第三部 三話『天狗』
三話『天狗』
上を見れば薄い雲がかかる灰色の空に、葉を地に落とし尽くした木々。下を見れば枯葉と乾いた土ばかり、私達はそんな山の中を駆けていた。
かれこれ三十分は走り通しだが、息は上がっていない。ただ、トレンチコートの中へと入り込む風は冷たく、太刀を持った右手も痺れてきた。九月に登った時も思ったが、どうやら私は山に嫌われてしまったようだ。以前は山の風が、岩肌が、私に味方してくれていた。しかし私はもう、磯の天狗なのだろう。この山は、私を殺そうとする。人間に対して、そうするように。
「回天坊殿。本当にこの山に、天狗宗主が……?」
声を掛けられ、横を見る。決して遅くはない速度で私は走っているつもりだが、それでも平然と並走しつつ、和尚がそう言った。
「それは間違いない。しかし、このまま何事もなく、宗主様に会えるとも思えない……いや、そんなはずはない」
私は道を横に逸れ、張り出した岩肌の上に立ち、辺りを見渡す。
山頂へと目指す私達を遠巻きに、天狗達がいるのが分かる。彼らは木の上や木々の合間から、こちらをジッと観察している。彼らは武装しているが、警備の者達ではないのだろうか。こちらに見つかっても、向かってくるでも、隠れるでもなく、ただ傍観している。
「元より強行する気でいましたが……この状況は、いささか不気味ではありますね」
和尚は私の隣でそう呟き。
「それとも、三羽鴉であった貴方がいるからこそ、でしょうか? 彼らもやはり、貴方は敵に回したくはないのでしょう」
「だとすると……不甲斐ない話だ」
私はそう言ってハンチング帽を目深に被り、踵を返して再び駆け出した。
私達がこうして、山の者達に警戒しながら走っているのには事情がある。
鬼と天狗が戦いの果てに取り決めた、妖怪不可侵の大江山。足切助広率いる反体制組織は、敢えてそこに拠点を置いた。如月童子が彼らの撃退する為には、天狗の方にも話を持って行く必要があるからだ。
私達は天狗宗主である崇徳坊様に会い、大江山に足を踏み入れることへの許可、あるいは許可を得る為の会談の席に着いてもらいたいと連絡を送った。しかしその申し入れは、宗主の耳に入れるに値せずと、臣下である三羽鴉に切り捨てられている。それも二度もだ。
私にとしては、これは半ば予想していたことだった。今は三羽鴉の実質的な頭である太郎坊が、如月童子の申し入れなど通すはずはない。反対の為の反対。代案や理由がある訳でもなく、如月童子だから反対しているのだ。
これが敵の、それも恐らく、アドバイザーであるムメイの思惑なのだろう。こうして我々が睨み合う中、奴らは台風の目の中で力を付けていく。
そうはさせん。私は心のうちで、改めて決意する。三羽鴉の一角であった者として、この軋轢の為に殺生石を野放しにしてしまうというのは阻止せねばならない。
ロートルである私が、若い天狗達に見せねばならない。例え同族に疎まれ、嫌われようとも、身を犠牲にしてでも正義を敢行せねばならぬ時もある……と。それが彼らにできる唯一の善行であり、十年前より生き残ってしまった私の、罪滅ぼしだ。
どれくらい走っただろうか。突然、前方に手槍や矢が降り注ぎ、向かう道に突き立った。
私達は立ち止まり、辺りを見回す。隠れ蓑で見つけにくいが、木の上に何人もの天狗がいるようだ。
「……回天坊殿」
「待て。……なに、挨拶だよ。ようやく応対してくれたってことさ」
そうだろう。と、私はこちらを見下ろしている面々を一人ずつ見ていく。しかし探していた者は、こちらが見つけるまでもなく、目の前に降り立った。
位は三羽鴉、名は漸進坊。彼は隠れ蓑で姿を隠すでもなく……いや、むしろ他より格式高い装束を見よとばかりに、突き立った得物より前に着地する。
