最終話【体操着】
俺とハルヒがキスをしてしまったからでもあるまい。
「そこで二人! もっと顔を近づけて! でもってみくるちゃんは目を閉じて、古泉くんはみくるちゃんの肩に手を回し、もういいから押し倒してキスしちゃって!」
「ええっ……」
どういうわけかトロンとした目つきで朝比奈さんは口を半開きにして、古泉が言いつけ通りに朝比奈さんの肩を抱いたところで、俺の我慢が限界に達した。
「待てこら。いろいろ端折りすぎだぞ。ってより、なんでこんなシーンがある? なんだこれは?」
そう、俺たちSOS団は今文化祭に出品するための映画の撮影中なのだ。
「濡れ場よ濡れ場。ラブシーン。時間帯またぎにはこういうのを入れておかないと」
誰かのケラケラ笑いが聞こえて振り向くと、畳の縁に爪を立てるように身体を折って、鶴屋さんが爆笑していた。
「ひひーっ、みくる、おかしーっ」
おかしくない……と言いたいのだが、明らかに朝比奈さんは通常ではなかった。さっきから目が据わってないし、目が潤みっぱなしの頬染めっぱなし、しかも古泉に肩抱かれても無抵抗にされるがままになっている。面白くない。
「うー……。こいすみくん、あたしはなんだかあたまがおもいのねす……ふ」
朝比奈さんは身体をぐらぐらさせている。薬でも盛られたのかという感想を持ち、俺は気付いた。視線が空のグラスへと自然に向き、鶴屋さんが笑いつつ、
「ごっめーん。みくるのジュースにテキーラ混ぜといたの。アルコールが入ったほうが演芸に幅がでるかもっていわれてさっ」
ハルヒの悪巧みか。お前はどこぞの隠蔽義塾大のナントカ学研究会会員か! SOS団はそんなんじゃねえぞ!
「いいじゃん。今のみくるちゃん、すごく色っぽいわよ。画面映えするわ」とハルヒ。
もはや演技どころではなく朝比奈さんはすでにフラフラになっていた。閉じた目の下が赤く染まっている。
「古泉くん、いいからキスしなさい。もちろんマウストゥマウスで!」
ダメに決まっているだろう。前後不覚になっている人間にやっていいことではないぞ。
「やめろ、古泉」
監督とカメラマンのどちらの言葉に従うか、古泉はしばらく考える真似をした。殴るぞこの野郎。どのみち俺はハンディカメラを降ろしている。そんなシーンを撮るつもりも撮らせるつもりもない。
古泉は俺を安心させるように微笑んで、フラつく主演女優から離れた。
「監督、僕には荷が重すぎますよ。それに、朝比奈さんはもう限界のようですし」
「……あたしならたいじょうふすよ?」
そう言う朝比奈さんは見るからに大丈夫ではなかった。
「もう。しょうがないわねえ」
ハルヒは唇を尖らせて、酔いどれ娘へとにじり寄った。
「あら、コンタクトつけたままだったの? ここはハズしとかないといけない場面よ」
朝比奈さんの後頭部をぽかりと叩く。
「いっ……いたい」と朝比奈さんは頭を押さえる。
「ダメじゃないのみくるちゃん! こうして頭を叩かれたら目からコンタクトを飛び出させないと。じゃあもう一度、れんしゅう」
ぽかり。
「いたっ」
ぽかり。
「……ひぃ」と朝比奈さんはぎゅっと目を閉じる。
「やめろバカ」と俺はハルヒの手を握って制止した。「なにが練習だ。これのどこが演出なんだ? 何が面白いんだよ」
「なによ、止めないでよ。これも約束事の一つなのっ!」
「誰との約束だそれは。ちっとも面白くない。つまらん。朝比奈さんはお前のオモチャじゃねえぞ」
「あたしが決めたの。みくるちゃんはあたしのオモチャなのよ!」
聞いた瞬間、俺の頭に血が上った。視界が赤く染まったような気すらした。本気で頭に来た。一瞬で衝動が思考を凌駕する、それは無我の境地での反射的行動だと言って差し支えない。
