに出てきたのは人間の式神使い、アスラだ。彼は如月を殺すと明言しているようだが、その辺りがどうも引っかかる。
と、そんなことを考えながら、それでも慎重に歩を進めていたが、ある違和感に気づき、グッと立ち止まる。腰ほど高さはある枯草の中を歩いていたら、何かに引っかかったのだ。
私は立ち止まり、そっと足元を見る。目を凝らさなければ分からなかったが、太ももの辺りで引っかかっていたものがようやく分かった。
それは蜘蛛の糸だった。足に触れたというのに、いまだ銀の糸を強く、暗闇の向こうへと張っている。それも、たった一本だけ。
血の気が引いた。私は糸から数歩下がり、周囲を確認した。
……誰もいない。だが、時間の問題だ。敵に見つかった。
私は辺りを見渡し、近くに人の頭ほどの大きさ見つけると、それを麓の方へ投げ込む。
単純すぎるが、しかたない。囮は作った、後は一か八かだ。私はできる限り音を立てず、しかし、とにかく急ぎ駆けだした。この場から離れなければ。
しかし、その考えは甘かった。土蜘蛛の巣は、一度糸に触れた私を逃がしはしなかった。
少し平坦な所に入るとすぐ、私の胴体に何かが絡まった。勢い良くぶつかったにも関わらずそれは千切れることなく、むしろ食い込む勢いだ。
「ぐ、くそ……っ」
糸か。私はくの字に曲がった体をそのままに、背負っていたバックに手を伸ばす。そして横一筋に伸びるそれを、鞘から引き抜いたナイフで切った。
敵はすぐ近くにいる。私は枯枝の中に潜り込み、近くの木の裏手に飛び込んだ。その間にも、暗がりから吐き出された糸が枝や木に絡みついている。
木の裏手で息を整えながら、様子を伺う。しかし顔の間際に糸が張り付いたのを見て、思わず顔を引っ込める。
「………」
このままじゃあ、いずれやられる。危険な賭けになるが、やるしかない。
「さあ、姿を見せろ……っ」
私は左手を火車の青い炎で燃やし、それを光源に再び敵を確認する。
……見えた、敵は三人。中央、それも木の上に一人、他は左右に身を潜めている。そのゾッとすると程に丸い六つの目は、まるでフクロウだ。
暗がりにいる為確信はもてないが、武器の類は見られない。そういえば黒笹が、土蜘蛛は人間の武器を使うことは好まないと言っていた。彼らの武器とは、朱点童子より昔に大江山を支配していた先祖、
「………」
私は炎を木の裏手に回し、目を閉じて息を整えながら連中に声を掛けた。
「土蜘蛛だな? 話をしたくてここに来た」
「………」
「ムメイに会いたい。奴は今、ここにいるか?」
「………」
だんまりか。その静寂に、私は口端が上がるのを感じた。良く飼い慣らされているじゃあないか。
だが、口も利かず、闇に潜めば良いってものじゃあない。私は心のうちで呟いた。もう、連中の目も慣れてきただろう。闇で生き残ってきた者、外道の戦い方というやつを教えてやる。
「……そう、声を出せないのね?」
私はそう言うや否や、火車の炎を爛々と燃やしたまま木から飛び出し、右手のナイフを木の上の土蜘蛛に投げつけた。
ナイフが当たったかは、確認する気はない。私は投げたナイフの下へと駆けだす。しかし、私は途中で炎を消し、身を翻して左手にいた男へと向かう。
男はこちらに糸を吐きつけようとするが、私はバックを男の顔面に投げつけ、それを封じた。
土蜘蛛の糸は脅威だが、その一芸しか能がないのであれば、咄嗟に頼るのはそれだ。そして何がどこから来るのか分かっているのなら、対応は容易い。
私は糸を防ぎ、そのまま勢い良くその男に組みついた。そしてすぐさま、火車の炎で男を焼き焦がす。
夜の森に、パッと炎が立ち上った。これで一人、私はそう確信した。しかし、違和感があった。笑みを浮かべていた私も、すぐにそれに気づいて目を見開く。
この男、体を焼かれているに、悲鳴をあげてないのだ。
男は私の胸倉を掴み、グッと自分に引き寄せた。目の前に寄せられた男の顔はさっきと変わらない、冷酷そのものだ。
