ペンギンとケルベロス

増本アキラ

ペンギンとケルベロス



 猛烈な衝撃の後のことは、真っ暗なトンネルの中のようで全くわからなかった。気付けばペンギンはギシギシと軋む古臭い木で造られた小舟に乗せられて、運河を漂っていた。自分が小舟に乗せられているということに気付くのには少々時間がかかった。そして、感覚的に乗せられたと思うのは、自分が進んで乗り込んだ覚えがなかったからである。ペンギンはまた、覚えがなくとも、自分が好き好んでこんなものに乗るはずはないと思った。舟の縁から顔を出してその下を見てみれば、湿った音を立てて黒い水が舟の横腹を打っている。水の中ならば彼の領域だ。空は祖先が遠い昔に捨ててしまったが、その代わり自分の一族は海を手に入れた。そんな自分が、わざわざこんなのろのろとしか進まないオンボロ舟に自分から乗ったとは思えなかったのである。彼はじれったくなって、黒い水の中に勢いよく飛び込もうとした。

「危ないよ。やめておきな。」

その瞬間、複数の声が重なり合って一つの言葉を紡いだ。その声は辺り一帯に響き渡るほど太くて低い声だった。ペンギンは驚いて後ろに下がった。きょろきょろと辺りを見回してみる。だが、周囲は相変わらず黒一色だった。かがり火が灯されており、その明かりに何かが浮かび上がるはずであろうが、その気配は微塵にも感じられなかった。舟はなおもゆっくりと前方へ進んで行く。ペンギンは怖くなって、舟の真ん中でうずくまると、じっとして身体を小刻みに震わせていた。ここに至ってペンギンは、自分がどこか遠いところに来てしまったのだということを認識した。そのことがわかると、無性に恐ろしくなった。舟はそんなペンギンにかまうことなく、どんどん先へ先へと進んで行く。その先を、ペンギンは怯えた目で見据えていた。

 やがて、ひときわ大きな一対のかがり火が遠くに揺らめいた。それに照らし出されて、青っぽい巨大な壁が現れた。どうやら間もなく終着点のようだ。それを認めるとペンギンは更に恐ろしくなった。もう逃げられないのだという謎の絶望が沸き上がってきた。それは理屈ではない。心の奥底から現れる、生まれながらにして刻まれたものだ。いわゆる、死というものへの恐怖だった。だが、ペンギンにはそのことがわからなかった。

 舟が壁に近付くにつれて、その青い壁の前に何者か、巨大な何かが立ち塞がっているのがわかった。最初はぼんやりとした曖昧な影を浮き上がらせているだけだった。その全貌が明らかになったとき、ペンギンは腰を抜かした。ぱくぱくと、酸欠になった魚のように口を開閉し、目を剝いてその巨体を見上げた。真っ赤な体毛が覆う太い前脚の先端には刃物のような爪が覗いている。胴体から生えた三つの首にはそれぞれ恐ろし気な、尖った顔が付いている。その顔のそれぞれにある耳まで裂けた口からは鋭い牙が突き出ていて、ちろちろと火の粉が漏れていた。ペンギンは恐る恐る、眼前に現れた巨大な獣に問いかけた。

「あの、ここはどこですか。」

獣は紅蓮に燃える六つの瞳でペンギンを見下ろすと、地響きのような声で答えた。

「ここは冥界へ通じる門の前だ。おれはここの番犬でケルベロスという。

 ゼウス様の兄である冥界神、ハーデス様とその妻、

 ペルセポネ様にお仕えしている。」

ペンギンは何とも言えなかった。

「おまえ、まだ生死の境を彷徨っているらしいな。まったくバカなやつだ。

 飛ぼうとして氷山の先から飛び降りるなんてな。」

ケルベロスに言われて、ペンギンはようやく思い出した。自分はここに来る前に、どうしても空を飛んでやりたくて、高い高い氷山から飛び降りて、結局、飛べずに固い氷の地面に激突してしまったのだ。その原因は以前、氷の上で足を滑らせて引っくり返った時、オットセイの子供に、鳥のくせに飛べないのろまと罵声を浴びせられたことだった。ペンギンは鳥だ。いまに飛んでやるから見ていろ。そう見栄を切って飛んだのだった。そのことを思い出して、ペンギンは恥ずかしいやら悔しいやらで身体をぷるぷるさせた。その様子を見て、ケルベロスは大きな声で笑った。まるで大地震が起こったかのようだった。

