第三部 二話『アスラ』
二話『アスラ』
ここしばらくは曇り空が続いている。灰がかった空には不思議と重さを感じ、鬱屈した気持ちになってしまう。
竹上達と協力して事態解決を目指すと決めてから、もう十日経つ。殺生石の行方を追う俺達は、完全に行き詰っていた。
というのも、相手がアスラという経歴も分からぬ謎の人物であることしか情報がなく、殺生石をどう使おうとしているのかさえ、未だ分からない。如月さん曰く。
「とにかく情報がない。相手が現在、移動しているのか留まっているのかさえ分からん」
という感じで、辿るべき尻尾さえ掴めてないのだ。
今現在、殺生石の行方について分かったのは、アスラ達が殺生石を岡山の寺から盗み出した後、高速道を利用したと言うことくらいだ。これは厳爺、天、毒島らが寺から和尚の言う毒の痕跡を地道に辿り、得た情報だ。そこから先は鈴はおろか、厳爺の鼻でさえ分からなくなったという。
「だが、岡山に出たってのがフェイクってこともあり得る。確実な情報がないから、何だって言えるんだよな」
と、如月さんは言う。
俺達は川下の邸宅を本部とし、こうしてほぼ毎日のように集まっている。如月さんのこんなボヤキも、もう何度目だろうか。俺や清も、今となってはほとんど無視を決め込んでいる。しかしそんな如月さんの言葉に、長さんは地図に目を通しながら噛みついた。
「それ、岡山に出向いてる三人に言ってみなさいよ」
「あー?」
「厳爺、電話で鼻が凝ったって言ってましたねえ……」
羽がそう補足すると、如月さんも流石に悪いと思ったのか、鼻を鳴らしてケータイに視線を落とし、仕事に集中する。
「それはそうと、そっちはどうなの?」
「……関わりたくないってのが、ほとんどだ」
空いた左手で茶を啜った後、ぶっきら棒に如月さんは言う。如月さんはここずっと、地方を治める妖怪に掛け合って殺生石の行方を捜してる。ついで協力も要請しているようだが、あまり良い返答はないようだ。
「これが殺生石を使っている理由だとするなら、アスラって奴は大した策士だな。まるで放射性廃棄物だな、どいつもこいつも慎重になってやがる」
「打つ手なしってこと?」
「いや、これは考えようによっちゃ優れたレーダーになる。坊主の鈴なんかよりもな」
清の言葉に、如月さんはニヤリと笑った。
「どゆこと?」
「……地元で、殺生石があるって分かったなら……」
と、ここで長さんの隣で地図を見ていたジーナちゃんが言った。
「えっと、すぐに如月さんに助けを求める……んじゃ」
「御名答……聡明なお嬢ちゃんだ」
誰かと違ってな。というニュアンスを含んで、如月さんはそう言って清を見る。ジーナは素直に嬉しいようで、照れたように俯いた。
対する清は、口をへの字にして渋い顔をする。
「くっ、何も言えねぇ……!」
しかし、悔しがる清を余所に、俺は素直に感心していた。
誰だって、周りより多くの苦労はしたくない。これは前に俺に言った、如月さんの言葉だ。あの殺生石だって、どうにかできる、いや、どうにかしようとしている者さえいるなら、そいつに丸投げすれば良い……そうやって丸投げされたも事件を千年近く捌き、妖怪の長という最も面倒な位まで上り詰めたのが、今の如月さんなのだ。
信頼と言うにはあまりに怠惰な繋がりだが、如月さんはそれを今、武器にしている。
「で、ムラマサ。藤井兄妹の方は何だって?」
「ん? ああ。一日おきに連絡入れんなって、さっき兄の方に怒られた」
それもそうだな。と、如月さんは嘆息して、タバコを吸いに席を立った。
事態が好転したのは、それから三日後の事だ。藤井兄が、この町で不穏な動きがあることを突き止めたのだった。
「灯台下暗しとは、この事っすね……アスラは、如月さんのすぐそばで活動してるかもしれないっすよ」
藤井の得た情報は、藤井がある妖術使いに聞いたという話だった。
「言ったら如月さんにタコ殴り必至の外法者がいましてね、そいつに聞くところによると、ああいった呪物は我が強すぎて、主導権を奪って意のままに扱うっていうのは難しいそうっす」
九尾の呪物なら、尚更ね。藤井は俺に、そう説明する。
「それと、呪物を使う時には準備が必要で、自分が死んでも相手が死ぬよう、そして相手が死んだ後に自分が憑き殺されても構わないよう、取り計らうのが呪い屋のお決まりなんだそうです」
人を呪わば穴二つ、というやつっすかね。藤井はそう言った。
「だからそいつが言うには、如月さんの近辺調べたら何か分かるんじゃね? って話っした」
そこで藤井は、この町の近辺で起きている事件について調査したところ、殺生石と関係がありそうな事件をいくつか見つけたのだそうだ。
そのいくつかの事件自体は、表向きは失踪事件と片づけられている。しかし、失踪があまりに唐突で且つ理由が不鮮明であること。また、失踪者の血が捜査の中で発見されるなどから、警察は事件性のあるものとして調査しているらしい……妖怪絡みの事件、それも人攫いや人食いが絡んでいる事件としては、典型的なタイプだ。
妖怪絡みなら、アスラでなくとも
しかし、鈴に反応されてしまう俺だ。出来ることは精々、いざって時の為にそこへと出向けるように待機することだけ。バイトも夏にクビになり、他の連中以上にすることのない俺は、その待機組としてほとんど出ずっぱりになった。
今もこうして、長さんが調達した小型のインカムを耳に入れながら、駅前で清と喋っている。
「って清、インカム付けろよ」
「ケン君といる間は良いじゃん」
「……ま、いっか」
「耳に物入れんのって、何か苦手」
清はそう言いながら、自販機で買ったコーン入りのポタージュの飲み口を覗いていたが、やがて溜息をつき、それをゴミ箱へと捨てた。
「でも、こんな調子で本当に大丈夫なのかな?」
「和尚が天狗に話をつければ、すぐにでも本命にいけるんだけどな……上手くいってないらしい」
この前の電話によると、天狗宗主への謁見に腹心である三羽鴉が難色を示しており、まだ話しすらできていないらしい。