「今だ! やれっ!」
男は叫ぶ。
やばい。盾にしても他の二人はこいつごと私を殺すだろう。私は男の手首を両手で包むように掴み、小手返しの要領で捻りあげて男を地面に転がす。
しかし、男は焼かれ、地面に組み伏せられても尚、掴んだ片手を放そうとしない。
「こいつ……!」
私は男の肩口を踏みつけ、お辞儀をするようになっていた背筋を伸ばす。見れば二人はすでに私の目の前に迫っていた。
二人は一列に並び、前に出た土蜘蛛は左右の腕をパッと開き、私に飛びつこうとする。私はがら空きになった男の正中線をなぞるように足を振り上げて、男の顎を蹴った。
男の頭が上に跳ね上げられ、がくりと体から力が抜ける。手応えありだ。しかし、倒れる男の背後から、次の土蜘蛛が私に迫る。
男は右手の指を伸ばしたまま、腋に引き寄せる。貫手か。私は蹴った脚を地に着けずに手前に引き寄せ、軸足と体を回転させてそのまま二度目の蹴りを放った。
貫手と蹴り、腕と脚。リーチの優位性はこちらにあると思っていた。しかし、土蜘蛛の異様に長い腕は、直撃とはいかないまでも私の脇腹を抉った。
土蜘蛛は後方にふらつき、私は尻もちを着いた。
私は膝立ちに姿勢を立て直しながら、素早く状況を確認する。私の胸倉を掴んでいた男は、すでに残り火と燃えカスとなり、もう一人は倒れたまま。残るは前方で咳き込みながらこちらを睨み付けている奴だけだが、もたついていたら他の土蜘蛛が来る可能性もある。
「……ガァッ!」
私は痛む体を押して、前に飛び出した。男は反射的に身構え、糸をこちらに吹きつける。
もうそれを防ぐ道具もない。私はその糸を右手で受け止め、駆け込む勢いを殺さず男にタックルした。そしてそのまま、山の斜面に転がり落ちる。
地面に度々打ち付けられる痛みの中、私は自分の体に命令する。目を開き、何かを掴め。衝撃を抑えようと縮こまっていては、勢いは止まらない。まずはどうにかして、転がる体を止めなければ。
明るい空と暗闇の地上、目まぐるしく回転する視界。その中で、一本の木を捉えた。
私は脚を木に引っ掛けた。脚と太ももに引っ張れるような痛みが走る。木を中心に体が振りつけられ、背中がガサガサと木の葉を散らした。
……止まったか。私は恐る恐るといった感じに身を起こし、辺りを確認する。
周囲は自分の動悸を除けば、静まり返っている。森の生き物も転がり込んできた私のせいで息を潜ませているのだろう。私と一緒に投げ出された土蜘蛛も、見当たらない。
脚を木から放し、ゆっくりと立ち上がる。すると、木に掛けた左足……いや、正確には股関節に鈍い痛みを感じた。他にも、それこそ体中が痛いが、この足ほどではない。
「……くそっ」
山で足をやられるとは、不覚この上ない。今となっては自分がどこにいるかも分からないし、荷物も失った。
……何をやっているんだろうか、私は。あまりの状況に、思わず笑ってしまう。死んだ男の為に、その真実を知る為に命を張って、ここで死ぬのか。あの時逃げ出した自分に、その権利はあるのか。
いや、とにかく前に進もう。まずはここを離れつつ、場所を把握する必要がある。私は痛む左足を庇いつつ、山の斜面を横ばいに歩き出した。
しかし、数歩歩いてすぐ、横から何者かが飛び出し、地面に押し倒された。固く凍った冬の土に背中を打ち付け、息が口から溢れる。
何が起きたかも分からないまま、私の首が強く圧迫され、息ができなくなる。見れば頭から血を流した土蜘蛛が私に覆いかぶさり、押さえつけるように首を締めている。
このまま糸を吐かれれば視界を奪われ、終わりだ。私は呻きつつ、片手を男の顎に添えて上を向かせようとした。
しかし……届かない。先ほども痛い目を見せられた、あの長い腕のせいだ。
呼吸ができず、頭中の血管が行き場を失い破裂しそうなほどの圧迫されている。あまり猶予はないが、先にこの距離を詰めなければ。私は両手を、男の両腕の内側に差し込み、力技で押し開く。肘を曲げられれば、男との距離は当然縮まるし、これで腕の力も多少は軽減できる。