「おまえ、ほんとうにバカなやつだなあ。よくよく考えてもみろよ。

 自分らしくないことをしたって、上手くいくわけないだろう。

 飛んだってそれが何になるんだい。水の中なら負けないぞって、

 それでいいじゃないか。」

ペンギンはふてくされた。

「あなたみたいに強いヒトには、わかりませんよ。」

ペンギンがそう言った時だった。ケルベロスの後ろにある門が重い音を響かせながら、ゆっくりと開いた。ペンギンはまた驚いてびくびくした。ケルベロスは後ろを振り返った。その背後には白い法衣を身に着け、立派なひげを蓄えた老齢の男が立っていた。ケルベロスの巨体と、ほぼ同じくらいの巨躯だった。身体は大きいが、その姿は人間というものと同じだった。ペンギンは人間というものを何度か見たことがあったが、彼の知っている人間のサイズとはあまりにも違い過ぎる。ケルベロスは蛇の尻尾を振った。

「おーよしよし、ケルベロスや。散歩に行こうかい。」

その男はケルベロスの声に負けないほどの、地響きのような声を響かせて言った。そう言いながらケルベロスの首輪に付いた鎖を別のものに付け替えた。いざ出発といったときに、男は初めてゆらゆら揺れる小舟の上に佇むペンギンの姿を認めた。

「おや、まだ死んではおらんようだな。はてさてどうしたものか。

 今日はもう業務は終了なのだがな。散歩もあるし、うむ、困った。

 嫁にまた、ずいぶんと長い番犬のお散歩でしたねって小言を言われちまうぞ。」

男は困った顔をしてひげをもさもさと撫でた。ペンギンは驚いて男に申し立てた。

「神様が、そんないい加減でいいんですか?」

男は苦笑した。

「神にそんな完璧を期待されても困るよ。やるときはちゃんとやるけどね。

 そうら、つかまっておいで。元の世界に送ってってやろう。」

男はペンギンをひょいとつまみ上げると、ケルベロスの三つあるうちの真ん中の頭に置いた。ペンギンは今まで経験したことのない高さに肝を潰して、じっとケルベロスにしがみついていた。

「ハーデス様も、丸くなられましたね。あんなに厳格な方でしたのに。」

ケルベロスが言った。それを受けて、また地鳴りのような太い笑い声がこだまする。

「いやかね?」

「いいえ。」

「おれだってなあ。好きで冥界の王やってるわけじゃないからなあ。

 そもそもゼウス、ポセイドンと、自分の支配する場所をくじ引きで決めたことが

 間違いだったんだよ。そしたら、おれが冥界だ。

 荒れたこの世界を支配するには、自分を厳格な王に飾り立てるしかなかった。

 だがまあ、冥界王じゃない時くらいは、普段の自分でもいいんじゃないかなって

 ここ百年くらい前に思ったんだよ。あ、嫁には内緒な。

 あいつ、変に気をつかいやがるからな。」

ペンギンはケルベロスが一歩踏み出すたびにやってくる揺れに振り落とされまいと、必死に真っ赤な長い毛にしがみついていた。少しずつ、真っ暗だった視界に白い光が小さく広がってきた。次の揺れでペンギンはケルベロスの毛を離してしまい、強い浮遊感の中、真っ逆さまに落ちていった。また、地響きのような声が聞こえた。




 ――― あんたは あんたにできることをやればいい またな ―――




 目が覚めたとき、ペンギンは自分のほおに心地良い冷たさを感じた。だが、頭をはじめ全身がくまなく痛かった。ペンギンは自分の行為を思い出した。バカにされ、頭にきて氷山の上から固い氷の地面に目掛けて飛んでしまったのだ。心配そうに見守るペンギンたちの中に、自分をバカにしたオットセイもいた。みなが心配する中、またそのオットセイは彼を罵った。

「やい、のろま。やっぱり飛べなかったな。ペンギンは空を飛べないんだ。

 氷の上でもおっちょこちょいですぐに転ぶ。鳥のくせに、な。」

周りのオットセイたちは笑いに笑った。ペンギンたちは一様にばつの悪そうな顔をしていた。中には、我々ペンギンに恥をかかせるようなことをするなと、彼につっかかるものもいる。しかし、彼は不敵に笑ってのろのろと立ち上がって言った。

「認めるよ。ぼくらは空を飛べないし、地上じゃのろまなとんまなロバだ。

 でも、水中を飛ぶのなら誰にだって、負けはしないぜ。ついてきなよ!」

彼はそう言うと、水際までえっちらおっちら歩いて行って、水中に飛び込んだ。きらきらと飛沫が上がる。彼は鳥が風を切るように、その翼で水中を縦横無尽に駆け巡った。

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ペンギンとケルベロス 増本アキラ @akiraakira

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