第三部 おまけ『鬼熊』
三部おまけ『鬼熊』
俺達はその日、川下から借りた車である山へと向かっていた。
「……和田会長、本当にこの道で良いんですよね?」
横薙ぎに降る雨の中、舗装されてない道をガタガタと進む。ハンドルを握る
都心で育った杉田にとって、こういった道は不慣れで心配なのだろう。平時は俺が経営するタクシー会社に勤めているのだから、もう少し自信を持って運転してほしいのだが、こればかりは一つずつ経験していくしかない。
「ああ、このまま真っ直ぐだ……それで良いんだろう?」
助手席に座る俺は、ミラー越しに後部席の黒笹を見る。彼は窓をボンヤリと見たまま、ボソリと答える。
「……ああ」
「だとよ」
「分かりましたぁ、会長」
「その、今は会長呼びはやめてくれ」
俺はそう言いつけ、黒笹の隣にいる彼女を見た。刀を抱くようにして座る彼女は関心がないように目を閉じているが、その口元はニヤッと笑みの形になっていた。
竹上真実。妖怪絡みの仕事から手を引いた俺にとっては、彼女のこうした姿さえ懐かしく思える。十年前のあの頃は、俺をからかう時は皆、社長呼ばわりしていたが……。
俺も老けたものだ。十年前の事件でまともに生き残れたのは俺と、竹上と、回天坊。回天坊は姿さえ変わってはいないし、竹上は家事をしながらも仕事はやっているらしい。つまり俺だけが、隠居生活を行った老いぼれという訳だ。
こうして昔の仲間の前で会長呼ばわりされると、気恥ずかしさのようなものさえ感じる。きっと、せめて仲間の前では意地の一つでも張りたいのだろう。我ながら、ガキっぽいとは思う。
山への道が細まり、車での移動が困難となる。車を駐車させ、俺達はそれぞれ準備をする。
「……よし、最後にそれぞれ、やる事を確認しよう」
俺は雨合羽を着ながら、皆に言う。
「黒笹は、ようやく取りつけた銀波童子にアスラへの協力をやめ、可能であるならば俺達にアスラや殺生石に関する情報を渡してくれるよう説得する。俺達はその傍で待機、黒笹の身に危険が及ぶまでは手を出すない」
「背後から襲わなければ、それで良い」
強い雨の中、何の雨具も身に付けようとしない黒笹は、俺にそう言った。
「あんたらが出るのは最後の手段だと、肝に銘じとけ。もし俺をダシにして銀波童子を討つつもりなら、俺は向こうに付く」
「心配するな。俺達だって鬼熊を相手取りたくはない」
脅すように語る黒笹にはそう言ったが、俺から言わせればこの対面に話し合いの機会があるのか、疑問ではある。黒笹は向こうから見れば、仲間を売り、さらにはお前らも寝返れと唆す裏切り者だ。十中八九、俺達が前に出る事になるだろう。願わくば、それで向こうが矛を収めてくれれば、と言ったところか。
「……で、だ」
気を取り直し、俺は竹上と杉田に向き直る。
「俺達は向こうを刺激しない為にも、極力下がった所から成り行きを見守る……長丁場になるだろうから、しっかり準備しとけよ」
「会ちょ……じゃなかった。和田さん、
杉田は車のトランクからボストンバックと、折り畳み式の小さな机を取り出しながら聞いてくる。俺は頷き。
「いつでも出せれるようにはしておいてくれ」
了解です。と、杉田はバックを開き、ゴソゴソとチェックを始めた。
操鬼というのは、人造の式神、とでも言うのだろうか。明確な意思を持たない神霊や廃れた地に住む道祖神などに、作られた肉体を与えたものだ。
操鬼の形も素材も千差万別で、人型の人形のようなものもあれば、動物のぬいぐるみ、肉塊のような有機物のものさえある。例えば今、杉田は目の前でバックからペットボトルを数本取り出し、中身の僅かに赤みがかった、透明で粘り気のある液体の様子を確認している。この操鬼はスライムのような、液体状の操鬼だ。