男の顔が近づいていくのを確認すると、私は肘まで男の両腕の間にねじ込みながら、片手で男の着ているボロ服の襟を掴んで引き寄せ、もう片方の手で男の顎を押し上げ、上体を反らさせる。
こうなれば、向こうの終わりだ。私は男を逃がさないよう、両足で胴体をロックし、火車の炎を纏う。
しかし、男は動じなかった。青い炎が体へと燃え移っても、そのままギリギリと首を絞めてくる。
「くっ……お前……っ!」
私は呻き、男を見る。この目……そうだ、さきほどの土蜘蛛も、山衣もそうだ。この目は、自分を捨てたものの目だ。ただただ憎い、その憎しみの炎を燃やし続ける為に、自分の命、仲間の命、何もかも薪にして燃やしてしまうものの目だ。
締まる首、目の前で燃える男のせいか、顔が紅潮し、ボーっとしてきた。自暴自棄ほど怖い物はない、ということか。何にせよ、こんなのがこの山いっぱいに蔓延っているとは、相手取るこっちとしては堪ったものではない。
こんな奴らと戦って、一体何を奪い合えば良いんだ。一体、何が楽しいというのだ。
そろそろ意識が途切れる。そうボンヤリと思っていると、男の両手から力が抜け、ドッと倒れた。
私は男を押しのけ、静まり返った森で独り、立ち上がった。
そのままこの場を去ろうとしたが、ふと足を止め、焼き尽くされた男に一瞥する。
「………」
やはり何の感情も湧かない。生き物を殺した気がしないのだ。
死に花などと呼べるものもない。感じること、、考えることを止めたこの男は、私が手を掛けるまでもなく、当に生きてはいなかった。
私は冷たい空気に白い息を吐いて気を引き締め、痛む足を引きずりこの場から離れた。
日本の鬼の交流博物館。
左右を山に囲まれた小川に沿った形に建てられた、鬼を模した楕円形の建物。その手前には、五メートルもの鬼面『大江山平成の大鬼』が朧月にぼんやりと照らされている。
その鬼面の台座に、一人の妖怪が背を預けていた。
妖怪の名前は足切助広。ボロボロの服と鼠色の髪、抜身の長刀を手前に転がし、足を前方に投げ出しているその姿はまるで世捨て人のそれだ。しかしその世捨て人が今、この山を拠点にし、人間に牙を剥いている。
助広は気怠そうに下を向いたまま、ぼそりと呟く。
「返答を聞こう」
その言葉に、鬼面の背後にある生垣から、ひょこっと兎の頭が飛び出す。
兎は言った。
「聞け、刀の男よ。我が主、
「………」
「山の者は、今回の一件には関与しない。また美雪様は……」
「そうか、それだけ分かれば充分だ。取り繕いは結構」
助広は兎の言葉を制し、顔を上げていった。
「他の者がそれを知って殺気立つ前に、失せろ」
「………」
兎は言葉を詰まらせていたが、頭を引っ込め、ガサガサと草陰に消えていった。
助広は黙って見送り、その気配が消えると。
「……さて、出てきてもらおうか」
助広はそう言って刀を掴み、立ち上がる。
バレていたか。私も伏せていた体を起こし、森から博物館前を横切る道路へと降りた。
予想外の遭遇だがしかし……面白い話を聞けた。殺生石の周りに首謀者である足切助広やムメイの姿を見ないのは、その陰で仲間を集っていたからか。
「火車」
私の姿を確認すると、助広は言った。
「知っているぞ。たしか名前は、霧隠花車。どこの一族、派閥勢力、どこにも属さない自由を信条とする妖怪が、何の用だ?」
「……要件の前に、一つ」
私はこめかみの辺りを掻く振りをして、聞き耳をたてつつ、言った。
「こちらも姿を見せたんだ。お前の部下も……」
「やれ」
私の提案は、助広の無慈悲な言葉によって言い切る前に排された。
助広の言葉と同時に、私の背後、つまり森から何かが飛び出した。
土蜘蛛じゃあない、背の低い男だ。男はマフラーをたなびかせて跳躍、私のほぼ真上から逆手に持った短刀を振り落とした。