俺の手首を誰かが握っていた。古泉の野郎が目を細めて小さく首を振っている。古泉が俺の右手を止めているのを見て、俺は初めて自分が握り拳を振りかざしていることに気付く。俺のこの右手は、今まさにハルヒをぶん殴ろうとしていたようだった。
「何よっ……!」
ハルヒはプレアデス星団みたいな光を瞳に宿しつつ、俺を睨みつけていた。
「何が気に入らないって言うのよ! あんたは言われたことしてればいいの! あたしは団長で監督で……とにかく反抗は許さないからっ!」
再び俺の目の前が真っ赤になった。このクソ女。離せ古泉。動物でも人間でも、言って聞かない奴は殴ってでも躾けてやるべきなんだ。でないとこいつは一生このまま棘だらけ人間として誰からも避けられるようなアホになっちまうんだ。
「やや……やめてくらさぁいっ!」
飛び込んできたのは朝比奈さんだった。ろれつの怪しい声で、
「だめだめですっ。けんかはだめなのです……っ」
俺とハルヒの間に身体を割り込ませた朝比奈さんは、赤い顔のままずるずると崩れ落ちた。ハルヒの膝に抱きつくようにして、
「うう……っぷ。みんなはなかよくしないといけません……。そうしないと……んー。ああこれきんそくでしたぁ」
くたりと朝比奈さんは、何かモゴモゴ言いながら目を閉じた。そして、すうすう寝息を立てながら眠り込んでしまった。
俺と古泉は坂道を下りながら歩いていた。眼下に広がっているのは先ほど撮影に使った溜め池である。
黙然と五分ほど歩いたところで古泉が口を開いた。
「あなたはもっと冷静な人だと思っていましたが」
俺もそのつもりだったさ。
「すでに現実がおかしくなっているのに、さらに閉鎖空間まで生みかねない真似は謹んでいただきたいですね」
お前はどのレベルでおかしくなっていると思っているんだ? と俺は内心でだけ思った。
「さっきの一件ですが、なんとか涼宮さんの無意識は自制してくれたようですね。閉鎖空間はどこにも出ていないようです。僕からのお願いです、明日には仲直りしてくださいよ」
やはり気付いていない。既にとっくにおかしくなっているのにおかしい事に気付けないお前たちはいったいなんだ?
なにもこれは古泉だけじゃない。長門にも朝比奈さんにも言える。
俺は疑っていたんだ。この世界は果たして元の世界かどうかってな。
だが——
朝比奈さんは言ったもんだ。
「よかった、また会えて……もう二度と……こっちに、も、戻ってこないかと——」
長門も言ったもんだ。
「あなたと涼宮ハルヒは二時間三十分、この世界から消えていた」
古泉だけは言うことが少しだけ違っていた。
「世界は何も変わらず、涼宮さんもここにいる。僕のアルバイトもしばらく終わりそうにありません。まあ、この世界が昨日の晩に出来たばかりという可能性も否定できないわけですが。とにかく、あなたと涼宮さんにまた会えて、光栄です」
その通りさ、古泉。
朝比奈さんは今の世界のことを『こっち』と言い、長門は『この世界』と言った。
だが古泉だけは今の世界に一抹の猜疑心を抱いていた。侮れないな。当たってるぜそれは。
だけどなぜか俺は『この世界は昨日までの世界じゃない!』なんてこの三人に言ってやる気が起こらない。
それにしてもハルヒはずいぶんと解りやすい目印を付けてくれたもんだ。
気付いているのは俺だけ……なのか。
見て一発で解った。体育の授業。女子の体操着。
全員ブルマになっていた。
くすんだライトブルー、俺たちの学年の学年色のブルマを女子が全員で履いていた。北高女子全体がそれぞれの学年色のブルマに。いや北高どころじゃない。この消えたはずの体操着が日本全国で蘇っている。むろん定番の色も。