操鬼は式神のような意思を持たないので安全と言えるが、その分、相当の修練、そして操作の為のコントローラーが必要になる。杉田が脇に抱えた小さな机は、そのコントローラーに当たる。
操鬼使いは、卓上の石を動かしたり糸を手繰り寄せたりといった儀式をもって、操鬼を動かす。もちろん戦場のど真ん中でそんな事をやれば、操鬼ではなく無防備な操り手が狙い撃ちされる。よって実戦向きではないとされ、操鬼を戦いで使おうとする者は稀だ。杉田だって、俺や竹上が前で戦っていなければ、あっという間にやられてしまうだろう。
しかし俺から言わせれば、この命を持たない人形は使いようによって、鬼より強力な戦士に変わる……そう、思っている。今回のような殺生石などの毒や呪い絡みでは、死ぬリスクを伴わない兵士になるのは言うまでもないだろう。
「……よし、大丈夫みたいです」
杉田の言葉に俺も頷き、それから竹上を一瞥した。
竹上は当に準備はできているらしく、刀を左手で持っているのをこちらに見せる。竹上の六道流……いや、流派など何の関係性もない彼女の天賦の才は、これ一本あれば発揮できる。
「……ふん。黒笹、じゃあ……」
俺はトランクに積んであった自分のライフルのケースを取り出し、準備ができたと黒笹を見る。黒笹は黙って頷き、山へと足を踏み入れていく。俺達は距離を置きつつ、それに続いた。
「いよいよですね……」
その言葉に反応し、竹上は杉田の強張り切った肩を軽く叩く。
「怖いなら車で待ってて良い」
「……いや、やりますよ」
「そうか。別に逃げるのは恥じゃないから、駄目だった時は無理するな?」
竹上の心配ももっともだ。竹上だけじゃない、俺達は、この男を死なせる訳にはいかない。本音で言えば、俺もこの二十歳の若者を連れてきたくはなかったのだ。
杉田は俺の親友だった
操鬼の名家であった松崎から離反した辰海とは仲が良かったらしく、二年前に高校を卒業し、俺の部下になりたいと家から飛び出したのだ。初めはもう妖怪関係の仕事をしてないと断ったのだが、結局は熱意に押し切られた。
辰海は十年前、俺達を置いて死んでしまった。今度こそ俺達は、後方支援の操鬼使いを死なせない。こんな事、死んだ辰海には何の意味もないのは分かってるが、竹上もそう思っているはずだ。
「しかし、もっと良いやつが欲しかったな……」
俺は草陰に身を隠し、長引く交渉を遠くから見守りながら、銃を撫でる。
型名は知らないが、川下が用意してくれたのは、なんと水平二連のショットガンだった。
確かに散弾銃が良いとは言ったが、銃口と引き金が二つ付いている物など初めて使う。こんなものでは、正確な射撃は望めないだろう。
しかし、川下の若は、これで良いんだろ、と俺に渡したのだった。彼の顔からして、銃器にそもそも詳しくないのだろう。チョーク(散弾のまとわり具合を調節する銃身の構造)はそれぞれどうなっているかを聞いても、彼は首を傾げていた。そうならば、如月さんや長将美の方に頼んでおくべきだったかもしれない。
とは言え、今の自分では……この震えで痺れた腕では、精密射撃など望めない。今の俺の腕で当てられる銃など、やはり弾を散らせられるショットガンしかないだろう。
これも十年前の投薬のツケだ。俺は自分に、そう言い聞かせた。
明日を捨て、目的の為に命を削り、そして死に損なった。この苦痛と衰弱、生き恥を晒すこの姿は、外法に頼った罰だ。最近はそう思えるようになった
しかし、それでも意地がある。隣でジッと黒笹達の成り行きを見守る、この女の前でだけは弱音を吐きたくない。この銃が、体が、どんなに駄目だろうとやるしかないのだ。
