臆病者の魔女
曇り空は、いつの間にか夏を取り戻していて、海も穏やかな笑みを浮かべている。
僕は、送る目的のない手紙を書くみたいに海を眺めながら考える。
上崎が提案した<魔女と未完成タイムマシーン>の噂――僕にとっては、耳にするまで記憶にすらなかったものだ。だけど、触れてみると僕の深い部分まで根を張るとても難し問題だった。
魔女という非現実的な存在――彼女は、臆病だ。でも、臆病の裏側には、優しさ、が隠れている。
僕は、そう思う。
彼女は言っていた――あなたの部品があるはずです、と。確かに、僕には、僕の部品があった。今も、手のひらに強く握られている。
魔女と未完成タイムマシーンのタイムマシーンは、未完成ではない、と噂では言われている。
全くその通りだ。
タイムマシーンは、未完成なんかではない。魔女の持つ部品が、タイムマシーンに噛み合わず動き出せないでいるのだ。こればっかりは、魔法では解決できない。
そろそろ、答えを言ってもいい頃だ。でも、もう少しだけ待とう、彼女が来るはずだ。
すると、後ろからゆっくりと足音が聞こえてきて、僕の後ろで止まった。
僕は、階段の上から三段目あたりに腰かけている。
足音の持ち主は、階段の一番上で佇んでいる。
「部品は、みつかりましたか?」
僕は、海を見ながら答える。
「えぇ、見つかりました」
魔女は、「そうですか」と無関心に聞こえるが、その声は、どこか悲しげにも聞こえる。
「あなたは、とても臆病で、とても優しい人ですね。 僕の知っている人にも、あなたのような方がいます」
魔女は、何も答えない。無言が、彼女の相槌だ。
「僕と出会った事実を消したのも優しさからですね」
魔女は、やっぱり無言の相槌を続けていた。でも、この問いから先は、魔女が答えを言う番だ。そうしなくては、先に進めない。
しばらくの静寂の後、とても小さい声で魔女が口を開く。
「優しさと聞かれたら分かりません。 誰かの涙を見たくないことが優しさでしょうか?」
「もちろん、僕も涙は見たくありません。 笑顔からの涙も不格好だと僕は思います」
「……私は、あなたの涙を見たくありませんでした。 あなたが、罪を背負い、涙を流す姿が耐えられませんでした。 私は、臆病です。 涙が怖いです」
魔女の声は、震えていた。誰かが抱きしめてあげなくては、崩れてしまいそうなほどに。
でも、僕が、抱きしめることは出来ない。
まだ、僕と彼女の関係は、魔女と少年のままだ。
「僕の涙は、少女のせいです。 だけど、それは、少女を失った涙です。 この涙を止めるためには、少女が隣にいてくれなくては……いなくちゃいけないんだ」
僕は、立ち上がり、魔女を見た。
魔女は、群青色のワンピースを着て、麦わら帽を深く被り俯いている。足元には、点々と雫の後が付いている。
「あなたは、僕を恨んでいる?」
魔女は、感情を乗せ、声を震わせながら言う。
「違うよ。 君が、私を恨んでいるでしょ?」
魔女が、俯いていた顔を上げる。大きくて丸い瞳に涙を浮かべ、とても不格好だ。
彼女には、笑顔が似合う。夏と海と雲一つない青空が、彼女の前には広がっているんだ。あとは、笑顔だけ。
「あなたが、望む部品は、感情ですね? 僕の感情は、少女を救いたい。 罪滅ぼしなんかじゃない。 また、夏の夕暮れに手を握りながら、今日という過去と明日という未来を語り合いたいんだ」
魔女は、嗚咽を堪えるように涙を溢す。
でも、抱きしめてはいけない。
彼女は、まだ、魔女だ。
「はい。 部品は受け取りました。 お礼は、知っていますか?」
もちろんだ。僕の答えは、八年前から変わらない。
「八年前の八月四日に行きたい」
魔女は、無垢な笑顔を浮かべて、僕の顔を見る。
あぁ、とても綺麗だ。
「わかりました。 明日、あなたが行きたい過去の時間、海を見下ろせる公園にいてください。 必ず、過去に繋がります」