「元三羽鴉、回天坊……何をしにここへ来た?」
噛みつくような口振りで言いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。
和尚はこちらをチラリと見る。私はそれに頷き、漸進坊へと顔を向けた。
「理由は二度、配下の者に伝えたはずだ。故にお前に語る意味はない……通してもらうぞ」
私はそう言って彼の横を横切ろうとしたが、漸進坊は手にしていた槍を私の進行方向に突きたて。
「通すと思うか……?」
「……今はこんな意地の張り合いをしている時ではない。分かっているだろう?」
私は溜息交じりに、そして彼にしか聞こえぬ程度の声でそう言い、彼の肩へと手を伸ばす。しかしその手は、勢い良く払われてしまった。
「分かっているだと……? 今さら誰に説教垂れてんだ? 俺はもう、あんたの弟子じゃあない……その関係も、あんたから切ったんだろうが」
「………」
私はその言葉に、何ら反論することはできなかった。ただ、たじたじと後方に下がってしまう。我々の距離は、またも遠ざかってしまった。
彼の言う通り、如月童子に敗北し、まだ未熟であった彼の前から姿を消えたのは私だ。そして彼が太郎坊に拾われ、今は私と同じように三羽鴉になったのも、体の良い駒とされているのも知っている。だからこそ、彼の怒りに対して私は無力だ。
しかしそれでも、私にはやらねばならないことがある。
「なら師としてではなく、一兵卒として言おう」
私は帽子を脱ぎ捨て、彼と、周りで見ているであろう者達に高々と叫んだ。
「山の外では殺生石が持ち出され、危険な企みが成されようとしている! それを阻止すべく、我らはこの山に参った!」
「………」
「漸進坊殿、兵を退かせ、宗主様の下へと案内していただきたい。殺生石が世に出たのは山外の者だけでなく、我ら天狗にさえ影を指す脅威の前触れであると、ここに忠言しよう!」
私の言葉に、周囲からざわめいた。彼らのことだ、山に籠るばかりで、ことの危険性をさほど知らずにいたのだろう。あるいは殺生石の再来以来、半信半疑であったのか。
周囲のざわつく中、漸進坊は私をジッと見ていた。そして槍の石突きで地面を二度叩き、周りの者を黙らせた。
「……斯様にして者共の心を乱す、貴様の言葉こそ毒と知れ」
「毒と? 毒一つ飲まずにことを成せると思うな。我はその方らに、真実と言う毒を片手に、共に戦い勝とうと言っているのだ」
漸進坊はしばらくは、憎々しげにこちらを睨んでいた。しかし、私の後ろにいる和尚を指さし、こう叫んだ。
「共に戦うだと? ならばその男は何だ!? そいつは如月童子の仲間であろう!」
「………」
「それに貴様もだ回天坊。一兵卒と抜かしたな? 海へと流れた貴様を、今さら誰が信用する!? 貴様を信じるに足るほどの証拠が、貴様にはあるのかっ!?」
背後で和尚が動いた。しかし私は手を挙げ、それを止まらせる。
今なら、この醜態も仲間達に晒せそうだ。これに意味があるなら、やるしかない。私は太刀を捨てて、一歩前に出る。
「証拠だと……?」
私はコートを左半分脱ぎ、左腕を天に掲げた。とはいえ、腕は耳に着くほどに挙げられることさえ適わないが、今だけはそれで良い。
私は裾を、一気に捲って見せた。肘の辺りは変色し、指先は痺れに震える。そんな、情けない腕を。
「私は鴉として! すでにこの腕を捧げているっ! この腕が武人として役立たなかったと言うなら、ここで斬り落とし山の肥やしとするも良いだろうっ!」
漸進坊の顔から、表情が消える。私は構わずに周りの者に叫んで聞かせた。