「……難航してるな」
「ん? ……ああ、そうだな」
ポツリと呟く竹上の言葉に頷き、黒笹達の方へと意識を集中させる。
黒笹達は山の斜面から削られたようにできている平地で話し合っており、俺達はそれを坂の上からひっそりと見守っている。
状況は、ここからでも芳しくないと分かる。黒笹のボソボソと喋る声は聞こえないが、巨漢、銀波童子の激昂し、黒笹をなじる声はここでも聞こえるのだ。
しかし、デカい。ここからでも鬼熊という連中は、圧倒的な存在感が感じられた。あの巨体に、あの筋肉量、熊の名を関するのも納得ではある。
件の銀波童子は髪こそ老人のような白髪だが、体は精力的だ。作務衣のような衣装から伸びる腕は浅黒く、太さといったら頭と変わらないように見える。それに彼の脇に控えた付き人も、一回り小さいものの、人間など捻り殺せてしまえそうなほどには強そうだ。
杉田は居場所を悟られぬよう、俺達とは別の位置に待機させた。しかしもし戦闘となり、そして操鬼を操作する杉田の居場所がバレたら、確実に殺されるだろう。だから戦いになったら、俺と竹上が積極的に前に出ていかなければならない。問題は俺の弱り切った体が、どこまでやれるかだ。
「貴様……腑抜けたか黒笹ぁ!!」
地を揺らすような怒声が、こちらの耳にまで叩き込まれた。怒り狂った銀波童子は黒笹を蹴りつけ、すっ飛んで木に叩きつけられた黒笹へと肩を怒らせながら歩み寄る。銀波童子の付き人も、彼を止めようとはしてない。
「……駄目だったか」
このままでは黒笹が殴り殺されかねない。俺は立ち上がり、頬付けせぬまま空に向けて一発撃った。
乾いた銃声と、肩に強い衝撃。俺は思わず顔を歪ませた。その銃声で、鬼熊達はこちらに気づき、動きを止める。俺は二人に向かって、声を張り上げる。
「そこまでだっ! それ以上彼に近寄るな!」
俺は颯爽と坂を下り、三人に近づいた。
「……貴様、人間か?」
銀波童子は肩で息をしながらそう呟くと、憎々しげに黒笹を睨み。
「なぜここに人間がいるっ!? 貴様、そこまで腐ったか! この裏切り者がっ!」
「違う……!」
黒笹は身を起こし、懸命に弁解する。
「俺が、俺がかつてあんたに言った言葉に嘘偽りはないし、その心は今も尚、変わってはいない……ただ付いた相手が悪かったんだっ! 足切に従った今のままでは、俺達は奴と共倒れになるぞ!?」
「それがどうした土蜘蛛……!? 今さら後に退けるものかぁ!」
銀波童子は猛々しくそう語り、拳を握る。
「例えここで一族滅びようとも、人間共に思い知らせてやる! 連中に、この鬼の力を思い出させてやるっ!!」
分かったか。と、連れの鬼熊が黒笹の頭を蹴りつけ、黒笹は地面に伏した。
これまでだ。俺は右手を挙げて合図を送り、それから銃を構えた。合図は待ち構えていた二人への合図。殺し合いへの、明確な引き金だ。
ここからは俺達の仕事だ。黒笹はここで殺させる訳にはいかないし、この鬼達も、もう生かしては帰せない。ここで死んでもらう
「やるか人間っ!?」
もう一人の鬼熊が叫び、俺に詰め寄った。しかし俺が引き金に指を掛けるよりも速く、竹上が納刀したまま男の真横から駆け寄った。男もそれを察知し。
「はっ! 武者如き、二百年前から飽いているぞ女ぁっ!」
と、竹上が刀に手を掛け、懐に飛び込もうとすると同時に、男は叫びながら左足を棍棒のように振るい、竹上の腰の高さに薙いだ。
しかし竹上が飛び込んだのは、男の右脇。竹上は男の脇をすり抜けると、振り返り際に抜刀、男の右足、それも太ももを内側から斬り払った。
