世界が終わるその夜に 下

 ◯ ◯ ◯


 日本は小惑星に備え、突貫工事で地下シェルターを全国に四つ建造した。北海道に一つ。九州に一つ。本州には二つだ。各シェルターには約百万人ずつ収容できることになっているが、それは同時に一億人以上の国民は見殺しにするということだった。

 入場できる人間は政府がランダムに選んだ健康な人間のみ。

 シェルター内部には約半年間生活ができる量の物資が蓄えられているらしい。

 しかし、シェルターで一時を生き延びたところで、その後の生活が困難を極めることを考えると、一概に生き延びることが良いことであるとも思えない。あっけなく死んでしまうことの方が幸せなのかもしれない。選ばれなかった私はそう自分に言い聞かせていた。


 エレベーターを降り人気のないビルのエントランスを出る。明かりの少ない街に夜が染み込んでいた。やけに星が綺麗に見える。

 オリオン座のペテルギウスから冬の大三角を辿り、プロキオンとゴメイザの二つの星で構成される『こいぬ座』を見つめる。星座なんて最近まで興味はなかったのだけど、ずっと小惑星の話題ばかりが世界に充満していたら、誰だって自然と宇宙について詳しくなるものだ。

 私はこの『こいぬ座』が気に入っていた。ただ並んだだけの二つの星から犬を想像できた昔の人の想像力が可笑しかったし、その神話のやりきれない悲劇もなぜか心に残っていた。

 路上に停めておいた彼の車に乗り込む。まだローンの残っている軽自動車。

「こうやってドライブするのも久しぶりね」

 どうせ地球が滅亡するならもっと長期のローンを組んで月々の支払いを少なくしておけばよかった、と彼は恨めしそうに言っていた。 

 私たちは海の近くの水族館に向かうつもりだった。初めてのデートで行ったあの水族館。イルカのショーにクラゲの幻想的な水槽が青白く光るあの水族館。きっと今はもう誰もいないであろうあの水族館。

 真夜中の水族館で見捨てられた魚たちを眺め、静かな浜辺で波の音を聞いて、満天の星空を眺めて、最後を迎えるのも悪くない。

 最後くらい行ったことのない場所に行ってみたい気もしたけど、海外は危険だし、そもそも、先週から安全の為という名目で飛行機は飛ばないことになっている。どちらにせよ、私達に逃げ場などない。

 大昔に恐竜を滅ぼしたとされる直径約十キロの隕石は、ユカタン半島に直径約百六十キロのクレーターを作り出した。

 もし、隕石が私達の見える範囲に落ちてきたら、それこそ一瞬の内に体も心も無に還ることができるだろう。

 もし、日本から遠くの太平洋にでも落ちれば三百メートル級の津波が日本を襲うことになる。津波に巻き込まれて死ぬのは嫌だけど、どっちにしたって結末は同じなのだから考えないようにする。ただ、現時点でどこに隕石が落ちるかわかっていないらしく、正式な発表はされていない。……そんなの嘘だって誰でもわかってるけど。


 車のエンジンをかけた彼はダッシュボードからCDを取り出した。彼は昔からデートの度にわざわざCDを焼いて持ってくるのだった。イントロのメロディに合わせて指先でリズムを取る彼。

 昔、「何万曲も簡単に携帯できる時代になっているのに、なんでわざわざ手間をかけてCDなんか焼いてくるの?」と聞いたことがある。彼は「わかってないなぁ」と言ってやれやれと首を振った。


「あの曲が聴きたい、ってなった時に、それが簡単に聞けちゃうなんて一つも面白くないだろ。この場面にはこの曲だ!って時に聞きたい曲が聞けなくて、持って来ればよかったなぁなんて後悔しながら、頭の中だけでその曲を流したりした方が、その曲って記憶に残るんだよ。聞けなかったからこそ、その曲を後で聴くとその時のことが思い出せるんだ。それに昔はデートや旅行の度に、楽しい時間やシチュエーションを想像して計画を立てて、夜な夜なテープに音楽をダビングしたりしてたんだ。で、そんな時が実は一番楽しい時間だったりしたんだよ」

