水たまりにうつる空

えくぼ

第1話

 外に出たくない。

 窓の外を見て呟いた。私にとって、雨は憂鬱以外の何ものでもなかった。もしかすると幼い頃は無邪気にはしゃいでいたのかもしれない。しかしそれは遠い記憶の中にさえないほどに昔の話。


「でも買い出し行かなきゃなぁ……」

 

 冷蔵庫の中は空っぽで、私のお腹も空っぽだった。唯一あるのは財布の中身、それも給料日前で心もとない。

 いつも晴れている日に外に出るようにしているのに、ここのところ忙しかったため不覚にも忘れていた。

 重い腰をあげて、カバンを手に取る。鏡で自分の姿を確認すると、化粧の裏から薄らと疲れた顔が見えた。

 実家の神社を出て、一人暮らしも四年目になる。あの場所から離れたことが、私にとって正しかったのかは今でもわからなかった。

 

 道を歩くだけで多くの人とすれ違う。

 傘もささずに俯きながら、暗い顔で公園の中を歩いている者、顔を赤く染めてくるくると回るようにはしゃいでいる小学生、足を引きずる女、頭を抱えてうずくまっている人。

 誰もが、雨の中でそれぞれに徘徊している。濡れている者も、いないものも。それらを気にする人は誰もいなくて、自分だけが気に病んでいる。

 だって、あの人たちは誰一人として既に生きていないのだから。

 

 ◇

 

 あれは、小学生の頃だった。

 私の父は当時宮司で、神社で神に仕えていた。宮司という仕事の何たるかも知らずに、ただ父は大事なことをしているのだとだけ理解していた。

 宮司とは、端的に言えば神社の管理をする役職だ。

 そこに何を勘違いしたのか、相談を持ちかけてきた人がいた。

『十六年前、夫が、轢き逃げをしたというのです』

『幸い、罪には問われませんでした。ただ、奇妙なことが続くようになって』

 そんな切り出し方をされれば、後の内容など概ね想像がつこうというもので。

 畑違いだ、と父は一度断った。

 私は除霊師でも、霊能力者でもない。霊を祓う力など持ちあわせてはいない。だから申し訳ないが、あなたたちの力にはなれない、と。

 轢き逃げして罪に問われなかったことを、厚顔にも幸いなどと前置いて語る人の醜さを、父は分かったようでわかっていなかった。

 

 奴らは、呪いを父に押し付けようとした。

 ずっと怖くて捨てられずに保管してあった、血濡れのタイヤを神社の敷地へと不法投棄していった。彼らも追い詰められていたのだ。時効で消えたはずの罪をほりかえして、さらに罪を重ねた。

 それはただの逆恨みだった。

 父が嘘を付いているのだと決めつけて、そこに悪意を作り上げた。

 

 それが、お互いに不幸を呼んだ。

 長い年月をかけて、恨みを募らせ、彼らを呪い続けた霊は悪霊となっていた。力を増して、恨む相手の区別もつかなくなっていた。

 それが神社という場所に、擬似的に封じられた。タイヤにも恨みは残っていて、確かにそれは彼らを蝕んでいた。

 不法投棄という「招かれざる形での侵入」 は、出ることも入ることもかなわない、中途半端な状態を作り上げた。

 父が見つけた時にはもう手遅れだった。

 父はタイヤを片付けようとした。その時に、体を依代にされてしまった。

 霊は父の体を通して、命を使い、彼らを呪い出した。その強さたるや、これまでの怪奇現象などという生温いものではなく、彼らはたちまち謎の熱病に苦しみ家から動くことすらできなくなった。

 しかし自我と行動権が残された父は、呪いの余波で苦しむ体を引きずり、伝手とコネを使って解決へと乗り出した。知り合いの霊能力者に夢の中で何度も語りかけてもらったのだ。当時の私は、ただの病気だと思っていた。そう聞かされていた。だからやってくる彼らを、お医者さんだと信じていた。

「お父さんを治して」

 そんな風にすがりついた。

 祈りのかいもあってか、最初は自我すら曖昧だった霊が、幾度もの説得によりだんだんと落ち着いてきた。父と、そして霊能力者の人が頑張ってくれただけなのだけれど。

 