納刀したまま刀で抜き打つ場合、正面から敵を斬るか、相手の右脇を抜ける瞬間に斬りつけるのが定石だ。あの鬼熊の判断はその定石の対応としては間違ってはなかった。しかし竹上は、誰もが使うような剣術の道理に従って刀を振るってはいない。
竹上は定石、道理を理解し、その上で自身で培った経験と直感を武器としている。道理と言う重い鎧をかなぐり捨てた、刀を持った獣。それが彼女だ。
切断には至らぬものの、軸足を斬られた男はバランスを崩す。だが、180度回転し、竹上の正面を向いた状態でどうにか持ち直す。竹上はそれを見るや、バランスを取るべく無意識に広げたであろう男の左腕、その腋に刀を刃を上にして差し入れ、男から走り逃げながら引き斬った。
男は訳も分からぬままに急所を二つも斬られた男は、絶叫とも雄叫びともつかぬ声をあげ、仰向けに倒れる。動脈を斬ったのだろう。倒れた男を中心に、すぐさま血の池ができようとしていた。
「貴様ぁ……!!」
銀波童子は激昂し、竹上に迫る。竹上は鞘を放り捨てて身軽になり、そちらの方に集中した。
銀波童子は猛然と四肢を振るい、それを竹上は躱していく。竹上は回避に徹しているようで、刀はずっと下に提げたままだ。
竹上も打つ手がなさそうだ。俺は援護しようと駆け寄り、銃を構える。しかし唐突に片足を誰かに掴まれ、撃つのを邪魔された。
見れば先ほど竹上に斬られた男が、俺の脚を握っていた。その目は、今際の為か、血走っている。
「お前……っ!?」
俺はそれを振り解こうと脚をあげたが、男は放そうとしない。それどころか、メリメリと万力のような力で握り締めてきた。俺は激痛に呻き声を漏らす。
仕方ない。俺は銀波童子に向けていた銃口を、足元の男に向け、引き金を引いた。
旧式の銃とは言え、銃弾自体は12番のバックショット……鹿や猪を殺せる代物、それを至近距離でだ。強い衝撃、そして銃口から出た煙が散る頃には、男の頭は酷い有様に変わっていた。一撃だ。
俺は蹴りつけるように男の手を解き、銃を構えたが、すぐに弾切れである事に気づく。
俺は舌打ちをした。これだから嫌だったんだ。俺は中折れ式の慣れない排莢作業をし、腰のポーチから弾を取り出し、それを装填しながら叫んだ。
「二人に割って入れ杉田ぁ! 距離を、二人の距離をねじ開けろっ!」
俺が指示するまでもなかったか、杉田の操鬼が横から銀波童子に飛び掛かっていた。
操鬼は銀波童子の腰に纏わりつこうとしたが、銀波童子は反射的に身を捻り、それを脇に投げつけた。
銀波童子は竹上を追わず、脇に放った操鬼を睨む。操鬼は、鎌首をもたげるように首部分を上へと伸ばしている。首を伸ばすと高さは大体一メートル、スライム状で、ネイビーグリーン色のそれは、こうして見ると中々に不気味だ。
「何だてめぇは……邪魔だぁっ!」
銀波童子は操鬼を右腕で払った。不定型な操鬼は、首から引き千切られる。しかし操鬼は生き物ではない。だから死にはしない。操鬼は飛ばされた首に構わず、男に飛びつき、上半身を中心に纏わりついた。
「がぁ……っ!?」
銀波童子はもがくが、杉田もそう簡単に引き剥がさせはせまいと、操鬼をあっという間に上半身全体に絡みつかせる。
良くやった。装填を終えた俺は軽く走って距離を縮め、それから構え直して叫んだ。
「こっちだ銀波童子っ!」
名前を呼ばれ、彼はこちらへと振り向く。俺はその動きが鈍くなるタイミングを見計らい、発砲した。操鬼にも当たってしまうだろうが、お構いなしだ。
顔面を狙ったのだが、散弾の多くは胴体に当たったようだ。銀波童子は素早く顔を背けるが、その背中から血が噴き出し、思わず彼はよろめいた。
そして、よろめいた銀波童子へと、竹上が駆け抜けた。彼の胴体を刀が一閃し、斬り裂く。
しかし、彼は地団駄を踏み、こちらへと咆哮を返す。地を揺るがすようなその気迫に、俺は身を竦ませた。まだまだ致命傷には程遠いようだ。
