夜行

葱間

夜行

 先ほどまで雨が降っていたが、今はもう嵐は去り、外は凪になっていた。けれど病室の窓から見える空は真っ黒で、今にも落ちてきそうである。

 そんな空を、蓮季は見つめたまま動かなかった。肺、喉、口を貫く管から時折、こぽこぽと音が鳴るくらいで、あとは静かだ。

 こぽこぽ。彼女の音だけが病室に響いていた。

「さっきから何を見ているの、蓮季?」

「空。嵐は去ったのに、真っ黒な歪な空。引き込まれてしまいそうな空」

 蓮季の瞳はどこか遠くへと向けられていた。彼女はこちらを振り向くことはなく、ただただ空を、外をぼぅっと見つめている。その目に理性はない。

 そろそろ、ということなのだろうか。僕は、その時が来るのがあまりにも唐突であったことにショックを受けると同時に、しかしそれでいて意外に平気そうである自分に驚いていた。もっと取り乱すものだと思っていたのだが、僕の感情とやらはどこか渇いていたらしい。潤いを増していく蓮季とは正反対だ。まるで、僕の心の湿気が彼女に吸い取られてしまったかのようであった。

 よいしょ、と声を出しながら立ち上がると、蓮季はやっとこちらを見る。その瞳で、どうしたのかと問いかけていた。

「ちょっと先生の所に行ってくるよ」

 そういうと彼女は、納得したのか再び窓の外を見る置物と化してしまった。

まるで外に想い人でも居るみたいだ。僕は笑えない冗談を噛みしめた。苦かった。

 結局、部屋から出ても彼女は大した反応も示さなかった。少し寂しい気分がした。

 もう夏だというのに病棟の廊下は寒く、僕は急ぎ気味に先生の部屋へと向かった。階段を一息で二階分下り、一階にある先生の部屋の扉まで小走り。途中で誰にも会うことなく目的地までたどり着くと、扉を軽くノックする。こんこん。

「はい、どうぞ」

 中から先生の声が聞こえたので、部屋の中に入らせてもらう。先生はくたびれた白衣のしわを直しながら、僕を出迎える。アルコール消毒液の匂い。傍らには何故か車いすが置いてあった。

「どうかしたのかい、水瀬くん」

「蓮季がそろそろかもしれません」

 明るめの先生の声に対して、僕の声は暗かった。先生は、その表情に少し影を落とし、俯きながら傍らの車いすを僕の方に押した。

 きぃぃ。車輪の音が耳に届いた。

「だろうと思っていた。最近の岸部くんは、何処か上の空な様子だったからね。けれど……やはり唐突なものだね」

 先生はそれだけ言うと黙り込んでしまったので、僕は車いすを押して部屋を出る。

「それでは先生……たぶん今夜にでもいってきます」

「分かった。それまでに一回、私も顔を出そう」

 先生はそれだけ言うとまた静かになった。


 僕は部屋に戻り、未だに静かな蓮季と、夜になるまで一緒にいることにした。

 そのうち周りは暗くなり、夜になって先生が来た。先生は蓮季と一言二言、言葉を交わすと彼女にまとわりつく管やら何やらを外した。そのあと僕にこの病院の近くの海への地図を渡すと、すぐ出て行ってしまった。僕は先生にかける言葉もなく、その背中を見送った。

 ここからは僕の役目だった。管が外れ自由になった蓮季に肩を貸しながら車いすに乗せる。蓮季は特に何も言わずに黙って僕に従っていた。

 車いすに座った蓮季は、体を急に動かしたからか、少し多めに水を吐いた。濡れた彼女の口をハンカチで拭ってやると、嬉しそうに目を細めた。

「じゃあ、行こうか」

 僕がそういうと蓮季は一つ頷いて、それ以外は何も言わない。車いすを押して、僕らは病室を、病院を出る。それは二年ぶりのことだった。

 きぃぃ。


 夜の海は暗く、仄かな月の明かりが頼りだった。

 蓮季は道中何度も水を吐いた。それは海に近づくほど頻度を増していた。拭ってやろうと僕が足を止めると、早く連れていくようにせがむので、途中から足は止めずにまっすぐ海に向かった。

 海に着くと蓮季は弱った足で何とか立ち上がり、ふらふらと危なげに歩きだした。僕はそんな彼女を見つめたまま動かない。いや、動いてはいけないのだった。

『海還り』のそのとき、他の何人たりとも邪魔をしてはいけない。それは規則だった。僕はもどかしい思いを感じながらも、黙って蓮季を見守っていた。

 やがて蓮季が海へたどり着く。しかしその足を止めることはなく、躊躇せず水の中に入っていった。ちゃぷちゃぷと進み、腰が水に浸かるまでになってようやく止まる。そこまでいって、ようやく彼女はこちらを振り向いた。