「例え明日主に裏切られようと、今日の忠義の為にどんな相手にも全霊をもって戦う! それが武人としての、ただ一つの道だっ!」
漸進坊が咆哮し、背後に突き立っていた槍や矢を、槍の一閃で薙ぎ払った。
「……なぁにが武人としてのだ! 下らねえ言い訳はやめろぉっ!!」
彼は振り返って、興奮しきった声でそう言い、槍を構えた。
「その口、俺が閉じさせてやる。もう逃げさせはしねぇ……言いたいことがあるなら、俺の腕の一本でも落としてから言え!」
「………」
私達に向けて、穂先を突きつける漸進坊。私はそっとかがみ、太刀を拾った。
しっとりと汗で濡れた、鞘の軽々とした感触。そしてその中に眠る、冷たく鋭い真剣の重み。私はこの二つを感じながら、彼を見据える。彼も視線を逸らすことなく、挑むように私を見る。
斬れるだろうか、今の私で。そして斬って良い理由などあるのだろうか、自分の弟子を。
「……回天坊殿」
私が逡巡していると、和尚が間に割って入った。彼はゆったりとした動作で、漸進坊に相対する。
「ここは私が相手をしましょう」
「しかし……」
「貴方達の間柄を知らぬ訳ではない」
彼はそう言って、そっとこちらに顔を向け。
「私や如月のせいで、貴方達師弟が争うのを黙って見ていられないのですよ」
柔らかく微笑む彼に毒気を抜かれた私は、緊張の糸を切った。
実際、いい加減彼の実力も知りたいところだった。私が如月童子と対峙した時には、彼はすでに如月童子の隣にいた。それから長い時を経たが、私は未だ彼の正体を知らないし、底を見たことがないのだ。これは私にとっても、そして漸進坊にとっても良い機会なのかもしれない。
見極めさせてもらおう。私は頭を下げ、退いた。
しかし、漸進坊は不満げに舌打ちし。
「……おい、お呼びじゃないんだよ、あんたは」
と、漸進坊は穂先を下すことなく息巻いて、一歩詰め寄った。しかし和尚は動じず、逆にその長身を前へと押し出でて漸進坊を怯ませる。
漸進坊が虚勢を張っていた訳ではない。彼の気迫が、和尚という存在に呑まれたのだ。槍先に立っているのにも関わらずその堂々とした佇まいは、傍から見ている私でさえ不気味に見えるのだ。それと対する漸進坊にとっては、彼の風格はそれこそ恐怖であろう。
「……ふむ」
和尚は鼻を鳴らし、私を槍の延長線に立たせないようにか、横へと歩き出す。
「血気盛んなのは結構。ですが、もう少し師に対する言葉を選ぶべきだと思いますよ」
漸進坊は汗を一筋流して、彼を睨んでいたが。
「……ハッ、こいつは見物だな」
構えを解き、気怠そうに首を回した。これは戦意が削がれた訳ではない。逆に、すぐにでも手を出す彼なりの、いわば前置き。あの男、挑む気だ。
「天狗の山に断りなく足を踏み入れた坊主が……この俺に説法か!」
漸進坊はそう叫ぶと、堰を切ったように飛び出した。
漸進坊は槍を突き出す。しかし和尚もこれは予見していたようで、身を引いて躱す。漸進坊はそのまま右手を軸に槍の穂先が弧を描き、弾丸のように回転を加えながら猛然と突き続ける。
突いて、それを引いて、また突く。単調なようだが、それが馬鹿馬鹿しいほどに厄介なのが槍だ。懐に飛び込めば良いとは言われるが、達人の槍は距離を選ばない。その間合いは槍捌き次第で、本来の長さから短刀ほどまで容易に伸び縮みする。
和尚はその槍の間合いの一歩外に立ち、穂先を的確に躱していく。一度漸進坊が間合いに誘おうと槍を引いたが、それにも彼は応えない。
知っているのか。私は和尚の動きを見逃すまいと、目を細めた。この男は僧の身であるが、槍を知っている。戦いを熟知しているのだ。
しかし……私は漸進坊の槍を見つめる。彼の槍は、その意匠を凝らした格好とは対照的に、雑兵が持つ物と変わらない単なる素槍だ。つまり私から離れた後も、教えた戦い方を変えてはいないのだろう。
