世界が終わるその夜に 中

『巨大な小惑星が地球に衝突し、人類を含む地球上のほぼすべての生命の種が絶滅する恐れがある』


  書き込まれた長文の警告は素人の悪戯には思えないほど真に迫るものだったが、この手の話題はネット上ではゴロゴロ転がっているありふれた代物だったから「よくある宇宙マニアの妄想」として誰も取り合わなかった。

 しかし、記述の精確さに舌を巻いたある天文マニアが冗談半分に天体観測をしてみると、なんと本当に地球へ向かっている小惑星を発見してしまったのだ。

 一時、インターネット上ではこの話題で持ちきりになったらしいのだが、小惑星はその軌道を確定するのに十分な観測を行えないうちに行方不明となった。

  この出来事はテレビや新聞などでは一切報道されておらず、当時の私は小惑星のことなど何も知らなかった。大騒ぎになったのネット上だけだったが、不自然なほど急激に話題は下火になり、ネット上ですら、この小惑星の話題は消えてしまった。


 それから十年。月日は流れ今年の一月。

 再びその話題が脚光を浴びた。忘れ去られていた小惑星が再びアマチュア天文家により発見されたのだ。

 小惑星の直径は20キロ。衝突すれば人類を滅亡させるに十分な代物だった。そして、その小惑星は地球に衝突するコースを十年前の予想通りに突き進んでいた。

 小惑星の再発見から一ヶ月後、十年前の書き込みがNASAの職員によるリーク情報だったという事が判明した。また、この話題をテレビやネットなどに流れぬように隠蔽を指示したのが、当時の米国大統領であった事が匿名のタレコミにより暴かれた。

 米国は慌てた。

「小惑星は確かに地球のすぐそばを通るが地球への影響は一切無い。地球に衝突することはありえない。根拠のない悪質なデマを信じないように」

 NASAはこのようにコメントを出したが、各国の有識者の大多数が「発表には疑問が残る」との見解を出した。

 米国への不信感が急速に高まったのはこの頃からだったように記憶している。安心させようとした発表が仇になり、世界中から批難の声が上がった。米国の富裕層のみを地下シェルターへ避難させる計画がある、という噂が世界に広がり、米国製品の世界的な非売運動が起こった。株価は暴落。強烈な反米感情が高まった。ここぞとばかりに反米国家やテロ組織が米国への批判を繰り返し、七月には過激派テロ組織による米国本土への自爆テロも行われ、千人以上の市民が犠牲になった。

 世界にかつてないほどの緊張と混乱が襲った。治安の悪化を理由に日本から米国への渡航も事実上禁止された。

 NASAは再三にわたり小惑星の軌道を詳細に説明したデータを公開し「小惑星は地球にぶつかることはない。地球への影響は一切無い」とコメントを出すが、一度失った信頼を取り戻すことはできなかった。

 世界から米国が孤立した瞬間だった。

 しかし、米国を除け者にしたところで、どの国家も小惑星に対して有効な対策を打ち出すことができなかった。世を賑わしたのは眉唾物の噂だけだった。

『……核ミサイルで隕石の軌道を変更する計画がある』

『……実はすでに宇宙コロニーが建造されていて地球脱出の準備がされている』

 様々な噂は、どれもが期待を持って報じられ、失望を伴い消えていった。

 各国の技術者や研究チームが集まり、対策を考えても、有効な手段は見つからない。

 そんな状況だから、私たちのような一般市民は不安に駆られながらも、結局は普段通りに生活するしかなかった。

 幼い頃、死というものを初めて知って時、怖くて眠れなくなったことがあったけど、まさか大人になってからもう一度それと同じ体験をするとは思わなかった。

 Xデーが徐々に明らかになり、その日が近づいても、どうやら有効な対策は見つからなったようで、毎日伝えられる小惑星の地球衝突の確率は高くなっていく一方だった。

 そして、非公式ながら今年2020年の12月24日……つまりは今日、小惑星はついに地球に到達する。

 皮肉なものだ。クリスマスに降るのは雪ではなく、この星を滅ぼすほど巨大な隕石なのだ。


 


◯ ◯ ◯


「珍しいね、二人が揃って来てくれるなんて」

 きっちりとしたスリーピースのスーツの着こなした白髪のマスターが、テーブル席で話し込む私達の元にやってきた。

「最後は二人でここに来ようって決めてたんですよ」彼が文庫本を置いて口を開いた。

「初めてのデートで訪れたのがここだったんで、最後にもう一度あの時の気持ちに戻ろうかと思って」

 にこやかに答える彼を睨むように目線を合わせる。

「――と言いつつ、この人ったら、さっきから、ずーっと本を読んでるんですけどね」

 不満をぶつけてやるけど、彼はケロッとしている。

「いつも通りに過ごすってのは大切ですよね。マスター」

「ふふ、そうだね」マスターがゆっくり頷く。

 壁掛け時計の振り子は止まり、間引きされた、まばらな灯りのもと、割れた窓から吹き込む風がぼろぼろのカーテンをはためかせる。冬の風は突き刺すように冷たい。

 無理やり運び込んだ大きなストーブの周りに陣取らなければ、マフラーを巻いていても寒い。

「それにしても」とぐるりと荒れ果てた店内を見渡したマスター。

「こんな酷い所によく通い詰めたね」

 皺くちゃの顔をさらに皺くちゃにしてマスターは笑う。

「僕は、むしろこんな状態になってからの方が通ってますよ」

 彼もつられて笑みをこぼした。

「ふふふ、希望の失われた世界にそれでも背筋を伸ばしてそびえ立つ高層ビル。その閉鎖された展望室にしぶとく残るコーヒーショップ。とても退廃的で素敵だろう」

「ものは言いようですね」チクリとさすように言う。「雰囲気はいいですけど、やっぱり掃除くらいはしたほうがいいですよ、マスター」

 ガラスの破片が窓際の床を煌めかせる様子を見ていると心からそう思う。改めて店内を見渡してみると、やっぱり荒れ放題で、とてもじゃないが、特別な思い入れでもなければ、わざわざ危険を冒してまで来る場所ではないような気もする。

