まつろわぬ雅び男

 いつから見世物にされていたのか、紅葉は覚えていない。

 ただ、物の分かる歳になるよりずっと前から、紅葉の世界はあの座敷牢の中だけだった。


 あすこへは最初、一緒に閉じ込められていた人があった。

 抱き締めてくれて、言葉を教えてくれて、着物を縫うことも、付けられた名が持つ意味も、その女から習った。

 紅葉という生き物をその女が作ったと言っていいほどに、何もかもをくれた女だ。

 その女にも角があって、格子の外から来る者は角がなかったから、紅葉はその女だけが自らと同じものであると、そう分かっていた。


 どのくらい前だったか。

 女は、格子の外から来た男に特別されて、朝には冷たく、動かなくなっていた。

 恐ろしくなってわんわん泣きながら女を揺すったけれども、どうやっても、目を開けて笑ってはくれない。

 声に気付いてやって来た婆が顔を真っ赤にして何かわめいても、紅葉の耳へは届かなかった。

 泣き止まないでいる内に婆が他の角がないのを連れてきて、引き剥がされ、その女は外へ運ばれる。

 そうしてそのまま、戻らなかった。


 ひとりぽっちだ。


 紅葉はそれが分かって、二度と笑わなくなった。

 笑えなくなったのだ。


 それから、婆は格子の中へ男を入れなくなった。

 見世物にして稼いでいると女から聞いて知っていた紅葉は、ああして冷たく動かなくなっては困るのだということも分かっていた。

 酷くされるのは嫌だけれど、さっさとああして冷たくなってしまえれば楽かも知れない。

 そんなことを考えても、紅葉は他にどうしたら冷たくなるのか、分からなかった。


 頭巾姿の背の高いのがやって来たのは、そんな折のことだ。


 婆が妙な顔をして格子の間から紙を投げつけてくるものだから、なにかと思って広げてみれば、そこには、の絵が描いてあった。

 お前を買うっていう妙な男があると、そうしてちゃあんとして、二度と戻るなときひきひと笑っている。

 やっと冷たくなれると、そう思いながら言われるがままに紅葉はそれを懐へとしまった。


 そうしてやってきた頭巾の男は、何故だか、温かかった。

 抱き締めてくれたのはあの女だけで、きっと、格子の外からやってきた他の何かに同じようにされても、何も感じないだろうと思っていたのに、どうしてか、温かかった。

 震えた自分を強く抱き締めて歩くその腕に、どうして涙が溢れるのか。

 分からなかったけれども、紅葉はその涙がとても温かいことに気が付いた。


 早く冷たくなってしまおうと思ったのに、途端に惜しくなった。

 もう二度と温かい腕を感じられないと考えるだけで、妙に胸がざわざわする。

 だから紅葉は問い掛けられても何も分からないと答えたし、それを信じてくれた頭巾の男を、良いと思った。

 楽しいことを探してくれるというから、もっと良いと、そう思ったのだ。


 言葉の通り男は色々と楽しいことを探してくれたけれども、紅葉は、男といるのが一等楽しいことだと、すぐに気が付いた。

 紅葉が知らないことはたくさんあって、きっと、男が知っていることがたくさんあった。


 白かったり、赤かったり、青かったり、夜の空に点々と散りばめられているのは、星というらしい。

 まあるくて大きいのが月というのは女に聞いて知っていたけれども、それが一等近くにあるから大きく見えるのだというのは初めて知った。

 そうして星の中のひとつを指して、男が自分はあれから来たという。

 遠くの白い山の、ぽつんと空いた黒っぽいところよりうんと小さいのにと紅葉が首を傾げれば、近付いたら月よりもっともっと大きいのだと男は言った。

 そうして、今いるのが星のひとつだとも教えてくれた。

 紅葉は不思議でならなかったけれども、男が言うならそうなのだろうと思ったのだ。


 星をじっと見つめて、紅葉はある時不意に、目が覚めたような気になった。

 そうだ、あの女と自らは、同じように違う星から来たのじゃないだろうか。

 だから、自分はひとりぽっちになったのじゃないだろうかと。


 頭の中でだけ、紅葉は、自分は男と同じ星からきたということにした。

 きっとあの星には、たくさん自分みたいのがあって、見たことがないのがたくさんあるのだ。

 男は相変わらず頭巾を被っていたけれども、その目が柔らかく細まるのや、低い声が自分を包んでくれるのが分かっていたから、紅葉は気にしたことがない。

 ただ、本当に同じであればいいのにと、いつからか思うようになっていた。




 婆を殺すかもしれない。

 紅葉もその頃には、冷たくなるのが死ぬということなのだと理解するようになっていた。

 殺すというのが、死なせることだというのも理解していた。

 ただ紅葉は女が死ぬのしか見たことがなくて、あのをすると死ぬのだと思ったから、男が婆を殺すのは、何だか嫌だった。

 婆はどうでも良かったけれど、男が他のに触るのが嫌だ。

 それと同時に、自分が死ぬならどうしても男にされたいとも思った。


 髪から手が離れて、男が息を吐くから、少し怖くなる。

 でも、男が頭巾に手を伸ばすと、怖いのが吹き飛んで少し、胸がどきどきした。



 それは、紅葉がこれまでに見た男の中で、一等美しい男だった。



 目が、夏の夜空みたいな深い青色をしているのは、途中から気付いていた。

 睫毛も同じような色をしていて、日に青く透けることにも気付いていた。

 ただ、後ろへ撫でつけられた髪も同じ色をしているのは初めて知ったし、額の真ん中の、上の方へ自分より大きな角があるのは、初めて知った。


 そうして教えてくれたのは、男と紅葉が、同じ血を持つ生き物であることだ。


 嬉しいと、その思いが胸へ込み上げる。

 それは自らがひとりぽっちでなかったことも勿論あったけれど、何より、男と一緒であるのがとてもとても、嬉しかった。

 抱き締めてくれる腕に、身体を震わせる。

 初めて会ったとき――抱き上げられてその腕の温かさに震えたのは、嬉しかったからなのだと、紅葉はそのとき漸く知ったのだった。

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