ならば、その実力はこんなものではない。私が教えた術は、ただ連撃で敵を圧倒するものではない。ここからだ。
「……なるほど、手加減はいらないようだな」
彼は奮っていた槍を、ピタリと下段に、和尚の膝の前に止めて言った。
対する和尚も涼しい顔で、スッと牽制するように右手を差し出しただけだ。
「瞬きして見逃すんじゃねえぞ……ラァッ!」
漸進坊はそう言ってグッと腰を落とすと、地面を蹴った。
彼の体は低く飛ぶ矢のように地を駆け抜け、葉を巻き上げた。文字通り突風となって、和尚へと槍で突進を仕掛ける。
これには和尚も驚いたようで、さっきの動きとは明らかに違った、余裕の見られない動きで槍を躱す。
しかし漸進坊は止まらない。そのまま和尚を文字通り跳ね除け、通過する。周囲から歓声が上がった。
横へと弾かれた和尚はくるりと回ってしまうが、すぐにその勢いを自分のものにし、漸進坊へと体を向けて静止する。
「……薙ぐでもなく、打ち下ろすでもない。我が槍は、ただ突くのみ」
漸進坊は槍を仰々しく中段に構え、語る。
「その極致がこの一撃! この術だ! さぁ、あんたはどう返す?」
「……なら」
和尚は両の手を開いて見せた。
「この手を持って、応えましょう」
「……クソ坊主が」
漸進坊の言葉に和尚は口端を上げて腕を下げ、体を僅かに伸び上がらせた。僧衣で良くは見えないが、踵を浮かせたのだろう。
腰を落として構える漸進坊と、フットワークを刻むでもなくそれに受けようとする和尚。二人の間に、しばしの緊張が訪れた。周囲の者たちも最初はざわめいていたが、やがて息を呑んでそれを見守る。
完全な静寂、それを破ったのは無論、漸進坊であった。掛け声と共に弾丸のように飛び出し、和尚の胴を目がけて突っ込む。ほぼ同時、あるいはそれより一瞬早くに和尚も腰を落としながら前に出た。
二人の体が激突し、私は思わず息を呑んだ。周囲の天狗達も、この一瞬は、誰一人声をあげることは叶わなかった。
漸進坊の風が、和尚の背後へと抜ける。しかし漸進坊の体は、和尚の懐に入ったまま……否、それどころか数歩分、後ろへと押し戻されていた。
よくよく見れば、漸進坊の槍は腰を落として半身となった和尚の脇を潜り抜け、しかも彼の両の手によってしぼられるように握り止められてしまっている。
「……てめえ、何者だ?」
「意外でしたか?」
周りの天狗達がざわめく、しかし私とて同じだ。あの速攻の突進を、よりにもよって力技で止めるとは思わなかった。
愕然とする漸進坊。しかしすぐに戦意を取り戻し、槍を手放して後ろへと飛び下がった。その動きは、槍を持って行っていた突進と同じ、風を伴うものだ。
「……ほう、下がることもできるのですねその風は。それも、何の予備動作もいらずに」
それを見送った和尚は感心したようにそう言い、槍を地面へと寝かせた。
「槍を手放したのも、良い判断でした。あそこで槍を捨てねば、代わりに命を捨てる羽目になる」
「何から何まで上から目線か? だがな……」
今度はあんたが驚く番だ。漸進坊はそう言って片膝を付き、石を数個拾ってまとめて投げた。
手首のスナップを利かせただけの、下投げの石つぶて。だが、我々天狗には風がある。石は風を得て、矢のように和尚へと飛ぶ。和尚はそれを軽々と避け、最後の一つは手で払ってしまう。
「そろそろ終わりにしましょう」
彼は次々投げ出される石を躱しつつ、漸進坊へと手を伸ばした。
しかし、それは空を切った。漸進坊はその手が届く瞬間、例の突風で後方へと退いたのだ。
「……ほう」