俺は初めてその光景を目にしたときあっけにとられたが、他の男子連中は俺と同じ反応はしてはいなかった。さもそれが日常の光景であるかのように……
初めてその体育の風景を見たその時、ブルマ姿のハルヒが腰に両手を当てて俺を見て不敵な笑みを浮かべていた。その顔は『ね、どんな味だった?』と挑発的に訊いてきたあの時と同じ顔だ。
この世界は元の世界じゃない……そしてハルヒも元のハルヒじゃない。
なんとなくおかしいとは感じながらも何もできずに文化祭の頃までも時間を引きずってしまった俺。
だが朝比奈さんに対するあの暴挙。
今まで散々迷っていた。言うか言うまいか。しかしもう知らないフリはしない。もう見ないフリもしない。直接質す。
時間は放課後、部活の時間を選択。
ハルヒだってトイレに立つこともある。ハルヒが出てしばらくの後俺も文芸部室を出る。階段のところまで歩を進め、そこで戻って来るのを待つ。
そこで話しをしてやる。
階段のところまで俺が辿り着くとハルヒが壁にもたれかかっていた。トイレにしては早すぎる。
「キョン、トイレ?」ハルヒが俺に訊いた。
「いや、そうじゃなく……」
「そうじゃなく?」
くそっ、なに俺は怖じ気づいてんだっ!
「待ってたのよ、ずっと。だけど故意に状況を造らない限り二人きりってのも意外に無いわよね。毎日顔を合わせてるのに」
「……」
「あんたはあたしに話しがあるはず。違わない?」
「……解ってたのか?」
「あんたにも解っていたと思うけど。解るようにしておいたんだし」
やっぱりそうなのか?
「ここじゃあなんだから〝あの階段〟の踊り場に行かない?」
美術部が物置場に使ってるあそこだ。俺たちは部室棟を出て本校舎へ。
「前のお前はこんなんじゃなかった」
あの階段の踊り場、俺はそう言った。
「じゃあ今のあたしはなんなの?」
「朝比奈さんに何をしたか解ってるだろ。前はこんなことする奴じゃなかった」
「みくるちゃんの味方をしてあたしをいじめるわけ? ホント傷つく」
「あの場面に出くわしてみろ。十人中十人がお前の方を〝いじめっ子〟だと思うだろうぜ」
「あんたもその十人の中の一人ってわけ? たった唯一の例外にはなってくれないんだ」
「なんで俺が例外になるんだ⁉」
「あんたはざっとかもしれないけど、〝知ってる〟んじゃないの?」
言われてドギリとする。
「〝知ってる〟って……、何をだ?」
「あの三人が普通の人間じゃないこと」あっさりとハルヒが言い切った。
「あ……お前、なんで……?」
「なんで? そんなもん解らないわよ。説明なんてできない。解ってしまうとしか」
まるで古泉みたいなことを言いやがる。
「あたしに本当の事を言わないで隠して何食わぬ顔してあたしの近くにいる。許されると思ってんの? ほんと腹立つ」
「お前それであんなことを……?」
「そう、ちょっと罰を与えてみたの。みんな無抵抗でなんでも言うこときくんだから拍子抜けしちゃった」
「お前っそんならそういう陰湿なことをしてないで直接ぶつけりゃいいだろ!」
「直接ぶつけるってどういうことよ?」
「正体は解ってると言ってやればいいんだ!」
「嫌よ」
「なんでだ⁉」
「それを告げた途端、みんないなくなるんじゃないの?」
それは……
確かにそうかもしれん——
「あたしがいかに怒っているかを見せることが大切なんだから。後は察しろってことね」
「あの三人に何を察して欲しいんだよ?」
「あたしはね、あの三人が自分の口で本当のことをあたしに告げてくれる日を待ちたいの」
「解ってて騙されたフリを続けるってのか?」