私はそれを寸でのところで避けて、さらに追い打ちを掛けようとする男を相手取る。
着地から身を起こすと同時の切り上げを躱し、さらに殴りつけるような横薙ぎを躱しつつ裏拳を合わせて男の攻撃を止める。男は一度は怯むも、すぐさま攻撃を再開した。
マズいな。私は顔をしかめた。動く度に、左足が痛む。体捌きが上手くいかない。男も決して弱くない、多少のリスクを払ってでも勝負を急がねば。
私は腹を決め、次の体ごと突っ込んでくるような突きに前に出た。短刀を持つ手を受け止め転身、男の背後に回って、持った腕を自分の前方に振り落とす……背中から引き倒したに過ぎない力技だが、四方投げだ。
男は背中をアスファルトに強かに打ち付けたが、この程度で動けなくなったりはしないだろう。私は素早く短刀を奪い取り、男の首筋を狙って振り上げた。
しかし、マフラーがはだけ、男が棒手裏剣を咥えていたのを見ると、すぐに後ろに飛び下がった。
私を追って男はバッと身を起こし、棒手裏剣を高速に吹きつけた。私は短刀でそれを弾くも、軸足となった左足が言うことを聞かず、尻もちを着いてしまう。
チャンスと、男は素早く立ち上がる。私は男が来るのを見越し、短刀を投げつける体勢に入る。しかし。
「もういい。下がれ
と、助広の言葉に、男……鉄林はグッと動きを止める。
「俺が殺る」
助広はそう言うと、刀を振りつける。鋭利さを感じさせる風切り音だけで、私の体はすくみ上がりそうになった。
私は鉄林と呼ばれた男を睨みつけながら立ち上がり、道路へと出てきた助広に向き直る。
「大将自らお出ましとは、ちょっと迂闊じゃない?」
「しゃしゃり出てきたお前如きに、手駒を減らされるのはな……」
苛つくんだよ。助広はそう言って腰を落とし、脇構えに刀を構える。
「だから俺が殺す」
ゾッとするほどに低く、冷たい言葉だ。
「………」
この世界に運命と言うものがあれば、私にとってそれは嫌味なものでしかないようだ。私にとっては何の利益にもならない、ここの大将を殺し、この騒動を収束させる千載一遇のチャンスが転がり込んできたのだから。
しかし……私は短刀を握り直した。私は息を整えながら、最後に会った清や、毒島君を想起する。
これを理由に死ぬ気など毛頭ないが、しかし、ここであの二人の敵を討てるなら、それは命を賭けるには値するだろう。私は半身になって身構えた。
さて、どうしたものか。私は助広を観察していく。
向こうは刀の切っ先を後方に下げ、自分の体で正面にいる敵に刀身を見せない脇構えという構えを取っている。脇構えは隠された刀の長さを測り辛くし、且つ一見無防備に見える構えから攻撃を誘う手だ。それに助広の長刀、あの体勢から勢い良く振り切れば、私は受け止めた短刀ごと両断されてしまうだろう。
こちらの手は短刀と火車の炎、距離を詰めないことにはどうしようもないが、相手は刀の九十九神、体のどこからでも刀を出せる化物だ。あのムラマサもそうだが、連中相手に組みつくなど、自殺行為に等しい。
なら、一撃必殺、その手際の速さで勝負するしかない。分の悪い賭けだが、そもそも大将を討てるこの賭け自体、得難いチャンスなのだ……望んだ覚えはないが、やるしかないだろう。
私は前に出た。痛む左足に鞭打ち、真っ向から間合いに踏み込む。
対する助広は腰を落としまま左手をこちらに突き出し、手の平から抜身の刀を突き伸ばしてきた。
刀が血肉そのものである、刀の九十九神ならではの攻撃。脇構えによって隠された刀を意識していた私は面食らうも、右足を軸に体を捻ってそれをいなす。
無理な回避に足がもたつく、このまま次の一撃が来る前にと、私は手にしていた短刀を投げつけた。助広は即座に左手の刀を体内に戻しつつ、左に体を振って刀身でそれを弾き。
そして、その長い刀で体勢を崩した私の胴を狙い、薙ぎ払ってきた。
