第32話【唇を重ねて】

 文芸部室にハルヒが飛び込んできた。

「キョン! 何か出た!」

 危うく俺の背中にぶつかるかのような勢い。隣りに立ったハルヒは、

「なにアレ? すごく大きいけど、怪物? 蜃気楼じゃないよね——」


 興奮したような口調。まるで不安などという感情が存在しないかのよう。


「——宇宙人かも。それか古代人類が開発した超兵器が現代に蘇ったとか! 学校から出られないのはあいつのせい?」

 青い壁が動き出す。古泉に連れられて行ったあの閉鎖空間、高層ビルを叩き壊していたあの光景がフラッシュバック。とっさにハルヒの手を取り部室から飛び出す。

「なっ、ちょっ! ちょっと、何?」

 廊下に出た瞬間轟音が大気を振動させる。どうバランスを崩したか俺はハルヒを廊下に押し倒す形になっていた。びりびりと揺れる部室棟。硬く重たい物が地面に激突する衝撃と音。

 この建物じゃない。向かい側の校舎だ。しかし次はこっちに来るかもしれん。

 再びハルヒの手を握って起こし走り出す。文句も拒否も言葉としては飛んでこない。手を繋いだままいっしょに走り出している。掌が汗ばんでいる。俺かハルヒか。階段を駆け下る。中庭を横切る。スロープからグラウンドへ。

 ふとハルヒを見ると不思議なこと、嬉しそうに見える。巨人はたった今拳を校舎に叩き付けたところだった。最大限の破壊音と崩壊する校舎。校舎から少しでも離れないと。


 二百メートルトラックの真ん中まで来てようやく足を止める。あの巨人が建物を破壊する習性があるなら何もないこここそ一番安全な場所じゃないかとそういう勘でここまでやって来た。

「あれさ、襲ってくると思う?」

「襲われてるように感じるがな」

「そうかな? わたしには邪悪なものだと思えないんだけど」

 自らが造りだしたものだと無意識に解っているのか?

「根拠は?」

「そんな気がするだけ」

「よく解らん」


 俺を閉鎖空間まで案内した古泉は言った。〝神人〟の破壊活動をほったらかしにしていれば、やがて世界が置き換わってしまう、と。

 この灰色世界が今までいた現実世界に取って代わってしまい、そうして……

 どうなってしまうと言うのだろう?

 古泉に拠れば新しい世界がハルヒによって創造されるのだということらしい。そこには俺の知ってる朝比奈さんや長門や、そして古泉はいるのだろうか。それか、目の前にいる〝神人〟が自在に闊歩し宇宙人や未来人や超能力者やらが普通にそこらをブラブラしているような、非日常的な風景が常識として迎えられる世界になるのか?

 なるわけない。それが常識になったら今度はハルヒがその常識に退屈し始めるのだ。

 そしたらまた俺は同じ役割を延々繰り返すのか? 考えたって無駄だ。解るわけがない。


 ハルヒの妙に朗らかな声が耳に届く。

「何なんだろ、ホント。この変な世界もあの巨人も」


 俺の最終的な行き先がどこになるかは解らない。だが抵抗はするだけしてみようと思った。ハルヒに〝元の世界に戻りたい〟と思わせることが出来たなら少しでも可能性が出てくるんだったな。

「元の世界に戻りたいと思わないか?」

「え?」

 ハルヒの目が急激に曇ったように見えた。

「一生こんなところにいるわけにもいかないだろ。腹が減っても飯食う場所が無さそうだ。店も開いてないだそうし、それに見えない壁、あれが周囲を取り巻いているんだとしたら、どうやってここから出る? このままじゃ確実に飢え死にだ」

「んー、なんかね。不思議なんだけど、全然そのことは気にならないの。なんとかなるような気がしてる。自分でも納得できないこと言ってるって思う。でもどうしてだろ、今ちょっと楽しいかな」