和尚の感心を余所に、漸進坊は予断なく石を投げ始める。和尚は変わらず、それを躱しながら漸進坊へと手を伸ばすが。
「っと……」
漸進坊はまた、寸でのところで後方へと逃げる。
「悪くない」
「言ってる場合かよ、おい」
漸進坊は石を両手に持ったままそう返した。
「あんたの間合いは把握した。これからは一方的に攻めさせてもらう」
漸進坊の宣言に、取り巻き達も持ち直して声をあげだした。
対する和尚は、策を考えるように編笠を被り直し。
「……なるほど。その前後に飛ぶ術で、私の手の届かぬところから石を打つ」
理想的です。と、和尚は顔をあげて言った。
来たか。私は思わず、右手の太刀を強く握りしめた。
和尚の顔は、人に対して向ける普段の温和な顔ではない。その目は鋭く、声色もどこか……遥か遠くから聞こえる遠雷のような、小さくとも感じ取れる力強さが備わっている。いよいよ、彼の本性が垣間見れる。
「だが相対する敵が消えてしまえば、どちらが前進で、どちらが後退か、分からんだろう」
和尚は口端に笑みを浮かべて屈み、右手を地面に置き、何かを掴み取るように引き上げた。
石を脇に放り捨て、身構える漸進坊。木の上にいる者達はともかく、彼は感じ取れただろうか。あの右手が持ち上がった途端、足元の空気から熱が奪われ始めているのを。間違いない。これは私や漸進坊の風と同じ、妖術だ。
しかし……私は和尚を見据えた。あの怪力に妖術、これではまるで……。
和尚がパンと手を合わせ、呪文を唱え始めた頃には、地表から白い煙……いや、霧が浮き上がっていた。
「何だ……こんなもの!」
漸進坊が風で周囲の霧を散らすが、それも徒労に過ぎない。四方から溢れるように、また霧が出てくるだけだ。
「くそっ……てめぇ、何の真似だこれはぁっ!?」
漸進坊が和尚に噛みつく、それに釣られるように視線を移し、私も気づいた。和尚の周囲は特別霧が濃く、彼の姿を捉えられない。
それに気づいた、漸進坊の行動は素早かった。石を拾い、彼のいた霧の中へと投げ込む。しかし石は霧に飲み込まれ、もはや当たったかすらも判別がつかない。漸進坊は足元の石を拾いながら、呟いた。すでに霧は周囲を呑みこみ、私も漸進坊の姿は陰でしか見えないほどになっていた。
「どこにいる……?」
「ここさ」
漸進坊の真後ろに、和尚が現れる。背後に立たれた彼には確認できないのだが、その現れ方は、まるで霧自体が色付き、形を成したかのように唐突であった。
漸進坊は振り向きざまに、蹴りを放つ。しかしその蹴りが空を切る時には、和尚は彼の真横から現れ、横腹に拳を入れていた。
漸進坊の体がよろめく、彼はふらつきながらも持っていた石を投げつけるが、その頃には和尚は彼の背後にいて、背を突き飛ばす。突き飛ばされた漸進坊は振り返りながら、無理な姿勢のままで後方へと術で飛んだ。しかしその進行方向にまた和尚が現れて、彼の膝に自身の膝を、横合いから飛び込むように差し入れた。
「うぉ……がぁっ!?」
体勢を崩された漸進坊は、片足を宙に投げ出してしまい、そのまま私の脇を飛び抜ける。そして後頭部から勢い良く、地面へと転がった。
「漸進坊様っ!」
「貴様ぁ……!」
周囲の天狗達も混乱を極め、ある者は声をあげ、ある者は霧から逃れるべく逃げだした。中には彼のもとへと降り、武器を構えて声を荒げる者もいるが。
「おたつくな、てめえらぁっ!」
漸進坊は地面を踏みしめ、立ち上がりながら叫ぶ。
部下を一括した彼は息を荒げて、和尚を睨みつける。和尚は霧の影となったまま、言った。
「ここまでだ。もう勝負は見えているだろう」
「………」
漸進坊は何も語らず、腰を落として構えを取った。和尚はその応え方に苦笑し。
「そういうところまで、師匠譲りとは……」