「そうよ、キョン。あんた、くれぐれも余計なことしないようにね。ホントの事は絶対に喋っちゃダメ。これはあんたとあたしだけの秘密なんだから」
逆パターンになっちまった。
「キョン、返事」
「解った」
「そう。約束だからね」
俺は無言で肯いた。ハルヒも無言で肯き返してくる。
「ねえキョン、あの三人、世界が前の世界と変わってしまったことに気付いていると思う?」
「俺には解らん」
「勘でいいから」
勘か。
「ならば気付いてないだろ、たぶんだがな」
「そう。なら話しは簡単ね。何が目的か解らないけど世界が変わってしまっても変わったことに気づきもしないのなら、あたしと遊んでくれればいいのよ、本当の目的なんか忘れちゃってね。あたしはただ一緒に遊べればいいんだから」
それが望みの世界なら造ってしまえばいい。ハルヒがそう考えかねないと古泉は正にそれを危惧していた——それが本当にそうなっちまった。
「ハルヒ、世界を変えたっていう自覚はあるか?」
「さあ」
「〝さあ〟ってことはないだろ」
「世界が変わったっていう自覚があるだけよ。あんたにもあるでしょ?」
女子を目の前にそれにあからさまに触れるのは憚られる。
「世界を変えるのと同時に自分も一緒に変わっちまったら元も子もないだろ」
「それがさっきあんたが言ってた〝前のあたし〟ってわけ?」
「そうだ」
「あたしに前も後も無い。あたしはあたし。ずっとあたし」
「そういう気がしない」
「あたしには前の記憶がある。確かにある。あんたと手を繋いで誰もいない薄暗い学校の中を走り回ったり……その後のことも」
「その後?」
「マウストゥマウスとか……」
なっっ!
「なに? その顔、覚えてないとでも思った? 特別にあたしが怒らないでいてあげてるのよ」
テレながら威張りながらといった口調でハルヒが言った。その顔についつい誤魔化されてしまいそうになるが『テキーラの一件』はそうそう簡単に割り切れない。
「ハルヒ、お前は気を悪くするかもしれないがな」
「だったら言わなきゃいいじゃない」
「いや、言う。俺は前のお前の方が良かった!」
「ふぅん、じゃあ訊くけど、もし前のあたしがいたとして、そのあたしはSOS団をあんたに造ってもらってあんたからプレゼントされたの?」
「……いや違う」
俺はハルヒに言われるままに手伝っていただけだ————
「ほうらみなさい」
「何が言いたいんだ?」
「あんたの言う〝ハルヒ〟とあたしはそれほど別人なの? って訊いてるの」
答えは瞬間的に弾き出されたさ。これまでやってきたことがまったく同じなんだからな——
「紛れもなく同一人物だ」
この瞬間今後の俺の行動は決定されたといっていい。
「ならキョン、あんたはあたしにずっと着いてきてくれるんだよね?」
「着いていくさ」
「信じていいのね?」
「ああ」
そう言っちまったってことは俺もハルヒを信じるしかないってことだ。今のお前を放置しておいたら次に何をしでかすか知れたもんじゃない。理性に〝信じるな〟と言われても感情で信じ込んでやる。だが俺はお前のパシリになるつもりはねーぞ。
「ただ、それには一つだけ条件がある」俺はそう口にした。
「なによ」
「団員を大切に扱うこと」
「……なんだ、そんなの簡単なことじゃない」
「本当だろうな?」
「あたしは純粋に面白いことを追いかけ続けたいの。清々しいほどにね。だけど独りでやっても楽しくなさそうだって、もう解ってるから。だからSOS団を造ったんだから」
(了)
涼宮ハルヒの純清(憂鬱な溜息編) 齋藤 龍彦 @TTT-SSS
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