 そういえば、昨晩を部屋の片隅でガサゴソやっていたけど、それだったんだ。

「……でも、あなたテープなんて使ってたの?」

「いや、親父に聞いた話だよ」

「別にmp3プレーヤーだってプレイリスト作れるけど」

「違う違う、そういうことじゃないんだって。便利なんて便利じゃないんだよ。ナビなんかに頼って簡単に目的地に着いたって、それ思い出になるか?」

「……なるけど」

「じゃあ俺とのドライブの思い出ってなんだ?」

「あなたが毎回道に迷ってイライラして、私が毎回地図を見て案内して、険悪なムードで喧嘩したりしたこと」

 彼は声を上げて笑った。

「よくあったなぁ。お前、地図見るの下手くそすぎるんだよ」

「あなたが初めからナビを設定すればよかったのよ」

「でも、迷ってたどり着いた時、毎回二人で大喜びしたじゃん。ああいう感動って初めからナビに頼ってたら、無いよ」

「初めからナビに頼ってたら、無駄なイライラもなかったわよ」

「うーん、屁理屈がうまいな」「どっちがよ」

 彼は分の悪い会話を終わらせるようにアクセルを踏み込んだ。静かな幹線道路を照らす星明かり。

 また流れ星が夜空に線を引いた。こうしていても終末は近づいてくる。


「あんまり時間もないし、高速を使うか」彼はそう言ってハンドルを切った。

 封鎖されているけど誰も警備なんかしていない、入りたい放題になっている高速道路。進入禁止のバーは既に誰かによって弾き飛ばされている。

 ヘッドライトをハイにして暗い高速道路を走る。誰も使わないように、と街灯も消された高速道路には所々、事故を起こした車が置き捨てられている。閉鎖されてから無法地帯になった道路を暴走した車の末路だ。

「安全運転してよね」思わず言葉が出るが、彼の運転はいつも丁寧だったし、軽自動車ではスピードも出ない。

 静かな高速道路を車は走っていく。流れる景色が感傷的な気持ちにする。懐かしい思い出がぼんやり蘇る。

 家族で田舎に帰った時の事、弟が車に酔って大変だった事。大学のみんなと行ったバーベキュー。彼とレンタカーを借りた初めての旅行。渋滞で苛立つ彼を宥めた事や、浮気された友達を慰めながら走った事。

 なんでもない日常の風景が星の瞬きとともに浮かんでは消えていく。

 タイヤから伝わる振動とカーステレオから流れる音楽が、この狭い空間を心地よく満たしていた。


「タカシやミチルは、今頃なにをやってるんだろうな」

 彼も同じような心境だったのだろう。大学時代の友人の名前が出た。

「一昨年の同窓会の時はまだ付き合ってるって言ってたけどね」

「長いなぁ、あいつらも。ま、俺たちも同じようなもんだけど」

「うん」いつでも会えるから、と去年の暮れに断ってしまった飲み会の事が頭によぎる。

 お互い忙しく都合を合わせられないまま今日という日を迎えてしまった。メールは送ったけど届いているかどうかもわからない。

 誰もが当たり前に続くと思っていた平凡な毎日。だけど、そんなことなかったんだ。

 ハンドルから離した彼の左手にそっと触れてみた。温かく大きな手。指を絡める。この手をこうして触れるのも、あと少しなんだ。そう思うと、自然と指先に力がこもった。

「あっ」と何かを思い出したように彼が口を開けた。

「何?」「……いや、なんでもない」照れたように鼻を擦る。

「何よ」

「久しぶりだなって。手なんか繋ぐの」

 そんな風に言われると、こっちも照れる。

「何よ。嫌だっていうなら離すわよ」

「いや、そのままでいいよ」

 離そうとした私の手を、彼が力強く握ってくる。言葉はいらなかった。ただ彼の体温をずっと感じていたい。そう思った。


 高速道路を降りると街明かりもずっと少なくなった。みんなシェルターがある方へ僅かな望みを抱いて移動したのだろう。窓を開けると、冷たい風に塩気が混じっていた。もう海は近い。

