而して、船装ふ

相良あざみ

鬼の如し清し女

 それは、私がこれまでに見た女の中で、一等美しい女だった。

 その身に纏うのは縮緬ちりめんの黒い着物で、燃える山が――紅葉が染め付けられている。

 今時分、遠くの山々は白く染まっているにも関わらず、だ。

 私をここへ案内した婆は、これはその柄しか着ないのだと不機嫌に告げた。

 腰より幾らも長く伸ばされた射干玉ぬばたまの髪が、くたびれた畳へ広がっている。

 高い位置から差し込む一条の光が星を産んで、女の髪を宇宙に変えた。

 横顔をじっと見る。

 額に生えた二つの尖りが、髪を分け、覗いていた。


「名は何と」


 視線の先で、女が、のったりと首だけを動かす。


紅葉もみじ


 格子の奥で、二本角の女が、私をじっと見つめていた。




 紅葉を、私は貰い受けた。

 金子きんすを詰めた袋を投げてやれば、婆はすぐに表情を笑みに変える。

 品のないことだ。

 そうは思えど、言ってやるつもりもない。

 羽織袴に竹田頭巾――目だけが出る頭巾だ――姿の得体の知れない男を、金をちらつかされただけで招き入れたのだ、その時点で高が知れている。


 錠を外させ座敷牢へ足を踏み入れる私に、紅葉は何も言わず、袋を懐にしまい込んだ婆は堪え切れぬとばかりにきひきひと笑う。

 鬼を飼っているのだと聞いて訪ねた場所で見せられた紅葉より余程、鬼のように思えた。

 鬼だ、鬼婆だ。

 鬼婆の元から、美しき女を救い出してやるのだ、私は。

 頭巾の下で口を歪めて、頭から私の羽織を被せてやった。

 座敷牢は冷えるけれども、外はそれよりもっと、風が吹く分だけ余計に冷える。

 外へ風が吹くことすら知らない紅葉は、されるがままにうつむいた。


 胸へ隠すよう横抱きにして、村の真中の道を行く。

 いっそ見せびらかしてやりたい思いと、誰にも秘しておきたい思いが、私の中でせめぎ合う。

 けれども、ひいやりした風に身を震わせた紅葉がかなしくて、私は余計に抱き締めて足を速めたのだった。




「紅葉、私はお前を、金で買った。この意味が、分かるかね」


 そう問う私に、紅葉はわずかだけ目を伏せる。

 暫く思案してから、蚊のなくような声で、分からない、と呟いた。

 けれども、そのまま口を噤んだかと思えば、懐を探り数枚の紙を取り出す。

 枕絵だった。

 あの鬼婆、私を待たせて何をしていたのかと思えば。

 こういうことをするのだと――間違っても不興を買って戻って来ることのないようにと、きつく言い含められたのだと、紅葉は言った。


 ――とはいえこれが何であるのかが、よく分からない。何を望まれて、何を望まれないのか、分からない。

 

 穢されていないのだと、清いまま籠の鳥にされていたのだと、そう私が喜んでいることを明かしたなら、紅葉はどう思うだろうか。

 恐らくは、その意味すら分からないのだ。

 けれども私は、それで良かった。

 冷ややかな座敷牢へ閉じ込められていた紅葉という女を、ただ、手元に置きたいと思った、それだけなのだから。


「あるじさま、紅葉は、何をしたら」

「紅葉はいつもあすこで、何をしていたね」

「座っているか、着物をぬうか……」

「それをするのは、楽しかったかい」

「たの、しい……?」


 ゆるりと首を傾げた紅葉は、それからじっと俯いて考え込む。

 楽しいかどうか、考えなければ分からないのだと思えば、ひどく哀れだった。

 私は黙ったまま、小さな二本の角を見つめる。


「それしか、して良いことがなくって」


 相変わらず、蚊の鳴くような声だった。

 私はただ、なるほどと頷いてやって、そうしてから紅葉の髪を指で梳く。

 始めは身を固くしていた紅葉も、次第に力を抜いて心地好いという風に目を細めた。


「なれば、お前が楽しいと思うようなことを探してやろう」

「あるじさまが」

「お前の知らないことが、世には星の数ほどあるのだよ」

「はい」


 こくりと頷いた紅葉の頬は、期待に淡く染まっているようだった。




 あれから、幾月が過ぎたのか。

 紅葉はよく笑うようになった。

 楽しいと、嬉しいと、頬を染めて私を見上げた。

 紅葉が一等好きなのは、私の話を聞くことであるらしく、その中でもよく、星の話をねだる。

 いたずら心を出して、あれが私の生まれた星だと指をさしてやれば、その星のことばかりを聞きたがった。

 ここにはない生き物がいて、ここにはない草花があって、馬より遥かに速く走る乗り物があるとか、瞬きをする間に行きたいところへ行く術があるだとか。


「けれどね、紅葉。あの星はいつか、なくなってしまうかも分からないのだよ」

「なくなって」

「そうだ。だからね、私は仲間達とここにやって来た」


 紅葉は、人懐こい猫のような瞳を瞬かせる。

 日に煌めく黒髪を撫でてやれば、もっとと言うように私の手へ頭を押し付けた。

 やはり猫のようだと、少し笑う。


「私達は、ずっとずっと昔から、ここを、この星を私達の住み良いように少しずつ変えてゆく、そういうことをしている」

「住みいいように」

「ああ。だからもし邪魔になれば、あの婆などを、私は殺すかも分からないな」

「ころすの」

「……恐ろしいかい」

「ううん。あのね、紅葉をころすときは、あるじさまの手で、ころしてください」


 髪から手を出す離せば、紅葉は名残惜しいという風に私の手を目で追った。

 そんな無邪気な様子を見れば、死というものをきちんと分かっていないのではないかと頭に過る。

 けれどもそれは違うとも、分かっていた。


 ふと息を吐く。

 頭へ手を回した私を、紅葉が目を瞬かせて見上げている。


 頭巾を外したのは、そこが初めてだった。

 紅葉はそれまでずっと、頭巾から覗く私の目しか見たことがない。

 何故かといえば、そう、恐らくは、私が紅葉を信じていなかったからだ。


「あ」


 紅葉はそう言ったきり、私の額をじっと見つめた。

 どんな反応をするかとそのまま様子を眺めていれば、自らの額に手をやる。

 指の下にあるのは、自らの二つの角だ。


「いっ、しょ」

「ああ」

「あるじさまも、角がある」

「そうだな」

「でも、ひとつ」

「男はそうなのだよ、私達の星ではな」


 自らの角から手を出す離した紅葉は、私の額の真ん中から生えた角に、そうっと触れる。

 確かめるように何度も撫でるものだから、むず痒く、つい笑った。


「どうして、一緒なの」

「言ったろう、昔からこの星を住み良いように変えているのだと」


 不思議そうに目を瞬かせる紅葉の角を、私も撫でてやる。

 擽ったかったのか肩を竦ませる紅葉を膝の上に抱き上げて、そうしてから柔らかく抱き締めた。


「紅葉、お前はね、私達と同じ血が流れているようだ」

「同じ、血」

「そうだ」


 うれしい、と、紅葉は呟いた。

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