私はその言葉を聞いて、我に返った。
そうだ。これは寅吉……漸進坊の師である、私が止めねばならない。私は駆け出し、二人の間に割って入った。
私の行動に、漸進坊は一瞬目を見張ったが、すぐさま私に噛みついてくる。
「何の真似だ……!?」
「聞こえなかったのか? もう勝負は見えている」
「それがどうした!?」
「何だと!?」
「あんただって、そうしたんだろう!? あの如月童子を前にっ!?」
その言葉に、私は言葉を詰まらせた。私と彼を引き裂いた、あの敗北。それを一番重く受け止めていたのは、今やこの男だったのか。
「……そこまでだ」
閉口する、勝負に負けた私と、それを睨みつける、勝負を投げようとしないその弟子。我々の沈黙を打ち破ったのは、奇しくもあの勝負の、全ての元凶とも言える男の声であった。
「いや、すまない。無礼な真似をした……しかしこれも、殺生石の出現による最大限の警戒からくるものだと許してほしい」
霧が薄れ、姿を見せた和尚は彼を睨む。彼は気にする素振りもなくそう言って、悠然と舞台へと歩み出てきた。まるでこれまでの因果も軋轢も、なかったかのようにとだ。
「宗主様が、お二人の面通りを許された。これよりはこの三羽鴉の太郎坊が、二人を客として山を案内したいと思うが……如何かな?」
夜の帳が降りる頃、太郎坊の案内からもようやく解放され、私達は寝床として用意された平屋の家屋に案内された。
丑三つ時、私は一人寝ずに外に佇んでいた。いや、厳密には一人ではない。私から少し離れた暗がりには、私のかつての部下が潜んでいる。
「……そうか。情勢は変わらず、太郎坊の方に傾いているか……」
「はい……宗主様も色々と行ってはいるのですが、三羽烏の全てが彼に付いておるうえに、こと
「……そうだな」
私もこうして、彼にやられたのだからな。私はそう呟く。
「……しかし」
と、彼はこう続けた。
「今回の一件で、多くの者が貴方様の、竜巻の健在を知りました。貴方様が戻って下されれば……」
どうか。と、部下は陰の中で熱っぽく言った。
「………」
しかし、私の心は逆、酷く冷めていた。彼の言葉に溜息をつき、星空を見上げる。いつの間にか雲も消え、視界いっぱいに広がる澄んだ夜空には、下弦の月と星々が輝いている。長い時を生きてきたが、この空だけは飽きない。
だが、天狗という名は、夜空を駆ける流れ星にちなんでそう呼ばれるようになったと聞く。天狗内での権力争い、鬼との対面と、内外で争い続ける我々が、あのような煌びやかなものと言えるのだろうか。
「……いや、もう充分だ。昼間にはああ言ったが、私は人妖全てに害を与える殺生石を止めんと、ここに来たのだ。くだらない権力争いの駒に成りに来た訳ではない」
「………」
「鬼にやられた時、山の為と奮ってきた腕は腐り落ちはしなかったが、忠義の方はとうに腐り果ててしまったのかもしれないな。お前の言う竜巻と呼ばれた天狗が、天狗のみの為に太刀を振るっていた者であるなら……そいつはもう死んでしまったよ」
すまない。と、私は彼に詫びた。しかし彼はしばらく沈黙した後、こう言葉を返してきた。
「それでも私は……いえ、私を含めた多くの者が、未だ貴方に対する忠誠を捨ててないと、見知っておいてください」
この言葉を最後に、彼の気配が消えた。どうやら立ち去ったようだ。
私は再度、溜息をついた。できるなら武人として、何の心配事もせずに戦っていきたかった。しかし多くの武勇を重ねていったら、三羽鴉の位を頂き、そして気がつけばこれだ。
ああでも言わねば、皆を捨てられないと思って言ったというのに、私も彼も、何も変われないとは。