「寒いよ」彼は言ったけど、私は窓を閉める気は無かった。潮風が頬を打つ。感じること全てが最後の経験になるんだ。そう思うと寒さだって嫌じゃなかった。

 緩やかな坂道を下りトンネルをくぐれば、海が見えてくる。夜が沈んだように暗い海。遠くに灯台の明かりが見える。海岸を左手に海沿いの大通りを進んでいく。

 遠くに水族館の四角い建物がぼんやりと浮かんできた。信号機はどれも点灯していない。電気が止まったのだろう。終わりは刻一刻と迫ってきている。

「呆気ないもんだな」彼がポツリと呟くから「そうね」と私も一言だけ返す。

 車を駐車場に止め、エンジンを切ると耳に入るのは波の音だけになる。人気のなさは静寂となり、どうしようもない悲しさを募らせる。

 誰もいないのに彼はきちんと駐車場の白線に合わせ車を止め車に鍵をかける。

「そういえば、車なんて全然いないのに、ウインカーもハザードもしっかり出してたね」

「あ、ほんと?」自分でも気づいていなかったのだろう。

「染み込んだ動きって無意識に出ちゃうもんだよなぁ」

「今日で最後だって言われても、実感湧かないもんね」

「みんなそうなんだろうな。実際に今日で全部終わるって言われても、どうしていいかわかんないからな」

「ジタバタしたってしょうがないもんね」

 同意はして見せるけど、嘘。これは強がりだ。本当は怖い。泣いて叫んで逃げ出したい。

 でも、私は人間だった。人間は理性の生き物だった。理性は感情をごまかしてしまう。私は恐怖という感情を克服したわけではなく、恐怖からも、目を背けただけなんだ。

「学習性無力感っていうんだって。人間も犬も自分じゃ解決できないようなストレスを長期的に与えられると、何をしても結果は変わらないって脳が学習して、うつに近い虚脱状態に陥るんだってさ」

「ふーん。もう一年もずーっと小惑星が落ちるって言われて、未来なんてないって言われ続けたから、みんな希望なんてなくしちゃったんだね」

「人類総うつ状態だな。ま、だからこそ、大きな暴動も起きずに済んだのかもしれないけど」

 水族館の入り口まで歩く。珍しく彼は私の隣を歩いてくれた。手は繋いでくれなかったけど。

「……あれ」彼が立ち止まった。彼の視線をたどると、発券場の脇の入館ゲートのシャッターが開いていた。

「もう一ヶ月前には休館になってるって言ってたよね」

「どうだろう、駐車場に車は一台も無かったしな。前に誰かが入ってそのまま開けっ放しにしたんじゃないかな。ラッキーじゃん。こじ開けて入る手間が省けた」

 警戒心もない彼に続いてイルカをあしらったアーチを抜けて館内に入る。通路は薄暗い。停電に備えて自家発電でもしているのだろうか、ぼんやりと不確かな非常灯が足元を照らしていた。真っ暗だったらとても歩けなかったが、薄気味悪いことにはかわりない。

 彼に置いていかれないように早足で通路をたどる。壁面に幾つか水槽がはめ込まれているが、どれも空っぽだ。なんの魚もいない。この水族館にはもう魚はいないのだろうか。

 しばらく歩くと、大きな広間に出た。半月状の部屋の弧を描く壁面が巨大な水槽になっている。この水族館で一番大きな水槽がある部屋だ。昔に来た時は様々な魚がゆったりと泳いでいたが、薄暗い室内では水槽の中はよく見えず、水は溜まっているが海藻の影が不気味にゆらめいているだけだった。

