VR《ヴァーチャルリアリティ》おっぱい

ふじ

VR《ヴァーチャルリアリティ》おっぱい

 バーチャルリアリティ──人工現実、ないしは仮想現実。


 最新のVR技術は神経系に直接接続、人間の五感すべてにアクセスして知覚を上書きし、遠く離れた場所や、現実には存在し得ないものすらあたかも目の前に在るかのようにユーザに認識させる。技術の進歩は人類史における長年の疑問だった、カレー味のうんことうんこ味のカレーのどちらがマシかという議論にとうとう決着をもたらしたのであった。


 まあカレーはさておき、新技術が生まれれば男が考えることなどただひとつである。




          ***




 視界を走り回る数字、数字、数字。


 そのひとつひとつに意味があるのだが、ほとんどの人間には実際に形になるまでわからないだろう。建築士にしか設計図が読み取れないように、出産には感動できても数字とアルファベットの羅列から遺伝子の構成など想像もつかないように。


「ここを……少し上げてみるか……?」


 俺は呟いて、手元のテンキーを叩いてずらりと表示された数字のひとつに0.1を足した。最近は音声入力や視線読み取り式の入力が主流だが、長文を書くライターや俺のように細かく数字をいじるエンジニアには今なおキーボードが愛用されている。


 そして数字を再入力したのち視線操作で再生成レンダリング


 ほどなく、目の前にふよんと一抱えほどの白く丸い塊が浮かび上がった。


 心底やる気のないクッション、あるいは超大型マシュマロといった風情のこの物体は、むろん現実リアルに存在するものではない。神経系に直結されたVR端末が俺の脳に送り込んでくる、俺だけの仮想現実である。

 音声エフェクトやテクスチャといった余計な演出を全部オフにしているのは、そのほうが単純に結果を確認しやすいからだ。


 俺はそのクッション、あるいはマシュマロに無造作に手を伸ばす。


 ふにっと、柔らかい感触が手のひらにあった。


 実際は俺の動作モーションをVRシステムが解析して触覚神経にフィードバックしてきているだけなのだが、実際にクッションを抱くのとまったく変わらない感触である。どこまでが現実でどこからが仮想なのか、その境目を論ずることはもはやこの時代には意味がない。


「……ふむ」


 ふに、ぷにっ、ふよふよ。


 俺は何度もマシュマロを揉みしだきながら唸った。


 マシュマロは俺の手の動きによって為す術もなくぐにぐにと形を変えている。その柔らかさといい、何度揉まれても決して崩れぬ弾力といい、すべすべした肌触りといい、人肌ほどの温かさといい、どれも申し分ない。枕にすればたちまち深い眠りに包まれ、ソファにすれば無●良品など歯牙にも掛けぬ勢いで人間をダメにするだろう。それほどの極上の感触である。


 だが。


「まだ、まだ足らない……」


 俺は呻いて、マシュマロの生成レンダリング結果を消去した。同時に無味乾燥な数字の群れ──VR上で「柔らかさ」を表現するためのパラメータ群がふたたび視野に戻ってくる。


「ここを……もう0.01足せばどうなるかなあ……」


 最近のアシスタントAIは優秀で、をスキャンしてモデリングデータを生成することも、ユーザの嗜好に応じてそれを微調整するのもお手のものだ。実際、VR上のオブジェクトデータのほとんどはそうして作られている。


 けれども皮肉な話ではあるが、そこから生み出されるデータはに存在するものだけなのだ。


 人間と社会のあらゆる事象が数値化されて処理されるこの世の中だからこそ、人間の勘と経験、なにより想像力には意味があると俺は信じている。VR技術とは文字通りイメージで世界を上書きするものなのだから。


「まだ足らないんだ……俺の、理想の揉み心地のためには……」


 俺は決意を込めて呟いた。


 ところで視界を埋めるコンソールのその脇には、小さく女性キャラのグラフィックが表示されている。


 俺の仕事はあくまで触覚データをモデリングすることだが、データは単体ではなく3Dグラフィックや音声データと抱き合わせで使用されるから、完成像を常に頭に置いておく必要があるのだ。


「名前はアリサ、身長159センチ、スリーサイズが上から89……」


 グラフィックの下に表示されたテキストを俺は頭の中で読み上げた。既にすっかり覚えてしまった数字だが、再確認するに越したことはない。


「このヒロインを揉むと……」


 それは数字にすれば単純だが、側にとっては果てしない道のりである。


          ○


 技術の進歩は常にエロコンテンツがリードしてきた。


 ──とは言い過ぎかもしれないが、決して間違いではないと俺は思っている。


 江戸時代の日本には十六色刷り、もしかしたら三十二色刷りの春画があったという。木版画は色ごとにそれぞれ別の木版を作る必要があるので、前者は十六枚、後者に至っては三十二枚の版が彫られたことになる。あくまで一枚の春画のために。