来た。私は膝のバネに走っていた勢い、その全てを溜め込む。刀が来る直前に私は宙に跳ね飛び、その凶刃を躱した。
ここだ。私の視点が、助広一点に吸い寄せられる。ここが勝負を分かつ。
私は飛びながら、右腕に火車の炎を纏わせる。対して助広は今度は両手で刀を持ち直した。
刀を返し、今度は左から右へと振るおうとする助広。私は空中で畳んでいた膝を思い切り伸ばし、その右肘を蹴りつけた。
肘を止めれば腕は動けず、さらに姿勢も押された方向へと崩れる。思っていた方向と真逆へ投げ出されてしまった腕に引っ張られ、助広はこちらへ背を向けるようにしてバランスを崩す。
その隙を逃しはしない。私は着地と同時に、助広の背後へと迫る。
右手の火車の炎、これで顔を焼けば殺せる。終わらせられるのだ。私は右手を、助広のがら空きとなった後頭部へと突き出した。
この瞬間、私は勝利を確信していた。
しかしその確信、突き出した右手は、呆気なく切って落とされた。
炎は敵だけでなく、こちらの視界をも鈍らせる。一瞬、私は何が起きたか分からなかった。いや、信じられなかっただけなのかもしれない。
助広は右肩越しへと回した左手で、私の右手を掴んでいた。
「ぁ……っ!」
思わず声を漏らした私に対し、助広は冷静……否、冷徹だった。左手を焼かれながらも、こちらに向き直り。
すっと刀を、私の腹部に沿わせた。
私は、反射的に後方に下がろうとした。その刀からだけじゃあない。私は、火車の炎越しにこちらを殺さんと見据える足切助広という男に、完全に気圧されてしまっていたのだ。
しかし、逃げようとする私の右手を、彼の焼け爛れた左手は放そうとしなかった。
腹部に、熱い感触が走る。
次に知覚できたのは、地面の冷たさだった。
腹を抱え、土下座でもするように倒れている。それだけのことが分かるまで、今や数秒もかかってしまう。
マズい。すぐそばの暗がりに意識が沈みそうなのを、何とか堪えながら私は思考を巡らせる。もう感触も曖昧だが、致命傷だった。
「ぐ……ァアガアッ!!」
私は獣染みた声をあげて、全身に火車の炎を纏う。精一杯の防衛手段。しかしこんなもの、刀で刺されれば何の意味もない。
私はグラつく視界のまま、腹を両手で押さえながら立ち上がろうとする。しかし、足元がぬるりとしていて、踏ん張りが利かない。見下ろす助広が何かを言っているが、それすらまともに聞こえない。
……ダメだ、まだだ。私は歯を食いしばり、目と鼻の先にある安易な死を拒む。まだ私は、死ぬ訳にはいかない。
しかし、体から血と共に熱が流れ、体から力が抜けていく。その脱力感と共に火車の炎も弱まり、断続的になる。私の死ねないと言う意思も曖昧になってきた。
ここで死ぬのか、と言う現実的な判断と、まだ死ねない、と言う盲目的な感情との葛藤。それに今、決着がつこうとしていた。
その時だ。睨みつけていた助広の肩越しに、一人の男がいるのが見えた。
長身をフライトジャケットで包み、ライオンのような風貌と独特の迫力を備えた目つき……厳格でなければ、あれが、あれが探していたムメイか。
ムメイはニヤニヤと笑いながら、助広に話しかけている。私はいつからか息をしていなかったことに気づき、血の泡を吐き出しながら息を吸い、吐く。命を何とか繋ごうとする。少なくとも、あの男に真実を聞くまで、私は死ねない。
ムメイは私に近づき、しゃがんでこう言った。その声が、やけにクリアに聞こえる。
「……で、俺に何の用だ?」
「……教えてくれ」
私は掠れた声で言った。
「慶長二十年の夏……大坂、天王寺口……!」
「……懐かしいな。大坂の陣、霧隠……そうかお前、くくっ」
息も絶え絶えの私の言葉に、ムメイは合点がいったようで、心底面白そうにこう言った。
「お前、真田家のものか」
ようかい日和 四津谷案山子 @yotutani_kakashi
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