「魚はいるの?」暗い水槽を見上げる。

「いるみたいだよ、よく見えないけど」

 水槽に近づいて目を凝らすが、暗くてよく見えない。仄暗い水槽の奥で、巨大な眼がぎょろりとこちらを見た気がした。


「ほう、お客さんか」

 背後から突然聞こえてきた男性の声に飛び上がる。恐る恐る声のする方を振り向くと、人影が暗闇に見えた。

「す、すみません。勝手に入ってしまって」

 彼が私を庇うように身を乗り出して謝罪する。「すみません……」私も彼の後ろから続く。

「こんな日にお客が来るとは思わなかったが。いいんだよ。誰が来てもいいように開けていたんだから」

 男性はそれだけ言ってすうっと通路に消えていった。残された私達は顔を見合わせた。

「で、出たほうがよくない?」私が言うと「でも、あまり怒ってないみたいだったぞ」と彼が返す。ヒソヒソ耳打ちする私たちの声を遮るように、ぶっきらぼうな声が通路の奥から聞こえてきた。

「暗いとよく見えないだろ。明かりをつけてやるから待ってな」

 次の瞬間、水槽の周りに青く幻想的な光が灯った。

 巨大な水槽を照らし出す優しい明かり。水槽のガラスには少し藻が生えてはいたが、中の水は澄んでいて大小様々な魚が回遊していた。さっきまで不気味に見えた海藻も、こうして光に照らされるとまるで別の印象を受ける。

「き、綺麗……」思わず感嘆の声が漏れた。光を腹に受け、キラキラと光る小魚。ゆったりとヒレを上下させるエイ。世界が今夜終わるなんて何も知らない魚たちの楽園がそこにあった。