 二一世紀に入ってからも電子書籍販売の先駆けとなったのはフラ●ス書院であり、出会い系サイトの隆盛とそれらが引き起こした問題は言うに及ばず、3Dポリゴンが動くだけで盛り上がっていた時代とて男たちは乳揺れの滑らかさをベンチマーク代わりとしていた。倫理的な是非(と女性陣の意見)は山ほどあるが、とにかく世の中はそういう進歩をしてきたのだ。


 そしてVR技術全盛のに至る。


 板状のモニタの中から女の子が呼びかけてくれるだけで大盛り上がりだった時代から幾星霜、VR時代のエロゲに求められる要素は多い。


 繰り返すが、VRは人間の五感すべてに訴えてくる。


 好みのタイプの美人、美少女であることは当然として、鈴を転がすような声、そして触ったときの感触。たとえば初デートで握った手の小ささと温かさとか、黒髪の触り心地とか、おっぱいおっぱいとかおっぱいとか。大事なことなので三度言いました。


 昔のエロゲはヒロインのプロフィールにスリーサイズを書いておけば良かったらしいが、今はそうはいかない。エロゲのレビューサイトでは『乳』『尻』『ふともも』の項目ごとに「再現性」「手触り」「柔らかさ」を五段階評価できるようになっており、感想欄にはどのユーザもぎっちり書き込んでくる。お前らおっぱいを重要視しすぎだろう。


 新作は「このゲームがよく揉めるらしい」という口コミで売れ行きが決まることもあるし、「顔はこのヒロインが好みだが乳はこっちのほうが好きなので、データをマージできるパッチを出せ」という要望がメーカーに届くこともある。

 ちなみにそれを受け取ったシナリオライターは「うるせえ俺の茉莉(ヒロインの名前だ)はスポーツ少女で鍛えててちょっと筋肉質なのがいいんじゃねえか! シナリオ最後までちゃんと読めよクソが!」と血涙を流していた。なおパッチはプログラマが逃げたせいで実現しなかった。


 ……ええと、本題は何だったか。


 そう、触覚フィードバックである。


 エロゲの開発にあたっては、ヒロインのグラフィック、声、そして触覚データを作り込まなくてはならない。グラフィッカーがスタイラスを握りしめたまま力尽き、ディレクターが声優リストを前に頭を抱えるその横には、日がな一日『揉み心地』のデータをモデリングしているスタッフがいる。


 俺もまた、そうした触覚データを専門とするエンジニアだ。


 ここまで話せば、俺の話を読んでくれた者の中には「羨ましい仕事じゃないか」と思う奴もいるかもしれない。


 常に巨乳グラビア写真の収拾を欠かさず、おっぱいや尻に関する論文を読み、業務時間中にあらゆるAVを眺めてその揺れ具合を観察し、下着メーカーの講演会に出かけ、一日じゅう「それっぽい」データを揉んでいるのだから、その気持ちはわからなくもない。


 だが実際は、


「違う……違うんだ……」


 こうしてぶつぶつと呟きながら、コンマ以下のパラメータをひたすらひたすらひたすら調整し続ける仕事であるが。


「……うーん」


 俺はパラメータ群をまとめて視野の端に追いやると、ワークチェアの上で大きく伸びをした。VR端末から視野に直接モデリング用ソフトウェアの作業画面を出力しているので、首や肩に負担のかからない体勢を取るようにしているのだが、細かい作業をしているとどうしても身体が硬くなる。


「アリサねえ……」


 俺は視野の端からヒロインの全身像を中央に引っ張りだしてみた。


 黒髪セミロングに優しげな垂れ目が印象的な少女だ。「現実にいそうな美少女を作る」べくグラフィッカーが試行錯誤したである。


 今は特にポージングもさせていないので棒立ちのまま、タンクトップにショートパンツという健康的(そして露出度の高い)衣装を着せてある。グラフィッカー渾身の、ほっそりした二の腕やすらりとした太腿やふくらはぎが目に眩しかった。