回天坊曰く、三羽鴉はすでに太郎坊という、宗主(当時は大将と呼ばれていたらしいが)から失権した男が掌握しており、問題を上に通すことなく片づけてしまっているらしい。その体制を整える為に太郎坊は、かつて三羽鴉であった回天坊を策謀により山の外に追いやったのだ。
そこまでやる太郎坊が、仇敵である如月さんの意見など上に通す訳がない。政治に明るくはない俺だが、それくらいのことは予想できる。話し合いの場が設けられるのには、きっとかなりの時間が掛かるだろう。
「……まぁ、和尚ならたぶん、何とかしてくれるんじゃなねえの?」
「その辺は信じるしかないよねぇ……竹上さんとこは、それなりに上手くいってるみたいだから、そっちに期待かな?」
そうやって溜息交じりに見上げる空は、いつだって曇り空だ。雨こそ降らないだろうが、もうすぐ昼だと言うのに日差しがないのは、この季節には辛い。
「……寒いな」
「温かい缶も数分で冷たくなっちゃうこの寒さ……」
清は寒さ対策にかなり着込んでいるらしく、首から下は全体的にモコモコしていて、ペンギンを思わせた。逆に俺は動き辛いのはマズいからと薄着だし、刀を体内から抜けるように首回りも安っぽいマフラーで包んでいるだけだ。本当に寒くて、帰りたい。
「帰りてぇ……」
「炬燵に入りてぇ……せっかく今日、バイト休みになったのに」
「……それはプーとなってしまった、俺への当てつけか?」
「そうだよ」
などと言った会話をしているが、清は今日、当番ではない。休みになったとはいえ、元々はバイトが入っていたのだ。それでも当たり前のように俺の隣にいる。
「………」
なぜここにいるのか、何て俺には聞けない。
清の努力は俺自身、ずっと見てきた。しかしそれでも、俺は清をこんな危険なことに巻き込みたくはなかった。
清には危険な目にあってほしくはないし、その努力にも報いてやりたい。だから、俺が隣の清を守ってやれば良い。隣で戦いたいと言うのなら、まずは叶えてるのが男の気概だろう。それが例え、形だけであろうとも。
花車がこの前、清にしてやったことをそっくり真似するのは癪だが、これ以外の道を俺は思いつけなかった。
そんなことを考えているうちに、長さんから連絡が入った。
「将美よ、聞こえる?」
俺は清に、インカムを着けろと促す。無線では別所で毒島君と行動している如月さんが、無線に割り込んでくる。
「長さん、何か分かった?」
「見つけたわ、駅の南口の方にある駐輪場。今は羽に見張らせて、私は距離を置いてる。確認できたのは一匹で……少なくとも、人食いなのは確かよ」
「おいおい……今食ってるのか……!?」
「ええ……?」
「五分待て、俺だけでもすぐに向かう……ムラマサ、聞こえてるな?」
ああ。と、俺は応えた。そっと清を見れば、手を震わせながらも屹然と俺を見つめ、頷いている。大丈夫そうだ。
「……こっちはすぐ行ける、清も一緒だ。長さん、ヤバかったらあんた一人でも逃げてろよ」
「分かってるわよ。速く来なさいよ?」
「了解」
簡潔にそう答え、俺は清に向き直った。
「……行けるな?」
「……うん、分かってる」
「……モニカの時みたいに、熱くなるなよ?」
「分かってる……!」
緊張しているのか、少し苛立った声をあげた清だったが、すぐにそれに気づき、いつもの清の真似をしてみせた。
「ふ、んふふふふ……修行の成果、ケン君に見せてやるってば。惚れんなよぉ?」
大丈夫だろうか。どちらにせよ、今から帰れなんて言えない。俺は清の肩に手を置き、軽く揺すった。
長さんとはすぐに会えた。
「まだいる?」
長さんは付いて来いと手で合図し、俺達を駐輪場まで案内した。
三階建ての立体駐輪場は通りから少し外れた所にあり、通りに面した二面は腰ぐらいの高さの鉄格子で囲んでいる。昼前の為か、その二面から見える限りは誰もいなさそうだ。俺達はそれを、曲がり角から顔を出して確認し。
「羽は?」
「屋上に登るって……ほら」
「……余裕そうだね。すっごい手ぇ振ってる」
「敵は二階にいるみたいね」
「清、振り返さなくても良い。目立つ」
そうして確認していると、如月さんが小走りでやってきた。来た方向からして、道とは言えないようなルートを走ってきたのだろう。
「……で、まだあそこに?」
「ええ」
「じゃ、行ってみるか」
長さんの確認を取ると、如月さんはそう言って何の迷いもなく駐輪場へと歩いていく。いつも通りの対応に俺は肩をすくめ、インカムをポケットに押し込みながらそれに続くが、長さんは慌てた様子で。
「ちょ、もっと策を……」
「必要なし、真っ向から押し潰してやらあ」
そう言ってのける如月さんに、長さんは頭を抱えたが。
「……分かったわよ」
そう呟き、ポーチから拳銃を取り出す。
「……おい、ちょっと待て」
「私が武装しちゃ悪い?」
動作確認か、弾倉を一度抜いたりスライドを引いたりしながら長さんはそう返した。
長さんの銃の確認が終えたことを確認してから、俺達四人は駐輪場の中へと踏み入る。
中に入って、すぐに不快な臭いが鼻をついた。俺は鼻に手を当てた。この臭いは血だ。それもまだ新しい、大量の。
一階、二階と坂を上がり、そして、俺達は発見した。その臭いの大元を。
それは、食事であった。こちらに背を向け、何かが部屋の真ん中で仰向けに倒れた男の腹に顔を入れている。倒れた初老の男は、服装からしてここの管理人だろうか、当に生のなくなっているその顔は、虚ろに宙を見ている。
男の臓物を食っていたそれは、こちらに気づき、食事を止めてこちらへと振り向いた。長い髪で顔を覆っているも、骨と皮で成り立っている肢体はそれだけで尋常でないものと分からせるに充分な悍ましさだ。それに着ているTシャツとズボンは血で染まり、元の色さえ分からない。
獣じみた唸り声を漏らし、それは体をこちらに向け、四足の格好でゆっくりと俺達の右側面へと歩き出す。その立ち振る舞いは、まるで獣だ。
長さんは鼻を鳴らして片手で銃を持ち上げ、銃口を向ける。
「……撃つべきかしら?」
「ちょい待て。あいつの額に何か……」
如月さんを警戒していたのか、如月さんが長さんの方へと意識が向いた瞬間、その獣じみた何かはこっちに向かい駆け出そうとした。