「こりゃ手厳しい」

 私に責められたマスターは眉毛を上げて、ひょうきんにおどけてみせた。黙っていれば偏屈そうな老人なのに、話すと拍子抜けするくらいに明るい。

 姿勢の良い小柄な体に、綺麗にくしの入ったオールバックの白髪。店内は滅茶苦茶だが、マスター本人の身なりだけは整っているのがこのコーヒーショップの唯一の救いだ。

「掃除は家内の担当だったものでね。一人になってからも、なんだかやる気が起きないんだよ」

 冗談半分、本気半分といった表情で肩をすくめてみせるマスターの奥さんは先日亡くなったばかりだった。長年患っていた病気のためだった。

「大好きな家内を隕石の恐怖から解放できたのは不幸中の幸いだったよ」とマスターは遠い目をして言った。

  何十年と二人で営んできたコーヒーショップ。奥さんが亡くなって、一人ぼっちになっても、マスターは1日も休まずにこの場所を守り続けた。……掃除は行き届いてないけど。

「ま、このくらい荒れていた方が、雰囲気があって、ちょうどいいと思わんかね」

 何がちょうどいいのか、わからなかったが、なぜかマスターの言葉を否定する気になれなかった。 

「今日は特別にドリンクのお代わりを無料にしてるんだ。誰にとっても大切な一日だからね。そんな日に訪れてくれた人達へのささやかなお礼として」

 孫を見るような暖かい眼差し。私も彼もマスターが大好きだった。

「そうなんですか、ありがとうございます。僕にとってマスターの淹れるコーヒーは特別ですから」

「嬉しいことを言うじゃないか。でも、もう随分前からインスタントコーヒーなんだがね」

 そういえば、豆が手に入らなくなったとマスターが嘆いていたのを思い出した。

「マスター、味じゃ無いですよ。味じゃ」

 彼の言葉に頬を緩めるマスター。「そう言ってもらえると助かるよ。ありがとう。気の済むまでいるといい」そう言い残してマスターは別卓へと歩いていった。

 私達以外にも最後の日にここに訪れる酔狂な客はいて、マスターはどのテーブルのお客さんとも楽しそうに談笑していた。ここのお客はみんなマスターに会いに来る。マスターと話をしに来る。皆、マスターのことが好きなのだ。


「こうやって暮れる夕陽を眺めるのも最後か」

 ぽつりと彼が呟いた。冬の空はとても澄んでいて、眼下に広がるゴーストタウンのような街並みも、遥か彼方に連なる山々の稜線もくっきりと見える。冬の日暮れは早い。先ほどまで姿が見えていた太陽が沈んでいく。東の地平線かから徐々に闇夜が夕焼けを飲み込んで行く。

 こんな時間に空を見ていると、空は宇宙なんだという当たり前の事を改めて思う。大きくて果てしない宇宙。その宇宙から飛来する小惑星が、あと数時間後には、この地上の何処かに堕ち、全てを無に還す。

 歴史も文明も科学も夢も憎しみも愛も何もかも無くなる。

 人間は無力だった。何も出来ずに滅亡を待つだけだ。人間が生み出した科学は、人類を助けることはできなかった。終わりの時を正確に割り出し、人々に絶望をもたらしただけだったのだ。

 しかし、知らないで良い絶望を知った人々も、呼吸を止めなかった。絶望を背中に背負いながらも人々は生きていた。時に笑い、時に泣きながら。

 もしかしたら、私たち人間は途轍もなく強い生き物なのかもしれない。


「マスターの美味しいコーヒーが最後に飲めて幸せでした」

 彼が立ち上がり、カウンターでグラスを拭いていたマスターに深く頭を下げる。

「こらこら、まだ地球が滅ぶとは決まっていないよ」

 笑顔を絶やさずにマスターが言う。マスターの笑顔は見ているとなぜか心が落ち着く。

「小惑星は地球から逸れるかもしれない。ぶつかっても大した被害はないかもしれない。まだ、わからんよ」

「……そうですね」彼は否定はしない。

 でも、彼は多分、世界中の人がそう思っているように、世界が今夜終わると思っているだろう。……多分、私も。

「今日は何時まで営業するんですか?」

 私が努めて話題を変える。マスターは器用にウインクをしてみせた。

「いつも通り9時までだよ。明日も早いのでね」冗談ぽく笑う。「私のような老いぼれにとって、毎日を同じ様に過ごすということは、それだけで、とても大切なことなんだ」

 マスターは明日が来ると本気で思っているのだろうか。

「例え、今夜世界が終わろうとも、今日は生きている。今は生きている。なら、我々は明日の為にしっかり生きるべきだ。違うかね?」

 質問をしておいて、答えを聞く気はなかったらしい。

「——少なくとも、私はそう思っている」 短く結び、暮れた空を見た。しばしの静寂。

「もし」彼が口を開いた「もし、隕石が逸れたら、モーニングコーヒーを飲みに来てもいいですか?」

 彼の質問に「もちろん」とマスターは答えた。「おいしいコーヒーを淹れて待っているよ、……インスタントだけどね」

 そう言ってマスターは「ははは」と愉快そうに笑った。


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