80年代から90年代に流行った終末思想を2010年代の、平成も終わりかけの今になってまで言い続けている古臭さが漂う作品だと言えるかもしれない。だけれども、そこがまた魅力だ。
ノストラダムスの大予言、鶴見済の完全自殺マニュアル、各章やエピソードのタイトルに散りばめられた、終末思想を描いた作品のパロディ要素。
私も思春期の頃にはよく、世界の終わりを願ったものだと思い出した。2012年に終末が訪れるなどというマヤ文明の予言の載ったムーを読んで、早くこんな世界が滅びればいいのにと思った。そして、今でも世界の崩壊を願っている。ただ、そんな願いは叶わない。それは、作者も私もだ。だからお互いに「終わらない世界」をテーマにカクヨムで書いている。
どれだけ広大な被害をもたらす大災害が起きようと、ハルマゲドンを夢見るカルトがのさばっても、戦争が起きようと、北からのミサイルが上空を飛び交おうと、この世界は終わらなかった。
90年代に「終わらない世界」を本気で終わらせようとした宗教家たちは、つい先日死刑に処せられた。異世界や非日常を夢見た者たちは敗北を迎えた。
そんな平成の末期に、この作品を読んでみると色々な事を考えさせられる。「平坦な戦場で僕らが生きるということは…」という一説を思い返した。
普通の、終わりのない日常から逃げ出したかった少女と、
普通の、誰にでもある日常をこそ探し求めていた少女の、
「世界の果て」を目指した、ほんの短いひと夏の逃避行。
退屈で、変わりがなくて、灰色で、平坦な学生時代に、抗えない世界の不条理にぶつかること、それを呪うこと。
「世界の終わり」を夢想しながら、目の前に広がる世界をどうしようもできないと絶望し続けること。
そんなことが、きっと誰にでもあり得るし、それがあるということを、誰もが忘れてはいけないことだと思うのです。
――そう思うことは、感傷的でしょうか。
私は、この小説を読みながら、生まれ育った田舎で見続けていた、夕暮れの紅のことを思い浮かべていました。
少女たちが目にしたあの「世界の果て」の景色は、いとも容易く私の目の前にも思い浮かんで、なんとも言えない寂寥感を胸に抱かせました。
同じものが、私にもあった。そしてもしかしたら誰かにも、こんな風景があるのだろうなと。
何もかもがうまくいく自由な世界ではないけれど、生きていくということは『どうやって生きていくか』ということに向き合い続ける、絶えざる挑戦であるということを思わされる、切ない青春の小説でした。
「このつまらない世界が終わって欲しい」
僕を含め、誰もが思春期に一度は抱いたことのある願望ではないでしょうか。
理想の自分と現実の自分の乖離に嫌気が差し、ある日突然、何の前触れもなくやってくる「世界の終わり」を願う。
崩壊した世界では、自分は特別な存在である。少なくとも、世界の終わりを乗り越えて生き延びることができたのだから。そして崩れ去った街並みを自分と、同じように生き残ることができた大切な人たちと共に見下ろす。そこにはもう自分を苦しめていた終わりなき日常は存在しない。全ては非日常であり、すべての経験が他者と代替不可能な特別のものとなる……。
自分にとって苦しみのない世界の終わり。自分と大切な人が生き残ることについては何の根拠も必然性も存在せず、それはただ思春期特有の万能感の発露とも言えるでしょう。しかし大人になるにつれ、生活を営む上で世間と価値観のすり合わせを行わざるを得なくなるにつれて、そうした終末の景色は次第に色あせていきます。都合よく世界の終わりなんてやってこない。それは裏を返せば何もない自分からの単なる逃避に過ぎない。有り体に言えば甚だ自分勝手な妄想。自分が自分の中に作った箱庭でのごっこ遊び……。
今を生きる多くの人の心の中に、そうした形で終わりを迎えた「世界の終わり」の風景があるはずです。
では「世界の終わり」を想った、逃避を続けた日々は果たして無価値なものであったのでしょうか?
特別なことは何もない現実、そしてそこに生きる自分、逃避することを選んだ弱い自分すらも受け入れて、この醜くも美しい世界から逃げずにまっすぐに向き合う。
「世界の終わり」の向こう側に辿り着くことができたなら、そうした逃避行にもきっと意味があるはずです。
この小説の中で、少女たちが世界の果てを目指した逃避行の末に、辿り着いた価値観は、ともすれば当たり前の、言ってしまえば普通のものであるかもしれません。しかし、それでも、悩み苦しんだ旅路の果てにある「普通」だからこそ、大事な、意味のあるものなのだと感じました。
1週間単位の日々は今日も続きます。
終わりなき日常を生きるすべての人々にとって、あの世界の果てを目指す美しい逃避行を思い出すきっかけにこの小説がなればいいと、切に願います。