辺りは昼間とは打って変わり静かだ。いや、静かすぎるといって良い。獣も虫も寄れない結界でも張っているのかもしれない。ここは善意で用意されたものではない、警戒しすぎということはない。
「少しでも休まれては?」
ふと、屋敷側から声を掛けられる。見れば、和尚が袈裟を付けたままの姿でこちらへやって来ていた。
「いや、流石にここで休もうとは思えないからな……それより」
聞いていたのか。私はそう彼に問おうとしていたが、聞いていたとしてどうということもないと思い止まる。代わりに私は和尚の、あの術や怪力について聞いた。
「漸進坊の突進を押し返す力、そしてあの妖術、貴方は一体……?」
「………」
和尚は、参ったな、というように頬を掻き、うつむく。
「……血の力とは、容易に隠せないという話でしょう」
それより。と、和尚は話題を変えた。
「漸進坊……流石は貴方の弟子、かなりの使い手でした。私も加減ができず、貴方の前であそこまでやってしまった……」
「いや……私に似て、退くことを知らぬ阿呆に育ったようで」
それに、自分と同じように太郎坊に良いように使われている。このままでは、彼も無理難題を押しつけられ、しくじれば山を追われるだろう。例え彼が私の節介を望まずとも、どうにかしなければならない。
「それと……毒一つ飲まずにことを為せると思うな、この言葉は……?」
「ん……ええ、如月童子が私に言った言葉でしたな」
私が天狗達に言った言葉、これは如月と戦った時に、彼が私に言った台詞だ。たしか、私の太刀の渦に、脚を突っ込んできた時に言った言葉だ。結果としてその蹴りが私の左腕を破壊し、勝負を決した。
「私が彼の言葉を借りるのは、いささか勝手な気もするが……彼があんまりに昔の私に似ていて、思わずな」
和尚は私の言葉に苦笑して、言った。
「まぁ、その言葉は如月自身、彼の父から借りたものですしね」
「彼の父親……?」
如月童子とて、霞から生まれた訳ではない。彼にも両親はいたであろうが、問題はその経緯を和尚、この男が知っていることだ。
「……和尚、やはり貴方は……ん?」
足音が聞こえた。私は言葉を切り、この屋敷の正面に敷かれている階段へと目をやった。
「ずいぶんと仲が良さそうだなぁ、回天坊?」
階段を上がってきた男……太郎坊は、見下したような口調で私に言った。
見た目は二十歳手前の青年のようで、柿色の薄い着流しの上に黒の羽織を身に着けたその体躯は170センチに届かないほどか。肩ほどまで伸ばした黒髪に、整った顔立ち。しかしその顔には、人を小馬鹿にしたような視線と唇が常に張りついている……昼間の時も、今も、そして私に死ねと言ったあの時も、常にだ。
「おいおい、そう黙り込むなよ。こうして客として迎えているんだ、もっと気を楽にしてくれ」
昼間見た時にも思っていたが、私を前にしても、この男は変わらない。いや、それどころかこの言いようだ。私は静かに拳を握りしめ、言った。
「何の御用でしょうか? 太郎坊様」
「なに、少し顔でも拝んでおこうとな……」
私は初め、部下との会話を聞かれてしまったかと肝を冷やしたが、彼の視線は、むしろ和尚に向けられていた。
「……まさか、お前が私の前に直接現れるとはなぁ」
「それだけ事態が深刻だという意味だ」
ニヤリと笑う太郎坊に対し、和尚は顔をしかめて言った。
「それに確かめたいこともあった」
「ほう……?」
「件のアスラと言う男、お前の差し金か?」
そんな馬鹿な。私は太郎坊に目を向けた。太郎坊はおかしくって堪らないと言ったように、体を震わせた。
「差し金だなんて、とんでもない。あいつは人間の分際で私に教えを乞うて来たから、色々と教えてやっただけだ。式神の扱いや、殺生石についてを、色々とな」
「………」