間髪入れず、長さんが発砲。三、四発分の銃声が狭い空間を支配的に満たす。突進に反応して抜刀している最中の俺の体が、真横からの音に竦み上がってしまった。
容赦なく放たれた銃弾のうち、一発が突っ込んできた獣の肩口に当たった。獣は顔面を地面に叩きつけた。獣は咆哮を上げながら、無事な方の腕で地面を叩き、即座に立ち上がろうとしたが。
「ふんっ!」
と、いつの間にか怪物に寄っていた如月さんが、無慈悲にもそいつの首元を足で踏みつけた。頭を鉄板の床に叩きつけるけたたましい音と、グキッと嫌な音を立てた後、その獣は徐々に体を弛緩させていく。
獣が完全に動かなくなると、如月さんは溜息をつきながら足を上げ、長さんを睨む。
「待てって、言ったんだが……」
「殺したのは貴方でしょ?」
呆気らかんとそう答える長さんに、如月さんは溜息をついた。そして獣の肩に足を入れ、ゴロリと仰向けに転がす。
そこで俺達はようやく気づいた。先ほどは長い髪のせいで気づけなかったが、獣の顔には、札が一枚貼られていた。まるでキョンシーだ。
「これって……」
「っと、おい、お前は下がってろ。清もだ」
如月さんは、近付こうとしていた長さんを静止させた。もしキョンシーなら、噛まれたらマズいことになる。
「で、ムラマサ……」
「ああ、分かってる」
毒や呪いに抵抗のある、俺がやれという訳だ。俺は頷き、獣の死体の前でしゃがみ、札に手を伸ばす。
これで手を伸ばした瞬間に死体が起き上がり、噛みついてくる。そんな定番の展開が脳裏をよぎったか、そんなこともなく無事に札を捲くることができた。
札の下には、あるはずの人の顔はなかった。代わりとでも言うように、両目の合間に拳大の石が打ちこまれている。石と肉との境界線を血で痛々しくコーティングしたその壮絶な顔つきに、俺は思わず札から手を離し、立ち上がって数歩後ずさった。
「……如月さん」
「ああ……それが殺生石だろうな」
そうか。と、俺は言葉を漏らし、もう一度それを見つめる。札の端からはみ出した、この暗褐色の石が殺生石。日本三大妖怪の一匹の成れの果て、その一部か。
「清、絶対に近づくな」
「わ、分かった……その、そこの人は……」
「もう死んでるよ」
如月さんはそう言うと、ふと天井を見上げ。
「……それに、まだことは済んじゃいねえようだ」
出てこいよ。と、背にしていた出入口の方を睨む。俺もそれに倣い、振り返って刀を正眼に構える。
「……さっすが、如月童子。これじゃ、奇襲も叶わないか……」
そんなことを言いながら、小柄な男……いや、少年か、少年が頭を掻きながら三階への坂から降りてきた。小さな体にボサボサの赤い髪、日に焼けたような肌。十二月だというのに半袖のTシャツと半ズボンという出で立ちだ。それに右手には朱色に塗られた……木製のトンファーだろうか。本物は初めて見たが、確か沖縄発祥の武器だったはずだ。
「まぁ、なんくるないさー……ははっ、その死体、渡させはしないよ如月童子。それと……ムラマサだったかい?」
俺達に啖呵を切るその男に続いて、降りてきた男女一組が男の背後に立つ。男の方は如月さん以上の巨躯で、二メートルを超える体の天辺には、鋭く天を指す短い髪と、鋭い目を持った頭がこちらを見下ろしている。女の方も長身だが痩せており、髪が腰まである。顔もどこか病的だ。
三人の登場に、如月さんは肩をすくめ、ずいっと前に出る。
「ほー、てめぇがアスラか? 小せえの」
「……そう言うことにしとこうか。でさ、実際のところまだあんたに会う気はなかったんだ。だから今回のところは、お互い見なかったことに……」
「寝言言ってんじゃねえよキジムナー。こいつぁ一体何の真似だ? え? 何せ殺生石だ、魚の目ん玉ほじくるのとは訳が違うぞ?」
キジムナー、沖縄の木の精霊だったか。男は参ったなと頭を掻き。
「……しかたない。じゃ、それならこの男は分かるかい? カイセイ、やれ」
男は暴力的な笑みを湛えてそう言い、脇に飛び退いた。
次の瞬間、後ろに控えていた大男が前に出て、上に着ていたジャンパーを脱ぎ捨てた。下は袖なしのシャツ一枚で、そこから伸びる両腕はかなり太い。力自慢か。
カイセイと呼ばれた大男は腰を落とし、無言で右拳を、まるで弓に引き絞られる矢のように引いた。
男の鋭い目は、真っ直ぐ俺達を見ている。その遊びのなさに、血の気が引いた。しかし彼我の距離は十メートル近い。何をするにしても、徒手なら出方を窺える距離。
俺はそう、思ったのだ。しかし。
「……下がれお前らっ!」
如月さんがそう叫んだが早いか否か、その拳はこちらへと突き出され、迫る。爆発的に膨らみ左右に並んでいた自転車さえも蹴散らしながら。
如月さんは迫りくる巨大な拳に怯むことなく、いや、それどころか逆に勇んで前へと進み出た。
そしてその拳を、真っ向から受け止めた。如月さんを握り潰せるほどに膨張していた拳を両手で受け、次の瞬間には拳は、横へ逃げようと駆けだしていた俺の背を抜けていった。
拳は甲高い音を響かせて鉄格子を千切り、外へと突き出る。
俺はその衝撃に転んでしまった。そしてその上から自転車がのし掛かってくる。悪態をつきながらそれを退かしていき、辺りを確認する。
部屋の中は、まるで爆発でもあったかのように滅茶苦茶だ。自転車は倒れたり、ガシャガシャと外へと零れ落ちたりしている。さっきの振動で上の階でもドミノ倒しになっているのだろう。気が狂いそうなほどに、鉄と鉄が打ち合わさる音が辺り一面に響き渡っている。
「……最悪だ」
その光景に、俺は思わず呟いた。町のど真ん中で、こんな騒ぎを起こしたのだ。最悪、これ以上の言葉が見つからない。
「やった……!?」
「いや、奴は外に飛び出しただけだ。死んではいない」
連中は呑気にもそんな会話をしていた。大男……カイセイの腕が、ギュウギュウと音をたてながら収縮していく。
「それに……受け止められた時にかち上げられた。他の連中も死んではいない」
「化物め……だがアレを回収できればそれで良い!」
トンファーを持っていた男はそう叫ぶと、俺達の方へと駆けだした。混乱に乗じて、殺生石を持って逃げる気か。