「このヒロインを揉むと……」


 俺はしばし目を閉じてイメージした。


 過去作品に使用したデータは残っているし、ネットにも似たようなデータは山ほど転がっているので、それらを流用することはできる。実際、そうしているメーカーも多い。だが俺は手触りでもヒロインの設定と過去と魅力をじゅうぶん表現できると信じている。それが数字にも表れているから、ディレクターだって俺をチームの一員に組み込んでくれているのだ。


「よし」


 俺は小さく頷いてからふたたび作業用コンソールに向き直った。結局、俺の表現方法はこれしかないのだ。


 そうしてどのくらい産みの苦しみに喘いでいたのか。


 不意にがちゃりとドアが開く音がして、誰かが部屋に入ってきた。


「あなた……?」


 ぎいっとチェアの音をさせて振り返ると、妻が盆を手にして佇んでいた。


 打ち合わせを除けば俺たちの仕事はほぼ個人作業なので、普段は自宅作業が認められている。常時データ共有はなされているのでお互いの進捗状況はわかるし、もとより用があればオンライン通話で目の前にいるのと同じように話せるのだから問題はない。

 それでも定例会議で「顔を合わせる」慣例は残っているから、空気を共有することはお互いをチームメイトと認識するのにきっと重要なのだろう。『同じ釜の飯』はいまだVRでは再現しきれないもののひとつのようだった。


「まだかかりそう?」

「あ……ああ、悪い」


 時刻表示に目をやるともう夜の十時だった。アラームやメッセージ着信音はすべてオフにしていたので、夕飯時にも出てこないから様子を見に来たようだ。


 俺は慌てて椅子を回転させて妻に向き直った。同時に妻の顔を遮る、コンソールのパラメータ群を視野の隅に追いやる。


「邪魔しに来たわけじゃないのよ、作業を続けて。でもあなた集中するとコーヒーしか飲まないから、せめてこのくらいは食べてちょうだい」


 見れば盆には野菜たっぷりのスープが載っている。


 どうやら作業しながら食べられるような簡単な夜食を作ってくれたらしい。我が妻はなんとできた人だろうか。


「はい、こぼさないよう気をつけてね」

「あ、ありがとう」


 俺がそっと盆ごとスープカップを受け取ると、妻は手元を覗き込んできた。

 モデリング用ソフトウェアのコンソールは直接視野に出力されているので俺にしか見えないが、物理テンキーはむろん妻もことができる。妻はむろん俺の仕事を知っているから、何の作業をしていたかもそれだけで判ったはずだ。


「あなた、まだやるの?」


 妻は悲しげな顔でテンキーを見つめた。


 お互いの仕事を承知の上で結婚したのだし、今だって妻は夜食を作って俺の仕事を応援してくれている。だが、それと本音は必ずしも一致しないということなのだろうか。


「そんな、数字ばっかり眺めて……」


 非難するような口ぶりだが、妻の責めたいところはそこではないはずだ。


 女からすれば、理想のヒロインの揉み心地を求めて食事も忘れてひたすらひたすらひたすらパラメータをいじってはレンダリングを繰り返すなどとおよそ理解できないのだろう。彼女は最高の妻だがそれでもわかり合えない部分はある。結婚前にもだいぶ話をしたが「男性が揉んで楽しいなら、それを否定はしないけれど……」という感じだった。


 だが重要なのだ。それは評価サイトのレビュー数と文字数が証明するとおりである。


「あとどのくらいでできあがりそう?」

「……わからない」

「まだ、理想の揉み加減にはならないの?」

「ああ……」


 俺が重々しく頷くと、妻は悲しげに目を伏せた。


 妻には申し訳ないと思う。この類の仕事は空いた時間を効率良く使うとか、一定時間で区切るとかいうのが難しく、とにかく「完成するまで」根気よく続けるしかない。むろん効率良く進められるようにスケジュールは工夫しているが、どうしてもしばらくはほったらかしになってしまう。


 やがて、妻はきっと何か思い詰めた様子で顔を上げた。


「そんなに揉みたいなら、わたしがいるじゃない! わたしは……その、ほら、あなたの奥さんなのよ!? いくら揉んでも何の法律にも引っかからないわよ!」


 真っ赤な顔で妻は叫んだ。


「あなたはいつもそう! 数字を見てばっかりで私を見てはくれないのよ!」

「そんなことはない!」


 俺も負けじと叫び返す。


「君は俺の理想の人だ! 優しいし美人だし、色白だし、細いけど実は巨乳だし、髪はさらさらだし、今日も夜食は美味いし!」

「ま、まあ」


 妻は顔を真っ赤にしてしまった。ああ可愛い。


「でも、それでも……」

「…………」


 俺はまじまじと、ふたたび悲しげな顔をする妻を見つめた。


 同時に視野の端に追いやったままになっていた、ヒロインのグラフィックにちらりと目をやる。


 セミロングの黒髪、垂れ目がちの大きな目、透けるように白い肌、グラフィックは妻には共通項が多い。グラフィッカーが妻を知っているわけでもないのだが、身長も、実は89Eカップという数字すら近似値であった。