「SOS団はどうするんだ。お前が作った団体だろう。ほったらかしかよ」

「いいのよ、もう。だってほら、わたし自身がとっても面白そうな体験をしているんだし、もう不思議なことを探す必要もない」

 言うか言うまいか決意を要した。

「俺は戻りたい」


 なぜだか巨人は校舎の解体作業の手を休めていた。

「こんな状態に置かれて発見したよ。俺はなんだかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだったんだな。アホの谷口や、国木田も、古泉や長門や朝比奈さんのことも。消えちまった朝倉をそこに含めてもいい」

「……何言ってんの?」

「俺は連中ともう一度会いたい。まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」

 ハルヒは少しうつむき加減に、

「会えるわよきっと。この世界だっていつまでも闇に包まれているわけじゃない。明日になったら太陽だって昇ってくるわ。わたしには解るの」

「そうじゃない。この世界でのことじゃないんだ。元の世界のあいつらに俺は会いたいんだよ」

「意味わかんない」

 ハルヒは口を尖らせていた。怒りと悲哀が混じった微妙な表情。

「キョン、あなたもつまらない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて。もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」

「思っていたとも——」

 動きが止まっていた巨人が遂に部室棟にまで拳を振り上げ始めた。

 そして青い壁が次々と立ち上がり始める。二匹、三匹——五匹以上はいる。

「——だけどな、元の世界だって捨てたもんじゃない。ハルヒ、俺はここ数日でかなり面白い目に遭ってたんだ。お前は知らないだろうけど色んな奴らが実はお前を気にしている。世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。みんな、お前を特別な存在だと考えていて、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

 ハルヒに目を逸らされた。ハルヒの視線の先には校舎をメチャクチャに破壊し続けている巨人。

 その巨人が振り向いた。口も鼻ももちろん目も無いのに目が合ったような気がした。巨人が歩き出す。進行方向は俺たちが立っている、ここだ。


 もはや時間はない。その時が迫っている。既に俺はふたりの女子にヒントを貰っている。だがそんなことをしていいのかという思いから実行に移せずにいた。

 朝比奈さんからは、〝白雪姫〟。

 長門からは、〝スリーピング・ビューティ〟。

 改めて自覚するがさっきからずっとハルヒの手を握ったままだった。その手をふりほどく。

「なによ……」

 セーラー服の肩をつかんで振り向かせる。

「俺、実はポニーテール萌えなんだ」

「なに?」

「いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則なまでに似合ってたぞ」

「なんでポニーなのよ」

 黒い目が俺を拒否するように見る。抗議の声を上げかけたハルヒに、俺は強引に唇を重ねた。作法に則り目を閉じてしまったためハルヒの様子は一切解らない。肩にかけた手に力を込める。

 どれくらいこのままでいたらいい?


 轟音がまだ鳴り響いている。さすがに長すぎるんじゃないか?

 根負けした俺はハルヒから唇を離しながら目を開けた。

 さぞかし怒って……と思ったが怒ってはいなかった。顔に似合わない不敵な笑み。


「ね、どんな味だった?」


 朝比奈さん、長門、なんだったんだ? これは。

 そのハルヒの際どい問いに答える間もなく巨人の足が目の前に迫っていた。

「逃げるんだ!」俺はハルヒに言った。

「嫌よ。あんたもここにいなさい」

 最後に見たハルヒの顔は逆ハの字の眉に凜と強い目力を持った瞳に半月状に開いた口。

 俺もハルヒも青い壁に身体ごと飲み込まれていた。

 感じる無重力。上も下も無い。左半身に強い衝撃。



 俺はのろのろと上半身を起こす。

 そこは俺の部屋。首をひねれば横にベッド。着ている服も制服じゃない。スウェットの上下。

 ベッドから落ちたのか……

 何を考えるでもなく自然とカーテンを開けていた。


 ぽつ、ぽつ、ぽつと灯りが点いている。街灯も。


 あれは夢? いや夢にしてはハッキリし過ぎている。

 

 ここはすでに元の世界ではないとか。ハルヒによって創造された新世界なのか。だったとして俺にそんなことを確かめるすべはあるのか。


 ない。あるのかもしれないが思いつかない。何も考えたくもない。

 目覚まし時計を持ち上げる。現時刻、午前二時十三分。

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