俺はガバリと立ち上がり、傍に取り落としていた刀を拾って駆け出す。そして男と死体の間に、割って入った。
「だっ……!?」
男は何かを言おうとしたが、構わず俺は斬り掛かった。しかし、その首を狙った横薙ぎを、男はトンファーで防ぐ。
なら、二撃目はどうだ。俺は打ち込んだ刀に力を込めつつ、左手を首に当ててもう一本刀を引き抜く。そして抜き打ちに、鋏のように逆方向から男の首を狙った。
男は驚きの声をあげながら後ろに上体を反らし、辛くも避ける。しかしバランスを崩した男の足は、ヨタヨタとしていておぼつかない。
これを逃す手はない。俺は右手の刀を脇に引き込み間合いを詰めたが、突然上の方から白い何かが伸び、刀の先端を捕らえられた。
見れば、髪の長い女が天井の鉄骨の端にぶら下がり、口から刀へと白い粘液を伸ばしている。
「山衣っ! 手ぇ出すな!」
後転して体勢を整えた男が叫ぶが、山衣と呼ばれた女の方は無視して片腕を口に持って行く。あれは唾液だろうか、右手に付けた粘液を、女はまるで投げ縄のように回し始めた。
これしきで身動きを封じるつもりか。俺は前方を見渡し、横倒しになっていない自転車を見つける。
女が右腕を振るい、粘液が慣性によってこちらに伸びる。俺はそれを前方に走って躱し、自転車のサドルを足場に跳躍した。前に出ることと跳躍によって俺は、俺と女を結んだ糸にゆとりを作り。
「欲しけりゃやるよ」
と、粘液を付けられた刀を女に向かって投げつけた。
女は鉄骨から手を離すと同時、手を鞭のように振るって口元から伸びていた粘液を切断した。
女が床に、四足に着地する。バサッと乱れ落ちる彼女の髪は自身の顔を覆い隠し、まるで幽鬼のような姿となる。
女はギョロリと、兄に似た目でこちらを睨む。そして乱れ広がっていた長髪が音もなく蠢き、四本の黒い足へとなっていくが。
「オラこっち見ろぉ!」
と、横合いから清が参戦。地に伏せた女の胴体に蹴りを入れ、転がす。不意打ちを掛けられた女は転がった状態から不自然なまでの軌道で跳び、瓦礫と化した自転車の山の向こうへと姿を隠した。
「逃がすかコンニャロウ!」
清はその自転車の山に体当たりをして、山を女の方へと崩している……とりあえず、あいつに任せても良さそうだ。
しかし……山衣という名前、あいつが密告者、黒笹が言っていた妹か。俺は左手の刀を両手に持ち替えながら女から男の方へと意識を移していく。
男は後頭部に手をやりながら唸り。
「なろぅ、簡単には逃がしちゃくれないか……上等。カイセイ、回収を頼む! こいつは俺が相手取る! 山衣はその女をやれ!」
男はそう叫び、半身に構えた。俺もマフラー、それから上着を脱ぎ捨てる。相手が刃物でないなら、こっちはできる限り薄着が良い。どこからでも刀を抜き出せる俺にとっては、厚着は鞘のような物なのだ。
俺が二刀を構えると、男は言った。
「俺の名は
男……知花はそう言った。
「あんたなんだろ? あの鶏野郎、金城をやったのは」
金城。一カ月前、あの雑居ビルで戦った炎を使う妖怪の名だ。
「……復讐か?」
「馬鹿を言わないでくれ。同郷でも、種族レベルで犬猿の仲さ。ただ……」
知花はグッと膝を曲げる。来るか。俺は構えを中段に移す。
「野郎との因縁……あんたに勝って決着とさせてもらおうってね!」
知花はそう言うと、低い姿勢のまま突っ込んできた。俺は刀の切っ先を知花の顔面へと突き込んだが、それを知花はトンファーを盾にして擦り上げ、俺の右脇へと一気に飛び込んできた。
懐に入った知花は俺の肩に手を回し、体勢を崩させようとしてきた。しかし俺はそれを強引に肘で突き飛ばし、後方へとよろめく知花に斬りつけたが、それもトンファーで難なく受けられた。
片足でテンポ良く後方にステップしながら、知花はヘラッと口の端を吊り上げ。
「……ああ、良いぞお前。なかなか良い」
男はそう言って、恍惚とさえ言えるような声を漏らし、俺を中心にステップを刻んで旋回を始める。
ふざけた男だ。俺は刀を構え直す。こんな手前勝手な奴が、体制を変えようって組織に組みしてる時点でおかしいのだ。
今度は俺が攻めようと前に出た、その瞬間、部屋に乾いた炸裂音が連発した。思わず後ろに退き、何事かとその音の正体を探った。
長さんだ。折り重なった自転車の陰に隠れて、銃で他の二人を牽制してる。いつの間にか清もその傍にいて、死体の上に自転車を次々と投げている。
「余所見してる場合かい?」
しまった。俺は慌てて知花に向き直ったが、知花は俺の目の前まで迫っていた。
知花は左から右へとトンファーを回転させ、俺の顔面に振りつける。俺は上体を後ろに反らせ、それを躱した。
しかし、それはフェイントだった。上体を反らした姿勢では、どうしても足は居ついてしまう。知花はがら空きとなった俺の腹部に蹴り込んできた。
思わぬ一撃に、俺は体をくの字に折って後方へ。俺は壁に背を強かに打ちつけた。
息がグッと詰まり、一瞬目が覚めたように視野が開けたと思えば、すぐに視界がグラグラと煮え立つように揺らぐ。呻いて屈んだ姿勢から、そのままズルズルと沈んでいき、尻餅をついた。
揺れる視界の中、知花は悠々と近づき、刀を足で踏みつけた。そして俺を見下ろしながら、トンファーの持ち方を変える。
知花は二の腕に沿うようにしていた柄の部分、その端を掴む。すると、握りの部分と思っていた所が、今度は木槌の頭に見えてくる。
俺の喉笛に向かって、知花は握りの部分を突き出してきた。咄嗟に俺は左腕でそれを受けたが、知花はそれを予測していたかのように器用にトンファーで腕を絡め取り、外に弾く。
「終わりだ」
そう言って知花はトンファーを振り上げた。だが、そんな中で俺は笑みを浮かべていた。それはこっちのセリフだ。
俺は胸から刀を噴き出させ、無防備な知花の胸へと伸ばした。
知花の反応は早かった。膝を曲しつつ、身を捻って刀身を躱そうとしたが、刃が知花の肩を走り抜けた。
「ぐっ……イッテェェェエエッ!?」
知花は絶叫しながら後ろへと倒れる。しかし、叫びながらでも足で地面を蹴って、こちらから距離を置こうともがいている。中々にしぶとい奴だ。俺は刀を体内に戻し、息を整えながら立ち上がった。