 波の揺らぎと蓮季の動きに応じて夜光虫が光る。幻想的な光に照らされた彼女はとても綺麗だった。僕はかける言葉が見当たらず、その美しさにただただ息を飲んだ。

 蓮季は少し恍惚とした表情をして僕を見る。それは、僕と彼女の十六年の間で、初めて見る表情であった。みっともない嫉妬が僕の心を満たした。

「青。青。青」蓮季が僕を呼ぶ。「青、こっちに来て。今すぐに、潮風より速く」

 僕は少し躊躇した。ただ見守っているのが役目だと思っていたから、まさか蓮季に呼ばれるとは考えてもいなかった。

 どうするべきだ。考えて僕は結局やりたいようにやることにした。いつも通りに。

「待ってて蓮季、今行く」

 僕は砂浜を走った。濡れた砂が足を掴むが気にしてる暇はない。すべて無視して走った。

 走ってそして、辿り着く。夜の海は優しく暖かかった。手招きする蓮季に吸い寄せられるように僕は、海を押し退けて前に進んだ。

「青、来てくれたのね」言って、蓮季が淡く微笑む。その瞳は理性を宿していた。「最期だもの、あなたが傍に居ないんじゃ終われないわ」

「最期……」僕の声は波間に消えていく。「どうしようもないのかい、蓮季。今すぐにこの海から上がって、二人で『夏なのに寒いね』なんて笑い合いながら帰る道はもう無いというのかい? 」

 蓮季は少しだけ躊躇いがちに頷いた。「どうしようもないことは貴方が一番わかっているのでしょう、青。私は呼ばれた。だから還らなければならない。それだけのことで、そしてこれは覆せないこと。あの夜に私が水を吐いた時にそれは決められたことよ」

「それは……」

 蓮季の言葉を、僕はうまく咀嚼できないでいた。確かに彼女の言う通り、全てがもうどうしようもない閉塞の中にあることは確かであった。『海還り』とは、宿命と置き換えられるものであり、彼女が二年前に水を吐いた時にそれは決まってしまったことであったのだ。

 けれど、それではあんまりだ。問答無用で別たれるなど、あまりに受け入れがたいことであった。二年前には固まっていたはずの僕の覚悟は、今になってふやけてしまった。

「青、手を握っていて」と言って蓮季は、僕に両手を差し出した。「柄にもなく、不安なの私」

 僕は少し逡巡してから蓮季の手を掴んだ。そうしないといけない気がした。そうしておけば彼女を繋ぎ留められるのではないかと思った。

「思えば、二年間ずっとあなたは傍にいてくれたのね」蓮季がふと零した。「それなのに私ったら、あなたを蔑ろにしていた気がする。傍に居てくれたあなたに気づかず、海にばかり気取られて……どうして今になってこんなにも後悔が溢れるのかしら」

「僕は君の傍にいられたらそれだけでよかったんだ」僕は零せるだけの言葉を零した。「二年前から、いや君と会った時からそれは変わっていないんだ。だから君が僕を蔑ろにしても構わなかったんだ。謝罪も謝辞もいらない。ただ君の傍にいたい、それだけだったんだ」

「……」蓮季は何も言わなかった。

 ざぁぁと、一際大きく波が揺らいだ。その勢いに煽られるように夜光虫たちがその輝きを強くする。僕らは何時しか光に囲まれていた。それはネオンライトや蛍光灯の明りとは違う幻想的なものだった。

「時間ね」蓮季が呟いた。彼女の瞳から、理性の青が消えかけていた。

「行かないで、蓮季」僕は漸く伝えなければならない一言を伝える。「お願いだ。一生かけて返すから、僕のお願いを一つくらい聞いてくれ。僕は君に、傍に居てほしいんだ」

「その一言は」と言って蓮季は、僕を引き寄せた。「二年前に言ってほしかった」

 僕と蓮季の距離が縮まり、零になる。重なる唇から伝わる情熱は、僕が求めていたもので、彼女があげたかったものだった。

「蓮季」僕は名前を呼んだ。

 同時だろうか、夜光虫が爆発したように輝き、蓮季が水になった。重ねていたはずの唇が消え、口の中に塩気の強い水が流れてくる。突然のことに思わず噎せてしまう。咳き込むごとに、僕は蓮季を失った。

 夜光虫たちは僕の周りから離れていった。何かを運ぶように沖へと列を作る。それは魂を運ぶ光の道である。蓮季はその道を渡っているのだろうか。

「蓮季」僕は彼女の名前を呼んだ。

 けれど、答えは返ってこない。帰ってくるはずがなかった。

 屈んで、水面を漂う蓮季の残滓を拾い上げる。彼女の身につけた衣服は、すっかり温もりを失っていた。

「蓮季」

 僕は拾い上げた衣服を抱き締めた。

 夜光虫達は。蓮季は、もう何処かへ消えていた。


 ――岸辺蓮季が水を吐いたのは、丁度二年前の海の日の事でした。

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