和尚はより一層、顔をしかめて太郎坊を見る。私も、これには目眩がする思いだ。危機を天狗達に伝えに来たというのに、その危機の大元はここにいる男だったのだ。
「……今のあいつは、誰の指図も受けちゃあいない。地獄のような修練に堪え、神話よろしくアスラとなった奴はただ、この世界を変えようとしているだけさ」
「そして如月を殺させようというのか……ここにいる、彼と同じように」
そう言って、和尚は私を一瞥した。私から言わせれば、同じなんてものではない。今度は天狗ではなく、人に外法の技術を与え、あの鬼にぶつけようと言うのだから。
そうそう。と、太郎坊は思い出したように、こう言った。
「そのアスラに狙われている鬼乾坊、あれは元気か?」
鬼乾坊……私は初め、誰の話をしているのか分からなかったが、すぐにそれが如月童子の名前であると思い出す。
和尚はこの言葉に、声を低くし、脅すように言った。
「彼を、その名で、呼ぶな……!」
「なぜだ? 名付け親が、子に与えた名を呼んではいけないのか?」
「な……!?」
私はその言葉に、思わず声を漏らした。和尚は私の反応を見るや、太郎坊をにらむ。太郎坊はその反応が気に入ったようで、クスクスと笑う。
しかし……なぜ疑問に思わなかったのだろう。いつも彼の名を、如月童子、と呼んでいたからか。
鬼乾坊。この、童子を名乗る古い鬼としては少々天狗の名に近すぎる名前には、相応の意味があったのか。
「朱点童子が人の手で殺されたあの時には、私の力を頼らざるをえなかったとはいえ……あれも律儀な奴だよ。未だこの名を捨てずにいるのだからな」
太郎坊は和尚を煽るように笑う。和尚は腕を組み、押し黙ってただ睨むばかりだ。それを見て、さらに太郎坊は言葉を並び立てる。
「しかし、すると、だ。今回は私の名付け子と、教え子が殺し合う訳か……とは言え、あいつ自身の技量に期待してはいない、本命は奴が持ち出した殺生石の毒だが……」
そう呟きながら、用は済んだと言うように太郎坊は踵を返した。言うだけ言って、このまま立ち去る気だ。
「……お前は変わったな」
その背に、和尚は重い声で言った。
「朱点と張り合っている頃のお前は、もう少し堂々としていた」
「……時代が変わったんだよ」
太郎坊は和尚の言葉に歩みを止め、言った。
「それに、こんな腐った時代にしたのはあれと、お前だろう? 隠者紛いの装いをしても、俺だけはお前から目を離さない」
なぁ? と、太郎坊は振り返る。そして、私でさえ見たことのない、隠す素振りもない凶悪な笑みを浮かべて和尚に言った。
「朱点童子の相談役、
私は愕然と、和尚を見た。彼はそれを否定せず、太郎坊の正面に立っている。
「妖術一つ使えない、あの朱点の忌み子にも言っておけ、いい加減くたばれってな。全ての問題と責を負わせる為にわざわざ妖怪の長に据えたのに、千年も粘りやがって……」
太郎坊は口調は、普段のそれとはまるで違う。その口調はそれこそ、長年の宿敵を前にしているかのように、その言葉の一つ一つに棘があるものだ。
「今回で幕引きにしてもらいたいもんだ。あの鬼と、そのガキとの因縁も……その為に用意した毒、それが殺生石なんだからな」
そう吐き捨て、太郎坊は立ち去る。和尚はその背を黙って見送った。
しかし……私は知ってしまった。鬼と天狗の争い、その中心にあるものを。
太郎坊と、朱点童子……その息子の如月童子。そしてその親子の隣に立つ和尚、否、霧幻童子。私と如月童子の戦いも、今回の一件も、全ては千年前より端を発する因縁によるものだったようだ。
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