その時だ。三階へと続く坂にある壁で銃撃を凌いでいた二人の方に、外から何かが弾丸のように飛んできた。
それは壁にぶつかり、豪快な音と共にへしゃげ、バラバラになった。良く見れば、それは自転車だった。
そしてそれと同時に、三階の方から奇声があがり、壁に隠れていたカイセイが壁から飛び出した。その頭には、羽が巻きついている。
カイセイの頭を両足で挟み込んだ羽は、足を軸にして振り子のように上半身を旋回させ、巨体のカイセイを投げ飛ばした。カイセイは勢い良く体を一回転させられ、そのまま一階の坂へと転がり落ちていった。
投げた方の羽は片手を地面に着かせるだけで転ぶことさえなく、器用に立ち上がる。アクロバティックな技で相方を投げ飛ばされ、女は羽へと掛かっていくこともなく一階の方へと後退した。
羽も、どこからともなく彼女の得物、柳葉刀を引き出してからそれに続く。
しかし、こっちも黙って見てる訳にはいかない。二度言わせんなと叫びながら、知花が俺に再度仕掛けてきた。
トンファーによる打撃を刀で凌ぎ、隙あらばこちらからも打ち込むが、小柄ですばしっこく、しかも距離が詰まってしまっている。この距離では刀は満足に振れない。例え斬っても、切断に至る一撃は入れられないのだ。
「ムラマサっ! 退きなさい!」
長さんが横からそう叫ぶのが聞こえる。手にした拳銃で知花を撃ちたいのだが、乱戦になっている俺が邪魔なのだろう。しかし、狙われてることに気づいた知花も易々とは退かせてくれない。もはや掴み合いと言える距離で俺に齧りつく。
刀を体から出せば殺せる。しかしそちらに意識をやる暇がない。俺は知花を離れさせようと、膝蹴りを知花の腹に入れたが、対する知花もボディーブローをお見舞いしてくる。そしてまた自転車を蹴散らしながらの掴み合いとなる。
「だぁーもうっ!」
業を煮やした清が叫び、自転車を引きずって走り寄ってきた。
「このチビ、ケン君から離れろぉ!」
清は自転車を横に振り被った。それをフルスイングするつもりか。巻き添えを食らいそうな俺は、自分も転ぶのも厭わずに知花を蹴りつけて逃げ出す。
蹴りつけられ体勢を崩した知花は避け切れず、横に弾き飛ばされる。
吹き飛ばされた知花の体は、自転車が折り重なって山となっている所へと突っ込んだ。その隙に、俺と清は素早く身を退いた。知花に背を向け、長さんの所へと走り込む。
俺が長さんのそばに滑り込み、清と激突したのが速いか否かの差で、長さんが拳銃の引き金を引いた。
そして拳銃の上部が、凄まじい速度で前後した。銃声も連続していて音の合間がほとんどなく、腰だめに構えていた長さんの両手も、何度も上に跳ね上がる。
連射していたのは二秒程度だが、それでも俺達の度肝を抜くのには充分だった。まったく、幕末期に銃士隊の一斉射撃でビビっていた自分が懐かしい。今じゃこれ一丁であの悪夢ができてしまう。
「ひょえっ!? 何それすっげー!」
清も驚きの声をあげるが、長さんは悔しげにこう言った。
「機能としてあったから使ってみたけど、私の腕じゃ駄目ね……ほとんど当たってない」
アレで殺せてないのか。俺はギョッとして振り返るが、知花の姿はどこにもない。
「どこに消えた?」
「あそこ」
長さんが指さしたのは、さきほど知花が体ごと突っ込んだ自転車の山だ。あの状態から裏手に隠れたのか。
「一発は当たってると良いんだけど……ほら」
長さんは銃をこちらに見せた。どうやら、弾切れらしい。となれば、俺がもう一戦やるしかない訳か。
俺は手にしていた刀を一度納刀する。あのトンファー相手なら、抜き打ちで仕留めた方が身軽で良いと気づいたからだ。
それに、その場合は清と連携して戦える。二対一だ。
「……清、左から行け」
そう告げつつも、清には右から行けとハンドサインで示した。その時だ。
下から轟音、それと地震のような揺れが俺の意を挫いた。
見れば一階から先ほどの二人が二階へと戻ってきた。いや、退いた、というのが正しいのだろう。肩を怒らせた如月さん、羽がそれに続いたのだから。
「てめえ、そこのデカいの。てめえ手長だな? こんな……大それた真似してくれんじゃねえか? えぇ? おい?」
「上で隠れてる人の迷惑を考えような。自転車に潰されるとこだったぞこのスットコドッコイ!」
「流石にこれは許容できねえ……てめえらぁ! ただで済むと思うなよっ!?」
「常識ねえのかゴラァッ!」
如月さんと羽は、それぞれそんなことを口走りながら二人に迫る。しかし、羽にだけは、お前が言うなと言ってやりたいところだ。山を花火で燃やしたお前が、それを言うか。
ジリジリと、二人と二人、その距離が縮まっていく。しかし再戦の口火を切ったのは、この四人ではなかった。
ガバリと、俺のすぐそばで何かが起き上がった。見れば、殺生石を顔に埋め込まれたあの獣が、自転車の山からズルズルと這い出していた。
「き、如月さん! 殺生石が……」
俺が二の句を言う前に、獣は唸り声をあげて駆け出した。駆け出した方向は如月さんらの向こう側にある出口、その正反対。獣は悲鳴をあげて飛び下がる清の脇を通り抜け、鉄格子のない部分、ちょうどカイセイが拳で突き破ったところから、外へと飛び出したのだ。
空中へと飛び出た獣は、そのままま地面へと落ちて行った。
「あの野郎……!」
俺は慌てて身を乗り出し、獣の行方を追う。獣はズルズルと片足を引きずりながらも、ここから離れようとしている。血が溢れ、べったりと地面に血痕跡を残している。
「ケン君!」
「三度目はないっ!」
迂闊だった。その声にハッと振り返ったが、その途中で頬に衝撃。無理やりに体を回転させられ、一回転すれば目の前には空が広がっていた。
体が強張る。そして足先にあった最後の感触。地面への恋しい感触が、ずるりと外れる。この瞬間、俺はこの世界のどこにも触れてはいなかった。
落ちる。そう確信した瞬間、清の悲鳴と落下の風切り音が重なった。
落下は一瞬だった。あれほど恋しかった足先の感触が、次に出会った時には左肘への衝撃に変わっていた。地面と胴体にサンドされた左腕、それと地面に直接叩きつけられた左足から全身へ、熱と衝撃が駆け抜ける。