 実は──触覚データをモデリングする方法は、いま俺がやっているように直接数字を打ち込むほかにもうひとつある。


 前述したようにを計測した数値を流用すればいい。他メーカーはこちらの手法を採っていることが多いし、俺とて部分的に使っている。言い換えれば、素の計測データをどれだけキャラクターやシチュエーションに応じてカスタムできるかがエンジニアの腕の見せ所となるのだけれども。


「…………」


 俺はもう一度妻を見つめた。


 繰り返すが、妻は俺の理想である。いま取りかかっているヒロイン像にも似ている。妻の測定データをそのままレンダリングすれば、俺にとっては理想の揉み心地ができあがるだろう。そうすればこうして日がな一日薄暗い部屋で数字と格闘する必要はないし、妻の機嫌も損ねない。


 だが。


「じゃ、じゃあ、お願いしようかな……」


 俺が言うと、妻は嬉しそうな顔をした後にぱっと顔を赤らめた。


「君の二の腕を測定させげほっ!?」


 言いかけたところで、妻が振り下ろした盆が脳天にクリーンヒットした。


 一瞬、視界が衝撃で瞬いて、同時にVRシステムのセーフティが働いて視野から全デジタルデータが消え去る。意識が混濁した際に仮想現実が混じり込むと、ユーザを危険に晒す上に脳機能にすら影響を与えかねないからだ。


「あ、あなた、やっぱりまだ二の腕を……」


 妻は目に涙を浮かべて今にも泣き出しそうだ。残酷な現実、知りたくなかった真実、それらが彼女を打ちのめしている。いや、そうしているのは他でもない俺なのだが。


 だが俺は、強制シャットダウンの影響でくらくらする頭でなおも叫んだ。


「頼む、君のそのぷにぷにの二の腕を揉ませてくれ! ついでにデータも取らせてくれ! そうしたら俺は君と、がはっ」


 必死の弁明は盆の第二撃によって強引に中断させられた。


 初撃でVRシステムは沈黙したのでそちらの影響はないが、単純に痛い。


 呻く俺の前で、妻は凶器もとい盆を抱いてわっと泣き出した。


「胸は……胸はまあいいわよ! だってわたしはあなたの奥さんなんだし! でも二の腕は、二の腕だけはいやああああ!」


 だが俺とてここで引き下がるわけにはいかない。


「君の! 君のその二の腕が俺の理想なんだ! 齧り付きたくなる柔らかさ! 動くたびにたぷたぷ揺れるその絶妙さ! 日焼けしづらい箇所だからそこだけ肌が白くて綺麗! 触るたびに恥ずかしそうにしてるのも萌えげふぉっ」


 日々ダンベルでの訓練を怠らない妻の、三度目の正直の攻撃により、俺は今度こそ再起不能となった。


「わたしはそんなに肉付いてないもの、二の腕ぷにぷにじゃないんだからあああ!」


 妻は叫んで、足音を立てて部屋から飛び出して行ってしまう。


「違うんだ……太ってるからじゃないんだ……俺は、ただ君の二の腕が」


 倒れた俺の言葉はとうとう妻には届かなかった。


 エロゲの触覚データは、別にちちしりふとももに留まるものではない。


 むしろそれらを備えていることは(出来はさておき)必要最低限と見なされるので、各社それのアピールポイントを必死に打ち出している。うちの──というか俺の場合は、ちち以下略の柔らかさもむろんのこと、二の腕といったニッチな部分の作り込みも怠っていないことがウリだ。さきほどから俺が必死でモデリングしていたのもそれである。


 そう、二の腕のような至高なのになぜか妻すら滅多に揉ませてくれないポイントであっても、仮想現実VRならば存分に揉むことが可能なのである。ありがとうVR、なんて素晴らしいんだVR。


 やはり俺は当分、妻との夕食も諦めて数字とマシュマロと格闘するしかないようだ。俺と同じ哀しみを味わっているであろう、全国の男性諸氏のために。


「まさしく……仮想現実VRでしか辿り着けない理想ってことだな、二の腕……」


 呻いて、俺はがくっと力尽きた。

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