而して、船装ふ

「紅葉よ、私はあの星へ戻ろうと思う」


 そう言った私を見る紅葉の、なんと愛らしいことか。

 ついと目を細めれば、私が笑ったことに気付いた紅葉は目に涙を溜めてじっと睨む。

 どうやら、置いていかれると思ったらしい。

 今もこうして膝へ載せているというのに、なんともいじらしいことだ。

 よくないとは思っても、いたずら心が湧いてしまうのは仕方のないことだろう。


「あの星は紅葉が知らないものばかりだが、この星にも紅葉が知らないものはたくさんある。紅葉はこの星で、知らないことを学ぶかね」

「いやです」

「どうして。知らないことを知るのは、楽しかろう。お前は私に、話ばかりを強請ねだる」

「紅葉は……あるじさまのお話が好きです。あるじさまに教えてもらうから、好き」

「はて、しかしそれは、私しかそばにないからではないかね。他に教えてくれる者があれば、そちらを好きになるかも分からない。私よりもっともっと、話が上手い者がたくさんあるのだからね」


 色を失った紅葉の瞳が潤んで、ゆらゆらと揺れる。

 そうして、つい、と目じりから光が走って、透明な雫が頬を滑り落ちた。


「すてますか」

「うん?」

「あるじさまは、もう、紅葉のこと、いらないの、ですか?」


 静かに涙を流す紅葉は、それはそれは、美しかった。

 まろい頬を伝って雫が落ちる――それは例えば、奔星ほんせいのように。

 役目を終えたとばかりに着物へ染み込んでいく涙が惜しくて、私はそれを唇で掬い上げた。


「ひぅ」

「いじめすぎたようだ、どうか泣かないでおくれ」

「いじめ……?」


 ぱちりと瞬かれた紅葉の瞳から、また、雫が落ちる。

 もう一度唇で掬ってやって、そうして、二つの角へ唇を寄せた。

 腕の中で今更になって緊張したのか、身を固くする紅葉は、微かに身を震わせながらもじっと見上げてくる。

 私が何か言うのを待っているのだ。


 紅葉をこうしていじめてみながら、本当は自分自身への問いかけという意味合いもあるのではないかとふと考える。

 私は私自身を、もっともっと自分勝手だと思っていたのだれども――いや、自分勝手であるのは間違いなく、ただ、紅葉だけは、紅葉の思いだけは尊重してやりたかった。

 それは思いやりというよりきっと、私にとって紅葉がいつの間にか、切り捨てられない存在となっていたからなのだろう。


「お前の好きな景色がなく、好きな花も見られず、見上げた星の並びには少しの覚えもない。この星を懐かしく思っても、戻って来られるかは分からない」

「あるじさま……?」

「随分昔から、私達の祖先がこの星へやって来ているから、少しずつ、似通ってはいるけれどもね。ここはここで発展しているから言葉も違うし、習慣も違う。いや、正しく言うなら、何もかもが……この星とは違う」

「は、い……」

「それでも」


 長い黒髪を梳いて、毛先を指に絡める。

 つるりと逃げるそれの柔らかさを楽しみながら、静かに息を吸った。


「共に行くかね、紅葉」


 紅葉の目が丸くなる。

 血の気が失せていた頬が、ほんのりと染まっていく。


「行きたいっ……紅葉はあるじさまと、一緒にいたい、です」


 ああ、と。

 思わずもれた息は、まちがい無く安堵から来るものだった。

 何をしてでもこの女は、私を選ぶのだと。




 この星にいられるのは、七年という期限があった。

 宇宙開発初期は、違う星へほんの一時ひととき降りるのが精一杯だったらしい。

 それが年を重ねるごとに滞在出来る時間が幾日幾月と増えていき、年単位でいられるようになったのは、この青い星を見つけたからだ。


 そうしてから私達は、その祖先は、この星を私達の星に似せるため、様々な試行錯誤を続けてきた。


 既にある程度の知能を備えた生命体があったのは少しではあったけれども、そこから知的生命体へと作り変える。

 それらは私達を神と崇めたし、教えてやった知識を使いこなす器用さがあり、むしろ便利な存在となった。

 ここまで様々に分かれて独自に文化を発展させたのも中々に面白い。

 当初の予定とは少しのずれがあるけれども、どうということはない。

 神であることをやめ、気付かれない程度に、私達が紛れていけば良いのだ。

 角を隠す手段などは幾らでもある。

 私が頭巾を被るのは色もいじらなければならないから面倒なだけで、素顔を晒して歩いているものはたくさんあるのだ。


 こうして混ぜていく途中で、時たま紅葉のような子が生まれる。

 簡単にいえば、先祖返りというやつだ。

 その子達は私達のように隠す術を知らず、そのせいで鬼だなんだと虐げられる。

 そういう子を保護するのが、私の役目だった。


 紅葉の他にも、幾人も保護している。

 この星へ残っても問題ないだろう者は教育を施して違う場所へ、無理ならば私達の星へと連れていく。

 そういう決まりだ。


 私は、罪を犯した。

 決まりを破ったのだ。

 一目見て紅葉を気に入ってしまったから、誰にも明かさずに手元へ置き続けた。

 星へ戻ったとき、私は罰を受けるだろう。

 けれども、紅葉にはなんの罪もない。


 私達の星まで船で一年半ほどかかる。

 その間に、こうして私と共にありたいと願う紅葉を、私がなければ生きられないようにしてしまえば良い。

 何よりも優先されるのは、保護した者が健やかであること――だからこそ、紅葉が私から離されることはなくなる。


「離してなるものか」

「あるじさま?」

「いや。ふむ、そうだ、紅葉。これからは、私を名で呼ぶように」

「いいのですかっ?」

「ああ、勿論だとも。私の名は――」


 帰還の旅の始まりまで、あと半年。

 私は、紅葉と自らとを囲う檻を頭の中に描きながら、腕の中の温もりを抱き締める。


 而してそして船装ふ出港の準備をするのだ。

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而して、船装ふ 相良あざみ @AZM-sgr

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