魔女は、言い間違えないよう慎重に一言一言を話し、背を向ける。
僕は、遠ざかる背中に、一つの約束を投げかけた。
「ねぇ、明日、一緒に勉強しようよ」
魔女は、一度、立ち止まる。
僕には、魔女の背中しか見えない。彼女の綺麗な顔も涙を見ることは出来ない。
魔女は、すぐに歩き出した。
魔女の背中を見送ってから、海に視線を送った。
とても綺麗な青だ。きっと、青空を鏡みたいに映し出しているんだろう。
なんだか、無性にドクぺが飲みたくなった。あの独特な味と炭酸の刺激が恋しくなった。
まぁ、でも、今じゃなくてもいい。明日、上崎と僕、それと或る女の子の三人で飲めばいい。
僕は、ドクぺの味を想像して、魔女を思い出した。
***
八月何日だろうか。
僕は、ぼんやりとそんなことを考えながら、夏日が降り注ぐ外を歩いていた。
すると、視線の先に、赤と白のコントラストが特徴的な自動販売機を見つけて速足で近寄る。こんな暑い日には、独特な炭酸飲料を飲みたい気分になる。
今日は、友達と勉強をする約束をしている。
大学受験を控える高校三年生、一年前のように或る噂を追って不思議な日常を送る余裕は、どこにもない。
ドクターペッパーを三本買った僕は、また、待ち合わせな場所へと歩き出す。
やけに、蝉時雨の喧騒が似合う日だな。僕は、なんとなく、そう思った。
今日は、八月何日だっけな。
ポケットに手を入れれば、狂いのない日付と日時を表示しているスマホがある。だけど、今日の日付は、あと少しのところまで出ている。ここで、答えを見るのは悔しい。
「おーい、ソウタ!」
遠くから鈴の音を鳴らしたような可愛らしい声が聞こえてくる。
僕は、体ごと振り返り、声の主へと手を上げて答えた。
「ゆき、おはよ」
「おはよ、ソウタ」
高校三年生の女子は、友達を見つけて笑顔を振りまきながら駆け寄ったりはしない。だけど、ゆきには、それが当たり前で、彼女には欠かせないアイテムだ。
僕は、息が上がっているゆきの首元に、買ったばかりのドクぺを当てる。
「ひゃっ、冷たい! もう、びっくりしたでしょ!」
僕と頭一個分くらい背丈の違うゆきは、なんだか、幼く見える。僕は、その姿を見ると胸が高鳴るような、締め付けられるような、嫌ではない感覚が混む上げてきて、思わず視線を外してしまう。
変な恥ずかしさを隠すために、ずっと考えていた疑問を投げかけた。
「なぁ、ゆき、今日って何日だっけ?」
ゆきは、顎に手を置き、空を眺め、答える。
「えっと……四日だよ! 八月四日!」
あぁ、今日は、四日か。
――魔女と未完成タイムマシーン
心の奥底で呟かれる。目の前にいる少女は、この噂を知っているのだろうか。
僕の好奇心が騒めきだす。
「ねぇ、ゆき――」
ゆきは、ドクぺに口を付けてから「なに?」と首をかしげる。
「魔女と未完成タイムマシーンって噂、知ってる?」
僕は、ゆきに視線を送らないで、青空だけに向けて問う。彼女が、どんな表情をしながら言ったとしても、魔法という言葉で片づけて、全てを信じるつもりだ。
「なにそれ? 知らないな」
僕は、思わず微笑んだ。
魔女は、臆病ではいけない。人から嫌われ憎まれる存在でいなくてはいけないんだ。臆病者だとしたら、魔女の定義は崩れ去る。
だから、ゆきは、噂を知らなくていい。
「暑いけど、手繋ぐ?」
「繋ぐ!」
僕が差し出した手を、ゆきの白くて小さな手がぎゅっと握りしめる。今は、互いに何も語らなくていい。停滞した僕の心に、感情という部品を当てはめて動き出させよう。
「ありがと」
魔女は、笑顔で呟いた。
八月の魔女は臆病者【完結】 成瀬なる @naruse
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