俺は二射目ともう一つの方の引き金に指を掛けたが、銀波童子は操鬼を無視してこちらへと突進をかけてきた。慌てて俺は引き金を引いたが、止まりそうもない。俺は寸でのところで地面へと飛び込み、その突進を躱した。
銀波童子は突進を外し、そのまま地面に滑り込んだ。俺は彼に背を向け、這うようにここから離れる。すでに眼鏡のレンズも湯気や泥でグチャグチャだが、構っていられる余裕はない。
「小僧……!」
銀波童子は起き上がり、憤然と俺に歩み寄る。振り返ってみれば、操鬼をすでに引き剥がしていた。地面を滑ったのは、操鬼を落とす為だったのか。
「野郎っ!」
俺は足元に転がっていた泥を掬い、顔に投げつける。銀波童子は手で顔を覆いもしなかった。しかし俺が銃を構えると、素早く横へと駆けだした。
馬鹿め、すでに弾切れだ。俺はその隙に銃身を折り、装填作業に移った。しかし焦りと雨によって弾が滑り、中々上手くいかない。
「貴様ぁ……っ!?」
銀波童子は欺かれた事に激昂し、俺の下へと駆け寄る。しかしその間に竹上が割って入った。
彼女は刀を振るい、身を翻し、あの巨漢と対等に渡り合っている。
素早く動きながら、隙あらば斬って掛かる竹上。刀を四肢で受け、驚異的な肉体を武器に前進する銀波童子。
乱戦の中、銀波童子の背後に操鬼が飛びつき、その顔面を覆った。
「……!」
形勢が変わったと見たのか、竹上が前に出た。右から左、上から下へと、連続して銀波童子を斬りつけていく。銀波童子は腕でそれを受けようとするが、素早い連撃の全てを受け切れず、彼の白い髪は血で染まっていく。
「グッ……ヌゥオアアアアッ!!」
銀波童子は雄叫びをあげ、操鬼を掴んで大きく振るって千切り飛ばした。千切られた操鬼の液体は、竹上の方へと降り注ぐ。流石の彼女も反射的に顔を背け、そのまま後方で転んでしまった。
「ハァ……ハァ……ァァアアアッ!」
銀波童子が身を震わせ、雨空に向かって吠える。その様子は、まさしく地上の覇者、怪物そのものだ。
「………」
このままでは、勝てないか。俺はショットガンの銃身を折り、地面に置いてポーチを漁る。
そして取り出したのは、注射器だ。俺をこんな体にした薬が、入っている……。
状況を打開するには、使うしかないか。どうせ死に底なった身だし、今この薬を使ってどこまで動けるかは分からないが、全盛期の半分でも力を発揮できれば、あいつくらいは難なく殺せる。
「………」
俺は意を決し、注射器を握って立ち上がる。しかし。
「使うなっ!」
と、竹上が倒れたまま、悲痛な声で叫び、俺の意思をグラつかせた。
その隙に彼女は立ち上がり、銀波童子の前に立つ。
「貴様……まだ俺の前に立つか……っ!?」
彼は竹上を見下ろし、叫ぶ。竹上はその恐ろしげな声に対し。
「……そこの鞘を」
と、雨合羽を脱ぎ捨てながら、俺に言って寄越した。
「……竹上」
「もういい……後は任せろ」
肩で息をし、竹上は言う。
「………」
「それとも……今の私じゃあ不満か?」
「………」
良いだろう……否、お前でなくては駄目だ。俺は少しだけ逡巡したが、地面に落ちていた鞘を拾いに行って。
「竹上真実、後は任せた」
そう言って、竹上へと投げて寄越した。
「ああ、任せておけ。そしてこれも、必ず次に継がせてやる」
竹上は鞘を受け取り、刀を鞘に納める。しかし刀は鯉口を完全にふさいではいない、刀はいつでも抜かれる状態にある……抜刀術の構えだ。
ずっと昔、彼女は同じように敵前で刀を納めた事がある。そして一撃で敵を葬った後の彼女に、俺は尋ねた。なぜあの時、敵を前にして刀を納めたのかと。