「人間が勝手に連れてきたんだ。見捨てて逃げるわけにはいかんだろう」

 ふん、と鼻を鳴らした声の主は青いツナギを着た中年の男性だった。この水族館の飼育員だろうか。顔はやつれ、無精髭と境目のない伸び放題の髪には白いものが混じっている。 

「隕石が落ちると聞いて、みんな逃げてしまったよ。残ったのは俺だけだ」

 私たちの隣に来て水槽を見上げる。

「ここにいるのはおじさんだけなんですか?」

「ああ。みんないなくなっちまった。家族がいたり恋人がいたり、そんな奴ばかりだったからな。最後の時を過ごす相手がいる奴に、ここに残れなんて誰も言えないさ」

「おじさんは家族の所には行かないんですか?」

「俺は独り身だ。それに、ここの魚が俺にとっての家族だからな」

 飼育員のおじさんの口調はぶっきらぼうだったが、水槽を撫でる手はまるで我が子を撫でるように優しかった。

「だけど、一人じゃ手が回らないし、随分と魚の数は減ってしまったよ」

 疲れ果てた表情。寂しそうな横顔で言う。

「充分な餌がないとな。水槽の中でも自然界と同じように、弱肉強食の世界になっちまうんだ」

 大きな魚に追われる小魚の群れ。大きなうねりとなって逃げ惑う小魚たちを大型の魚が追い込みあっけなく捕食した。

「だけど、これが自然の正しい姿なのかもしれない。しかし……」  

 ちらり、と私たちの姿を横目で見る。

「お前さん達は、なんでこんな日に来たんだ?」

 彼が照れくさそうに鼻をこすって答える。 

「二人で初めてデートしたのがこの水族館だったので、最後に来たくなったんです」

「そうか。ならよかった。自棄やけになった者が魚たちを傷つけに来たのかと思って警戒していたんだ。すまなかったな。来てくれてありがとう」

 おじさんは少しだけ微笑んだけど、すぐに後ろを向いてしまった。

「他の展示エリアには魚はあまりいないが、心ゆくまで見ていくといい」

 そう言葉を残して、飼育員のおじさんは通路に消えていく。

「あ、ありがとうございます」後ろ姿に声をかけると、返事はせずに右手を上げて応えてくれた。

 飼育員のおじさんの厚意で明かりがついた広間を抜けて、次のエリアに向かう。

 この近海に生息する海洋生物を触れることのできるエリアや、長い足をのそりのそりと動かす蟹の水槽が置かれた小部屋。深海魚の暗い水槽が並ぶ部屋。

 順に見て回るが空の水槽も少なくない。

 飼育員のおじさんは一人ぼっちになっても、ずっと彼らの世話をしてきたのだ。彼はどんどん減っていく魚達をどんな気持ちで世話していたのだろうか。


「見ろ、クラゲだ!」

 感傷的になっていた私は子供みたいにはしゃぐ彼の声でハッとした。顔を上げると、目の前の大きな水槽にゆらゆらと長い触手を広げる半透明のクラゲが漂っていた。

「大きい」月並みな感想を漏らす。

「こっちは小さいやつがいる!」

 はしゃぐ彼が指をさす。顔を向けるとブルーライトで照らされる円柱形の水槽にピンポン球くらいの大きさのクラゲが何匹も浮いたり沈んだりしていた。

「かわいいね」思わず笑みがこぼれる。

「いいよなぁ。クラゲ。俺、好きなんだよなぁ。なんかさ、こいつらわけわかんないよな。プカプカ浮いてるだけでさ」

 彼は水槽に両手をついて嬉しそうに眺めている。なんでこんなにクラゲのことが好きなのか、私にはわからなかったけど、十年も一緒にいてわからないこともあるんだな、と今更だけど可笑しく思った。

 クラゲの水槽の中はまるでこちらと流れる時間が違うみたいだ。水の中をたゆとうだけ。抗ったり、争ったりしない。流れに身をまかせる。強い流れには強く流され、緩やかな流れには緩やかに流される。急がない。慌てない。当たり前を当たり前にする。それは実は難しいことだ。

 のほほんと揺れるクラゲたちは風雲流水という言葉がぴったり。そんな半透明のクラゲを見ていると時の流れを忘れてしまう。けど、私達にとって時間は有限だ。今日は特に。

 でも、それでも。

 クラゲにクギ付けになってる彼を急かす気にはなれなかった。キラキラ瞳を輝かせて水槽に夢中になっている彼。ちょっとクラゲに嫉妬するけど、彼の嬉しい顔を見るのは私も楽しかった。