しかしその熱は、生きている証拠だ。俺は呻き、意識的に大きく呼吸を繰り返しながら、仰向けから四つん這いに体勢を変えた。
その時だ。俺のすぐ脇に、誰かが降りてきた。トンファーを持った小さな背丈……知花だ。
知花は一瞬こちらを見たが、何かに気づいたかのようにふと上を見上げ、そしてすぐに駆け出した。行く先を追って見れば、獣がちょうど角を曲がって消えるところだった。そして上では、再び戦闘が開始されたようで、喧騒と砕けた自転車等がこちらに降り注いできた。
逃がすものか。俺は身を起こして立ち上がるが、左足、いや、左半身が自分の体ではないかのように重い。
「ケン君!?」
ここまで下りてきたのか、清が背後から俺の肩を抱き上げ、俺の無事を確認した。
「大丈夫だ。それより清、アレが向こうに……!」
俺はそう言って二人が消えた角を指さす。
「……分かった! ここで待ってて!」
「アホか! 俺も行く!」
清を押しのけ、俺は足を動かして二人を追う。頭を打ってないのが良かったのか、ダメージはそれほどでもない。まだ戦える。
「……もう! 無理はすんなよ馬鹿ぁ!」
清はそう言って俺の脇を抜け、先行するように先の様子を窺ってる。
聞き分けが良くて助かる。俺は痛む体にさらに鞭を入れ、血の跡を辿る。
しかし、ここで無理をせずに、いつするかという話だ。上の三人が来れないのなら、俺達だけで何とかするしかないのだ。
それなのに清一人だけに殺生石を任せるなんて、言語道断だ。
口から血の味がする。口の中が切れたのか、拭っても拭っても血の赤が手の甲に付いた。
そうして足元の血の跡を追って通りの角を曲がると、知花の背中が見えた。
知花も走り寄る俺達に気づいたようで、嗚咽のような声と共に顔をほころばせ、トンファーを構えた。
町中でやり合う気か。俺は清を隠すように立ち、身構えたが。
「よくやった知花」
ふらりと路地から、一人の男がそう言って俺達の間に割って入った。
身長は俺と同じくらいか、しかしスラリと痩せていてるのが、ぴっちりとした黒のPコートで分かる。左肩にはボストンバックを掛けていて、その口がなぜか開いていた。
「実験は成功だ。アレも
「……そうかい。なら、こいつらはどうする訳?」
知花の挑戦的な言葉を受けて、男は目線をこちらに向ける。長めの黒髪に張り詰めた顔、黒縁の眼鏡の奥底には鋭い切れ長の目がこちらを見据えていた。
「……例の九十九神、それと化け狸か。俺が相手取ろう。早く行け」
「……了解」
不服そうに呟き、知花は構えを解いた。そして俺を一瞥した後、男が来た路地へと消えた。
逃がして堪るか。俺は駆け出したが、それを見た男は数歩下がりながらバックに手を突っ込んで何かを引き出し、こちらへと軽い動作で投げつけた。
それは緩やかなスピードでこちらへと宙を滑空する……紙飛行機だ。
マズい。俺の足が前に進むことを拒み、その場で立ち止まる。それが紙飛行機だと認識した瞬間、直感的な恐怖で全身が強張った。あいつは、外法の呪術を使う。
俺は首筋から刀を抜き出し、抜き打ちにその紙飛行機を切り払おうとした。しかし紙飛行機はその瞬間くるりと回転して刀を掻い潜り、反射的に突き出した俺の左手にぶつかった。
左手にぶつかった紙飛行機は潰れたり、ましてや払い落とされたりもせず、折られていた紙が開いて左手全体に張りついた。
そしてその途端に、左腕全体に気だるさが広がっていく。やられた。
「あ……くそっ!」
「か、紙飛行機!? だ、大丈夫!?」
清が慌てて駆け寄るが。
「触るな!」
俺は清に触れさせまいと背を向け、近くの塀に左手を叩きつけた。紙は手と壁で擦り合わされ、千切り落ちる。紙が取れると、左腕は息を吹き返したかのようにビクリと震えた。
「まだ腕を動かせられたのか。……妖刀の九十九神、想像以上にやっかいな体質だな」
男は余裕の反応をしてみせ、バックの中を漁っている。
「どうも……で、あんたは何者だ?」
そう応えながら、俺はちらりと千切れた紙を見てみた。
「こいつらの代表だ。だが、そんなことはどうだって良い。肝心なのはあの殺生石。そうだろう?」
「……お前がアスラだな?」
男はそれを聞くと、目をすっと細めた。やはり、この男がアスラか。
「……まぁ、今さら俺の素性など、バレても構わないか。ここまで計画が進めば、足踏みをする必要もない」
男はそう呟き、バックから右手を引き抜く。親指と人差し指で紙飛行機が一つ、さらに薬指と小指でもう一つ、紙飛行機を挟んでいる。
「……さて、二つならどうする? たかが
そう言って男……アスラは含み笑いをする。
飯綱。たしか犬神などと同じ、憑き物の一種だったはずだ。飯綱を使う者を飯綱使いといい、俺もずっと昔に出会ったこともある。しかし、前に会った奴のはこれほど効きはしなかった。憑いてる飯綱の差か、それとも術者の差だろうか。
それに、環境もこちらに不利だ。両脇を塀に囲まれたここでは、車一台通れるほどのスペースしかなく、あの紙飛行機を避けられるとは思えない。かといって先ほどのように刀で受ければ、それこそ相手の思う壺だ。
完全に相手のペース。こうなれば一か八か、特攻を仕掛けてみるか。殺生石は一度諦め、この男を倒すことのみに集中するべきだ。だからこれは、焦りから生まれた特攻ではない。数で勝るこちらができる、相打ち戦法だ。
「清、後始末は任せた……」
「ちょ、ケン君? 何するって?」
俺は刃を上に返して、腰だめに構えた。清が説明を求めたが、今は一々説明してる余裕がない。
相手の攻撃が何であろうと、一撃で死なないのであればやりようはある。真っ向から相手の呪詛を食らい、こっちが倒れる前にあっちを斬り倒せば良い。後は清が、どうとでもしてくれるだろう。
そして、それならもう、向こうの出方を窺う必要はない。俺は意を決し、一気に駆け出した。
アスラが一つ、二つと連続して紙飛行機を飛ばすが、俺は何も考えず、ただアスラの懐へと突撃する。あるのは前方の目標と、耳元の風切り音のみの世界だ。この単純な世界には呪いの恐怖も、影響も、存在しない。