彼女はこう答えた。自分と敵を、一撃で死ぬところまで追い込む為。何千何万と繰り返してきた技、それのみに、全てを委ねる為だと。
「……杉田、手を出すなっ! 良く見ていろ!」
俺は叫びながら後ろにノロノロと後退り、そして地面にどっかりと座った。これが俺にとっては見納め、そして杉田にとって、初めての経験となる。
「これからもこの仕事をやっていきたいなら、見ておいて絶対に損はないっ! これが竹上真実、俺ん所でエース張ってた妖怪殺しだ!」
「……そうか、思い出したぞ。竹上真実、お前があの、竹上蓮か」
この様子を、ただ黙って見ていた銀波童子は、ボソリと呟き。
「ふん、なるほど妖怪殺しか……だが、こちらにも意地がある。俺は鬼熊、木曽谷の銀波童子だ。我が名に賭け、せめて妖怪殺し、貴様だけはここで殺してくれる……っ!」
そう息を巻き、半身になって身構える。左手を前に突き出し、右手は腋に付けるほどに引き絞って構えるその姿は、同じ鬼である如月さんに通じるものが見えた。
竹上は黙ってそれを見つめていたが。
「……誰にだって、ここだけはという意地がある。別に口出して言う事でもないと思うが」
と、静かにそう語りだした。
「私もな、後ろの男の前でだけは……醜態は晒せない」
「………」
「あんたにも意地があるなら、遠慮する事はない。……アレだ、後腐れはない方が良い。だから……」
竹上は腰を落として身構え、冷ややかに笑った。
「意地を張り合おう」
竹上のその笑みに、銀波童子は目を見開いてたじろぎ、俺は思わず苦笑する。俺達は揃いに揃って意地っ張りのようだ、変わる事なく。
竹上は前に出た。前のめりで腰を落とし、鬼に正面から肉薄。右足を強く踏み込み、抜き打ちに刀を振るう。
対する鬼は、上体を反らして後方へと下がった。気迫負けしたのような後退りから、刀の閃きを見て一気に飛び下がる。当然だ。あんな風に竦んだ体では、例え前に出ても一撃でやられていただろう。
竹上の一撃は、空を、雨粒を斬るに留まる。
竹上は止まらない。左足を前に送り出し、銀波童子を追う。
そして銀波童子も、今度は前に出た。退いた瞬間の引き攣った顔が一転、今は目をカッと見開き、その右手は竹上を殺すべく固く握り締められているようだった。
二人の足が、前へと踏み込まれた。竹上の上段からの振り降ろしと、銀波童子の正拳突きが、ぶつかる。
二人の一撃がぶつかった次の瞬間、竹上の体が後方に弾けるようによろめいた。しかし銀波童子の右腕は、肩口近くまで二つに切り開いたようになっている。竹上の刀は、確かに彼の右拳を正面から斬った。しかしそれでも、彼の拳は止まらずに竹上の顔面を打ったのだろう。
腕を裂かれ、血を噴き出させた銀波童子は呻き、後方へとふらついた。
そこに、頭から空中に、血を帯のように引かせた竹上が迫った。
腕を斬られて、後方へとたたらを踏んだ銀波童子。頭を打たれても、ただ我武者羅に懐に飛び込んだ竹上。この差が勝負を分けた。
右から左へ、鞭のような斬り上げが銀波童子の胴を走る。斬られて上体が反り上がった彼の頭上で竹上は鞘を捨て、両手で刀を握る。
「………」
銀波童子は最期、何かを呟き笑みを浮かべた。それをこの世でただ一人聞き届けた竹上が、どんな顔をしていたかは分からない。しかし彼女は振り上げた刀を止める事はなく、袈裟に彼を斬り伏せた。
彼はその一太刀で仰け反り、大の字に倒れ込んだ。
竹上はしばらくの間それを見下ろしながら、竹上は大きく息を吐き、雨空を仰ぎ。
「……いってぇ」
と、ようやく頭に手をやったのだった。
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