「あー。楽しかったな。あの大きなクラゲの水槽を見れただけで満足だよ」

 彼はそう言って出口へ続く階段を駆け上った。幸せな気持ちを感じると同時に、いよいよ終末が近づいていることに気づく。できるだけ考えないようにして階段を駆け上った。

 階段を上がると短い通路があって、そこを抜けると、お土産屋さんがあった。

 食料品を求めてならず者がガラスを割って侵入したのだろうか。職員がいなくなった店の中は荒れていた。

 食料品はほぼ無くなっていたけど、その他の棚には小さい魚のついたボールペンやぬいぐるみといったお土産が積まれたままだった。

「ゲンキンなもんだな。食べ物以外は興味ないってわけか」

 彼がアザラシのぬいぐるみを手に取り、お腹をむぎゅっと押す。「ピュー」っと間抜けな音が店内に響いた。それを見て二人で笑う。

「あっ」

 店内を見ていた二人の声が揃った。視線の先にはペンギンのぬいぐるみ。

「これ、お前好きだろ」楽しげに言う彼。私の好みをドンピシャで当ててくる。

「買ってあげようか。最後のプレゼント」笑って彼はペンギンを両手で捕まえた。

 黄色い飾り羽がついたイワトビペンギン。目つきが悪い様が可愛い。彼はペンギンを私に手渡す。

 抱きしめてみる。しっかりした作りで強く抱いても潰れたりしない。

「いくらすんの? それ」タグを覗き込む彼。「げ、二万もするよ。高いなー」声が裏返っている。

「ぬいぐるみって高いんだなぁ」

 唸る彼だけど、実は初デートでも彼は同じことで同じように驚いていたのを私は覚えていた。

「うーん」と腕を組みしかめっ面の彼。此の期に及んで購入するべきか迷っているのだろう。店員なんかいないのに。

「別に要らないよ。荷物になるだけだし」

 そう言って私が胸に抱えたペンギンを棚に戻そうとすると、彼は私の手を掴んだ。

「いや、ダメだ」強引にペンギンを奪い取り、無人のレジにどんっとペンギンを置いて、彼は財布を取り出した。

「なにか最後にプレゼントでも買おうかなって、ずっと考えてたんだけど、結局なんにも浮かばなくて。だから、まぁ馬鹿みたいなもんだけど、貰ってよ」

 後ろ姿でそう言って、彼はレジの受け皿に一万円札を二枚置いた。振り向いた彼は照れ隠しなのか、無造作にペンギンの頭を鷲掴みにして強く私に押し付けてきた。

「ちゃんとお金も払ったし、いいだろ」

 ぶっきらぼうに言う彼。初めてペアリングを買ってくれた時とおんなじ照れたような怒ったような顔をしてた。

 そんな彼の顔を見ちゃったら、なんだか一気に色々な想いが込み上げてきた。急になんでだろ。わけもわからず、あっという間に視界がぼやけ、彼の姿が滲んで見えなくなる。

 慌ててそっぽを向いてペンギンを可愛がるフリをした。

「やっぱり欲しかったんじゃん」

 彼は私の涙には気づかず、子どもでも見るように暖かく微笑んだ。

「どうせなら指輪でも買ってきてプロポーズくらいすればカッコよかったのに」

 鼻をすすり憎まれ口を叩く。

「あ、そうか。その手があったか」本当に頭の片隅にもなかったみたいで、彼は間抜けに手を叩いている。

「……バカ。本当にバカ」小さく呟く。心が締め付けられる。当たり前のことに今更気づいて、その重さで胸がいっぱいになる。


 私は彼のカッコ悪い優しさも、照れてそっぽ向く癖も全部好きだった。彼の声も笑顔も、指も肩も体温も匂いも仕草も、子供みたいにはしゃぐ所も、黙って本を読む姿も、屁理屈ばかり言うところも、全部愛しかった、

 好きな気持ちは前提条件すぎて、その感情の大事さに気づかなかった。見落としてしまっていた。私は彼が好き。当たり前のこと。でも、一番大切なこと。

 ずっと好きだった。だから彼と一緒にいた。だから人生を最後まで一緒にいたいと思った。おじいちゃんとおばあちゃんになって、陽だまりの散歩道を手をつないで歩くような、そんな二人になりたかったんだ。

 堪えきれず、涙が溢れてくる。泣きたくない。いつもみたいにドライに笑って、ふざけて、なんでもないような顔をして最後を迎えたい。

 それなのに、涙が止まらないよ。


 最後くらいカッコつけたかった。「お前はいつもと変わらないな」って彼に呆れさせたかった。なのに、こんなところで嗚咽して、彼の顔も滲んで見れないくらいに泣きじゃくって。せっかく化粧もして来たのに、綺麗だねって言ってもらいたかったのに。なんて格好悪いんだろう。泣き顔なんて見せたくないのに……。


「なぁ」


 どきっとするくらい穏やかな声。彼の手が背後から伸びてくる。優しく抱きしめ、私の頬を撫でる。暖かい手が頬を伝う涙を拭う。


「俺、お前の表情全部好きだよ。怒ってる顔も泣いてる顔も凄い綺麗だと思う」

 ……馬鹿、なんでそんな最後みたいなこと言うの。

「今まで、そばにいてくれてありがとう」

 私を抱き寄せ耳元で囁く。彼の吐息が髪を微かに揺らし耳をくすぐる。返事をしなきゃ。ちゃんと返事をしなきゃ。でも、声が出ない。嗚咽をこらえるのに必死で、伝えたい言葉が出てこない。ぐしゃぐしゃの感情が言葉にならない声になる。

「馬鹿だなぁ。無理して喋ろうとするなよ」

 彼は呆れ笑いで頭を撫でる。彼の胸に顔を埋め、しがみついて泣きじゃくった。



「……おい、起きろ。起きろよ」

 肩を優しく揺られて目を開ける。

 私は泣き疲れてうたた寝をしていたみたいだ。

 夢を見ていた。目が覚めたらすぐに忘れてしまったけど、多分幸福な夢。


 誰もいない砂浜。寄せては返す波の音だけが二人を包む。灯台の明かりが定期的に海を照らし、穏やかな海の水面に光が弾ける。

 海についてから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。何時間も経っている気もするし、まだ一時間も経っていないような気もする。

