世界が終わるその夜に
ボンゴレ☆ビガンゴ
世界が終わるその夜に 上
「もし、私が神様だったらさ」
話しかけた声は確かに小さかったけど、彼の耳に届かない程ではなかった。それなのに。
「……ねぇ。聞いてる?」
「うん? ああ」文庫本に目を落としたままの彼は生返事。
「私が神様だったらさ」
声のトーンを上げるが、聞こえていないのか小説に夢中なのか、またしても返事はない。本を読み始めるといつもこうだ。テーブルの向こうの彼を半眼で睨む。
「……ん、なんだって」
間があって、ようやくまともな言葉を発した彼だが、私を見ることもない。相変わらず視線は手元の文字に向かったままだ。
「もーいい」
わざとらしくため息をつく。
彼はちらりとこちらを見たが、私が口を開かないのを見ると、すぐに本へと視線を戻した。一向に顔を上げる気のない彼への不満が私の頬を膨らませた。
結局、私が膨れっ面でレモンティーを飲み干しても、彼は手元の小説から目を離さなかった。いつも通りのマイペースな彼には本当に呆れる。
……今日が最後のデートだっていうのに。
二人でこの場所に訪れるのもこれで最後だというのに、思い出話の一つも出さないし、感傷に浸る素ぶりも見せない。
不満を口にしたくなるが、最後のデートで喧嘩するのは嫌だ。指先に無意識に現れた苛立ちのシグナルを抑え深呼吸する。気持ちを落ち着かせ、彼が本を読む姿を頬杖ついて眺める。運動をしていた学生時代に比べれば少し肉がついた頬。無造作ヘア、というか寝癖のまんまの髪。着古したセーターにダウンジャケット。あまりお洒落とは言えない、いつも通りの姿。
対して私はといえば、フルメイクだしお気に入りの白いコートも引っ張り出してきた。最後のデートくらい綺麗な姿を見せたかったから。けど、あいかわらず本に夢中の彼。
あまりに対照的な二人だと我ながら思うけど、こんな時でも普段通りの姿で普段通りに振る舞う彼に少しだけホッとしたのも事実だった。
◯ ◯ ◯
大学時代に知り合った彼と付き合いだしてもう十年。社会人になって同棲を始めてからは六年。学生時代の私は背の高い彼の笑顔を見上げるだけで幸せを感じていたし、彼も今よりずっと優しかった。一緒に出かける時はいつでも車道側を歩いてくれたし、私がネイルを変えるとすぐに気づいてくれた。特別ロマンティックな出来事があった訳ではないけど、それなりに素敵な恋愛をしていた気はする。
でも、同棲を始めると、徐々に二人の関係性は変わっていった。段々と二人でいることが当たり前になってしまったのだ。いつの間にか彼の笑顔を見るだけではドキドキしなくなったし、彼は私の事を置いてどんどん先を歩くようになった。
私は自分の機嫌の悪さを彼に隠さなくなったし、彼は私の事を「おまえ」と呼ぶようになった。
ここ二年ほどは食事を一緒に取ることも少なくなったし、仕事の関係で休日が合わなくなったので二人で出かけることも少なくなった。でも、それを寂しいとか悲しいとか、そういった風に思ったことはない。
愛がなくなったのかと問われれば、ちょっと考えるけど、やっぱりそんなことはないと答えると思う。私達は一緒にいることが、ただただ当たり前になっていたのだ。
結婚の話が出なかったのは、単純にお互い仕事も忙しく手続きが面倒だったからだ。
燃えるような恋の時代はすっかり終っていたが、それはまったく不幸な事ではなかった。穏やかで暖かな幸福が確かにそこにはあったのだ。
でも、それも今日で終わり。
こんな日が来るならば、もう少し自分の気持ちを、きちんと伝えていればよかった。今日が最後だからって取り繕って綺麗な言葉を吐いたとしても、それは嘘くさくなる。
どこまでも続く日常に甘えて、後回しにしてきたツケが今になって回ってきたんだ。絶対に伝えなきゃいけない感情や言葉があるはずなのに、まとめるには大きすぎて、それに対して残された時間はあまりにも短すぎる。
だから、私はくだらない『もし』なんて話を口にしたのかもしれない。
「で? 何するの? 神様だったら」
窓の外を見つめていた私は突然放たれた彼の言葉に気がつかなかった。
「え?」思わず聞き返す。
「だからさ、さっきの話。神様だったら何するの?」
視線を向けると、彼はいつも通りの気だるそうな表情で私を見ていた。
26階の荒れ果てた展望ラウンジ。以前はデートスポットとして有名だったこの場所も、今や寄り付くものは少ない。
「ちゃんと聞いてたんだ」
割れたガラスが窓辺に散乱し、吹き込んだ雨水が水たまりを作った床に、柔らかな夕日が差し込んで、キラキラと光の粒を撒き散らしていた。
眼下に広がる茜色に染め上げられた東京の街並みは荒み閑散としている。ビルの谷間を縫うように延びる大通りにはミニチュアサイズの車が数台流れていく。この前まであれだけ騒がしかったのに、今となっては寂しいものだ。
「私が神様だったらさ、こんな世界、今すぐ終わらせるのに」
はるか下界の街並みに唾でも吐き捨てるように言う。
「なんだよ、それ」
彼が苦笑いしながら私の顔を覗く。私は窓の外から目は離さない。
「いい夕陽だね」
「ん? そうだな。世界が終わるなんて、未だに信じられないよ。うちの親父なんか今日も普通に会社へ行ってるしな。最後くらいお袋と一緒に過ごせばいいのに」
「でも、そうやって最後まで普通に仕事をしてくれている人がいるから、電気も通ってるし、ここまでエレベーターで来れたんだよね。スマホの電波だってとりあえずは飛んでるんでしょ」
「まあな。速度は最悪だけど。それでも文句は言えないか。アメリカじゃ、もう二ヶ月も前から電気は止まってるらしいから」
こんな世界になっても、大規模な略奪や暴動が起こらなかったのは、日本人の誇るべき国民性が見せた奇跡なのかもわからない。
二人で見る最後の夕日に眼差しを向ける。荒廃した、いつもの変わらない街並を私は目に焼き付ける。黄昏ゆく空に、またキラリと一筋、流れ星が瞬いた。
二人とも口を閉じ、ただ暮れていく夕日を眺める。無言が苦にならない間柄。それは心地のよいものだ。
「最後だってのに、あなたはいつもと同じね」
溜息まじりに呟く。呆れるそぶりを見せながらも、私は自然体の彼が羨ましかった。私は怖い。世界が終わるのは、とても怖い。
「どうしようもないことで悩んでも、それこそ、どうしようもないでしょ」
そんな屁理屈をこねて、彼はまた文庫本を広げた。
でも、正論。手の打ちようがない事をあれこれ悩んでも仕方がない。
今日で世界は終わる。
それはどうしようもない事実なのだから。
……全ては十年前。インターネットの匿名掲示板に書き込まれたある情報が、すべての始まりだった。
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