言葉の海

夢月七海

言葉の海


 沖縄県の勝連かつれん半島から平安座島へんざじまへと架かる海中道路の周りの海は、少し変わっていた。


 そこを満たしているのは塩水ではなく、この近くで発せられた言葉だった。

 海のような青い色をした文字が、浮いたり沈んだりして、波のように砂浜に打ち寄せる。


 声の大きさによって、文字の大きさも変わる。

 しかし普通の海と同じように、その中では魚が泳ぎ、海藻も育っていた。



 珍しい海なので、夏には観光客も多くなるが、十月半ばにはマリンスポーツを楽しむ人もめっきり減ってしまっていた。

 また、夕暮れが近付いてきて、帰り支度を始める人々の方が多くなる。


 半島から海中道路に入るとすぐに見えてくるのは、ここのシンボルマークである真っ赤な橋脚である。

 他の道路と違い、すぐ下は深い海になっているため、真ん中に赤い鉄の柱を一本と、それを三角形の形になるように数本の細めの鉄の柱が支えている。


 橋脚とその先にある海の文化館との間には、小さな展望台があった。

 海の上の石を組み合わせて作られた、緩やかなカーブの道を歩いていくと、すぐに円状の小さな広場に辿り着く。

 そこからは、青い文字が揺らめく海と緑の豊かな平安座島がよく見えた。

 展望台の円の真ん中には見上げるほど巨大な岩が置かれて、その周りと道には白っぽくて人が座れるくらいの石が並べられていた。


 太陽が西に沈みかけて、空を赤く染め始めても、その展望台から動こうとしない一人の女性がいた。

 若い横顔には愁いを帯びて、足元の海をじっと眺めていた。


 強い潮風に、一つ結びにした後ろ髪が絡まっていても、「綺麗!」「すごいね」「暑いなー」と言った数々の言葉が海の上に浮かんでくるのを、一つ一つ本を読むように凝視している。


 ふと、後ろの方から犬の鳴き声が聞こえて、彼女ははっと振り返った。

 それまで気付かなかったが、犬の散歩をしている七十代ぐらいの老人が、彼女の元へと向かっていた。


 元気のいい茶色の雑種の中型犬にリードを引かれながら、その老人は彼女の隣に並んだ。

 老人は白髪の多い頭に腰が大きく曲がっていたが、足腰はしっかりしていて、日に焼けた顔に人のいい笑みを浮かべる。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 少し間をおいて、力なく彼女が返事をする。

 二人の「こんにちは」が海に落ちて文字となり、水面を作って浮いていた。


 悲しそうな彼女を老人が不思議そうに見つめていると、彼の連れていた犬が、はしゃいで彼女の足元に飛びつき始めた。


「こら、ポチ」


 慌てて老人がリードを引っ張って、彼女から飼い犬を離す。

 その時老人は、彼女がワンピースにストッキングや靴までも黒一色だということに気が付いた。


「何見てるね?」


 老人が何気ない口調で尋ねる。すると彼女は、再び海の方へ顔を向けて、答えた。


「父の言葉を、探しているのです」

「なんでね?」

「……」


 彼女は口を噤んだ。老人の発した疑問符が、静かにぷかぷかと浮いている。

 しばらくして、彼女は海から目を逸らさずに、話し始めた。


「つい先日、父が亡くなってしまったのです。一年ぐらい意識不明で、ずっと父の声を聴いていなかったから、もしかしたらもう一度ここで聞けるのかもしれないって、思ったんですけど、やっぱり見つからなくて……」

「お父さんはいつここに来たのか分かる?」

「二十二年前に、結婚したばかりの母と一緒に来たそうです。その時に、母から私を身籠ったことを聞いて、この海を見ながら私の名前を決めたと言っていました」


 彼女の悲しみを含みながらも柔らかな声が、太陽の残光を浴びて、青く輝いていた。

 その思いを受け取って、うんうんと相槌を打っていた老人は、突然持っていたリードを彼女に差し出した。


「ちょっと、ポチを見ててくれる?」

「え?」


 状況が分からないまま、激しく尻尾を振っているポチのリードを彼女は受け取った。

 きょとんとしている彼女をよそに、老人はその場で長袖のシャツを脱ごうとしている。


「あ、ちょっと、おじいさん!」


 慌てる彼女だったが、老人のシャツの下は黒いウェットスーツだった。ズボンからゴーグルを取り出して顔を付けると、そのままズボンを脱いでしまった。

 それから、黄色い鼻緒の島草履まで脱ぎ捨てる。


 海と向き合い、軽く準備体操をする老人を、彼女はぽかんと口を開けたまま、眺めていることしかできなかった。

 そして展望台の石造りの短い坂道を下りて、海へと入っていく。足元で小さな「ああ」「うん」という言葉が跳ねていった。


「あ、そうだ」


 思い出したように、老人は振り返る。目をしばたかせている彼女に、いつの間にか背筋を威勢良く伸ばした老人が尋ねた。


「ねえねえの名前、なんていうの?」

「あ、あやみです。彩るに海と書いて、彩海」


 質問に答えて、やっと彼女は老人が何をしようとしているのかに気付き、先程よりも大きな声で話し掛ける。


「無理ですよ! もう二十年以上前の話ですから!」

「大丈夫よー」


 こちらに背を向けた老人は、掌を振りながらざぶざぶと海へと入っていく。

 その間、ポチはずっと吠えていた。


「大丈夫かな?」


 老人が海に潜り、完全に姿が見えなくなってから吠えるのを止めたポチを見て、彼女はそう聞いてみたが、ポチは笑ったような顔でこちらを見上げるだ。


 それから約十分経ってから、老人が海面に姿を現した。

 ゴーグルをかけていても、口元には満面の笑みを浮かべている。その手には、言葉を持っていた。


「多分これだと思うけど、当たってるね?」


 こちらに上がってきた老人が、透明のゼリーのような言葉を彼女に手渡した。震える手で受け取り、耳元にあてる。


『女の子だったら、彩海という名前にしよう』


 少し若い、父の声が聞こえてきた。

 彼女の目から、自然と温かい涙が流れ落ちた。にこやかに老人はその様子を見ていた。


「ありがとう、ございます」


 彼女の感謝の気持ちも文字となり、言葉の海に浮かんでいた。

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言葉の海 夢月七海 @yumetuki-773

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