「……かごめかごめ」
あと一瞬があれば切っ先が届くといったその直前、前方の男が何かを呟き両手を左右に投げ出した。
そして俺と目標の位置が重なり、そのまま突き抜ける。
「……なっ!?」
外した訳ではない。俺の刀はしっかりとアスラの胴を突いた。だが、手応えがない。それが影のように、肉を持っていなかったのだ。
踏み止まり、俺はアスラを探す。
アスラはいた。右に、左に。分身したアスラが手を繋ぎ、俺を囲んだいた。
何をされた。俺は左右を見回し、逡巡した。それがいけなかった。
「そこまでだ……っ!」
アスラの声、後ろからだ。振り返って刀を振り被ったが、もう遅かった。
振り返った先の正面にいたアスラが、繋いでいた手を離した。すると左右の分身が紙吹雪に、そして連鎖的に分身が紙吹雪となり、俺に襲い掛かる。
紙吹雪の一枚一枚は、ヒトガタに切られた小さな紙だった。それらが俺の体に貼りつき、動きを封じていく。
多少の抵抗はしたものの、すでに鳥かごの鳥に過ぎず。大量のヒトガタと共に俺は地面に伏した。
意識は、ある。ただ、四肢に力が入らない。刀を出して貼りついた紙を落とそうとも考えたが、体の奥底にその意思が繋がらない。どうやら根本の部分まで、俺は封じられてしまったらしい。
「てんめぇっ!」
清が叫び、近くにあったのだろう、拳大のコンクリート片をアスラに投げつけた。しかし、そんな物に当たるアスラでもなかったようだ。石は俺の頭上高くを通り抜け、地面を騒々しく転がっていった。
「潮時だ」
アスラは清に、静止を促すよう手を突き出した。
「こいつは別に死ぬ訳でもない。ただ、身動きを封じただけだ。仲間を呼んで然るべき処置をすれば、問題ない」
それに。と、アスラはこう続けた。
「向こうに転がっている若者の方が、こいつより重傷だぞ?」
清の顔が歪む。
「毒島君に何をした?」
「さあ、名乗らなかったから誰かは知らないな……どうする?」
「………」
清は眉間に皺を寄せ、アスラを睨みつける。
「……清、やめろよ?」
まさかと思い、俺は清に声を掛けた。清は俺を一瞥したが、すぐにアスラに向き直る。その時の清は、意固地になっている時の顔になっていた。
「おい! 清っ!!」
「そうか……」
俺の言葉は無視され、アスラは清の戦意に溜息をつく。
「……一つ教えてやる。今のお前の覚悟には何の価値もない、無意味だ」
「……ぁあ?」
「出しゃばるな、そう言ってるのさ。こちらの計画は順調に進み、残すところはあと僅か。最後に如月童子を倒せば、それで俺の悲願は成就される。だというのに、何だよお前は……?」
そう言いながら、アスラがゆっくりと清に歩み寄る。やめろ、思わず俺は、そう叫びそうになった。
「お前何やってんだよ? ここにきてお前如きが俺の前に立つ、場を読めない恥晒し、それが今のお前だ」
「………!」
清の顔の強張りが、緊張から怒りに移っていく。目の奥がグラグラと煮え立っているように揺らぎ、濁っていった。
「さっきの男もそうだ、我慢ならないんだよ。お前に手を煩わせる俺の身にもなれ……ここにはお前の居場所などないっ!」
激昂した清は、絶叫した。叫び、何の工夫も打算もなく、アスラへと飛び掛かった。
アスラは清の突進を容易く躱し、壁を背にして清を見下ろす。清は訳の分からぬ声をあげながら、アスラの顔面に拳を突き出す。しかしそれもアスラは横へと避け、拳は壁に激突、痛々しい音がここまで響き渡った。
「泣こうが喚こうが、届かないさ。だから……」
「ウアアァァアアァアアアッ!!」
清は聞く耳持たず、壁に叩きつけてしまった左拳をそのまま横にスライドさせ、アスラを狙った。壁には、清の血の筋が荒らしく引かれる。
流石にこの暴挙にはアスラも驚いたようだが、それも手で捌き、次に突き出された右拳を掴んで清を転倒させる。
「ちくしょう……! お前まで、私を馬鹿にしやがって!」
清は倒された体を起こしながら、憎しみの言葉を吐く。その目からも口からも、液体が流れていた。
「私だって! もっと力があって、賢ければ……そういう強さがあれば、私だってなぁ!」
清のその激昂に、俺は圧倒されて呆然としていた。対してアスラは、そんな清に手を突き出し。
「……ふん、手も足もでないなら、今度は噛みついてみるか? ここまで来ておいて、今さら無力を吠えるな、愛玩犬」
「てめぇぇぇえええっ!!」
清は理性を失い、またもやアスラに飛び掛かる。
今度は容赦がなかった。アスラもまた清にステップインし、ボディーに拳打を叩き込む。清の体はくの字に折れ、殴られた瞬間には足が宙に浮いた。
そのまま倒れろ。俺はそう願うも、清はアスラの胸ぐらを掴んで倒れることだけは拒否する。
「………」
アスラはそれを確認すると、清の顎を手で、グイとかち上げた。すると清の屈んでいた体が、逆に仰け反る形となっていく。そして、反対の右手が貫手の形となったところで、俺はこの先の展開が読めた。
「おいっ!? それだけはやめろ!」
俺の懇願は無視された。アスラは清の喉に、貫手を突き刺した。
清の体が勢い良く後方へと倒れ、それからはもがくように体を丸めるばかりだ。
当然だ。腹を殴られ、喉を突かれたら息などできない。意識がある分、激昂している分、その苦しみは倍増するのだ。
アスラはうずくまる清を、何の気概もなしに見下ろし。
「下らない時間を過ごした……」
そう、吐き捨てたのだった。
「……さて」
清が動けないのを確認すると、アスラを俺に向き直った。
「この娘はいい、だがお前はここで殺す。……足切やムメイが馬鹿みたいにお前に拘っていたが、俺から言わせればつまらん私情だよ、そんなものは」
アスラはそう言うと、俺のそばまで近づき、俺が落としていた刀を拾った。
「なに、お前の後はあの鬼も地獄に送ってやる。それに……そこの女には殺しはしない、安心してくたばれ」
それは安心。しかし、だからといって、はいそうですか、と身を捨てられるほど俺もできた者でもない。
