エロゲヒロイン。
その後ろにつく、「父」という単語の強烈な違和感。
だけど誰にも「ちょっと待った」をかけられないまま、話はするする進みます。エロゲヒロインになった父、その背中を見つめ続ける息子。一発ギャグを狙った作品かと思ったのに、そこにあるのは意外や意外、しっかりとした物語でした。描かれているのは紛れもなく、父と子による爽やかなドラマです。
当初に持った違和感は、いつの間にやら、どこへやら。
あたたかな話の中にのめりこみつつ、読者は想像を、いえ妄想を膨らませるのです。
ついんてろりきょにゅうのいんらんぴんく。
その後ろに「の父」とつけてももはや違和感を持たなければ、それはすっかりこの物語に絡めとられた証です。
「人は誰もが人生という物語の主人公なんだ」
何処かで聞いたことがあるけれど何処で聞いたかは思い出せない、使い古されたフレーズです。ですが物語とは読んで字の如く「語る」もの。ゆえに語りを「聞く」存在なしに物語は物語となり得えません。従って物語を名乗る以上、それは「聞くに値するもの」でなくてはならないという必要条件が付与されます。さてここで問題。起きて、出かけて、働いて、飲んで、帰って、飲んでいる最中に見つけた小説のレビューを酔いの回った頭で書いている僕の今日の人生は「聞くに値する物語」でしょうか?
答えは、NOです。
なぜか。それはそこに「違和感」がないからです。「おかしなこと」が起こっていないからです。例えばここに「飲み屋で相席した美女と深い仲になった」というエッセンスが加われば、僕の今日は物語になり得る資格を得ます。「飲み屋にいる間にイスラム系過激派テロリストに襲われた」まで行けば、もはや創作の物語と比較しても遜色ありません。このように人生が物語になるためには「違和感」が必要であり、逆に言えば人生に「違和感」を一つ放り込めば、それは物語となり得るのです。
長々と前置きをしましたが、本作はそういう風に、人生に「違和感」を放り込むことで物語として仕立て上げた形式の小説となっております。
好きなんですよ。こういう、将棋の駒の中にチェスの駒がしれっと混ざってゲームに参加しているような小説。誰がどう見たって明らかにおかしいんだけど、誰も突っ込まず「2八銀」「4七金」「3四クイーン」みたいに淡々とゲームが進んで、そのまま勝負決まって「参りました」とか言って終わる話。もちろん読者置いてけぼりなんですけど、その置いてけぼり感を楽しむものですからね、こういうのは。それでいいんです。
父親がエロゲヒロインになるという強烈過ぎる「違和感」に加え、夢を追いかけながら男手一つで息子を養う父親の頼もしさと優しさがやたら上手く書けているため、本作は将棋にチェスどころか寿司が混ざって「4四桂」「4五マグロ」「同銀」とか言っているぐらいの置いてけぼり感があります。そういう小説が好きな人は、是非、ご一読下さい。