第34話 凍り付く
突然のことに、空気が凍り付いた。その場にいて、その状況を見ていたすべての人間が言葉を失った。その一瞬のことに、何が起こったか理解できなかった。いや、皆一様に信じられなかっただけなのだ。傍らの大太刀に手をかけていたダルクも、荷物から槍を引き抜いていたハルも、制止の言葉を発しようとしていたルーサーも、右手に魔力を集中させていたパトラも、その目の前で状況に驚愕した。その場の全員の目に映るものは、何が起きたか推測するのに十分な光景だった。
透き通るような美しい氷、それがゴブリンの頭より一回り小さいくらいの大きさで一人の獣人の男の右手を包み込むように現れていた。その中にはかなりの数の朱の滴と一緒に、男の手が見えている。だが、その手は全ての指があらぬ方向にねじ曲がり、拳はつぶれ、骨がむき出しになっているという凄惨極まりない状態であった。
「は……え……なん……だよこれ……」
獣人の男のほうは理解が追い付いていないようで、自分の右手の惨状に震えていた。ミーアはふうと息を吐き出すだけで、何事もなかったかのようにしていた。
「お、おい、これ、一体何が……」
「見てのとおりですよ。手を冷やして痛覚を麻痺させた後に拳を握りつぶし、汚れが出ないように氷で包み込んでおきました」
「そんなことできるわけが……」
「まあ、そういいたくなるのもわかりますがね」
ミーアはそんなことを呟くと、自分のポーチを軽く探って色々なものを引っ張り出しては、これじゃないだとか言いながら戻しということを繰り返していた。それが10回程度なされたのちに引っ張り出された小瓶を見て、あったあったとばかりに大げさに頷いてみせた。ダルクはわざとだなとは思ったが、口に出せばどうなるか分かったものではないので黙っておく。
獣人の男の目の前にぶら下げられている小瓶には少量の液体が入っている。澄んだ水色の液体は水を思わせるようなものではあったが、その割に中で揺れる際には緩慢な動きであり、適度に粘性を持つ液体であることを示している。ミーアはその小瓶を呆然と佇む獣人の男の鼻先に揺らしてからかうようにして遊んでいたが、やがてそれを相手がしっかりと認識したところで口を開く。
「なんだよ、それは……」
「何って一応薬ですよ。この薬は患部にかければゆっくりとですが傷が治るようになっているものです。さすがに部位欠損は無理ですが、ぐちゃぐちゃになった程度なら治りますので。使う使わないはお任せしますが、一応氷が溶けるのに一日はかかるでしょうからそののちにお願いしますね」
「じ、自分でやっといて……」
「私は医者ですから、患者がいればたとえそれが無価値でゴミ屑な下等生物であったとしても可能な限りの手は尽くします。戦場か、もしくは相手を殺さなければ自分が害されるというのであれば遠慮はしませんし、後腐れなく葬って差し上げますが、チンピラに絡まれた程度ならそれで別に大したことないでしょう? なら、叩きのめした後に治療するという屈辱を与えるほうを選択します。ま、師匠にはえげつないだの人でなしだの散々に言われましたがね」
これ以上の問答は無駄だと思ったのか、目の前のミーアが化け物のように感じたのか、それは本人にしかわからないことではあったが、突然獣人の男は素早く無事な左手を使ってミーアから小瓶をひったくる。本当はちょっかいを出さないと約束させるまで渡さないつもりであったミーアも、油断しきっていたこともあってか反応に失敗してなすすべもなく奪われてしまった。獣人の男はそのままの足で外へと駆け出したが、それをミーアは少し惚けてしまったこともあって、手遅れであることを悟りすぐに諦めた。
と、同時に頭に血が昇って色々とやりすぎてしまったことをなんとなくでは感じ始めていた。まず、獣人の男を完全に力の上で圧倒できてしまった。あの大柄な男を伸せる力があるということを見せてしまったのだ。さらに、手を包み込んだ上でかなりの大きさの氷を出現させてしまっている。今、ミーアの目の前で引き攣った苦笑いを浮かべている規格外魔族のパトラならできるとも思うが、精度、威力ともに獣人というものさしの上からは途方もなくはみ出している。そのうえで、部位欠損は無理というにしても、あの惨状の手を治せる薬をポンと渡してしまったことも問題だった。普通ならかなり高額な代物だ。複数の金貨で取引されるくらいには。それをチンピラに渡せるということは……ということを邪推されても仕方ない。
ミーアはここまで思考を巡らせて……考えることをやめた。やってしまったことは仕方ないのであって、あとから起こることについて対策を立てるべきという結論に至ったのである。
「さて……私は色々と説明責任とやらを、最低限仲間の4人には果たすべき、であると思っていますが」
「ええ、そうしてください、是非。そして最低限私にも、お聞かせ願いたいところです、ミーアさん」
予想外のところから声がかかり、その場にいた全員がその声のほうを向く。そこには、額に青筋を浮かべ、その憤怒を示すかのようなオーラを放ちつつも営業スマイルを崩さないという実に器用な体裁を保ち、ゆっくりと近づくスーザンの姿があった。
「拒否権は……まあ、ないですね。正直、あまり要人には聞かせたくないような内容も多量に含んでいたりしますが……」
「この現状を納得する説明であれば問題はありませんし、最悪私が秘匿すればいいことかと。できれば先ほどの方に渡した薬のほうは、詳細をお願いしたいところです」
「……説明と関係ある事柄でもあるので、湯場をお借りしたいと思います。できれば、パトラとスーザンさんにも手伝って欲しいと思います」
これは隠し通せない。そう悟ったミーアは少し遠慮がちにそういうのであった。
設定6 貨幣
信用経済が成り立っていないため、貴金属による硬貨での取引が行われている。基本的に、小銅貨→銅貨→大銅貨→銀貨→大銀貨→金貨→大金貨→ミスリル硬貨→白金貨があり、それぞれ10枚で一つ上の価値の硬貨と等価交換される。冒険者含む一般民が動かすのは金貨までであり、市場では銀貨、大銀貨で取引がされる。量産品の低品質の鉄の剣が大体大銀貨1枚程度である。
お詫びと訂正:見切り発車の影響で、ルー・ガルー討伐の報酬内容が低すぎであったため修正しました。ややこしいことになってしまい申し訳ありません。重ねてお詫び申し上げます。
爪弾き者共の輪舞曲 伊吹 水郷 @evemisia
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