「世界の終わり」を愛するすべての人たちへ

「このつまらない世界が終わって欲しい」

僕を含め、誰もが思春期に一度は抱いたことのある願望ではないでしょうか。
理想の自分と現実の自分の乖離に嫌気が差し、ある日突然、何の前触れもなくやってくる「世界の終わり」を願う。

崩壊した世界では、自分は特別な存在である。少なくとも、世界の終わりを乗り越えて生き延びることができたのだから。そして崩れ去った街並みを自分と、同じように生き残ることができた大切な人たちと共に見下ろす。そこにはもう自分を苦しめていた終わりなき日常は存在しない。全ては非日常であり、すべての経験が他者と代替不可能な特別のものとなる……。

自分にとって苦しみのない世界の終わり。自分と大切な人が生き残ることについては何の根拠も必然性も存在せず、それはただ思春期特有の万能感の発露とも言えるでしょう。しかし大人になるにつれ、生活を営む上で世間と価値観のすり合わせを行わざるを得なくなるにつれて、そうした終末の景色は次第に色あせていきます。都合よく世界の終わりなんてやってこない。それは裏を返せば何もない自分からの単なる逃避に過ぎない。有り体に言えば甚だ自分勝手な妄想。自分が自分の中に作った箱庭でのごっこ遊び……。

今を生きる多くの人の心の中に、そうした形で終わりを迎えた「世界の終わり」の風景があるはずです。

では「世界の終わり」を想った、逃避を続けた日々は果たして無価値なものであったのでしょうか?

特別なことは何もない現実、そしてそこに生きる自分、逃避することを選んだ弱い自分すらも受け入れて、この醜くも美しい世界から逃げずにまっすぐに向き合う。
「世界の終わり」の向こう側に辿り着くことができたなら、そうした逃避行にもきっと意味があるはずです。

この小説の中で、少女たちが世界の果てを目指した逃避行の末に、辿り着いた価値観は、ともすれば当たり前の、言ってしまえば普通のものであるかもしれません。しかし、それでも、悩み苦しんだ旅路の果てにある「普通」だからこそ、大事な、意味のあるものなのだと感じました。

1週間単位の日々は今日も続きます。
終わりなき日常を生きるすべての人々にとって、あの世界の果てを目指す美しい逃避行を思い出すきっかけにこの小説がなればいいと、切に願います。