かといって、今の俺はまったく身動きが取れない。出せるのは精々、口だけだ。なら、口出しでなんとかすれば良い。時間を稼げば、あの二人を叩き潰した如月さんが助けに来てくれるかもしれない。
「……ちょっと待て」
「命乞いも遺言も聞く気はないぞ?」
「後ろに如月さんがいてもか?」
「はったり抜かすな」
十秒もたなかった。
しかし、その十秒の足掻きが結果的に命を救った。
「代わりに
俺はアスラの肩越しに見る。そう決め台詞を言ってのけ、通りから少女がやってきたのだ。
この辺では嫌でも目立つ金髪をなびかせ、腰に手を当て不敵な笑みを浮かべる……それはモニカであった。いつもの私服とは違い、学校帰りだろうか、学生服を着て鞄を持っている。いつものサングラスや帽子もしていない。
「……次から次へと」
苛立たしげに、アスラはそう呟く。刀を手放し、そして振り向き際にアスラは紙飛行機を二つ、驚くべき手際でモニカに投げつけた。
モニカは放たれた二つの紙飛行機を、一睨みする。紙飛行機はそれだけでバシッと音を立てて飛散した。そして三つ目とアスラを見ようとするが、アスラは舌打ちし、顔をそむけた。
「……邪視か」
「さっき、そう言ったでしょ?」
モニカは自慢げにそう返す。案外、相性が良いのかもしれない。なぜここにいるかは知らないが、この状況を打破できるのなら何だって良い。
「……結構ギリギリだったみたいね」
モニカは俺や清を見比べながら、こっちへと歩み寄る。鞄を道脇に放り投げ、そして言い放つ。
「あんたがどこの誰かは知らないし、興味もないけど……私を怒らせた以上、そこで苦しんでる友達以上の目にはあってもらうわよ……!」
「……じゃ、痛み分けといこうか?」
アスラは視線を落としながらそう茶化し、尻ポケットから鈍色に光る針のような物をそっと取り出した。正面に立つモニカは、それには気づいていないようだ。
何をする気までは分からないが、俺はモニカに叫んだ。
「気をつけろ! また何かする気だ!」
俺が叫び、モニカが身構えるのと、アスラが手にしていた物、キラリと閃く釘を振り上げるのは同時だった。
「我が肉と、釘を以て汝を呪う」
アスラは、釘を自分の右の太ももに突き刺した。見るからに痛々しい行為。血がアスラのズボンから滲み、広がっていく。
モニカはアスラの凶行に飛び下がり、警戒していたが。
「……ん? んっ!?」
と、足からモニカが崩れ落ちた。
「お、おいモニカっ!?」
思わず名で呼んでしまった。だが、モニカはまだ意識はあるようで、腕だけで上体を起こした。何が起きているのだろうか。
「な……ダメ、足が動かない!」
モニカは悲鳴をあげてもがく。アスラは痛みからか、顔から脂汗を滴らせ、荒々しく息を吐く。そして釘が脚に刺さったまま背筋を伸ばし、モニカを見下ろした。
「それが呪いだ。邪視の小娘……さっき、モニカと言ったか? まだ学生のようだな」
そう言いながら、アスラは片足を若干引きずるようにしながらモニカに近づく。ヤバい。やっぱりあいつでは相手にならなかったか。
「おい、アルフ! アルフを使え!」
「学校に連れてけるか!」
モニカは律儀に俺にそう答えながら、ジタバタとアスラから距離を置こうとする。しかし足で歩くアスラの方がよっぽど速く、どんどん距離は縮まっていく。
「くそ……おいアスラ! 俺を殺せっ!! それで終いだろうが!」
少しでも時間を稼ごうと俺は呼びかけるが、アスラは気にもしない。
そしてアスラは、モニカを横切った。
何のつもりだろうか。モニカも驚きでも足掻くのをやめた。
アスラはふと立ち止まり、振り返ることなく言った。
「……そろそろ如月童子が来る。雑魚共が、時間を使わせ過ぎだ」
俺からは背を向けている為、アスラの顔を窺うことはできない。しかしアスラの声色から、それが冗談でなく本心からくる焦りだと俺には感じた。
「ムラマサ……残る仕事が片づき次第、俺の方から会いに行くと奴に伝えろ。あとはお前が死ねば全てが終わるとな」
アスラは俺にそう言って、そのままこの場から立ち去ろうとする。
「……ァァァァアア!」
しかし、後ろからの悲痛な叫びにその足を止めた。確認しなくても分かる、清だ。その掠れた呻きからして、まだ立ち上がってもいないのだろうが、意地一つだけで、清はアスラに吠えたのだ。
「……ふん」
アスラは清の呼び止めを無視して、行こうとしたが。
「待ちなさいよ。ねえ……あんた、人間でしょ?」
モニカの言葉に、俺は耳を疑った。しかしアスラは、その言葉にビクリと震える。
「そこらの三下には分からなくても、私の目は誤魔化せない……何で人間のあんたが、妖怪の肩を持つわけ? アシキリって奴は、妖怪が人間より強い社会に変えようとしてるんでしょ?」
「……子供に言って聞かせる話じゃあない」
アスラはそう切り捨て、さっさと行こうとするが。
「待ちなさいよ! ほら!」
モニカは手を伸ばして鞄を手元に寄せて、中から薄い、金属製の名刺入れのような物をアスラの足元に滑らせた。
「事情は知らないけど、戦うならここが良いわ。あの男には、私から伝えるし」
アスラは最初黙ってそれを見つめていたが、やがてしゃがみ、それを拾う。
「……その時は川下邸に使いを出すと言っておけ」
アスラはそれだけ言うと、脚の釘を引き抜き、歩み去ってしまった。
何者なのだろうか。俺はそんなことを考えながら、アスラの背中を見送っていたが。
「……あ、動く。呪いを解いたのかな」
と、モニカは足をバタつかせて確認し、さっと立ち上がった。
「やれやれ、毎度敵には逃げられるわ……あっと、その、大丈夫なの二人とも?」
モニカはこっちに走り寄ってきた。
「俺は良いから、清を頼む。あと清がインカム……イヤホンみたいな無線機持ってるから、持ってきてくれ」
「分かった」
モニカが清の方へ行き、俺が連絡するまでもなく如月さんがここへ駆けつけてくるまでの間、俺はずっとアスラが消えた方を睨んでいた。
そこに助かったという安堵はなく、ただ不気味さと、腹の底に溜まっていくどす黒い感情だけが残っていた。
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