 タイヤを捨てた、無責任な彼らは死んだ。事故というようにはなっていたが、実際は呪いだ。説得できたのはどうやら、父の体を使って呪うのをやめるところまでだったらしい。私は自業自得だと言った。父が気にすることなどないと。父は何も言わなかった。その後も、これ以上語ることはなかった。

 全てが終わった時には父の右目は見えなくなっていた。否、別のものしか見えなくなっていた。見えるのは死者、つまりは霊だった。

 所謂霊障と呼ばれる視力の変化は、その後父から消えるどころか、父が亡くなった後、私へと引き継がれてしまった。

 轢き逃げがあったのは雨の日だったとか。

 

 

 ◇

 

 雨の日はよく視える。

 それは轢き逃げの日が雨だったこともあるのだけれど、それ以上に雨の日に死んだ人はその記憶が焼き付いていることや、雨の日は霊的に不安定で見えにくいものまで見えてしまうものなのだとか。

 父の目を受け継ぎ、見えてしまうようになってからは何度も悩んだ。ある時は目をえぐろうとさえ考えた。立ち向かおうと調べはじめるようになり、だんだんと受け入れるようにはなった。

 すると、夢の中で形もわからぬ人に声をかけられた。

 ――ごめんね、ありがとう、と。

 だからもう、目をえぐろうなどとまでは思わなくなった。

 

 ただ、今でも雨の日の霊は煩わしい。

 視界が狭くて、それだけ見分けもつきにくくなる。

 

 夕暮れの小雨の中を歩いていると少し前を雨合羽を着た少女が長靴で水たまりを飛び越えていった。ひらりと舞い落ちるハンカチ、その柄は季節に似合わぬ向日葵で、明るい黄色に微笑ましささえ覚えた。

 かろうじて水たまりを避けて、ずぶ濡れになることはなく地面へと着地。可哀想に、と拾って前を向いた。

 

「ハンカチ、落としたよ!」

 

 声をかけると、少女は振り返った。その顔を見て思わず悲鳴をあげかける。朝方に見かけた顔を赤く染めた小学生、その赤は紛れもなく血の色で、頭部にパックリとザクロのような傷跡があった。

 しまった、ミスだ。

 脳内で警鐘が鳴る。ここのところ雨の中を歩かなかったものだから、鈍くなっていた。早く逃げなければ。ぐるぐると巡る思考、怯えそうになるのを必死で堪える。

 

「ありがとう」

 

 少女は私の不安を覆すほどに、明るく笑った。

 

「あのね、夢を見たの」

 

 少女は続けた。昔を思い返すように。

 透き通るような声だった。耳に届くはずのない声が、私の深いところへと届く。

 霊と会話などできるとは思っていなかった。私が継いだのは目だから、視えるだけだと、そう勘違いしていた。

 目はただのきっかけだった。彼らのいる世界を知る、入口だ。

 

「私がハンカチを落とすの。拾おうと思ったら、大きな音がしてまっくらになるの。目が覚めてもここから離れられなくって、でね、みんな私のこと無視するの」

 

 何度も、何度も死ぬ間際の光景を繰り返したのだ。誰かが拾ってくれるのを、ずっと待っていたのだ。そして拾われなかった時、また死を繰り返したのか。

 その事に気がついた時、こみ上げてくるものがあった。胸の奥から、喉の手前まで。あと少しでこれが何かわかるはずなのに。

 

「だから、拾ってくれてありがとう」

 

 笑顔で握りしめて、そのまま少女は薄く、見えなくなっていく。光に溶けてゆるやかに消えていく。

 私はそれを傘をさしたまま、立ち尽くして眺めていた。お礼に返事もできずに。

 すっかり消え去ったあと、雨は止んでいた。水たまりに光が反射して、やたらと眩しい。

 少女が消えたのは成仏したからだろうか。それとも雨が止んだから私には見えなくなったのか――

 想像の天秤に選択肢を用意したところで、後者は消えた。何故ならば、少女のハンカチだけがそこに残されていたのだから。

 私はそれを拾って手が濡れることも構わず少女の真似をするかのように握りしめた。

 傘をたたみ、空を見上げるとそこには虹があった。

 片目で見る虹はどこか平面的だったけど、それでも美しくて。

 雨も案外悪いものではないのかもしれない。そんな風に沈んでいた気持ちさえ晴れそうな、自分のお手軽さに口角が上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水たまりにうつる空 えくぼ @ekubo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