 体を寄せ合い静かな海辺に佇む私と彼。車から持ってきた毛布を被っているから、冬の海なのに寒さは感じなかった。

「寝てる間に小惑星が落ちてたら良かったのに」空を仰ぎ見て、強がりを言う。

 さっきまでなかった一粒の赤い星が空の彼方に光っている。

「そうか。俺は最後にお前の幸せそうな寝顔が見れて幸せだったよ」

 コツンとおでこをぶつけてくる。

「……そりゃおめでと」一言だけ囁く。

「ありがと」頭をくしゃくしゃにされる。

「帰ろっか」その言葉に思わず彼の顔を見る。灯台の明かりが彼の横顔を照らす。鼻筋、唇。手を伸ばせばすぐ届く距離。まだ彼とこうしていたい。


「最後だからって海に来たけど、寒いだけだしさ」苦笑いの彼。

 自分で海に行きたいって言ったくせに。

「馬鹿ね。でも賛成。体が冷え切っちゃったわ」肩を抱き答える。強がり。

「それよりさ、いま何時だかわかるか?」

「え?」そう言えば携帯電話は車の中に置きっぱなしだった。カウントダウンを見るのが嫌で腕時計もしていない。

「何時なの?」見当もつかなかった。

「そうか。ならいいんだ」そう言って彼は立ち上がった。ポンポンと砂を払い、手を差し伸べてくれた。彼の手を取り立ち上がる。

 手をつないで砂浜を歩く。二人の足跡が砂浜に残る。

「もし、さ」彼が言う。

「もし、隕石が落ちてこなかったら、どうする?」

 珍しく弱気な口調。

「何よ、急に」

「いや、何でもない」

「そうねぇ」小首を傾げて考える。「まずは、マスターの所にモーニングコーヒーを飲みに行くでしょ。後の事はそこで考えましょ」

 彼の肩が小刻みに震えた。「何よ」見ると彼が笑みをこぼしていた。

「だって、可笑しくて。やっぱお前は現実的だな。もし隕石が落ちてこなかったら結婚しようか、なんて言おうと思ったんだけど、明日の話されるとは思わなかったよ」

 本当に無邪気に笑ってる。バカ。

「そういうのはちゃんと準備して、三ヶ月分の指輪買ってから言うものよ」

 脇腹を小突く。

「そうだな。そうするよ」

「……ねえ、名前呼んで」

「え?」

「お前じゃなくって、名前で呼んで」

 そう言った瞬間。空が急に明るくなった。

 立ち止まり空を見上げる。空気の振動、轟音。突風。

 さっきまで小さかった光る星が少し目を離しているうちに、大きな赤い火の玉に変わっていた。

 巨大な火球が真っ赤な尾をつけてゆっくりと空を支配していく。

 眩しさに目を細める。

 彼が私の体を抱く。これからどんなことが起こったとしても、離れ離れになんてならないように、強く、強く。


 強風が二人を引き離そうと吹き付ける。私は懸命に彼にしがみつく。

 風が私の髪を強くはためかせる。吹き飛ばされそうになりながらも、必死に彼の顔を見上げた。

 砂埃に顔を歪めながらも、彼が口を開くのが見えた。何かを叫んでいる。耳をつんざく空気が、強風が邪魔をして何も聞こえない。

 だけど、彼は何度も何度も口を開けて叫んだ。


 何も聞こえない。何も聞こえないけど……。でも、何を言ったかはわかる。私は強く大きく頷いて、大きく口を開いた。


 二人の頭上を駆け抜けた燃え盛る巨大な火の玉は、はるか彼方の水平線をかすめるように、海の向こうに消えていった。




 

  

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世界が終わるその夜に ボンゴレ☆ビガンゴ @bigango

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